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考えるVendee globe#12DMG MORI

今年に入って、DMG森精機の株価が大きく下がっています。 業績そのものは悪くありません。むしろ受注は好調です。 大きく株価が動いた理由の一つは、海外で資金を調達するために新株を発行したことにあるようです。新たに1,500万株を発行し、約477億円を調達しました。 株数が増えれば、一株あたりの価値が薄まる「希薄化」が起こります。 そして、前のブログで書いた世界最大級の資産運用会社、ブラックロック。 実はブラックロックもDMG森精機の大株主でした。 その保有割合を見ると、 2025年10月 6.52% 2026年2月 5.15% 2026年8月 4.11% と、段階的に減っています。 もちろん、これだけでブラックロックがDMG森精機を見限ったとは言えません。 ブラックロックは世界中から預かった巨大な資金を運用していますから、ファンドの資金流出入や指数への対応、ポートフォリオの調整などでも保有株数は変わります。 ただ、私はヨット乗りなので、ここでどうしてもヨットのことを考えてしまいます。 DMG MORIは白石康次郎さんを支援し、Vendée Globeに挑戦してきました。そして現在は、さらに新しいIMOCAを建造して次の世界一周へ向かっています。 一方、フランスの保険相互組合MACIFも長年ヨットレースを支援してきました。 MACIFは普通の株式会社とは少し違います。 2025年末で約645万人の組合員・加入者・顧客を抱える巨大な相互組織です。 そのMACIFが支援したフランソワ・ガバールは、2012-13年のVendée Globeを78日2時間あまりで優勝。当時の大会記録を更新しました。 もちろん645万人全員がヨット好きというわけではないでしょう。 「私はヨットなんか興味ないよ」という加入者もいるかもしれません。 それでも相互組織としてヨット活動を続け、世界一周レースで結果を出してきました。 では、株式会社であるDMG森精機の場合はどうなのでしょう。 ヨット活動にいくら投資し、それによってブランド、技術、人材育成、そして最終的には企業価値にどれだけの効果が生まれているのでしょうか。 私は以前、会社に電話してヨット活動の費用を尋ねたことがありますが、金額について回答は得られませんでした。 もちろん、上場企業だからといって、個々のスポンサー活動の費用をすべて公表する義...

ブラックロック ユダヤの学び#3

今日もユダヤの学びです。 嫌いな方はスルーして下さい。(^_^) AI企業もそうですが、ブラックロックを調べていると、国境を越えて地球全体を舞台に会社を運営しているようなスケールを感じます。 こういう企業を「グローバリスト」と呼ぶ人もいるのでしょうが、私は最初から善悪で考えるよりも、そこから何を学べるのかを考えてみたいと思います。 ブラックロックの創業者ラリー・フィンクは、ユダヤ系の家庭で育ちました。 父親は個人商店の靴屋を営んでいました。決して大富豪の家庭ではありません。 働いて得たお金から少しずつ貯め、それを株や債券に投資する。アメリカ経済が成長するとともに資産も増え、両親はその蓄えによって豊かな老後を送ることができたそうです。 一攫千金ではありません。 働く。 少し残す。 投資する。 そして長い時間を待つ。 この話を読んでいて、コヘレトの言葉を思い出しました。 「七人と、八人とすら、分かち合っておけ。国にどのような災いが起こるか、分かったものではない。」 ――コヘレト11章2節 未来に何が起こるかは誰にも分からない。 だから一つにすべてを賭けるのではなく、分けて備える。 面白いことに、ブラックロックも1988年、ラリー・フィンクを含む8人で始まった会社だそうです。 もちろん、コヘレトの「八人」とブラックロックの創業者8人には何の関係もありません。 でも、ユダヤの学びとして並べてみると面白い。 何が起こるか分からない。 だからこそ、知恵を使って備える。 今日はコヘレト11章2節から、ブラックロックとラリー・フィンクについて考えてみます。 AIラビ様リサーチ はい😊 コヘレト11章2節です。思い出されたのは、まさにこの箇所です。 「七人と、八人とすら、分かち合っておけ。国にどのような災いが起こるか、分かったものではない。」 ――コヘレト11:2(新共同訳) � Bible.com +1 ヘブライ語では、 תֶּן־חֵלֶק לְשִׁבְעָה וְגַם לִשְׁמוֹנָה Ten chelek le-shiv'ah, ve-gam li-shmonah. 「七つに分けよ、いや八つにも」という感じです。� セファリア これ、ブラックロックの話にものすごく合います。 現代的な英訳の中には、実際に「七つ、いや八つの投資先に投資せよ。どんな災いが起こる...

コヘレト(伝道の書)9∶7〜

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イスラエルでは、仮庵の祭り「スコット」の季節です。 仮庵の祭りには、コヘレト(伝道の書)を読む習慣があります。 今日はその中から、私の好きなところを少しつまんで読んでみます。 喜んで食べなさい。 酒を飲みなさい。 愛する妻と人生を楽しみなさい。 しかし、人は自分の「時」を知らない。 魚が網に捕らえられ、鳥が罠にかかるように、人生には突然、思いもよらないことが起こります。 だからこそ、今日与えられている人生を喜ぶ。 もちろん、不運な時もあります。 私の場合は、先週の口コミ女でしょうか(笑)。 そんな時に思い浮かぶのが、箴言の言葉です。 「主を畏れることは、知恵の初め。」 自分の思い通りにならないことも含めて人生なのでしょう。 静かな安息日を迎えたいところですが、今日も仕事です。 昔、「貧乏暇なし」と言ったら、 「声がかかるだけ、ありがたいと思わなきゃ」 と言われたことを思い出しました。 なるほど、それも一つの知恵かもしれません。 侘び茶でいえば、立派なものを求めず、今あるものの中に楽しみを見つける。 とはいえ、私の人生はまだ「侘び」の境地には遠いようです。 仕事があり、飯が食えて、酒が飲めて、愛する人がいる。 そして一服のお茶がある。 それで十分なのかもしれません。 仮庵とは、そんなことを思い出すための場所なのかもしれませんね。 קהלת ט ז. לך אכל בשמחה לחנך שותה בלב טוב יחנך כי כבר רצה האלהים את מעשיך ט. ראה היים עם אשה אשר אהבת כל ימי חיי הבלך אשר נתן לך תחת השמש כל ימי הבלך כי הוא חלקך בחיים ובעמלך אשר אתה עמל תחת השמש    כי עת ופגע יקרה את כלם יב. כי גם לא ידע האדם את עתה כדגים שנאחזים במצודה רעה וכצפרים האחזות בפח כהם יוקשים בני האדם לעת רעה כשתפול עליהם פתאום AIラビ様訳 もちろんです😊 これはコヘレト(伝道の書)9章7節・9節・11節末・12節ですね。いただいたヘブライ語には少し綴りの違いがありますが、意味...

詩篇18∶4〜

תהלים יח' ד מהלל אקרא יהוה ומן איבי אבשע אפפוני חבלי מות ונחלי בליעעל יבעתוני חבלי שאול טבעוני קדמוני מוקשי מות AI訳 私は、ほめたたえるべき主を呼び求める。 すると私は、敵から救われる。 死の縄が私を取り囲み、 滅びの激流が私を恐れさせた。 陰府(シェオル)の縄が私を取り囲み、 死の罠が私の前に立ちはだかった。 😊 今週はユダヤの学びを詰め込みすぎて、脳みそがパンパンです。 ラビの教え、タルムード、ゾハール、カバラ……。面白くて次々と学んでいるうちに、どうも自分の容量を超えてしまったようです。 そんなとき、やはり聖書そのものに戻ると、不思議と頭の中がリセットされます。 今日はダビデの詩篇です。 ダビデはイスラエルの王様です。しかし王様になっても苦しみます。敵に追われ、恐れ、悩み、「死の縄が私を取り囲む」とまで歌っています。 王様でも苦しむ。人間だから当たり前なのかもしれません。 でも、ここで少し不思議に思いました。 死ぬことをこれほど恐れているけれど、黄泉(シェオル)へ行けば、もうこの世の苦しみからは離れるのではないか。 ユダヤの教えには、たしか「眠りは死の六十分の一」という言葉があったと思います。 眠っている間、私たちはこの世の悩みから少し離れる。 そして朝、目を覚ます。 だからユダヤ人は朝一番に「モデ・アニ」と祈り、魂が戻されたことに感謝するのでしょうか。 今日は難しいことを考えすぎず、ダビデの言葉をそのまま読んでみたいと思います。 AIラビ様解説 はい。これは詩篇18篇4〜6節あたりですね。表記には少し綴りの揺れがありますが、意味を自然な日本語にすると次のようになります。 訳 私は、ほめたたえるべき主を呼び求める。 すると私は、敵から救われる。 死の縄が私を取り囲み、 滅びの激流が私を恐れさせた。 陰府(シェオル)の縄が私を取り囲み、 死の罠が私の前に立ちはだかった。 ここで非常に印象的なのが、最初の言葉です。 מְהֻלָּל אֶקְרָא יְהוָה Mehulal eqra Adonai 「ほめたたえられるべき主を、私は呼び求める」 そして、 וּמִן־אֹיְבַי אִוָּשֵׁעַ Umin oyvai ivvashe...

Googleについて 

今日はGoogleについて少し考えてみます。 先週、Googleの口コミのことで少し落ち込んでいました。 考えてみると、これまでにも、自分では何も迷惑をかけた覚えがないのに、憶測を交えて口コミを書かれたことが3回ほどあります。 その人たちの過去の口コミを見ると、他のお店にも同じような厳しい口コミを書いていたりします。 困ったものだなと思います。 でも、ふと思いました。 Googleって、無料なんですよね。 以前はGoogleビジネスを使って、自分で店の情報やGoogleマップを管理していました。 もしこれが有料の広告媒体なら、 「口コミ機能はいりません」 「この口コミは掲載しないでください」 そんな契約もあるのかもしれません。 しかしGoogleマップもGoogle検索も、基本的には無料で使わせてもらっています。 考えてみれば、これはものすごく便利なことです。 何か知りたいことがあればGoogleで検索する。 お店を探すのもGoogle。 地図を見るのもGoogle。 今ではAIがありますから、昔ほど「何でもGoogle」とはいえないのかもしれませんが、それでも大変便利なサービスです。 そしてYouTubeも基本的には無料です。 もっとも自分はYouTube Premiumに入っていますので、年間にすれば2〜3万円くらい払っていると思います。 そこで、ときどき不思議に思うことがあります。 YouTubeを見ていると、 「ここから先は有料です」 「続きはメンバー限定です」 という人がいます。 もちろん、お金を取ることが悪いとは思いません。 動画を作るにも時間もお金もかかります。 ただ、ちょっとひねくれた自分は、 「あなたはYouTubeという場所を無料で使っていて、こっちはPremiumでお金を払って見ているんだけどなあ」 なんて思ってしまいます(笑)。 自分の場合は逆です。 知っていることがあれば、知りたい人に教えてあげればいい。 それでその人が喜んでくれたら、それも巡り巡って、いつか自分に返ってくる。 そんなふうに考えています。 実は自分も、15年以上前からYouTubeをやっていました。 目的はヨットです。 Vendée Globeという世界一周ヨットレースを日本でもっと広めたい。 そして、自分自身も世界一周レースに挑戦するためのスポンサーを見つけたい。 そんな...

Google ユダヤの学び#2

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  今日はGoogleの話です。 あまり知られていないかもしれませんが、Googleを創業したラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンは、ともにユダヤ系の家庭にルーツを持つ人物です。 世の中には、「ユダヤ人が陰で世界を操っている」などという陰謀論や都市伝説があります。 でも自分は、そういう話を聞くたびに少し違和感を覚えます。 考えてみれば、Google検索もYouTubeも、基本的には無料で使うことができます。今ではAIのチャッピーも、無料で使える範囲があります。 これだけ便利なものを日常的に使わせてもらいながら、その一方で根拠のない悪口を言うのも、なんだかおかしな話です。 それより自分が興味を持つのは、 「なぜ、こういうものを生み出すことができたのだろう?」 ということです。 そこを考えていくと、自分が長年学んできたユダヤの「問いを持つ」という学習文化とも、興味深く重なるところがあります。 AIラビ様より Googleの共同創業者の一人、 セルゲイ・ブリン の少年時代から、ユダヤの学びについて考えてみます。 ユダヤの学び ――「なぜ?」からGoogleへ Googleの創業者、ラリー・ペイジとセルゲイ・ブリン。 セルゲイ・ブリンは、旧ソ連のモスクワでユダヤ人家庭に生まれました。父親は数学者で、一家はセルゲイが6歳のときにアメリカへ移住します。 少年時代のセルゲイは、ヘブライ学校にも通っていました。 興味深いのは、数学者だった父親の教育です。 何でも息子に教え込んだのではなく、セルゲイが知りたいことがあると、自分から質問してきたと父親は振り返っています。 ここに、自分はユダヤの学びと通じるものを感じます。 ユダヤの学びは、ただ答えを暗記するだけではありません。 「なぜ?」と疑問を持つ。 トーラーを読んでも、 「なぜ、ここにこの言葉があるのか?」 「別のところには何と書いてあるのか?」 「二つの話は矛盾していないのか?」 と考えていきます。 そして、ここで登場するのが タルムード です。 タルムードとは簡単に言えば、トーラーの教えについて、昔のラビたちが何世代にもわたって考え、議論してきた巨大な知恵の集積です。 一人のラビが、 「私はこう考える」 と言えば、別のラビが、 「いや、こちらの聖書にはこう書いてある」 と問い返す。 ...

自作茶室 乏しいお茶でいい

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春のことです。 仕事の途中、少し時間が空いたので、佐倉城址公園にある茶室 三逕亭(さんけいてい) へ、一服のお茶をいただきに寄りました。 三逕亭という名前は、陶淵明の『帰去来の辞』にある、 「三逕就荒 松菊猶存」 (三逕は荒に就けども、松菊なお存す) という言葉に由来するそうです。 三つの小径は荒れてしまっても、松と菊は変わらずそこにある。 なんとなく、侘び茶にも通じるような言葉ですね。 三逕亭は、京都・大徳寺の塔頭、孤篷庵の茶室「忘筌」を模した茶室で、昭和58年に東京の乃木神社から佐倉へ移築されたものだそうです。� さくら市公式サイト その日、私が気になったのは、立派な茶道具ではありませんでした。 庭に置いてあった、細長い木のテーブルと椅子です。 「これは使えるかもしれない」 そう思って、スマホで写真を一枚撮っておきました。 今、自分で造っている草庵茶室は、立礼式の茶室にするつもりです。 まだ完成は先ですが、客用のテーブルだけは、どうしてもイメージが湧きませんでした。 ところが先日、スマホの写真を見返していて、この三逕亭のテーブルを思い出しました。 「ああ、これでいいじゃないか」 立礼といえば、裏千家11代玄々斎が明治初期に考案した新しい茶の形です。 考えてみれば、立礼そのものが、昔から決まっていた茶ではありません。時代や暮らしに合わせて生まれた、新しい茶の形だったわけです。 本当を言えば、私も畳の茶室は好きです。 四畳半に畳を敷き、炉を切る。 しかし、安く造ったとしても、それなりのお金がかかります。 だったら、無理をして立派な茶室を造らなくてもいい。 「乏しい茶」でいいのではないか。😛 そもそも、この建物は最初から茶室として考えたものではありません。 鴨長明の『方丈記』に出てくる草庵を真似て、小さな庵を造ってみようと思ったのが始まりでした。 炉ではなく囲炉裏を作って、鍋を囲んだり、炉端焼きをしたり。 そんな場所をイメージしていました。 それがいつの間にか、茶室になってきました。 ここからは、得意の**「無策の策」**です。 決まり事を先に作らない。 立派な茶室を真似する必要もない。 そのとき、そのとき、 「今の自分には、これがいいな」 と思ったものを一つずつ形にしていけばいい。 三逕亭の庭にあった何気ない一本のテ...

AIは世界を滅ぼす?

最近、YouTuberを見ていると、「AIが人間を必要としなくなる」「AIが世の中を壊す」、さらには「AIが世界を滅ぼす」とまで語る言論人や、自称学者のような人たちを見かけます。 でも、自分はそういう話を聞くたびに、どうも違和感を覚えます。 もちろん、AIには危険な使い方もあるでしょうし、これから社会の仕組みや仕事が大きく変わっていくことも間違いないと思います。 ただ、少し意地悪な見方をすれば、「AIが人間を必要としなくなる」というより、そう語っている人たち自身が、「AIによって自分たちが必要とされなくなること」を恐れているのではないか――そんなふうにも感じてしまいます。 少なくとも自分にとって、AIはこれほど便利で面白い道具はありません。 もし20年前、世界一周ヨットレースを夢見てスポンサーを探していた頃に、今のAIがあったならどうだったでしょう。 企画書を書く。海外の情報を調べる。外国語を翻訳する。スポンサー候補を探す。手紙を書く。自分の夢を発信する。 当時、一人で何日も何週間もかけてやっていたことを、AIと相談しながら進めることができたはずです。ひょっとしたら、自分の人生も少し違っていたかもしれません。 そしてもう一つ、自分が興味を持ったのが、OpenAIを率いるサム・アルトマンがユダヤ人であることです。 自分は長年トーラーを学んできました。ユダヤの教えには、人間がどう生きるのか、他者とどう向き合うのかという問いが繰り返し出てきます。 だからといって、「ユダヤ人だから間違ったことをしない」と単純に言うつもりはありません。人間ですから、誰にでも善い面も間違いもあります。 それでも自分は、サム・アルトマンがAIを何のためにつくろうとしているのか、その思想には興味があります。 AIは、本当に世界を滅ぼすのでしょうか。 それとも、人間が正しく使うことができれば、これまで一部の人しか持てなかった知識や能力を、普通の人にも与えてくれる道具になるのでしょうか。 今回は、ユダヤ人サム・アルトマンという人物から、AIについて少し考えてみたいと思います。 サム・アルトマン(Sam Altman)は、1985年アメリカ生まれの起業家で、OpenAIの共同創設者・CEOです。 ユダヤ系の家庭に育ち、本人も「私はユダヤ人です」と明確に語っています。 若くして起業し、その後、世界的な起業...

自由人として生きる❤断る自由、選ぶ自由

迷惑口コミについて、 あらためて冷静に振り返ると それぞれの家には家相があり、人には人相があるように、人それぞれに考え方や仕事の進め方があります。 京都には「一見さんお断り」という文化があります。もちろん自分の仕事とは違いますが、そこには、長い付き合いの中で信頼関係を築いていくという考え方もあるのでしょう。 自分の水道の仕事も、一度工事をすれば終わりとは限りません。 5年後、10年後にまた声をかけていただくことがあります。親から子へお付き合いが続くことだってあります。 だから自分にとって仕事とは、単に「依頼されたから受ける」というものではありません。 お客様には、見積もりを見て断る自由があります。 同じように職人にも、現場を見て、自分には合わない、十分な仕事ができないと思えば、仕事を引き受けない自由がある。 今回、最初から自分が感じていた違和感は、そこだったのかもしれません。 電話ではとても丁寧で謙虚に話をされるので、自分も話を聞き続けました。しかし、こちらが三度以上、他の業者さんを勧めても相談は続きました。 そして現場まで見た結果、最終的に仕事を辞退しました。 その後、Googleの口コミに、自分の経営事情や身体についてまで憶測を書かれました。自分としては、店の信用や営業に影響しかねない内容だと感じています。 あらためて考えると、自分がここまで腹を立てたのは、悪い口コミを書かれたからだけではなかったのでしょう。 相手の意思を尊重すること。 相手にも「断る自由」があると考えること。 そして、自分の言葉が相手の生活や商売にどんな影響を与えるのか、少し想像すること。 自分が今回のやり取りの中で感じられなかったのは、そういう「人への思いやり」だったのだと思います。 自由とは、何でも自分の思い通りにすることではない。 自分に自由があるのと同じように、相手にも自由がある。 相手の自由を認めて初めて、自分も自由人になれる。 今回の出来事を冷静に振り返って、今はそんなことを考えています。🙏 自由とは、好き勝手にすることではない。 自分の感情の奴隷にならず、自分で自分の行動を選べること。 だから自由人には戒律が必要なのだ。

侘び茶の歌

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今日は茶の湯です。 茶道?を一昨年の1月から習い始め、今年からは自分なりの侘び茶を考えながら、**「且坐喫茶(しゃざきっさ)」――まあ座って、お茶でも一服どうぞ。**そんな気持ちでお茶を楽しんでいます。 以前、茶道の先生から「本格的な茶室を造れば、2〜3億円くらいかかることもある」と聞きました。 正直、3億円あったら自分はヨットに乗ると思います(笑)。 まあ、どうでもいい話ですが。 そこから「では、自分にとっての茶の湯とは何だろう?」と自問するようになりました。 今の自分の暮らしと照らし合わせて考えているうちに、**貧乏、乏しい、侘びしい――だったら、自分は侘び茶を目指せばいい。**そう思うようになりました。 何かを足して立派にするのではなく、余計なものを一つずつ引いていく。 引き算の美。 シンプル・イズ・ベスト。 これなら自分にもできそうです。 皮肉なことに、侘び茶を築いていった村田珠光、武野紹鴎、千利休は、決して貧しい人たちではありません。特に紹鴎や利休は当時の有力な商人でした。 しかし、お金があるかないかと「侘びを求める心」は、別の話なのかもしれません。 良いものを知り、華やかな世界を知ったうえで、そこから余計なものを削っていく。 そう考えると、昔の茶人たちと自分では立場はまったく違っても、侘びを求める心には、どこか同じものがあるのではないかと思います。 では、そもそも「侘び」とは何なのか。 調べていくと、珠光、紹鴎、利休には、それぞれの侘びの心をよく表している言葉や歌がありました。 今日は、この三人の「侘び」を、三つの言葉から考えてみます。 侘び茶の歌 茶の湯を学んでいると、「侘び」とは何だろうと考えることがあります。 粗末な茶碗を使えば侘びなのか。小さな草庵でお茶を点てれば侘びなのか。 調べていくと、侘び茶を築いていった村田珠光、武野紹鴎、千利休には、それぞれの心を表す言葉や歌があります。 まず、侘び茶の祖といわれる村田珠光。 珠光には、紹鴎や利休のように「侘び茶を表す一首」として有名な歌があるわけではありません。その代わり、こんな言葉が伝わっています。 「月も雲間のなきは嫌にて候」 雲ひとつない夜空に、満月がすべての姿を見せている。それよりも、雲の間から見え隠れする月のほうがよい。 すべてを見せない。 完全なものより、どこか欠けた...