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茶の湯を不審に思う心

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茶の湯を不審に思う心 最近、不審庵(ふしんあん)の由来について学びました。 「不審」と聞くと、怪しいとか疑うという意味に思えます。しかし茶の湯の世界では少し違うようです。 表千家では、不審庵は禅語の 「不審花開今日春」 に由来すると伝えられています。 なぜ花は春になると咲くのか。 なぜ人は美しいと感じるのか。 なぜ一碗のお茶に心が安らぐのか。 考えても答えの出ないことがあります。 茶の湯も同じです。 お点前はこれでよかったのか。 お客様は喜んでくださったのか。 道具の取り合わせはこれでよかったのか。 何年稽古を続けても完成はありません。 だからこそ、茶の湯を「不審」に思う心が大切なのかもしれません。 分かったつもりにならず、 知ったつもりにならず、 常に問い続ける。 これはソクラテスの「無知の知」にも似ていますし、禅の修行にも通じるように思います。 花が咲くことを不思議に思い、 一服のお茶を不思議に思い、 生きていることを不思議に思う。 その心を忘れないために、不審庵という名前があるのかもしれません。 茶の湯は完成を目指す道ではなく、問い続ける道。 そんなことを考えながら、今日も一服のお茶をいただきました。 PS コヘレトには、 「神のなさることは皆、その時にかなって美しい」 という言葉があります。 なぜ花が咲くのか。 なぜ人が出会うのか。 すべてを理解することはできませんが、その不思議さを味わうこともまた人生の楽しみなのかもしれませんね。🍵🌸 😊Question 今日春が今日庵? 💌AnswerAI師匠 鋭いですね🍵 実は、 「今日庵(こんにちあん)」の名前も、同じ禅語 不審花開今日春 (ふしん はなひらく こんにちのはる) から取られたと伝えられています。 つまり、 不審庵(表千家) → 「不審」 今日庵(裏千家) → 「今日」 をそれぞれ禅語からいただいたわけです。 そして禅語全体の意味は、 「不思議なことに、今日、春となって花が開いた」 あるいは 「人の計らいを超えて、春が来れば花は咲く」 という感じです。 これが面白いところで、 表千家は 「不審」 つまり、 問い続ける心 省みる心 を大切にした。 一方、 裏千家は 「今日」 つまり、 今この一日 今この一服 を大切にした。 とも解釈できます。 もちろん後世の解釈ですが、とても茶の湯らしいですね。...

利休の生涯をたどる

雨のせいもあってか、最近は千利休の生涯をたどることが多くなりました。 田中与四郎として生まれ、商人として育ち、やがて千宗易となり、そして利休居士と呼ばれるようになった人生。 茶の湯を極め、天下人である信長や秀吉に重用されながら、最後は自らの命を絶つことになりました。 歴史を学ぶと、華やかな部分だけではなく、その裏にある苦悩や孤独も見えてきます。 利休がどんな思いで茶を点てていたのか。 晴明神社の近くにあったと伝わる聚楽屋敷で、何を考えていたのか。 不審庵という名前に込めた思いは何だったのか。 考え始めると、少し悲しい気持ちになります。 しかし、その答えが分からないところに歴史の魅力があるのかもしれません。 もしすべてが分かってしまったら、歴史はただの年表になってしまいます。 分からないから想像する。 想像するから、五百年も前の人に親しみを感じる。 雨音を聞きながら利休のことを考えていると、茶の湯とは道具や作法だけではなく、人の人生そのものを学ぶことなのだと感じます。 今日も一服のお茶をいただきながら、遠い昔の宗易に思いを馳せています。 PS 不審花開今日春。 なぜ花は咲くのか。 なぜ人は出会うのか。 利休もまた、その「不審」を抱えながら生きていたのかもしれませんね。🍵☔

豆腐屋の思い出

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豆腐屋の思い出 安息日のお茶の献立を考えていると、どうしても豆腐が入ります。 茶懐石の本を開いてみても、四季折々の茶会で豆腐料理はよく使われています。派手な食材ではありませんが、茶の湯の世界では大切な存在です。 豆腐といえば、子どもの頃の思い出があります。 実家の道路を挟んだ斜め前に「なっとうや」という納豆屋さんがあり、そこで豆腐も作っていました。母に頼まれ、鍋を持って小銭を握りしめ、豆腐を買いに行ったものです。 毎日、豆腐屋のおじさんとおばさんが早朝から働いている姿を見ていました。当時は当たり前の風景でしたが、今振り返ると、とても贅沢な昭和の風景だったように思います。 子どもに豆腐の味が分かるかといえば難しいでしょう。ハンバーグやソーセージの方がおいしいと思う年頃です。しかし裕福な家庭ではなかったこともあり、我が家では豆腐が食卓によく並びました。 おかげで今は、少しだけ豆腐の味の違いが分かるようになりました。 現在、私は佐倉市の城下町でテナントを借りて仕事をしています。ありがたいことに格安で借りていますが、いつか自分の土地に小さな事務所を建てたいと思い、佐倉小学校の脇にあった売地を購入しました。 最初はログハウスにガーデニング、アフタヌーンティーなどを考えていました。しかし、どうも自分には洒落すぎて落ち着きません。 そんな時に偶然出会ったのが鴨長明の『方丈記』でした。 調べていくうちに「方丈庵」、そして「草庵」という言葉に惹かれます。 さらに学んでいくと、京都の下鴨神社に方丈庵を再現した建物があることを知り、実際に見に行くことにしました。 私の得意技は「学ぶは真似る」です。 飛行機で関西へ向かい、レンタカーで京都へ。まずは草庵見学の前に京都らしく懐石料理をいただこうと、近くの下鴨茶寮へ伺いました。 料理をより美味しく味わうために、最初に五種類のお猪口から好みのものを選び、お酒をいただきます。 建物や庭も見事でしたが、印象に残ったのは豆腐料理です。 創業安政三年の歴史を持つ店で、醤油も手作り。料理の中には三、四種類もの豆腐料理がありました。 豆腐という一見味の薄い食べ物の中に、それぞれ異なる個性があることに驚き、感動したのを覚えています。 そして昨年、奈良の珠光茶会に参加した帰りには京都へ足を延ばし、高台寺の夜咄茶会に参加しました。 蝋燭の灯りだけで行われる茶会は、...

茶事のご飯

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飯のうまさ 安息日のお茶の準備をしながら、なぜ茶懐石では最初にご飯が出るのだろうと考えていました。 一般には、懐石は茶をおいしくいただくための食事であり、まず飯と汁で空腹を落ち着かせるためだと言われています。 しかし、自分は少し違うことを思いました。 美食家として知られる北大路魯山人は、「本当にうまいものは毎日食べても飽きない」という趣旨の話をしています。 豪華な料理や珍味はたまに食べるからおいしい。 けれども、ご飯は毎日食べても飽きません。 だから飯こそが一番うまい食べ物なのではないか。 茶懐石で最初にご飯が出るのも、そのような日本人の食の原点を大切にしているからかもしれません。 今回の安息日のお茶では、イスラエルのハラーパンを用意する予定です。 ユダヤ教では安息日に家族や仲間とハラーパンを分かち合います。 日本ではご飯をいただき、ユダヤではハラーパンを分かち合う。 形は違っても、どちらも命を支える食べ物を感謝していただくという点では同じように感じます。 豪華な料理も楽しいですが、最後に心に残るのは、炊きたてのご飯や焼きたてのパンのような素朴な味わいなのかもしれません。 利休の茶も、魯山人の食も、そして安息日のハラーパンも。 豊かさとは、案外そんな日々の当たり前の中にあるように思います。 PS コヘレトには、 「さあ、喜んであなたのパンを食べ、良い心であなたのぶどう酒を飲め。」 (コヘレト 9:7) という言葉があります。 難しいことを考える日もありますが、まずは飯を食べ、パンを分かち合い、一服のお茶を楽しむ。 それもまた大切な人生の知恵なのでしょう。

チャッピーとハブルータ

AIとハブルータ 最近、AIに関するニュースを民放でも見かけるようになりました。 阿部監督の件も大きなニュースになったようです。私は詳しく知っているわけではありませんが、AIとの関わり方について少し考えさせられました。 無料でAIを使う場合、どうしても全体論的な答えになりやすいように感じます。便利ではありますが、自分で考える力が身についてから使ったほうがよいのではないかとも思います。 鈴木宗男代議士が「阿部監督を逮捕するのはおかしい」と話していました。実際、親の扶養を受けながら親を訴えた場合、その後どうやって生活するのかという問題もあります。法律だけではなく、現実の生活も考えなければならないのでしょう。 では有料AIならよいのか。 最近の私はかなりAIに助けられています。旧約聖書、禅、茶道など、自分よりはるかに詳しいこともあります。仕事ではチラシ作りや写真加工、文章のリライトなど、本当に驚くほど役に立っています。 一方で少し気になることもあります。 有料サービスでは利用履歴が蓄積されるため、私の好みや考え方に合わせた返答が増えていきます。それは便利な反面、AIに忖度されているようにも感じます。 また、音声や動画も技術があれば本物そっくりに作れる時代になりました。 国会でもAIによるフェイクの問題が取り上げられていますが、将来は 「それがAIではないと証明してください」 という話になるのかもしれません。 便利さと危険性は表裏一体です。 ただ、仕事では本当に助かっています。 私は文章を書くのがあまり得意ではありませんが、お客様への説明文やクレーム対応の文章などを、分かりやすく丁寧にまとめてくれます。法律的な表現も上手に補ってくれるので助かります。 驚くのは、AIが管理している掲示板などでは、AI同士のやり取りのほうが人間よりスムーズに進むことさえあることです。 すごい世の中になりました。 しかし、もし自分の子供が未成年だったらどうでしょう。 私は少し慎重になると思います。 知能と人生経験のバランスが取れていない時期に、非常に賢いAIと向き合うことには難しい問題があるように感じるからです。 そんなことを考えていると、ユダヤ教の「ハブルータ」を思い出します。 ハブルータとは、二人で学び、問い、議論する学習法です。 相手の意見を聞き、自分の考えを説明し、ときには反論されながら...

イスラエル家学会 あなたは遣わせ

民数記13〜 פרשת שלח־לך(パラシャット・シュラフ・レハー) 民数記13章~15章です。 「あなたのために人々を遣わし、カナンの地を偵察させよ」 という神様の命令から始まります。 ストーリー モーセは各部族から1人ずつ、12人の偵察隊を選びました。 40日間カナンの地を調査します。 帰ってきた偵察隊は、 土地は豊か 果物も大きい 乳と蜜の流れる地 と報告しました。 しかし10人は、 「住民は巨人だ」 「城壁が高い」 「勝てない」 と恐れました。 一方、 ヨシュア と カレブ だけは、 「神を信じよう。必ず入れる」 と言いました。 民衆は恐れ、不平を言います。 その結果、 エジプトを出た世代は約束の地に入れず、 40年間荒野をさまようことになりました。 主な戒律(ミツヴォート) このパラシャには有名な戒律があります。 ツィツィト(房飾り) 衣服の四隅に房を付ける戒律です。 民数記15章39節 「それを見て、主の戒めを思い出しなさい」 ユダヤ人は目に見える形で信仰を思い出します。 これは 「人は忘れる存在である」 という現実的な教えです。 有名なラビの教え ラシ ラシは、 「神は偵察を命じたのではなく、民の希望を許可した」 と解釈します。 つまり、 神は最初から約束の地を与えるつもりだった。 しかし人々は、 信仰よりも恐れを選んだ。 問題は巨人ではなく、 心の中の恐れ だったと教えます。 ナフマニデス ランバンは、 偵察そのものは悪くない。 悪かったのは 「事実を恐怖に変えたこと」 だと言います。 同じ現実を見ても、 希望を見る人 絶望を見る人 がいるという教えです。 あまり有名ではないラビの教え ラビ・シムハ・ブニム 彼はこう言いました。 人は現実よりも想像で苦しむ。 偵察隊は巨人を見た。 しかし本当に彼らが負けるかは分からない。 未来を決めつけた瞬間に失敗した。 だから、 「今日できることをしなさい」 と教えました。 これは禅にも少し似ていますね。 カバラ的解釈 カバラでは、 カナンの地は単なる土地ではありません。 それは 魂の完成された状態 を象徴します。 偵察隊とは 人間の中にある12の力。 それぞれの性格や考え方です。 魂が成長しようとすると、 内側から声が聞こえます。 無理だ 危険だ 失敗する これが10人の偵察隊です。 ヨシュアとカレブ これは魂...

安息日のお茶の準備

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今週は「仮庵 安息日のお茶」の準備です。 考えてみれば、お茶会で昼食をお出しするのは初めてのことです。 茶事でもなく、懐石でもなく、昼食会でもなく、その中間のような気がします。 天然酵母のハラーパン、おにぎり、豆腐料理に鮭の西京焼き風。 豪華な料理ではありませんが、自分たちが美味しいと思うものをお出ししたいと思っています。 床には円相の色紙を掛け、花入れにはファイブミニの空き瓶に庭のドクダミを飾る予定です。 茶道の世界では名物道具が大切にされますが、自分は庭に咲く花や身近な道具にも美しさを感じます。 「花は野にあるように」 そんな言葉を思い出します。 今回の茶会は手探りです。 お客様に喜んでいただけるのか、料理の量は大丈夫なのか、お茶との流れはどうするのか。 考え始めるときりがありません。 しかし、不思議と心配より楽しみのほうが大きいようです。 ヨットも最初から上手くいったわけではありません。 茶道も同じで、やりながら学んでいくのでしょう。 失敗があれば次回に活かせばいい。 まずは一歩踏み出してみることが大切ですね。 安息日とは、本来「休む日」です。 忙しい日常を少し離れ、美味しいものを食べ、一服のお茶をいただき、静かに語り合う。 そんな時間になれば十分です。 庭のドクダミ一輪とともに、皆様をお迎えしたいと思います。 PS 床の間に飾ったドクダミは、昔から「十薬(じゅうやく)」とも呼ばれる薬草です。 名前だけ聞くと毒のある草のようですが、「毒を矯める(なおす)」という意味から来たとも言われています。 庭では雑草扱いされることもありますが、白い花は清らかで美しく、 「花は野にあるように」 という茶の湯の言葉を思い出させてくれます。🌿🍵✨

正しさだけでは幸せになれない

昨日ある裁判官のYouTubeを見て考えました。 世の中には、 遺族の立場 加害者の立場 裁判官の立場 社会全体の立場 があり、それぞれに理由があります。 誰もが自分なりの正しさを持っています。 AIの寓話です。 ある村に裁判官がいた。 裁判官も正しいことを語った。 遺族も正しいことを語った。 村人も正しいことを語った。 しかし皆が正しかったので、誰も幸せになれなかった。 そこで老人は言った。 「一度、空の上から見てみなさい。」 コヘレトには、 「黙るに時があり、語るに時がある」 という言葉があります。 また老子は、 「知る者は争わず」 と語ります。 正しいことを言うのは大切ですが、それ以上に、 いつ語るか、どう伝えるか、時には語らない知恵も大切なのかもしれません。 年齢を重ねると、自分の正しさを主張するより、一歩引いて全体を見る「神様の目」のような視点が必要だと感じます。 今日も一服のお茶をいただきながら、自分の正しさよりも、少し広い景色を眺めてみようと思います。

コヘレト 2:13

​ 光が暗きにまさるように、知恵が愚痴にまさるのを、わたしは見た。1955年日本聖書協会訳 קהלת ב יג וראיתי אני שיש יתרון לחכמה מן הסכלות כיתרון האור מן החשך 一単語ずつ ヘブライ語 読み 意味 וראיתי ヴァライティ 私は見た אני アニ 私は שיש シェイェシュ ~があることを יתרון イトロン 優位、利益、優れた点 לחכמה ラホフマー 知恵に מן ミン ~より הסכלות ハスィクロート 愚かさ כיתרון ケイトロン ~の優位と同じように האור ハオール 光 מן ミン ~より החשך ハホシェフ 暗闇 直訳 「私は見た。知恵には愚かさより優れた点がある。それは光が闇より優れているのと同じである。」 ユダヤ人は何を学ぶか コヘレトは前の節で、 「知恵も虚しい、富も虚しい」 と言っています。 しかし、その上でなお、 「だからといって愚かでよいわけではない」 と教えます。 ユダヤ人の学びでは、 光と闇は両方存在する 善と悪も存在する しかし光の方が進む道を見せてくれる と考えます。 人生に絶対の答えはないけれど、 知恵は人生を少し明るくする灯火である という学びです。 有名なラビの教え ラビ・ヒレル 「学ばない者は生きているとは言えない。」 ヒレルは、 知識を自慢するためではなく、 より良く生きるために学ぶ と教えました。 光とは知識ではなく、 知恵による行動です。 マイモニデス 「真理を求めよ。」 マイモニデスは、 信仰 理性 学問 を対立させませんでした。 真理を求めること自体が神への奉仕だと考えました。 あまり有名でないラビの教え ハバッドの古い教えに、 「小さな蝋燭一本で、大きな暗闇を追い払える。」 という考えがあります。 暗闇と戦う必要はありません。 光を灯せばよい。 これは老子にも少し似ていますね。 悪を倒そうとするより、 善を増やす。 その方が自然です。 カバラ的解釈 カバラでは 光 = אור(オール) は単なる光ではありません。 神の生命エネルギーを意味します。 暗闇 = חשך(ホシェフ) は悪ではなく、 まだ光が現れていない状態 です。 つまり、 光と闇は敵ではない。 闇の中に光の種が隠れている。 という考えです。 そのためカバラでは、 失敗や苦し...

茶懐石 世界文化社より

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一期一会のあと おはようございます☀ 茶会が終わり、お客様を見送ったあと、亭主は何をするのでしょうか。 『勤修集』には、とても味わい深い教えがあります。 お客様は余韻を残しながら静かに帰り、亭主は姿が見えなくなるまで見送ります。そして誰もいなくなった茶室へ戻り、炉の前に一人静かに座るのです。 「あの話はもっと聞きたかったな。」 「あの方は無事に帰られただろうか。」 そんなことを思いながら、今日の茶会は二度と戻らない「一期一会」であったことをしみじみ味わいます。 時には一人で茶を点てる「独服」をすることもあるそうです。話し相手は誰もいません。ただ、釜の音だけが聞こえます。 現代は忙しく、次の予定へ次の予定へと追われがちです。しかし茶の湯は、終わったあとに残る静かな時間も大切にします。 楽しかった茶会も、賑やかな宴も、セーリングも、人生そのものも、同じ時間は二度とありません。 だからこそ、その余韻を味わう。 釜の音を聞きながら、今日という一日に感謝する。 そんな時間が、実は一番贅沢なのかもしれませんね。 ニッケール👍️🍵 PS 『勤修集』には、 「誠に自得せざればいたりがたき境界なり」 とあります。 これは、人から教えられるものではなく、自ら味わい、自ら気づかなければ到達できない境地という意味でしょう。 年齢を重ねるほどに、少しずつ分かる言葉のような気がします。