茶の湯を習って、少し京都が見えてきた
茶の湯を習って、少し京都が見えてきた 昨日は茶会でした。楽しいひとときでし た。 その中で、京都の「表と裏」のような話になりました。 よく聞く話ですが、京都の人から、 「いつでも家に遊びに来てください」 と言われて、本当に訪ねていったら困った顔をされた――。 本当かどうかは別として(笑)、京都には昔から、何でもはっきり言葉にするのではなく、相手に察してもらう「婉曲(えんきょく)」の文化があると言われます。 昨日、この話と茶の湯の話が自分の中では何となくつながっていたのですが、うまく説明できませんでした。 そこで、AI先生に助けてもらいました。 考えてみると、これは単純な「裏表」とは少し違うようです。 言わないけれど、伝える。 見せないけれど、感じさせる。 すべてを説明せず、相手が感じ取る余白を残す。 これは茶の湯にもありますね。 茶室に入れば、亭主が何から何まで説明するわけではありません。 花、掛物、茶碗、菓子、そして一服のお茶。 客はそこから亭主の心を感じ取り、亭主もまた客の様子を見ながら心を配る。 言葉にならないところにも、やり取りがあります。 そう考えると、京都の婉曲文化も、単に「本音を隠している」と考えるだけでは面白くありません。 そこには少しエスプリ――機知や洒落、含みがあるのかもしれません。 そして昨日考えていたのが「光と陰」です。 光だけでは、景色は平面的になってしまいます。 陰があるから奥行きが生まれ、光も美しく見える。 茶室も、何もかも明るく照らし出す世界ではありません。 薄暗さがあり、見えすぎないところがあり、その中に茶碗や花が浮かび上がる。 人の言葉も同じなのかもしれません。 何でも言葉にしてしまうのではなく、少し陰を残す。 その陰を相手が感じ取る。 茶道を習っているうちに、今までよく分からなかった京都という土地の文化が、ほんの少し見えてきたような気がします。 ちなみに「表千家」と「裏千家」の表と裏は、人間の表裏という意味ではなく、もともとは屋敷の位置関係から付いた呼び名だそうです。 それでも「表」と「裏」という言葉から、こんなことを考えてしまうのも茶の湯の面白さでしょうか。 表と裏ではなく、光と陰。 陰は悪いものではなく、光に奥行きを与えるもの。 そして、その間にある「言わずに伝える」という婉曲。 京都には、なかなかエスプリが利いていますね。...