且坐喫茶

先日仕事の合間に一服薄茶をいただきました。

且坐喫茶 AIブログ
🍵 「まあ、お茶でも」—— 禅語「且坐喫茶」のこころ
禅語に、**「且坐喫茶(しゃざきっさ)」**という言葉があります。
意味はとてもシンプルです。
「まぁ、そこに座って、お茶でもおあがりなさい」
けれど、この四文字に込められた意味は、思いのほか深いのです。
この言葉は、中国・唐代の禅僧・趙州(じょうしゅう)禅師の言葉とされています。
ある日、修行僧が「自分はかつて修行したことがあります」と言うと、
趙州は静かに言いました。
「且坐喫茶(しばらく坐して、茶を喫せよ)」
また別の僧が「修行したことはありません」と言っても、
やはり同じように言ったのです。
「且坐喫茶」
修行していても、していなくても、
立派でも愚かでも、
誰に対しても、同じ言葉をかける。
そこには、評価も、問い詰めも、説法もありません。
ただ、「いまここに居て、お茶を一服しなさい」という、
静かで温かなまなざしだけがあります。
この短い言葉のなかには、禅の核心が詰まっています。
❖ 一服が、問いへの“答え”である
「坐って、茶を飲みなさい」
これは単なる誘いではなく、
「今ここで、ただその行為に集中しなさい」という、
言葉を超えた導きです。
修行していてもいなくても、「喫茶せよ」。
つまり、**「今ここにいることがすでに道である」**という示唆なのです。
❖ 言葉より行動を重んじる禅
禅では、行動そのものが教えとされています。
書物を読むよりも、坐禅する
理屈よりも、一碗の茶に向き合う
説明よりも、今を生きる
「且坐喫茶」はまさに、
「余計なことは言わない。ただ、今ここで味わいなさい」
という、禅的な行動のすすめなのです。
❖ 語らないからこそ、深く伝わる
この言葉には説明がありません。
「なぜお茶を飲むのか」も、「どう飲むのか」も語られません。
でも、それが禅なのです。
受け取った者が、自分で考え、自分で感じ、自分で生きる。
坐って喫茶せよ
→ 私は何に囚われていたのか?
→ なぜ答えばかり求めていたのか?
このように、沈黙の中で“気づき”が芽生えるのです。
茶の湯にも、この精神は深く流れています。
表千家の千宗左宗匠はこう語られました。
「茶室に入れば、皆平等であり、皆主人であり、皆客である」
地位や経験ではなく、
“このひととき”に心を尽くすことこそが、茶の湯の本質。
「まあ、座ってお茶でも」と、何者でもない“あなた自身”として招かれる。
それこそが、茶のこころであり、禅のこころでもあるのです。
私たちの暮らしは、つねに評価され、比べられ、結果を求められます。
でも本当は、
何者でもなく、何もしないまま、ただ「ここにいる」ことを許される時間が必要です。
誰かに、
「まぁ、お茶でも」
と言ってもらえるだけで、
心がそっとほどけることがあります。
今日も湯を沸かし、茶を点てながら、
私は自分にこう語りかけてみようと思います。
「且坐喫茶」
まぁ、座って、お茶でも」

PS
🍵 万松緑陰深──仕事の途中、茶室にて
仕事の合間に茶室へと足を運んだ。
喧騒から少し離れ、
静かな一碗を味わいたくなったからかもしれない。
茶室に入ると、裏千家の先生がにこやかに声をかけてくださった。
「今日は、これから?」と。
「仕事の途中です」と答えると、
先生は少し驚いたように微笑まれて、
「贅沢ですね」とひとこと。
私は思わず笑ってしまった。
「そうなんです、自分、贅沢なところが多いんですよ」
思えば、
旧約聖書の食事規定「コーシャー(Kosher)」のようなことも、
意味を知る前から自然と半分以上、身についていた。
食べるもの、整える空間、身体の感覚——
そういったものへの“選び方”が、自分の中には昔からあったのかもしれない。
そして毎日飲む抹茶。
一服のために選ぶのは、
1g100円を超える抹茶が多い。
値段のことではなく、
その一服に心を込められるかどうか、
それが自分にとっての贅沢なのだろう。
今回、茶室に掛かっていたのは禅語:
万松緑陰深(ばんしょう りょくいん ふかし)
—— 万の松が青々と茂り、陰の深さに包まれる。
静寂の中に、ひんやりとした深い緑の気配を感じる言葉。
まるで茶室の空気そのものだった。
この“深さ”は、
お金では買えないし、言葉では説明できない。
贅沢とは、喧騒を離れて、自分を取り戻す場所があること。
そして、
万の松の陰に身をひそめるような、静かな時間があること。
茶室のひとときは、
まさにそんな贅沢を教えてくれる時間でした。
ありがとうございます。
感謝。


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