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出エジプト 自由への第一歩が踏み出された章

פרשת בשלח 教祖AI いいテーマですね。**פרשת בשלח(パラシャト・ベシャラハ)**は、ユダヤ思想の核心が一気に立ち上がる章です。 出エジプトの「完成編」とも言えます。 פרשת בשלח(出エジプト記13:17–17:16)概要 紅海(葦の海)の奇跡と海の分裂 海の歌(שירת הים) マン(天からの食物) 安息日の原型 アマレクとの戦い このパラシャの中心テーマ(ひと言で) 「自由とは、奇跡の中でも信頼を選び続けること」 ユダヤ人はここから何を学ぶか ① 信仰とは「信じ切った後の一歩」 紅海は、水に足を踏み入れた後に割れた。 📜 ラシの注解 「イスラエルの民が海に入る“行為”を示したとき、海は割れた」 👉 信仰は頭の中ではなく、行動によって完成する 祈りだけでなく、一歩踏み出す勇気が問われる ② 奇跡のあとに来るのは「不平」 海を渡った直後、人々は水や食べ物で不満を言い始める。 📜 ランバン(ナフマニデス) 「奇跡は人を変えない。人を変えるのは、日常の選択である」 👉 人間はどれほど救われても、すぐ不安になる 信仰とは「感動」ではなく継続的な訓練 ③ マンの教え:明日の分は集めるな マンはその日必要な分しか取れない。 📜 マハラル(プラハのマハラル) 「マンは“依存”ではなく、“信頼”を教える教育装置である」 👉 財産・不安・貯め込みへの執着を手放す訓練 **安息日(シャバット)**の思想の原型 「時間は所有するものではなく、委ねるもの」 ④ 海の歌(שירת הים)から学ぶこと モーセだけでなく、民全体が歌った 👉 救いは個人の悟りではなく、共同体の歓喜 ユダヤ人にとって歌・祈り・朗読は生き方そのもの ⑤ アマレクとの戦い:なぜ最後に? アマレク=理由なき冷笑・疲労・疑念の象徴。 📜 タルムード的理解 「アマレクは剣より先に“心”を攻撃する」 👉 最大の敵は外ではなく、内なる諦め 信仰とは感情が下がったときに立ち上がれるかどうか ユダヤ的まとめ(実践の知恵) 奇跡を待つな、一歩踏み出せ 感動よりも、日々の信頼 明日の不安より、今日を生きよ 歌えるときは歌い、疑うときも歩みを止めるな 禅と響き合う一言 「水に入ってから、道は開く」 ミサさんの 独服・船上茶会・労働の中の一服―― まさにこのパラシャの精神ですね。

大西洋単独横断レース mini transat1999

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大西洋横断レース日本人初挑戦 2000年単独太平洋横断 サンフランシスコからハワイから銚子 ORION やっと見つけた、あの頃のヨットの写真。 色あせ、傷みもあるけれど、 その劣化さえも、過ぎてきた時間の重みを語っているように感じる。 写真は止まっているのに、 そこに流れているのは、確かに時の流れ。 戻れないからこそ、愛おしい一瞬。

箴言7:22

​ 若い人は直ちに女に従った、あたかも牛が、ほふり場に行くように、雄じかが、すみやかに捕えられ  1955年日本聖書協会訳 משלי ז כב הולך אחריה פתאם כשור אל טבח יבא וכעכס אל מוסר אויל הולך ホウレフ 彼はいく 5-6-30-20-61 אחריה アハレイハ 彼女の後 1-8-200-10-5-224 פתאם ピトゥオン 突然 衝動的に 80-400-1-40-521 כשור ケショウル 牛のように 20-300-6-200-526 אל エル へ 共に 1-30-31 טבח テバフ 虐殺 屠殺場 9-2-8-19 יבאヤボオ 来るだろう 10-2-1-13 וכעכס ウヘエヘス 毒蛇として 6-20-70-20-60-176 אל エル へ 1-30-31 מוסר ムウサル 懲罰 罠 40-6-60-200-306 אויל エビイル だます バカ 1-6-10-30-47 教祖AI とても深い一節ですね。 これは箴言(משלי)7章22節です。まず原文に忠実に意味をほどき、そのうえでユダヤ人は何を学ぶか、有名ラビの教えを整理します。 原文 הוֹלֵךְ אַחֲרֶיהָ פִּתְאֹם כְּשׁוֹר אֶל־טֶבַח יָבֹא וּכְעֶכֶס אֶל־מוּסַר אֱוִיל 直訳(語感を大切に) 彼は突然、彼女のあとを追って行く。 それは、屠り場へ引かれていく牛のようであり、 愚か者が懲らしめへ向かう足枷のようである。 ※「פתאם(ピトオム/突然)」が非常に重要な語です。 この箇所の核心的な教え ◆ テーマ 人は「理解」ではなく「勢い」で破滅へ向かう ここで描かれている男は、 考えていない 悪を選ぼうと決めたわけでもない ただ流れに乗っただけ それが最大の恐怖です。 ユダヤ人はここから何を学ぶか ① 罪は「突然」始まる 罪は計画的に来ない。 油断・疲れ・慢心の一瞬から始まる。 👉 ユダヤ倫理(ムサール)の基本: 自分は大丈夫、と思った瞬間が一番危ない 「少しだけ」が命取り ② 欲望は「屠り場へ向かう牛」に似ている 牛は抵抗しない。 自分がどこへ行くのかを理解していない。 👉 人も同じ: 快楽の最中には、結果が見えない 理性は欲望のあとを歩かされる ③ 「足枷...

禅悦食 一休宗純より

禅悦食(ぜんえつじき)とは何か — 一休宗純の言いたかったこと この言葉は、一休宗純",の禅の核心を、 とても生々しく語っています。 ① 夢中になると、人は喜びに包まれる 商売でも学問でも芸術でも、 何もかも忘れて打ちこんでいるとき、 人は深い歓喜に包まれる。 これは 結果が出たから嬉しいのではありません。 儲かったから 評価されたから ではない。 没頭している「その瞬間」そのものが喜びなのです。 ② 自分と対象が一つになるとき 自分と対象が一つになりきったと感じるとき、 禅悦食をいただいたことになる。 商売でも、仕事でも、人でも、道具でもいい。 「自分がやっている」という感覚が消えて、 手が勝手に動く 時間を忘れる 良し悪しを考えていない そんな状態。 これが禅で言う 無心であり、 **禅悦(ぜんえつ)**です。 ③ 命が輝くときとは 命が輝くときなのだ。 一休は、 命が輝く瞬間を 「成功」や「長生き」には置いていません。 生き生きしている 今ここに完全にいる つながりの中で動いている その状態こそが いのちが輝いているということ。 ④ 自分を滅して、人のためにする 自分を滅して、人のためにすることこそ禅悦食なのだ。 それは自分のためである。 ここが一番、禅らしいところです。 「自分を捨てて人のためにすると損をする」 ――そう思いがちですが、逆。 自分を忘れる 計算をやめる 見返りを考えない すると、 一番よろこぶのは自分自身。 なぜなら、 喜びで自分の“いのちが輝く”ように いのちはつくられている からです。 ⑤ 新しい道は、そこから開ける このことを常にわきまえてすれば かならずや新しい道が開けようぞ。 努力や知識の前に、 在り方を間違えないこと。 我を張らず 自然に動き つながりの中に身を置く そうすれば、 道は「探すもの」ではなく 自然に開いてくる。 ⑥ 山水草木に学べ 自分のまわりの山水草木に学ぶのだ。 自然は、 無理をしない 比べない 役に立とうとしない それでも、 ちゃんと役割を果たし、 つながりの中で生きています。 そこに気づけたら、 しめたものよ。 気づけなければ、 どんなに知識を詰め込んでも 生き方は変わらない。 まとめ(とても短く) 禅悦食とは、 自分を忘れて誰かや何かと一つになり、 命が自然に輝いてしまう状態のこと。 独服、仕事、...

南方録 茶の湯と和歌

今日は和歌。 武野紹鷗と和歌 見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 景色が開ける 藤原家隆(新古今集) 花をのみ 待たらん人に 山里の 雪間の草の 春を見せばや この二首は、別々の歌でありながら、 同じことを静かに語っているように思えます。 紹鷗は、 花も紅葉もない「浦の苫屋」で、 かえって景色が開けると言いました。 家隆は、 花が咲くのを春と思う人に、 雪の間から出る草にも春があると伝えています。 どちらも、 目立つ美しさの先ではなく、 その手前にある気配に目を向けています。 何もないように見えるところに、 すでに整っているものがある。 それに気づくことが、 侘び茶を「得心する」ということなのでしょう。 この二つの和歌が同じページに置かれているのは、 侘び茶とは、 花を待つ心を知ったうえで、花のない景色を見ること だと伝えるためなのかもしれません。 まだ分かったとは言えませんが、 そう思いながら一服を点てると、 少しだけ、景色が静かに開ける気がします。 今日の禅語 寿山福海(じゅざん ふくかい) 床の間にこの言葉が掛かっていると、 どこか気持ちが落ち着きます。 寿は山のごとく。 福は海のごとく。 山のように、どっしりと揺るがず。 海のように、深く、広く、受け入れる。 寿山福海とは、 長生きや幸福を願う言葉であると同時に、 そう生きていきなさいという静かな教えのように思います。 山は目立とうとしません。 ただそこに在り続けます。 海もまた、何かを主張することなく、 すべてを受け入れ、深さをたたえています。 茶の湯も、似ている気がします。 華やかさよりも、積み重ねた時間。 派手さよりも、日々の一服。 独服のとき、 誰にも見せず、 しゃっちょこばらずに点てたお茶を飲むと、 寿山福海という言葉が、 少し身近に感じられます。 長く、静かに。 深く、やさしく。 そんな生き方を、 この四文字はそっと示しているのかもしれません。 今日の一服もまた、 山のように落ち着き、 海のように広がる時間でありますように。 (AIより)

且坐喫茶

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先日仕事の合間に一服薄茶をいただきました。 且坐喫茶 AIブログ 🍵 「まあ、お茶でも」—— 禅語「且坐喫茶」のこころ 禅語に、**「且坐喫茶(しゃざきっさ)」**という言葉があります。 意味はとてもシンプルです。 「まぁ、そこに座って、お茶でもおあがりなさい」 けれど、この四文字に込められた意味は、思いのほか深いのです。 この言葉は、中国・唐代の禅僧・趙州(じょうしゅう)禅師の言葉とされています。 ある日、修行僧が「自分はかつて修行したことがあります」と言うと、 趙州は静かに言いました。 「且坐喫茶(しばらく坐して、茶を喫せよ)」 また別の僧が「修行したことはありません」と言っても、 やはり同じように言ったのです。 「且坐喫茶」 修行していても、していなくても、 立派でも愚かでも、 誰に対しても、同じ言葉をかける。 そこには、評価も、問い詰めも、説法もありません。 ただ、「いまここに居て、お茶を一服しなさい」という、 静かで温かなまなざしだけがあります。 この短い言葉のなかには、禅の核心が詰まっています。 ❖ 一服が、問いへの“答え”である 「坐って、茶を飲みなさい」 これは単なる誘いではなく、 「今ここで、ただその行為に集中しなさい」という、 言葉を超えた導きです。 修行していてもいなくても、「喫茶せよ」。 つまり、**「今ここにいることがすでに道である」**という示唆なのです。 ❖ 言葉より行動を重んじる禅 禅では、行動そのものが教えとされています。 書物を読むよりも、坐禅する 理屈よりも、一碗の茶に向き合う 説明よりも、今を生きる 「且坐喫茶」はまさに、 「余計なことは言わない。ただ、今ここで味わいなさい」 という、禅的な行動のすすめなのです。 ❖ 語らないからこそ、深く伝わる この言葉には説明がありません。 「なぜお茶を飲むのか」も、「どう飲むのか」も語られません。 でも、それが禅なのです。 受け取った者が、自分で考え、自分で感じ、自分で生きる。 坐って喫茶せよ → 私は何に囚われていたのか? → なぜ答えばかり求めていたのか? このように、沈黙の中で“気づき”が芽生えるのです。 茶の湯にも、この精神は深く流れています。 表千家の千宗左宗匠はこう語られました。 「茶室に入れば、皆平等であり、皆主人であり、皆客である」 地位や経験で...

孤明歴々

今日の禅語 🕯️ 孤明歴々(こめい れきれき)—— ひとつの明かりが、ただそこに ある禅語に、 **「孤明歴々(こめい れきれき)」**という言葉があります。 文字通りに訳せば、 **「孤(ひとつ)の明かりが、はっきりと、ただそこに在る」**という意味です。 蝋燭の灯りかもしれません。 月明かりかもしれません。 どこかの山寺の灯籠かもしれません。 周りは闇に包まれていても、 そのひとつの光だけは、消えることなく、確かにそこに在る。 それが「孤明歴々」。 この言葉を読んでいると、 心の奥にある「本当の自分」のようなものが思い浮かびます。 誰かに見せるための顔ではなく、 仕事や肩書きでもなく、 何かに飾られていない、静かな“私”という灯火。 たとえ外の世界がざわついていても、 ふとひとりになったとき、 その光は、歴々として——つまり、はっきりと、明瞭に——そこに在るのです。 茶の湯もまた、 この「孤明歴々」をあらわすひとときなのかもしれません。 誰かに評価されるための一服ではなく、 豪華な道具のための茶会でもない。 ただ、自分の心に灯りをともすように、 静かに、湯をわかし、茶を点て、 ひとときの光を味わう。 そこにあるのは、まさに孤明歴々の世界です。 外がどれだけ騒がしくても、 内なる灯火が、明るく、はっきりと、そこにあればよい。 茶を点てるとは、その光に耳をすますことかもしれません。

海の上 方舟艇茶の湯 

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​『あたらしい茶道』(松村宗亮 著)を読み、最近ファンです。 YouTubeも参考にしながら、自分なりの稽古を続けています。 この本が教えてくれたのは、茶の基準は「個人の好き」でいいということでした。 昨年の夏、はじめて船の上で点前をし、 一客一亭の茶会を開きました。 釜は政光作の雲龍釜、 茶碗はゴールドの色合いが好きで、ぎやまんの三日月。 水差しはさざなみ、 お菓子は宗家のきんつば。 海の上で囲んだ一服は、まさに一期一会。 同じ景色、同じ風、同じ心は二度と戻らない時間です。 形式にとらわれず、好きなものに囲まれたそのひとときは、 今思い返しても、心に残る、かけがえのない思い出です。 掛け軸ではありませんが、 故 斉藤実 さんのサイン色紙 「死至生道也」 を、心の中に掛けていました。 生きることも、死ぬことも、すべては道の途中。 だからこそ、戻らないこの一瞬を、 ただ味わう―― その思いが、この一服に重なっていました。

④守破離 茶の湯

🍵 茶道の守破離と、自分の茶の湯 「守破離(しゅはり)」という言葉があります。 これは、茶道の家元制度に入る場合にはしっかりと守らなければならないものだと思います。 型を学び、やがて破り、離れて自由な境地に至る。芸の道では大切な成長の段階です。 けれど、私のように、ただ茶の湯を楽しむ立場—— 独服で自分のために一服点てたり、夫婦で茶を点てあったりするような茶の時間に、 この守破離がどこまで必要なのかと、ふと思うことがあります。 ⛵ 茶道もヨットも「道楽」だからこそ… 思い出すのは、かつてお茶の先生から聞いた言葉。 「本格的な茶室をつくるには、2億円はかかるよ」と。 ヨットも同じです。海外レースの艇など、1億円以上かけなければ出られない世界もある。 そんな“本格的な道楽”は、私のような現在月収15万円の人間にとっては、天国まで届かない遠い話です。 では、そこまでして本格的な形を目指す意味が、今の自分にあるのだろうか。 そんな問いが、日々湯を沸かしながら、胸に浮かんできます。 🛖 草庵の手作りと、もうひとつの守破離 今、私は自分の手で草庵を作っています。 これは、家元の守破離とは少し違うけれど、私なりの「離」の形かもしれません。 本来なら、形の整った茶室を作るには、流派の決まりごとを理解していなければなりません。 でも、私にはその「型」になじめない部分もある。 そして何より、一緒に仕事をしていた大工さんが亡くなってしまいました。 あの人が生きていれば、一週間もあれば終わっていたであろう工事を、 私は三年近くかけて、独りで進めています。 🧂 情けない。でも、これが自分の道 遅々として進まない日々。 ふと「情けないなあ」と思うこともあります。 「貧乏暇なし」とは、よく言ったものだと苦笑いすることもあります。 けれど、時間がかかっても、 形が不完全でも、 この道のりそのものが、自分の「茶の湯」であり、「守破離」なのかもしれません。

③ ヨットの守破離

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40年にわたるヨットの守破離?です。 ⛵ヨットと道楽、そして自分の守破離 20歳のころ、Dr.B先生に誘われて初めてヨットのクルージングに乗せてもらった。 その体験がきっかけで、セーリングの世界に足を踏み入れた。 技術をもっと上げたくて、クルー(乗組員)として数々のレースに参加し続けた。 10年以上の下積み。 怒鳴られ、バカにされながらも、やめずに続けた。 一番つらかったのは、動く前に「これをこうしろ」と具体的に言ってもらえれば、気持ちよく動けるのに、ただ「違う!バカヤロー!」と怒鳴られることだった。 最後に参加したジャパングアムレースでは、プロのクルーが乗り込んできて、また怒鳴られ、思わず「うるせえ」と喧嘩腰になってしまったこともある。 ここからが、ヨットの世界の現実だった。 このレース艇、ヨット本体もレース費用も含めて約1億円。 自分にできるか? 月に20〜30万円の給料では、そんな“道楽”は天国まで届かない。 つまり、自分で道を拓くしかない。 これが、自分の守破離のはじまりだった。 まずは、岩井海岸で小型ヨット(レンタルディンギー)を借りて、舵取りのトレーニングを始めた。 そのうち、共同オーナーとしてディンギーを購入し、レースにも出場するようになる。 小さな一歩でも、自分の力で進むセーリングの道が始まった。 やがて、一つの夢が芽生える。 ヨット雑誌で目にした、単独大西洋横断レース。 フランス・ブルターニュからカナリア諸島を経由して、カリブ海へと渡るレースだった。 資金集めからヨットの購入まで、すべてが紆余曲折だったが、 ついには単身でフランス・ブルターニュの造船所に渡り、泊まり込みの許可を得て、 自分の手でヨットを造船し、完成・進水。 その後は単独航海のトレーニングを重ねて、レース本番へ。 結果は30艇中9位。 日本人として初めてのゴールだった。 ──ヨットの世界も、やっぱりお金がないと守破離はできない。 でも、お金がなくても“志”で突破口を見つけることはできる。 それが、自分の道楽のかたちだった。

②守破離 生活の糧 職業

水道について 私は、水道の仕事が今の自分の基礎になっています。 自分の父は、下請けの水道屋をしていました。 その父の元で働いていた職人さんの“したでこ”として、私は1年間つかせてもらい、技術を身につけました。 まだ若かった私にとって、それは楽しくて貴重な時間でした。 その後、私は水道とはまったく違う仕事に就きました。けれど、いろいろな職業を経験しても、なかなかしっくりこない。 結局7年後、再び父のもとで手伝いを始めました。 ちょうどその頃、世の中はバブルの真っ只中。 建売住宅の仕事も活発で、一棟一億円を超えるような現場を、自分一人で任され職人の道を歩みます。 茶の湯の「守破離」ではありませんが、それでも私は、仕事を通して収入を得る職人になっていたのです。 そして思い出すのは、ユダヤの教えの一節です。 「息子に働くことを教えない父親は、息子に泥棒になることを教えているにひとしい。」 あの頃、父が私に仕事を体で教えてくれたこと。 職人の背中を見て、自分で考え、手を動かしながら学んだこと。 それが、今の自分を支えている「水道の基礎」になったのだと思います。 レベルは低いけど、自分の歩んだ職人の守破離です。

①守破離 「SHUHALLY」

今日は、YouTuberとしても活躍されている宗亮博士の「SHUHALLY」から、守破離について学んでみたいと思います。 最近、南方録に関する動画を拝見して、とても感動しました。 あらためて、茶の湯における守破離の意味を深く感じています。 AIより 茶の湯と「守破離(しゅはり)」についてお話しします。 まず「守」とは、先生のやり方をよく見て、そのとおりにまねをする段階です。上達するためには、基本を忠実に守ることが大切です。 次に「破」は、まねをする中でだんだんとコツがつかめてきたら、自分なりの工夫を少しずつ加えていく段階です。ただし、基本や教えへの感謝を忘れてはいけません。 そして最後の「離」は、だれかのまねではなく、自分らしいやり方を見つけて、自然に動けるようになることです。自分の道を歩み出す段階ともいえます。 茶の湯は遊びか修行かと問われたら、それは「まじめに楽しむ道楽」だといえるでしょう。茶の湯は楽しいものですが、ただの遊びではありません。自然を感じ、お客さまを大切に思う心が込められています。 そして、「命をかける」とは、戦いや死を意味するのではなく、「いま、この一瞬に全力を尽くす」ということです。お茶を点てるとき、お客さまのことを思い、すべての気持ちをその一服にこめる。そうした心のあり方が、茶の湯で命をかけるということなのです。 まとめると、茶の湯は「まねして、工夫して、自分の道をゆく」もの。そして、楽しみながらも心を込めてお茶を点て、その一服に命をこめることが大切なのです。

出エジプト記 ボー

AIブログ פרשת בא(パラシャ・ボー) ―― 自由は「思い出す力」から始まる פרשת בא は、出エジプトの物語の中でも、もっとも深い転換点を描いています。 奇跡が起こり、エジプトを脱出する――その出来事以上に、このパラシャが伝えているのは、自由とは何かという思想です。 物語の中で印象的なのは「闇の災い」です。 それは単なる暗闇ではなく、他者の苦しみが見えなくなる状態、つまり心の闇を象徴しています。 一方、イスラエルの民には光があったと記されていますが、それは倫理や良心の光とも読めます。 神が最初に命じたのは、戦えでも、逃げよでもなく、 「この月を、あなたがたの月の始めとせよ」という言葉でした。 これは、時間を取り戻せという命令です。 奴隷とは時間を奪われた存在であり、自由人とは時間に意味を与えられる存在なのだと思います。 このパラシャで何度も繰り返されるのが、 「覚えておけ」「子に語れ」という命令です。 信仰は奇跡によってではなく、記憶を語り継ぐことによって生き続ける。 苦しみを忘れた自由は、再び別の奴隷状態を生むからです。 導き手である モーセ も、 奇跡を誇る人物というより、体験を言葉として次の世代に託す存在として描かれています。 茶の湯や禅と重ねるなら、 これは「教えを説く道」ではなく、体験し、記憶し、繰り返す道。 一期一会の一服が、過去と今をつなぐように、 過越の物語もまた、毎年よみがえらせるための儀礼なのです。 自由とは、忘れない力。 どこから来て、何から解放されたのかを語り続けること。 それが、פרשת בא が静かに教えてくれる思想だと感じます。 Question 自由人とは時間に意味を与えるを詳しく教えてください Answer とても大事な問いですね。 「自由人とは、時間に意味を与える存在である」――これは **פרשת בא(パラシャ・ボー)**の核心思想そのものです。 1️⃣ 奴隷とは「時間を持たない人」 エジプトの奴隷の特徴は、鎖や鞭よりも先に、 時間を奪われていることでした。 いつ起きるか → 自分で決められない いつ働くか → 命令される いつ休むか → 許されない 未来を思い描く → 無意味 つまり奴隷とは、 「今」しかなく、しかもその「今」すら自分のものではない存在です。 2️⃣ 神が最初に与えた自由は「暦」 出エジプトの直前...

詩編17:9

わたしをしえたげる悪しき者から、わたしを囲む恐ろしい敵から、のがれさせてください。 1955年日本聖書協会訳 ​תהלים יז ט מפני רשעים זו שדוני איבי בנפש יקיפו עלי מפני ミペネイ から 顔 40-80-50-10-189 רשעים レシャアィム 間違った人 悪人 200-300-70-10-40-620 זו  ズウ 誰 此どれ 7-6-13 שדוני シャドゥニイ わたしを抑圧する者たち 300-4-6-50-10-370 איבי オイェバイ わたしの敵 1-10-2-10-23 בנפש ベネフェシュ わたしの魂のために 生命 2-50-80-300-432 יקיפו ヤキイフウ 囲む者たち 10-100-10-80-6-206 עלי アライ わたし 70-30-10-110 AI訳 少し整えた自然な訳 「悪しき者たちのために、 私を襲う敵が、 命を狙って、 私を取り囲んでいる。」 ラビ思想 ハバット カバラ いい問いですね。では、この一句を ① 有名なラビ思想 → ② ハバット(ハバット・ルバヴィッチ運動) → ③ カバラ(ゾハール) の三層で読み解きます。 (同じ言葉でも、層が変わると“深さ”が変わります) ① 有名なラビ思想による解釈(古典的理解) 詩句 מפני רשעים … יקיפו עלי 「悪しき者たちが、私を取り囲んでいる」 ラビ・ラシ(Rashi)系の読み רשעים(悪しき者)=単なる犯罪者ではなく 👉 神の秩序を無視して生きる者 יקיפו(取り囲む)= 👉 肉体的危険+社会的圧迫+精神的孤立 📘 解釈の要点 正しく生きようとする者ほど、 周囲からの圧力は強くなる これは被害者意識ではなく、 義を選んだ者の宿命として理解されます。 ② ハバット(Chabad)の思想的解釈 ハバットは 知(Chokhmah)・理解(Binah)・意識的統合(Da’at) を重視します。 ハバット的核心 「敵」=外側の人間だけではない 真の רשעים は 👉 自分の内側にある衝動・恐れ・自己否定 🔑 ハバット流の読み 「私を取り囲む敵とは、 神意から離れようとする内なる声である」 特に: 怒り 焦り 比較 絶望 これらが נפש(魂)を包囲する 👉 だからハバットは 思考...

行雲流水

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今日の禅語 いいですね 今日は時間がないので、台所で座って点てました。 **行雲流水(こううん・りゅうすい)**ですね。 禅や茶の文脈でとても大切な言葉です。 行雲流水とは 空を行く雲、水を流れる川のように生きよ というたとえから生まれた言葉です。 雲は、形に執着せず、風にまかせて流れる 水は、高い低いを選ばず、自然に下へ流れる 👉 無理をせず、逆らわず、自然の理(ことわり)に従う生き方を表します。 禅の教えとして 禅では、 計らわない 執着しない 無理にコントロールしない という心のあり方を大切にします。 行雲流水は、 「こうあらねばならない」という思いを手放し、 その時その場に応じて、自然に動く境地です。 茶の湯に引き寄せて言うと 茶の湯での行雲流水とは、 点前を見せようとしない 道具に振り回されない その日の客、その日の空気に身をゆだねる 👉 結果として、無理のない美しさが立ち上がる状態です。 珠光や利休が目指したのも、 まさにこの感覚でした。 日常生活では 思い通りにいかない日もある 予定が崩れることもある 体が思うように動かない日もある そんなとき、 雲は雲、水は水 と受け入れて進む。 これが行雲流水の心です。 ひとことで 行雲流水とは、 力を抜いた真剣さ。 自然にまかせた覚悟。 「何もしない」のではなく、 余計なことをしない生き方ですね。

三毒とん じん ち

三毒を学ぶということ 三毒―― とん・じん・ち。 実は三日前から学びたいと思っていたのですが、 うっかり忘れていました。 それもまた、人間らしさでしょうか。 振り返ると、 自分は生活の中で怒り(瞋)が多かったように思います。 若い頃に比べれば、年を重ねてずいぶん穏やかにはなりました。 それでも、イラッとする瞬間はあります。 たとえば、 日本人に日本語が通じないと感じるとき。 質問したのに、違う答えが返ってきて、 結果的に時間を取られてしまうと、 つい心がざわつきます。 車の運転もそうです。 こちらは安全に走りたいだけなのに、 あおるように追い越されると、 やはり一瞬、怒りが立ち上がります。 ――修行が足りませんね。 けれど最近は、 その「イラッ」とした瞬間に、 少し間が生まれるようになりました。 怒りに飲み込まれる前に、 「ああ、今、瞋が出たな」と気づける。 それだけでも、 三毒の学びは始まっているのかもしれません。 ユダヤの教えに、 こんな言葉があります。 Time is money. ではない。 Time is life. ――時間はお金ではなく、命そのもの。 だからこそ、 怒りで時間を浪費しない。 命を削らない。 茶の湯も、禅も、 そしてユダヤの教えも、 結局は同じところを指している気がします。 今日もまた、 三毒を一つずつ手放す稽古の一日です。 AIブログ 三毒を捨てる ― 茶の湯と禅のシンプルな教え ― とん・じん・ち。 これは仏教、そして禅の教えの根本中の根本とされるものです。 三毒(さんどく)とは、 人の心を曇らせ、苦しみを生み出す三つの毒のこと。 ※『禅 シンプル生活』(枡野俊明 著)でも、とても大切に語られています。 ① 貪(とん) 欲しがる心・執着 もっと欲しい 足りているのに満足できない 人と比べてしまう心 禅では、 「足るを知る」ことで自然に薄れていく毒とされます。 ② 瞋(じん) 怒り・いら立ち・憎しみ 思い通りにならない怒り 他人への攻撃心 自分を責める怒りも含まれる 禅では、 「そのままを見る」ことで熱が冷めていく毒。 ③ 癡(ち) 無知・思い込み・わかったつもり 自分だけは正しいという思い 物事を固定して見る心 真実を見ようとしない姿勢 禅では、 「気づく」ことで自然に消えていく毒とされます。 三毒の中で、もっとも気づきにくいのがこの...

中茶 上林春松の濃茶

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今朝は濃茶を点てようかと思いましたが、 まだ茶入の扱いを稽古中のため、 薄茶と濃茶のあいだほどの一服にしました。 お香の薫りと、立ちのぼる茶の香りが重なり、 気がつけば、心は五百年前へ―― 時をさかのぼっていくような感覚。 ほんのひととき、極上の抹茶贅沢で、 今と昔の境目が消える朝でした。 今日の禅語 渓泉清流(けいせん せいりゅう) 渓泉清流とは、 山あいから湧き出た清らかな水が、 音もなく、にごらず、ただ流れ続ける姿を表した言葉です。 渓は谷、泉は源。 清は澄み、流はとどまらないこと。 つまり―― 作為なく、自然のままに在る清らかさ。 禅の教えでは、 心もまた水のように、 澄んでいれば無理に動かさずとも流れていく、 と考えます。 茶の湯に置き換えれば、 点前が静かに流れ、 亭主も客も構えず、 その場に澄んだ気が満ちている状態。 何かを足そうとせず、 何かを飾ろうとせず、 ただ今を丁寧に生きる。 渓泉清流―― 努力しない清さ、 急がない正しさ。 そんな一日を大切にしたいと思います。

心の文 村田珠光 茶道形成期より

心の文 ―― 村田珠光に学ぶ、茶の道の核心 村田珠光が残したとされる「心の文」は、 作法や道具の話を超えて、人のあり方そのものを問いかける文章です。 ここでは、原意を保った意訳をもとに、 現代の私たちにも伝わる形で読み解いてみます。 心の文(原意を保った近接意訳) この道において、もっともよくないのは、 心がうぬぼれ、構えすぎてしまうことである。 上手な者をねたみ、 初心の者を見下すようなふるまいは、 まことに見苦しく、取るに足らぬことである。 上達した者には、こちらから近づき、 たとえ一言でも学ぶべきであり、 初心の者については、 どのような場合でも大切に育てていかねばならない。 この道における最大の要は、 和物と漢物の隔てを心の中で取り払うことであり、 そのためには、深い心得が欠かせない。 近ごろ、 「冷え」「枯れ」を口にしながら、 初心者には扱えない道具や、使いづらいものをあえて用い、 人にも厳しく当たる者がいるが、 それはまったく道理に反している。 本来「軽やかさ」とは、 良き道具を持ち、その味わいを十分に知ったうえで、 自らの心のあり方に応じて、 まずは豊かに用い、 のちに次第に冷え、痩せていくところにこそ、 おもしろさが生まれるものである。 もっとも、 どうしても合わぬ人に対しては、 無理に道具を使わせるべきではない。 どのような点前、どのような作法であっても、 人を思う心が何より大切である。 ただ、むやみに構えすぎるのは悪いことであり、 しかし同時に、 まったく構えがないのでも成り立たぬのが、 この道というものである。 古くから言われている。 心の師となれ。 心を師としてはならない。 わかりやすい現代語で読む「心の文」 ① いちばん悪いのは「慢心」 茶の道で最も戒められるのは、 技術の優劣ではなく、 ねたみ 見下し 選民意識 といった心の歪みです。 珠光は、これこそが道を壊すと見抜いていました。 ② 初心者を育てることが修行 珠光の茶は「教室」ではなく道です。 できる・できないよりも、 育てようとする姿勢そのものが修行だと語っています。 ③ 侘びは「最初から枯れる」ものではない よくある誤解があります。 ❌ 最初から ・地味 ・不便 ・冷たい これは形だけの侘び。 ⭕ 本来の流れは、 良い道具を知る 豊かさを経験する そこから自然に削ぎ落とされる 👉...

無常無我から、帰家穏坐へ

無常無我から、帰家穏坐へ ――一期一会としての今を生きる 禅の教えの根本にあるのが、無常無我です。 すべては移ろい、固定した「私」は存在しない。 この事実を忘れたとき、人は悩み、苦しみを抱えます。 それでも私たちは、 何かになろうとし、 立派であろうとし、 自分を作り上げようとして疲れてしまいます。 しかし禅は、逆のことを語ります。 帰家穏坐(きかおんざ)。 外に答えを探すのをやめ、 本来の自分の場所に帰り、 ただ静かに坐れ、と。 そこにあるのは、 努力でつかむ悟りではなく、 もともと備わっていた安心です。 この「今ここ」に立ち返る感覚こそ、 一期一会なのだと思います。 同じ瞬間は二度となく、 この一服、この一言、この沈黙は、 すべて一回きり。 禅の公案集である碧巌録も、 理屈で理解するための本ではありません。 考えれば考えるほど行き詰まり、 最後には手放すしかなくなる。 そのとき初めて、 頭ではなく、身でわかる。 無常無我を受け入れ、 一期一会の今を大切にし、 帰家穏坐として自分に還る。 何かを足さなくてもいい。 何者かにならなくてもいい。 今の自分のままで、静かに坐る。 それが、 禅が教えるシンプルな生き方であり、 茶の湯が大切にしてきた心なのだと思います。 ☀️ 無常・無我を、やさしく・短く解説します。 無常(むじょう) すべては変わり続ける 形あるもの、気持ち、立場、命も 同じままは一瞬もない だから 執着すると苦しくなる 受け入れると軽くなる 👉 花が散るから美しい、という感覚です。 無我(むが) 固定した「私」はない 変わらない自分、絶対の自分は存在しない 心も考えも、状況で常に変わる 「私だ」「私のものだ」と強く握らない 👉 役割や肩書きを脱いだ、素の自分。 二つを合わせると 変わる世界に、固定した自分はいない だから仏教は 今ここを大切にし 比べず、構えず 自然体で生きることを勧めます。 茶の湯・日常に置くと 完璧を求めない 失敗も老いも受け入れる 只今を丁寧に味わう ひとことで 「変わることを許し、私に固執しない。」 それが、無常無我の生き方です。 PS 茶の湯の稽古からは、少し距離を置いています。 けれど最近は、禅語を学ぶことが、いつの間にか趣味のようになりました。 考えてみれば、 これもまた茶道の一部なのだと思います。 形をなぞらなくても、...

廓然無聖

今日の禅語  ハンドブックより 碧巌録 AIへの質問 廓然無聖わかる? Answer はい、わかります。 とても有名な禅語です。短く、やさしく説明します。 廓然無聖(かくねん むしょう) 直訳 廓然:からっと広く、何の隔てもない 無聖:聖も凡もない 意味(やさしく) 心がからりと開けたところには、 偉い人も、悟った人も、特別な存在はいない。 禅の核心 「悟った自分」も捨てる 「聖人になりたい心」さえ手放す 上下・優劣・評価が消えた世界 有名な由来 中国・梁の武帝が 「私は多くの寺を建てた。どんな功徳があるか?」 と尋ねたとき、達磨大師は答えました。 「廓然無聖」 👉 功徳を数える心がある限り、まだ分別の中にある、という意味です。 ひとことで 「悟ったと思った瞬間に、悟りから外れる。」 茶の湯・日常に置くと 上手・下手を超える 先生・弟子を超える ただ、いまここにある ミサさんが好きな世界観、そのものの言葉ですね。 PS 旧約聖書を学んでいた頃、 カデッシュ(聖なる者)―― つまり「聖人を目指して生きよう」とした時期がありました。 けれど、それは自分には無理が多すぎた。 今思えば、背伸びをしすぎて、どこかで挫折してしまったのだと思います。 やはり、 もともとの自分であるナチュラリストがいちばん自然でいい。 では、どう生きればよいのか。 ふと、自分の名前を思います。 「正」。 特別な聖人を目指さなくてもいい。 難しい理想を掲げなくてもいい。 ただ、正しく生きることを心がければいいのではないか。 それが、 自分にとっての 正道。 無理をせず、飾らず、 今日一日を正直に生きる。 それで十分なのだと思います。

京都 おぼろに香る心の茶

今年、京都に行く機会があればありがたいなと思っています。 もし叶えば、静かに立ち寄ってみたい場所があります。 普段着のままで伺えそうなのも、少し気持ちが楽です。 星回りも穏やかな年のようなので、 ご縁があれば行けるかもしれません。 おぼろに薫る、茶の心。 金沢生まれの岡本さんが京都に開かれた体験施設の記事を読み、 あらためて茶のご縁を感じています。 北陸中日新聞Web https://share.google/mTc67y2FuXqQabjJ7

コヘレト2:5

​ 園と庭をつくり、またすべて実のなる木をそこに植え、1955年日本聖書協会訳 קהלת ב ה עשיתי לי גנות ופרדסים ונטעתי בהם עץ כל פרי עשיתי アシィティ わたしが作った 70-300-10-400-10-790 לי リィ 自分のために 30-10-40 גנות ガノウトゥ 庭園 3-50-6-400-459 ופרדסים ウファルデシイム そして果樹園 6-80-200-4-60-10-40-410 ונטעתי ベナタアティ そしてわたしは植えた 6-50-60-70-400-10-596 בהם バヘム その中に 2-5-40-47 עץ エツ 木 70-90-160 כל コル 全て 各各 20-30-50 פרי ペリィ フルーツ 80-200-10-290 AI訳 わたしは庭園と果樹園を作り、そこにあらゆる果実の木を植えた ミッドラッシュ コヘレト ラッパー 「ソロモンは世界のすべてを試し、それでも“満ち足りることはなかつた”」 🔯あらゆる果実=あらゆる経験  🔯結論:“人は世界を所有しても、自分自身を所有できない” ラビ思想一行要約 「人は庭を作るが、意味は作れない」 🍃 禅・茶の湯との静かな共鳴 庭を「作る」→ 書院・露地 しかし 悟りは設計できない 茶の湯で言えば 👉 点前は整えられても、一期一会は起こるもの 🔚 結び(賢者の沈黙) コヘレトは言いません。 「庭を作るな」と。 ただ、こう示します。 すべてを手に入れても、 手放すことを知らねば、空しい AI Q 一期一会の質問 点前は整えられても、一期一会は起こるもの Answer🍃とても良い一句ですね。 この言葉は、茶の湯・禅・ユダヤ思想が一点で重なる場所を、静かに突いています。 一文の構造をほどく 点前は整えられても 点前=技・作法・準備 習えば身につく 努力と稽古で再現可能 👉 これは人の領域 一期一会は起こるもの 一期一会=その瞬間にだけ立ち上がる関係性 意図して作れない 同じ顔ぶれ・同じ道具でも、二度と同じにはならない 👉 これは人を超えた領域 茶の湯の核心 千利休が大切にしたのは、 「完璧な点前」ではなく、 その場に、何が立ち上がるか でした。 亭主は、 道具を整える 心を澄ます 余計なことをしない それ以上はしな...

土曜日・安息日(シャバット)と学びの力

一昔前は、土曜日の**安息日(シャバット)**を大切にして、 できるだけ仕事をしないようにしていました。 今は、日本神道の八百万の神を信じながら、 一つの宗教に縛られず、いろいろな教えを学んでいます。 それでも、バアル・シェム・トーブの教えに触れると、 やはり心が動きます。 低いところに神を見る、その感覚は、 自分には禅にとても近いように感じられます。 学び方は変わっても、 探しているものは、あの頃と あまり変わっていないのかもしれません。 土曜日・安息日(シャバット)と学びの力 ――ヴァエラとバアル・シェム・トーブの教え―― 土曜日は、安息日(シャバット)。 モーセ五書では、神はこの日に仕事をしてはならないと定めています。 日本でいえば、どこか元旦に近い感覚でしょうか。 日常の手を止め、神の前に静かに立つ日です。 シャバットには、聖書を朗読するという大切な習慣があります。 ここに、ユダヤ人の強さの源があるのではないかと、私は感じています。 ユダヤの子どもたちは、口がきけるようになると祈りを覚え、 5歳頃には多くを暗記します。 そこから聖書が読めるようになり、 一年を通してモーセ五書を読み、 それを毎年、繰り返し学び続ける。 この「暗記し、繰り返し、身体に染み込ませる」力こそが、 思考力・集中力・精神の強さの土台になっている。 それが「優秀さ」の始まりなのではないか、 私はそう思います。 今週の朗読箇所は פרשת וארא(パラシャ・ヴァエラ)――「現れた」 です。 バアル・シェム・トーブの教え 「神は、最も低い場所、最も苦しい場所にこそ現れる」 この言葉は、ヴァエラの核心を 人の心の現場にまで引き下ろした教えです。 なぜ「低い場所」なのか 人は、 誇り・成功・余裕の中にいると、 いつの間にか自分の力を頼り、神を忘れがちになります。 反対に、 疲れ、恐れ、絶望の中にある時、 自我は砕かれ、 神を迎え入れる空間が生まれます。 だから神は、 完成した人ではなく、 壊れかけた心に近い。 ヴァエラとの直接的な関係 ヴァエラでは、イスラエルの民がこう描かれます。 「心の短さ(קֹצֶר רוּחַ)と重労働のため、 モーセの言葉を聞くことができなかった」 普通なら、 「信じなかった民が悪い」と読まれがちです。 しかしバアル・シェム・トーブは、 真逆に読みました。 👉 聞け...

◯是什麽

今日の禅語 ハンドブックより。円相ですのでAIに聞いてみました。茶室に掛け軸がかかっていても読めないし、意味を理解できないですよね。これも茶の奥深さですかね? AI Answer なぜ禅は質問するのか 禅では、質問は答えを知るためのものではありません。 考え続けている心を、いったん止めるためのものです。 人は質問されると、 正解を探し、理屈で理解しようとします。 しかし禅の問いは、 その思考が行き止まるところへ導きます。 考えが止まったとき、 はじめて「今ここ」が現れる。 それが禅の狙いです。 禅の質問は、 答えを出すためではなく、 考えを手放すためにある。 PS ◯是什麽(まる は なんですか) 禅では、◯(円相)に向かって 「◯是什麽」――円とは何か と問いかけることがあります。 この問いは、 答えを言葉で説明するためのものではありません。 考え始めた瞬間に、 すでに答えから離れてしまう問いです。 ◯は、 すべてであり、何もなく、 そして今ここそのもの。 問いに答えようとするのではなく、 問いの前に立ち止まる。 そのときの自分の心を見る。 それが、この問いの役割です。 ◯是什麽―― 答えを探す問いではなく、 今ここに気づくための問い。

坐一走七

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自分は普段、作業服で働く職業です。 いわゆるブルーカラー、その下のブラウンカラー。 今日は仕事に行く前に、 ちょっとだけ茶を点てました。 ただ、労働者が袴をはいて茶を点てるとなると、 やっぱり少し抵抗があります。 今日のお茶は、こいまろ茶。 ブラックフライデーで30グラム2,800円。 なかなか贅沢です。 坐一走七(ざいちそうしち) 「坐一走七」とは、AI解説 坐禅は一、日々の行いが七という禅の教えです。 禅は、坐っている時だけのものではありません。 歩くこと、働くこと、人と接すること。 そうした日常の中にこそ、修行があると考えます。 坐禅は心を整えるための入口。 本当の修行は、 日々をどう生き、どう働くかにあります。 今していることに心を向け、 今ここで、丁寧に行う。 それが「坐一走七」の教えです。

一期一会

今日読んだ本の中に、一期一会という言葉が出てきました。 「一期一会」という言葉は、 『茶席で役立つ禅語ハンドブック』の中で、 山上宗二の教えをもとに、 茶席における心構えとして紹介されています。 たとえ同じ亭主と客が何度も顔を合わせる関係であっても、 その日、その時の一座は二度と戻らない。 だからこそ、亭主も客も、 その一会に心を尽くして臨む。 その精神が「一期一会」として説かれています。 私自身は、 茶の湯を知るずっと前から、 「一期一会」という言葉をよく使っていました。 チャンスは前髪をつかめ、 その言葉と同じ意味だと感じていたからです。 後になって、これが茶禅から生まれた言葉だと知りました。 一期一会とは、一度しかない機会のこと。 人と同じものを好まない性分もあって、 そうした機会に出会うことは少なくありません。 円相の色紙も、その一つです。 この時を逃せば、 再び出会えることは多くないと思います。。 それは人との関係というより、 ものとの縁に近いものだと感じています。 生きることも、また同じです。 私たちは毎日、確実に歳を重ねています。 昨日と同じ今日、 今日と同じ明日はありません。 茶の湯の世界では、 同じ顔ぶれが集まる席であっても、 まったく同じ一座は二度とないと考えられているようです。 だから亭主は、その一会に心を尽くし、 客もまた、その心遣いを受け止め、 真剣に席に臨むようです。 そう考えると、 生きることもまた、同じではないでしょうか。 今日という一日は、 すでに二度と戻らない一会なのではないでしょうか? PS|禅の一期一会 AIより 禅の「一期一会」とは、 今ここの一瞬は二度と戻らない、という気づきです。 同じように見える今日も、 同じ人との会話も、 実はすべて一度きり。 だから禅は、 今ここで、 見る・聞く・味わう。 それだけでよいと教えます。 今ここを生きる。 それが禅の一期一会です。

箴言7:21

​ 女が多くの、なまめかしい言葉をもって彼を惑わし、巧みなくちびるをもって、いざなうと、  1955年日本聖書協会訳 משלי ז כא הטתו ברב לקחה בחלק שפתיה תדיחנו הטתו ヒタトゥウ 彼を誘惑した 彼を傾けた 5-9-400-6-420 ברב ベロブ 豊富 数多くの 2-200-2-204 לקחה リクハァ 彼女の話 教え 説得 30-100-8-5-143 בחלק べへレク 滑らかさで 甘い調子で 2-8-30-100-140 שפתיה セファテェファ 彼女の唇 口先 300-80-400-10-5-795 תדיחנו タディへヌウ 押し流す 迷わせる 堕落させる タディへヌウ 400-4-10-8-50-6-478 Chat GPT 訳 彼女は多くの言葉によって彼を傾け、唇の滑らかさによって彼を迷わせた。 ラビ的・思考的一言 この節の核心は行為ではなく「言葉」です。罪はまず耳から入り、心を傾け、最後に人を押し流す。まさに「口が(שפה)」が魂を動かす、という警告です。 ラビ注解 ラシ rashi ・ポイント 罪は力ではなく言葉の積み重ねから始まる。 ・「רב לקחה(多くの言葉)とは、一度の誘惑ではなく、繰り返される説得。 ・人は突然落ちるのではなく、少しずつ心を傾けさせられる。 👉ラシはここで、理性が崩れる最初の入り口は 耳 であると読む。 😊 「夫は遠くへ出かけている」 そんな言葉に、甘い響きが添えられたら、 正直なところ、多くの人は心を動かされてしまうのではないでしょうか。 最近のニュースを見ていて、 あれもまた、行為より先に耳から始まった出来事のように感じました。 人は目で見て転ぶ前に、 言葉を聞いた時点で、すでに半分傾いているのかもしれません。 自分は、人間の弱さというより、 失敗を経験しないまま歳を重ねてしまう危うさを感じます。 失敗していないからこそ、 自分は大丈夫だと思ってしまう。 ハニートラップ―― それは力で縛る罠ではなく、 甘さに身を委ねた結果、気づいた時には流されている罠。 箴言が語る人間の姿は、 今の時代にも、そのまま当てはまっているように思います。

夢中夢 (禅語)

自分ははこれまで、 夢とは、過去に過ぎ去った出来事のように感じてきました。 どんなに良い出来事でも、 過ぎてしまえば、もう戻ることはできません。 そして年を重ねるにつれ、 生きること自体が、夢の中にいるようだ と感じるようにもなりました。 禅には**夢中夢(むちゅうむ)**という言葉があります。 夢の中で、さらに夢を見ている状態。 目覚めたと思っても、 まだ思い込みの中にいるかもしれない、という教えです。 過去の出来事にとらわれることも、 人生を分かったつもりになることも、 どちらも夢中夢なのかもしれません。 だからこそ禅は、 夢を追うのではなく、 いま、この一歩に立てと教えます。 過ぎた夢に戻らず、 夢の中にいるようなこの人生を、 今という一日として、 静かに生きていきたいと思います。

道 あなた自身へ向かってあゆめ

以前、お世話になったラビが、 ニューヨークからご夫婦で五万円だけを持って日本に来られた、 というお話を聞いたことがあります。 そのとき、隣にいた女性は 「レフ・レハ(あなた自身へ)」と言い、 私は「マイ・ウェイ」と言いました。 今思うと、 それこそが日本の「道」なのではないかと感じています。 旧約聖書『創世記』に登場するアブラハムは、 神から 「לך לך(レフ・レハ)」―― あなた自身へ向かって歩め と告げられます。 このアブラハムは、 ユダヤ教・キリスト教・イスラエルの信仰の原点となる人物です。 私は日本人ですが、 この「自分自身へ向かって歩め」という教えが、 自分の感覚にとてもよく合い、 聖書の学びに自然と引き込まれていきました。 茶道もまた、 人に示される道をなぞることではなく、 自らの一歩が道となるものではないでしょうか。 一杯のお茶を、 自分自身へ向かって点てる。 それが、私の茶の湯なのだと思っています。 PS 伊豆で休暇を過ごしながら、 静かに考える時間を持ちました。 自然に身を委ねるうち、 これもまた「命の洗濯」なのだと感じています。

円相

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南禅牧雲和尚・塩沢大定和尚の円相が、昨日手元に届きました。 臨済宗南禅寺派管長を務めた高僧の直筆色紙が、なんと2,500円。 あまりの価格に驚きましたが、調べていくほどに、その重みを感じずにはいられません。 改めて思い出したのが、村田珠光に一休宗純が円相を送り、それが侘び茶最初の掛け軸になったという話です。 茶の湯の原点に、円相が静かに置かれていたという事実は、とても象徴的に感じます。 ただ、私自身の人生観から言えば、 どれほど価値ある作品であっても、モノそのものに頭を下げる気にはなれません。 では、なぜ茶道では先人に頭を下げるのでしょうか。 感動すること、それだけで十分ではないか。 一休和尚の言葉を借りるなら、「ものはもの」。 大切なのは、形や権威ではなく、そこに込められた意味を深く味わうことなのだと思います。 私なりの解釈では、 円相とは「生命」であり、「循環」。 始まりも終わりもなく、欠けも満ちも含めて、ただ巡り続けるもの。 一休和尚は、そのことを一筆の円で示したのではないでしょうか。 頭を下げるべきは、作品ではなく、 そこから何を受け取り、どう生きるかという、自分自身の心。 円相は、今も静かに、そう問いかけているように感じます。

詩編17:9

​悪しき者たちが私を圧迫し、命を狙う敵が私を取り囲む AI訳 תהלים יז ט מפני רשעים זו שדוני איבי בנפש יקיפו עלי מפני ミペネイ から 40-80-50-10-180 רשעים レシャアイイム 邪悪な者たち 間違った 悪い 200-300-70-10-40-620 זו ズウ これら どれ 誰 7-6-13 שדוני シャドゥニイ わたしを抑圧する者たち 攻撃 略奪 荒廃 破滅  300-4-6-50-10-370 איבי オイェバイ わたしの敵 憎む 1-10-2-10-23 בנפש ベネフェシュ わたしの魂のため 2-50-80-300-432 יקיפו ヤキイフゥ 囲う人々 10-100-10-80-6-206 עלי アライ わたし 70-30-10-110 ムサール(倫理)的解釈(後代ラビ) 後代のラビたちはこう教えます。 人は「囲まれている」と感じたとき、 初めて本当の信仰が試される 余裕のある時の信仰 → 習慣 追い詰められた時の信仰 → 真実 🧭 まとめ(ラビ的核心) ラビたちに共通する理解はこれです: この句は「敵の強さ」ではなく、 追い詰められた中で神に向かう姿勢を語っている

祝福

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あけましておめでとうございます。 上善如水(じょうぜん みずの ごとし) ―― とても静かで、強い言葉ですね。 🔹 出典 『老子(道徳経)』第8章の言葉です。 上善は水の如し (もっとも善なるあり方は、水のようである) 🔹 意味(やさしく) 本当に優れた生き方は、水のような生き方である という教えです。 🔹 なぜ「水」なのか 老子は、水の性質に「最高の善」を見ました。 ① 争わない 水は高い所を争わず、 人の嫌がる低い所へ流れます。 → 自己主張せず、無理をしない ② 万物を生かす 水は 草木を育て 人を潤し 命を支える しかし、見返りを求めない。 → 静かな奉仕 ③ 形に執着しない 器が変われば形を変え、 流れが止まれば澄み、 障害があれば回り道をする。 → 柔軟で折れない強さ ④ 最も低きに身を置く 水は常に下へ下へと向かいます。 → 謙虚さこそ、最も高い境地 🔹 禅・茶の湯との響き 無理をしない 飾らない ただその場を潤す これはまさに 侘び茶の精神であり、 「無一物中無尽蔵」とも通じます。 🔹 日常での「上善如水」 勝とうとしない 比べない 押しつけない しかし、必要な所には必ず在る そんな在り方。 🔹 一言でまとめると 強くあろうとしない者が、もっとも強い 水のように生きることは、 楽であり、深く、そして自由です。