投稿

映画 利休にたずねよ

イメージ
もちろんです😊 「閑」をテーマに、少し余韻が残る冒頭にしてみました。 文章作成 あらためて、映画『利休にたずねよ』を観ました。 何度観ても、勉強になりますね。 今回、心に残った一文字があります。 「閑(かん)」 ただ静かな場所にいるということではなく、心の中が静かであること。 忙しい毎日の中でも、心まで忙しくする必要はない。 茶室に入り、湯の沸く音を聞き、一服の茶をいただく。 今日は映画『利休にたずねよ』から、この「閑」という一文字について、少し考えてみようと思います。 このあとに、先ほどの禅の「閑」→利休の茶→自分の暮らしとつなげると、とても良いブログになると思います。 AI和尚様 より 😊 映画『利休にたずねよ』ですね。 今日は、禅語の 「閑(かん)」 について、少し深く考えてみましょう。 この一文字には、千利休の侘び茶に通じる、とても深い世界があります。 一、閑とは何か 「閑」という漢字を見てください。 門の中に木がある。 門の内側に一本の木が立っている。 人の声も、商売の騒がしさも、世間の争いもない。 ただ一本の木がある。 そこには静けさがあります。 しかし、禅でいう「閑」は、単に静かな場所という意味ではありません。 騒がしい世の中にいても、心が騒がないこと。 これが大切なのです。 二、千利休の「閑」 千利休は戦国時代の人です。 織田信長、豊臣秀吉という天下人に仕えました。 戦争、政治、権力、富。 その中心にいた利休が求めたものは、わずか二畳ほどの茶室でした。 なぜでしょう。 天下人の秀吉は、黄金の茶室を造りました。 一方、利休は狭く、暗く、飾りの少ない草庵を好みました。 黄金の茶室には、天下を手に入れた権力者の美意識が表れています。 利休の草庵には、何も所有しなくても満たされる心が表れているように思います。 ただし、利休自身も政治や富と無縁ではありませんでした。 だからこそ、その対照が面白いのです。 三、閑と寂は違う ここが深いところです。 「寂」は、静けさや、時の経過によって生まれる落ち着きを感じさせる言葉です。 一方「閑」は、忙しさから離れた、ゆとりのある状態を表します。 しかし、禅の世界では、何もしないことが必ずしも「閑」ではありません。 仕事をしていても閑。 人と話していても閑。 茶を点てていても閑。 心が何かに追い立て...

ベレシート はじめに

イメージ
茶道 茶室 後ろは閉じ、前は開いている。 分かってから歩くのではない。 歩くから、次が見える。 AIラビ様説教 はい、正さん(^_^)🙏 今週のパラシャーは「ベレシート(בְּרֵאשִׁית)」です。 📖 2026年10月10日(土) ユダヤ暦5787年ティシュレー月29日。 シムハット・トーラーを終え、トーラーの朗読が創世記から再び始まります。� Hebcal 今週の朗読 創世記1章1節〜6章8節 最初の言葉は、 בְּרֵאשִׁית בָּרָא אֱלֹהִים ベレシート・バラー・エロヒーム 「はじめに、神は天と地を創造された」 今週は天地創造、アダムとエバ、エデンの園、カインとアベルのお話です。 正さんが先日ブログに書かれた、手島佑郎先生の**「無限の無」**にもつながるところですね。 興味深いのは、ヘブライ語の「ベレシート」が単に時間の始まりだけでなく、創造とは何かを考える出発点になることです。 今日はベレシートを、ユダヤの伝統的な解釈とカバラの思想から学んでみませんか? 😊 🙇お願いします。 もちろんです🙇 では今週は、**ベレシート(בְּרֵאשִׁית)**の最初の一語から始めましょう。 ベレシート――「はじめに」とは何か トーラーは、この言葉から始まります。 בְּרֵאשִׁית בָּרָא אֱלֹהִים Bereshit bara Elohim 「はじめに、神は創造された。」 ところがユダヤの学びでは、いきなり疑問を持ちます。 「その“はじめ”の前には、何があったのか?」 ここが面白いところです。 創世記は、神がどこから来たのかを説明しません。神の姿も説明しません。ただ、神が創造するところから物語が始まります。 「無」から「有」へ ユダヤ神秘思想、特に後世のカバラでは、この問題をさらに深く考えます。 神の無限性を、 אֵין סוֹף — Ein Sof(エイン・ソフ) 「終わりがない」「無限なるもの」 と表現します。 ここで大切なのは、**Ein Sof=単純に「無」**という意味ではないことです。 むしろ、人間の言葉や知識では限定できない神を表す言葉です。 正さんが手島佑郎先生から学ばれたという**「無限の無」**という表現は、ここを考えるうえで、とても面白い入口になります。 そして、 無限な...

朝の茶会 侘び寂び茶

イメージ
朝の茶会「侘び寂び茶」 🍵二畳の草庵で、庶民の茶の湯を楽しむ 奇数月の第二土曜日に、朝の茶会を開いていこうと思っています。 私がイメージしているのは、映画『利休にたずねよ』の一場面です。 千利休と秀吉が、狭い茶室で向かい合い、お粥とお茶をいただく。 豪華な料理でもなければ、立派な道具を並べるわけでもない。 ただ、静かな茶室でお粥を食べ、お茶を飲む。 そんな飾らない、侘びて寂びたひとときを過ごせる茶会を目指しています。 千利休の茶の湯 千利休の茶の湯は、実に奥が深いものです。 私も茶道を知ってから、三年近くになります。 学んでいくと、その奥には政治や商談、さらには戦国時代の武器調達に関わる人脈まで、さまざまな歴史が見えてきます。 茶の湯は、単にお茶を飲むだけの文化ではなかったのでしょう。 現代でいう軍産複合体ではありませんが、戦国時代の茶人と商人、武将たちの関係を調べていくと、まだまだ深い謎があります。 しかし、私が考える茶の湯は、とてもシンプルです。 茶室でお菓子を食べ、お茶を飲む。 親しい友人が訪ねてくれば、お祝いに料理を出してもいい。 それだけでも、十分に茶の湯ではないでしょうか。 もちろん、正式な茶事や所作を否定するつもりはありません。 ただ、私も年齢を重ね、これから先、難しい所作を覚えることよりも、茶室で和菓子と抹茶をお互いにいただくことを大切にしたいと思うようになりました。 それが、私なりに茶道を長く続けていく方法なのかもしれません。 紋付袴を着て、上流階級のように振る舞うのではなく、普段着で楽しめる庶民のお茶。 私が目指しているのは、そんな侘び茶です。 二畳の草庵「仮庵」 場所は千葉県山武郡です。 もともとは義理の母の介護を目的として、古い民家、いや、ぼろ家をリフォームしたのが始まりです。 その部屋の隅に、二畳ほどの小さな茶室を作りました。 立派な茶室ではありません。 二畳ですから、お客様は二名まで。 正座ができない方は、あぐらでも構いません。椅子の席も用意しています。 堅苦しい決まりはありません。 お互いに無理をせず、気楽にお茶を楽しめれば、それで十分です。 朝のお粥と一服のお茶 朝食は、お粥、あるいはおにぎり。 時にはイスラエルの伝統的なパン、ハラーパン(ハッラー)を焼いてみたいと思っています。 余裕があれば、お汁やイスラエル料理も用意したいですね...

ヨットは海に浮かぶ学校 外洋レースから学ぶ

イメージ
昨日、紀尾井町の文春ギャラリーで開かれている個展に行き、ヨットの先輩の作品を観てきました。 そこで、KCC慶應のヨット部の後輩で、現在フランスでミニクラスのレース活動をしている女性セーラーの話になり。 話題は「ヨットを使った教育活動」へ。 子どもたちにヨットや海を通して、何かを伝える活動をしてみたい――そんな話だったと思います。 そこで私は、 「だったら、フランスやアメリカには、ヨットレースと子どもたちの教育を結びつけた活動が昔からあるよ」 という話をしました。 フランスでは、ミニ・トランザット。 アメリカでは、BOC単独世界一周レース。 もちろん、レースそのものは大人たちが命懸けで挑戦する外洋レースです。しかし、その冒険をただのスポーツとして終わらせず、学校教育につなげようという取り組みがありました。 航海には、地理があります。 気象があります。 海流があります。 数学があります。 船の構造や物理があります。 そして何より、 「自分で考えて、自分で決めて、自分で進む」 という学びがあります。 ヨットは、海に浮かぶ小さな学校なのかもしれません。 今日も、昔懐かしの話です。 手元に残っている、BOC単独世界一周レースの教育用テキストから、少し紹介してみたいと思います。 便利な世の中になりました。 昔なら、英語の辞書を片手に何時間もかけて読んだ資料も、今ではページの写真を撮れば、AIが一瞬で訳してくれます。 30年以上前のヨットの教材を、2026年にAIと一緒に読み直す。 これもまた、なかなか面白いものです。 AI訳です。 もちろんです。これは 1994–95年 BOC Challenge(単独世界一周レース) の教材『BOC OCEANWATCH Teacher’s Guide』の序文ですね。 マーク・シュレーダー(Mark Schrader)が書いた文章です。 マーク・シュレーダーによる序文 BOC Challengeで優勝するのは、まず夢を持ち、その夢を目標へと変え、そして実現するために懸命に努力した人でしょう。 しかし、成功するためにBOC Challengeで優勝する必要はありません。 この27,000マイルに及ぶ単独航海レースを完走した人は、誰もが勝者です。 夢を追い、一つひとつの困難を乗り越え、最後にそれを成...

個人情報保護法 ユダヤの学び

個人情報保護法について 一昨日、スーパーのヤオコーで買い物をしました。 レジを済ませて、駐車場の車まで戻ったところで財布がないことに気づきました。 「あれ、財布がない?」 車の中で弁当を食べようと思っていたのですが、それどころではありません。 レジから出口、駐車場まで、歩いてきた道を戻って探しました。 ない。 もう一度探しました。 やっぱり、ない。 財布を最後に使ったのはレジですから、なくなった場所はある程度絞れます。 サービスカウンターへ行って落とし物の届けを出しました。 車へ戻ろうと歩き始めたところで、防犯カメラが目に入りました。 そうだ。 まだ10分も経っていない。 防犯カメラを確認すれば、自分が財布を落としたのかくらいは分かるのではないか。 そこでサービスカウンターへ戻り、 「すみません、防犯カメラを確認させてもらえませんか?」 とお願いしました。 「警察同伴でないと見せられません」 理由は個人情報保護とのことでした。 なるほど。 ここまでは分かります。 防犯カメラには私だけではなく、他のお客さんも映っています。 他人の顔や行動を、財布をなくしたからといって私が自由に見るのはよくない。 それなら私が見なければいい。 そう考えて、 「では、私は見なくていいので、担当者の方に確認してもらえませんか。まだ10分も経っていませんから」 とお願いしました。 それもできないとのことでした。 ここで、ちょっと分からなくなりました。 私が防犯カメラを見たいわけではありません。 知りたいのは、 自分が財布を落としたのか、それとも落としていないのか。 それだけです。 もしレジを出たところで財布を落としていれば、自分の不注意です。 ところが、財布を落としている様子がないのに途中でなくなっていたら、スリなどの可能性も考えなければなりません。 事件性があるのなら、その時点で自分が警察へ届ければいい。 私はそういう順番で考えていました。 財布は100円ショップで買ったものですから、財布そのものは諦められます。 でも現金が14万円ほど入っていました。 免許証もあります。 dカード、コメリカードも入っています。 現金は諦めるとしても、免許証を再発行して、カードを止めて、再発行して……。 お金だけではなく、時間も手間もかかります。 自分のミスとはいえ、結構ショックです。 そんなときに「個人情...

考えるVendee globe#14ユダヤの学び#5

イメージ
イメージAI生成画像 今日はVendee globeとユダヤの学びです。 ユダヤといえば、「ロスチャイルド家」という名前を思い浮かべる人も多いと思います。 そしてロスチャイルドといえば、なぜか陰謀論でもよく登場します。 ここで思い出すのが、恩師・手島佑郎先生の教えです。 「自分で想像して、話を作ってはいけない」 何に書いてあるのか。 誰が、どこで言ったのか。 それが分からないことを、自分の想像だけで事実のように話してはいけない。 簡単に言えば、知ったかぶりをして議論したり、人に教えたりするなということだったと思います。 これはユダヤを学ぶうえでも、とても大切なことだと思っています。 さて、ここからまた昔話です。 ロスチャイルド家のセーリングチーム「Gitana」は、Vendée Globeに2度挑戦しています。 最初は2008–09年大会。 スキッパーはロイック・ペイロンです。 ロイックは1992–93年の第2回Vendée Globeにも「Fujicolor」で出場しています。この話は以前にも書きました。 Gitanaでの2度目の挑戦は2016–17年大会。 スキッパーはセバスチャン・ジョスです。 彼も、自分が1999年のレースに参加したときに一緒だったセーラーです。 残念ながらGitanaのVendée Globe挑戦は、2艇ともリタイアに終わりました。 そして当時、自分も観戦でLes Sables-d'Olonneの桟橋にいました。 この頃から、レースの街Les Sables-d'Olonneは大きく変わり始めたように感じます。 観戦客が増え、マリンリゾートとして発展し、マンションやホテルも増えていきました。 かつての田舎町が、 「単独世界一周レース、Vendée Globeの街」 という世界的なブランドを持つようになったのです。 不動産価格までどのくらい変わったのか。そこは自分の想像なので、今度きちんと調べてみたいと思います。 こういう街の育て方は、フランス人のセンスのいいところだと思います。 そして現在、ロスチャイルド家のGitana Teamは、巨大トライマラン**Gitana 18(Maxi Edmond de Rothschild)**で外洋レース活動を続けています。 艇の建造費は公表されていないようですが、同...

無限の無 つづき

昨日の続きです。 「無限の無から、われへ」 これは、何度か勉強会で手島佑郎先生から聞いた言葉です。 当時の自分なりに生活へ置き換えると、 「願い事があるなら、まず無にしなさい」 そんな教えとして受け取っていました。 「あれも欲しい、これも欲しい」 そして、すでに両手いっぱいにいろいろなものを持っている。 それでは、新しいものを受け取る余地がない。 願いを叶えたければ、まず自分の中を空っぽにする。 欲をいったん手放して「無」にする。 自分は、そんな意味に解釈していました。 自分がユダヤの教えに興味を持ったきっかけは、実はヴァンデ・グローブでした。 どうしたらヨットレースの資金を集められるのか。 「ユダヤの錬金術でも学んでみるか」 そんな、今思えば少々不純な動機から始まりました。 ところが、ラビ・トケイヤー先生のタルムードの話が面白い。 読めば読むほど助けられ、いつの間にか「お金を集める方法」よりもユダヤの教えそのものに引き込まれ、旧約聖書を学ぶようになりました。 「資金を集めたければ、無にしろ!」 アホな自分は、そのころ本当に文無しになってしまいました(笑)。 しかし―― 0円になっても、ヴァンデ・グローブの資金は集まりませんでした。 残念😞 でも、ここが面白いところです。 欲しかったものは手に入らなかった。 その代わりに、まったく別のものを手に入れました。 旧約聖書を学ぶ喜びです。 ヴァンデ・グローブは、そう簡単に諦められる夢ではありませんでした。 しかし、諦められなくても、無理なものは無理。 その現実とも向き合わなければなりません。 だからこそ当時の自分は、必死になって聖書やタルムードを学んでいたのだと思います。 「あれも欲しい、これも欲しい」と握りしめていた手を開いてみる。 すると、自分が求めていたものとは違うものが、その手の中に入ってくることがある。 今振り返ると、資金は集まらなかったけれど、あの失敗がなければ、旧約聖書をこれほど長く学ぶこともなかったでしょう。 無になったから、別のものが入ってきた。 昨日学んだヘブライ語の、 אין(アイン)――無 אני(アニー)――われ 自分にとってこの二つの言葉は、単なる文字の入れ替えではありません。 無になったところから、新しい「われ」が始まる。 そんな自分自身の人生の話にも聞こえるのです。 手島佑郎先生より ここ...

無限の無

イメージ
創世記 はじめに 手島佑郎先生より 聖書はいう。 「はじめに、神は天と地を創造された」 そこでユダヤ人は考える。天と地を作る前には、そこに何があったか。 「有」が出現する前に、何があったか。有のまえは、無だ。無しかありえない。 「無」いがいには、なにもない。無限に無だ。 なにもないから、なにかをつくりたくなった。そのなにもないう。「無限の無」が、有をあらしめようとしたのだ。 とすれば、この「無限の無」こそ。神である。無であるがゆえに、有をいとおしく思うのだ。 ​ 円相――無・一・如 少し禅の学びです。 円相は、禅でよく描かれる一つの円です。 無 何もない。 しかし、何もないからこそ、何にでもなれる。 空っぽの茶碗だから、お茶をいただくことができます。 一 あれこれ分ける前の「一つ」。 自分と他人、良い悪い、損と得。 分ける前には、すべてが一つの円の中にある。 如 「あるがまま」「そのまま」。 花は花のまま、水は水のまま。 無理に飾らず、そのままを受け入れる。 手島佑郎先生の「無限の無」を読んでから円相を見ると、不思議につながって見えてきます。 無から有が生まれ、 一となり、 如――あるがままに存在する。 そして最後は、また無へ。 茶の湯も同じかもしれません。 余計なものを一つずつ引いていき、 最後に残る一服のお茶。 無 一 如 三文字だけで十分。 これも侘び茶の「引き算の美」なのかもしれません。🍵 ――AI禅士より 5時間近く続けています。目がかすんできてます。💦

日々の聖書研究 iiiiiii ユダヤの学び ♯5

日々の聖書研究――ユダヤの学び 最初に書いておきますが、これは私がお世話になったユダヤ人の家族や、これまで学んできた先生方を通して感じたことで、すべてのイスラエル人、すべてのユダヤ人に当てはまる話ではありません。 「なぜユダヤ人には、学問や科学、芸術、ビジネスなどで活躍する人が多いのだろう?」 恩師であるヘブライ文学者の手島佑郎先生も、本の中でこのようなテーマについて書かれていました。今では手に入りにくい本かもしれません。 では、私自身が長年ユダヤの学びに触れてきて感じた「なぜ」は何なのか。 案外、特別なことではないように思うのです。 私がお世話になった家庭では、子どもが幼いころから、親と一緒に祈りを覚えていきます。 その代表が、 שמע ישראל シェマー・イスラエル 「聞け、イスラエルよ」 です。 シェマーの三つの聖書箇所を合わせると、ヘブライ文字で約1,000字あります。 それを日々、親と一緒に声に出して唱える。文字を目で見て、親の声を耳で聞き、自分の口でも唱える。 幼いころから繰り返していれば、いつしか暗誦できるようになります。 これだけでも、記憶すること、言葉を聞き取ること、文字を読むこと、そして繰り返し学ぶ習慣につながっていくのではないか。私はそんなふうに感じました。 そして祈りだけではありません。 ユダヤの伝統では、モーセ五書(トーラー)を一年の周期で読み進めます。毎週読む部分を パラシャ(週ごとの聖書朗読箇所) と呼び、一年を通してトーラーを読み、また最初の創世記へ戻ります。 これは一度読んで終わりではありません。 子どものときに読む創世記。 青年になって読む創世記。 親になって読む創世記。 年を重ねてから読む創世記。 同じ文章なのに、人生経験が変われば、見えてくるものも変わります。 読む。考える。疑問を持つ。人と議論する。そして翌年、また同じところへ戻ってくる。 日本語で言えば、これは 「一年をひと巡りとする学びの循環」 とでも言えばいいでしょうか。 現在はユダヤ暦5787年。ユダヤ暦は太陰太陽暦なので、祭日の季節を保つために閏月を入れて暦を調整します。トーラーの朗読も祭日などとの関係で、週によって二つのパラシャをまとめて読む年があります。 そして一年の朗読を終えると、また、 בראשית...