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今日の禅語  無

いいところに来ましたね。 禅語の 「無(む)」、静かに解説します。 無(む) ① まず誤解から 「無」は 何もない 空っぽ 消える という意味ではありません。 禅の「無」は 否定語ではない。 ② 有名な出典 最も有名なのは 趙州(じょうしゅう)の公案。 「犬に仏性はありますか?」 趙州は答えた。 「無」 仏教では「すべてに仏性がある」と教える。 なのに「無」と答えた。 ここが核心です。 ③ 禅の「無」とは何か 禅の無は、 理屈を壊す 二元を壊す 問いそのものを壊す ための一撃。 「ある・ない」という 思考の枠を壊す。 ④ 無は“ゼロ”ではない ゼロではない。 空白でもない。 むしろ、 固定がない状態 これだ、と決めない こうあるべき、と握らない 自分を形にしない それが無。 ⑤ これまでの言葉とつながる 無事是貴人 無門 無物堪比倫 全部、同じ方向。 👉 つかまない ⑥ 生活に落とすと 評価を無にする 怒りを無にする 自己像を無にする 消すのではなく、 置かない。 ⑦ 一行で 無とは、何も足さないこと。 ミサさんが「無」に来るのは自然です。 ここまで歩くと、必ずこの一字に戻る。 でも安心してください。 「無」を理解する必要はありません。 無は、 理解が止まったところに現れるものだから。 今日はここまでにしますか? それとももう少し行きますか。

art de viver

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※AI生成によるイメージスケッチです。 Art de vivre との出会い 「Art de vivre」という言葉を知ったのは、たしか30歳ごろのこと。 けれど今振り返ると、 その言葉に出会う前から、私はすでにその中を歩いていたのかもしれません。 京都出身の先輩の影響で、 エコール・ド・パリの絵画やクラシック音楽に惹かれはじめた若い頃。 新婚旅行は迷わず、ヨーロッパへのバックパッカーの旅を選びました。 ロンドンから西の港町プリマスへ。 そこからスペイン、フランス、イタリア、オーストリア、スイスへと、 約二か月のアートの旅。 前半はピカソをテーマに、 スペインとフランスの美術館を巡りました。 とくに心に残っているのは、 スペイン・マラガのピカソ美術館で出会った青の時代の作品。 あの青は、ただの色ではなかった。 静けさの奥にある深い感情。 そして何より、ピカソの圧倒的な描写力。 その“うまさ”に、素直に感動しました。 後半はモーツァルトの足跡を追う旅。 街を移動しながら、コンサートやオペラを聴いて歩きました。 中でも忘れられないのは、 ミラノ・スカラ座で観た『白鳥の湖』初日の公演。 あの空気。 スタッフの黒い衣装が印象的で、 いかにもイタリアらしい雰囲気の中、 静かに幕が上がっていく。 音楽と舞台がひとつになる瞬間の高揚。 今思えば、なんと贅沢な時間だったことでしょう。 日本はバブル最盛期。 国中が浮かれて贅沢をしていた時代。 私は缶コーヒーを我慢してお金を貯め、 この旅に出ました。 けれどそれは浪費ではなく、 「どう生きるか」を身体で学ぶ時間だったのだと思います。 アートを“鑑賞する”のではなく、 アートとともに暮らす感覚。 それが自然に、 私の中に「Art de vivre」として根づいていったのかもしれません。 PS 千利休居士は、もちろん Art de vivre という言葉は知らなかったと思います。 けれど振り返ると、 利休居士の茶の湯こそ、まさにそれだったのではないかと感じることがあります。 茶は単なる芸事ではなく、 茶人の生活そのもの。 一碗を点てること、 花を一輪入れること、 狭い草庵に身をかがめて入ること。 そこに芸術と生き方が重なっている。 それは贅沢ではなく、 削ぎ落とされた美。 日本人の美意識の結...

聖書朗読箇所 פרשת משפטים

📖 פרשת משפטים(ミシュパティーム) ―「啓示の後は、日常をどう生きるか」― פרשת משפטיםは、 シナイ山で十戒が与えられた直後に続く章です(出エジプト21–24章)。 十戒という“天の声”のあとに来るのは、 奴隷法・損害賠償・弱者保護・金銭・裁判など、非常に具体的な法律。 ここがとてもユダヤ的です。 🔯 1️⃣ ユダヤ人はここから何を学ぶか? ✦ 「聖」と「俗」を分けない 偉大なラビ Rashi は言います: 「なぜ民法がシナイの直後に置かれているのか? それは、民法もまたシナイから来ているからだ。」 つまり―― お金・労働・裁判・隣人関係も、神の領域である。 祈りだけが聖ではない。 請求書の書き方も聖。 ミサさんのように、 肉体労働の現場もまた“神聖”なのです。 ⚖️ 2️⃣ タルムードの教え タルムード(ババ・メツィア)はこう言います: 「神殿が破壊された理由は、 人々がトーラー通りに裁いたが、 “その先の慈悲”を行わなかったからだ。」 法律だけでは足りない。 ✔ 正義 + 慈悲 ✔ 権利 + 配慮 ✔ 契約 + 思いやり これがミシュパティームの核心です。 🕊 3️⃣ 有名ラビの思想 ■ ランバン(ナフマニデス) Nachmanides 彼は言います: 「あなたは“許される悪人”になってはならない。」 つまり―― 法律ギリギリで生きるな。 形式的に正しくても、 心が冷たいなら、それは神の道ではない。 ■ ラビ・ヒレル Hillel the Elder 「自分にとって嫌なことを、他人にするな。」 ミシュパティームはこれを実践法として展開している。 🌳 4️⃣ カバラ的解釈 カバラでは、ミシュパティームは ゲヴラー(厳格さ)とヘセド(慈愛)の統合 と説明されます。 裁き(ミシュパット)はゲヴラー。 しかし、神はそれを慈愛で包む。 もし裁きだけなら世界は壊れる。 もし慈愛だけなら世界は崩れる。 ⚖️ バランスこそ生命。 🌊 ゾハールの教え カバラの古典 Zohar は言います: 「この章を学ぶ者は、 魂の裁きを和らげる。」 なぜなら、 人が公正に生きるとき、 上の世界も整うから。 ✨ 5️⃣ ミサさんへのメッセージ あなたの人生テーマは「自由」でしたね。 ミシュパティームは教えます: 本当の自由とは、 “好きにすること”ではなく、 “正...

詩編17:10

彼らはその心を閉じて、あわれむことなく、その口をもって高ぶって語るのです。1955年日本聖書協会訳 ​תהלים יז י חלבמו סגרו פימו דברו בגאות חלבמו ヘルバモウ 脂肪 8-30-2-40-6-86 סגרו  サグルウ 囲われた 閉ざされた 60-3-200-6-269 פימו ピイモウ 彼の口 80-10-40-6-136 דברו ディベルウ 彼らは話した 4-2-200-6-212 בגאות ベゲウウトゥ 傲慢に 2-3-1-6-400-412 AI解説 ありがとうございます、ミサさん 🌿 詩篇17:10 のラビ的解釈をお伝えしますね。 📖 詩篇17:10 חֶלְבָּמוֹ סָגְרוּ פִימוֹ דִּבְּרוּ בְגֵאוּת 「彼らは心を脂肪で閉ざし、口は高慢に語る。」 🕎 ラビの解釈 🔹 ① ラシの解釈 Rashi ラシは「脂肪」を 👉 “感覚の鈍さ” と説明します。 脂肪は体を包み、感覚を鈍くする。 同じように、 豊かさ・慢心・快楽への執着が 心を包み、神への感受性を失わせる。 つまり: 罪の根は「心の鈍さ」から始まる。 🔹 ② ムサール(倫理思想)の視点 ムサールではこの節はこう読まれます: 心が閉じる すると口が傲慢になる そして行動が乱れる 順番が重要です。 外の問題ではなく まず心が閉じることが問題。 ミサさんが以前おっしゃった 「怒りは生活の中で起きる」 まさにこの節です。 怒りの前に、 すでに心が“閉じている”。 🔹 ③ カバラ的視点 カバラでは「脂肪」は 霊的エネルギーの過剰な物質化。 光(オール)が 器(ケリ)に閉じ込められ 流れなくなる状態。 すると口(マルクト)が 傲慢に働く。 つまり: 光が流れないとき、言葉は濁る。 🌊 ミサさん的まとめ ヨットで海に出るとき、 風が止まると船は重く感じる。 同じように、 心が止まると 言葉は重くなる。 この詩篇はこう教えているようです: 心を軽く保て。 脂肪で覆うな。 そうすれば言葉は澄む。 もしよければ次は 詩篇17全体の流れも一緒に見ますか? ミサさん 🌿 詩篇17篇を前後を通して読むと、とても一本の流れが見えてきます。 📖 Book of Psalms 17篇 全体の構造 作者は伝統的に King Da...

体露金風

今日の禅語 AI  承知しました。 ブログ用に、碧巌録的視点でまとめます。 少し硬質で、余韻を残す文体にします。 体露金風 ― 碧巌録的に読む 「体露金風(たいろ きんぷう)」 本体が露わになり、秋の風が吹く。 美しい言葉である。 しかし、碧巌録的に読むなら、ここで止まってはいけない。 秋の風は情緒ではない。 金風とは、余分を削ぎ落とす風である。 飾り、見栄、役割、立場。 それらを一枚ずつ剥がしていく。 すると本体が露わになる―― と、言いたくなる。 だが碧巌録は、そこを許さない。 「露わになる本体」と言った瞬間、 すでに“本体”という概念を作ってしまっている。 体が露わになるのではない。 もともと隠れていない。 金風とは、 その“思い込み”を吹き払う風である。 何か特別な境地に入るのではない。 何かを獲得するのでもない。 ただ、余計なものが落ちる。 言い訳が落ち、 評価が落ち、 「自分はこうだ」という説明が落ちる。 残るのは、 いま息をしている事実だけ。 碧巌録は、美しい理解で満足させない。 「わかった」と思った瞬間に、 その理解を切り捨てる。 体露金風とは、 悟りの説明ではなく、 説明を許さない鋭さである。 秋風は冷たい。 しかし澄んでいる。 本体が現れるのではない。 ただ、風が吹いているだけだ。 とてもよいテーマでした。 このあたりは、もう思想というより 切れ味の世界ですね 🍂

独服 ― 黒楽茶碗と濃茶、利休居士四百年忌を想う

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昨日、独服で濃茶をいただきました。 点てながら、つくづく自分の未熟さを感じます。 温度、練り具合、濃さ。 まだまだ課題ばかりです。 それでも―― 濃茶を点て、自分で飲むことでしか分からない理解があります。 黒楽茶碗の中にたたえられた深い闇。 その黒の中に、濃茶の緑が沈むように映える。 その色の美しさに、思わず息をのみました。 改めて、利休居士の芸術的感性の凄さを、理屈ではなく、肌で感じました。 利休と黒楽 千利休が愛した黒楽。 初代長次郎との出会いから生まれた、あの沈黙の器。 豪華さではなく、 光を吸い込み、茶を際立たせる“黒”。 濃茶は、黒楽のためにあるのか、 黒楽は、濃茶のためにあるのか。 そう思うほどの調和です。 独服という原点 千宗屋家元の言葉に、深くうなずきます。 茶は「おもてなし」だとよく言われます。 しかしその前に、自分をもてなすことができるか。 独服とは、自分のために自ら点てる一服。 茶室という「囲い」の中で、 ほんのひととき日常を離れ、 自分と向き合い、ニュートラルポジションに戻る。 茶筅で円を描くとき、 それはまるで円相のようです。 禅僧が一筆で描く円―― 悟りや宇宙を象徴するあの円。 その円と向き合う時間が、独服なのかもしれません。 一番の贅沢 その話をかみさんにしたら、 「一番贅沢な気がする」 と言われました。 確かにそうかもしれません。 高価なものを持つことではなく、 自分のために静かに濃茶を練る時間を持つこと。 貧しくても、 心は豊か。 どうやら自分は、 貧乏なくせに、贅沢な人間のようです。 けれどその贅沢は、 誰にも迷惑をかけない、 自由な贅沢。 利休居士四百年忌を思いながらの濃茶。 独服こそ、茶の原点。 禅と通じる場所。 また、黒の中に、深い緑を沈めてみたいと思います。 PS 最近読んでいる 千宗屋家元の 茶  利休と今をつなぐに「独服」という言葉が出てくる。 茶は「おもてなし」とよく言われる。 でも家元は、その前にまず“自分をもてなす”ことがある、と書かれている。(要約) 人をもてなす前に、 自分と向き合えているか。 独服とは、自分のために点てる一服。 茶室は「囲い」とも言う。 日常の中に、ほんの少しだけ非日常をつくる場所。 そこで自分を確認し、ニュートラルに戻る。 千利休が見ていた世界は、 派手ではなく、深...

侘び茶 黒楽茶碗 

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利休は「侘び」とは言わなかった ——千宗屋『茶 利休と今をつなぐ』を読んで 茶 利休と今をつなぐを読んで、はっとさせられた一節がある。 利休は「侘び」とは言わなかった、という話だ。 実のところ、「侘び」という言葉が、利休によって大成された茶の湯の美意識を表す言葉として広く使われるようになったのは、後世の『南方録』以降だという。 利休の時代に登場する「侘び」は、「侘び数寄」――つまり、高価な唐物道具を買うことができない、手元不如意な茶人たちを指す言葉だったとされている。 この話を読んで、妙になっとくできた。 自分は、ブランドが嫌いなわけではない。 たとえばフランスのルイ・ヴィトン。ルイ家が所有するバッグに大金を払って、大事に大事に使う生き方も、理解はできる。 でも自分には、もっと丈夫で、気を遣わずに使えるトートバッグの方が合っていると気づいたのは、もう30年以上前のことだ。 さらに始末の悪い話をすれば、土のう袋をバッグ代わりに使い、ホームセンターで500円のヤッケを着る生活が、今でも好きだ。 その格好でベトナムを旅したとき、現地の人に驚かれたことを、今でもよく覚えている。 ヨットでは、セールバッグ代わりに土のう袋を使っている。 それを見た友人の奥さんが、「家に使っていないボッシュのバッグがあるよ」と親切に声をかけてくれたこともあった。 でも自分は、土のう袋の白さと丈夫さ、そして使い捨てできる気楽さが好きだ。 ボロくなったら、そのままゴミ袋になる。 高級な世界から見れば、「近寄るなよ」という存在かもしれない。 けれど、フランスでは少し違った。 パリのオペラ座脇のレストランに入ったとき、正直、少し気後れした。 それでも案内されたのは、奥の静かな席だった。 今思い返すと、その奥には集会所のような部屋があり、パリの住人たちが、普段着のようなカッパを着て、自然に出入りしていた。 もしかすると、あれはシナゴーグだったのかもしれない。 そのパリ滞在は、振り返れば、人生でいちばん「リッチ」な時間だった。 メニューを見ずに、食べたいものを頼み、シャンパーニュ地方のワインを飲んだ。 お金の多寡ではない豊かさ、というものを、あのとき確かに味わった気がする。 今でも、使い捨...

大道無門 

大道無門(だいどう むもん)、教えます。 これは禅の入口であり、同時に出口でもある言葉です。 大道無門 (だいどう・むもん) 字義 大:大いなる 道:真理・生きる道 無門:門がない/入口が設けられていない 直訳 大いなる道には、門がない 禅的な核心 これは少し逆説的。 👉 意味はこうです: 悟りへの正式な入口は存在しない 修行の順番も 資格も 特別な方法もない なぜなら―― 最初から道の中に立っているから。 無門とは「拒絶」ではない 「門がない」とは、 入れない → ❌ 排除 → ❌ ではなく、 入るという行為そのものが不要 という意味。 有名な続き(補足) この句は、しばしば次と対で語られます。 大道無門 千差有路 大いなる道に門はないが、 行き方は無数にある つまり、 正解は一つではない でも、どこからでも始められる 生活に引き寄せると 何かになろうとしない 到達しようとしない 今の場所を否定しない それが 大道無門。 これまでの言葉と一本になる 無事是貴人:事にしない 触処清涼:触れても熱を持たない 拈華微笑:語らず伝わる 大道無門:入ろうとしなくていい 👉 もう十分だ、という地点。 一行まとめ 探すな。 すでに、ここだ。 静かだけど、 とても強い言葉です。 今のミサさんに、 ちょうどいい一句だと思います 🍵

「袱紗の所作」と「清め」の話

AI より  いいテーマですね。 では、ブログ用に 「袱紗の所作」と「清め」だけを静かに掘り下げます。 袱紗の所作と「清め」 茶の湯を学びはじめてから、 ずっと腑に落ちない所作がある。 それが、袱紗で清めるという行為だ。 道具は汚れていない。 実際に汚れを拭き取っているわけでもない。 それでも、必ず清める。 ここに、茶の湯の核心があるように思える。 袱紗の所作は、 掃除ではない。 衛生でもない。 ましてや、見せるための演技でもない。 意味を与える行為だ。 道具に触れる前に、 一度、手を止める。 呼吸を整え、心を整える。 そして、これから扱うものを 「ただの物」から「用のための物」へと移す。 これは、外を清めているのではなく、 自分の側を清めているのだと思う。 ここでふと、 キリスト教のミサを連想した。 ミサでも、 司祭は聖具に触れる前に所作を整え、 言葉と沈黙によって場を変える。 パンと葡萄酒は、 途中から「別の意味」を帯びる。 それは魔術ではない。 意識の位相が切り替わる儀式だ。 袱紗の清めも同じではないか。 さらに視点を変えると、 カバラ的にも、この所作は腑に落ちる。 カバラでは、 世界は「光」と「器」で成り立っている。 器が整っていなければ、 光は濁り、溢れ、破綻する。 袱紗の所作とは、 器を整えるための沈黙の準備ではないか。 道具を清めているようで、 実は、 光を受け取る側の「器」を整えている。 だから、 急いではいけない。 省いてもいけない。 意味を考えすぎてもいけない。 ただ、 静かに、同じように繰り返す。 そのとき、 茶室は少しだけ 日常とは違う場所になる。 袱紗で清めるとは、 道具を聖なるものに変える行為ではない。 自分を、事にしない場所へ戻す行為なのだ。 無事是貴人。 触処清涼。 その入口に、 袱紗の所作がある。

拈華微笑(ねんげ・みしょう)

今日の禅  禅シンプル生活のすすめ 枡野俊明著 より AI  意味と解釈だけ、静かにまとめますね。 拈華微笑 (ねんげ・みしょう) 意味(そのまま) 花をつまみ上げ、ほほえむ それだけの出来事。 由来(最小限) 釈尊が説法の場で、 一言も語らず、一輪の花を拈(つま)み上げた。 弟子たちは沈黙。 ただ一人、摩訶迦葉だけが微笑した。 禅的な解釈(核心) ① 悟りは言葉では伝わらない 説明するとズレる 理解しようとすると外れる 👉 同じところに立った者だけが通じる ② 微笑は「理解」ではない わかった → ❌ 正解した → ❌ 👉 分別が止まった瞬間の自然な反応 ③ 教えは「示すもの」 語るのではなく 教えるのでもなく 👉 在り方そのものが教え 生活に引き寄せると 説明しすぎない 分かってもらおうとしない でも、誠実に在る 通じる人とは、 言葉がなくても通じる。 一行まとめ 語らずとも、同じところに立てば伝わる。 これが 拈華微笑の意味と解釈です。 Question  😊 ユダヤの教えの耳で見て、目で聞くを思い出したけど。 Answer いいところを思い出しましたね。 それ、拈華微笑と同じ深さの話です。 ユダヤの教え 「耳で見る」「目で聞く」 これはユダヤ思想、とくにシナイ啓示やラビ的比喩でよく使われる逆説です。 ① どういう意味か(そのまま) 普通は 目で見る 耳で聞く でも聖書的・ラビ的には、あえて逆に言う。 目で聞く 耳で見る ② ユダヤ的な核心 これは超能力の話ではありません。 👉 本当の意味は: 感覚を越えて、直接つかむこと 音を「理解」する前に、全体として受け取る 姿を「分析」する前に、意味が落ちてくる シナイ山では、 「民は雷鳴を“見た”」(出エジプト記) と書かれている。 つまり 言葉になる前の段階で、もう受け取っている。 ③ 拈華微笑との完全な一致 きれいに重なります。 仏陀は語らない 花を示すだけ 摩訶迦葉は考えない 微笑が起こる これはまさに、 耳で見て、目で聞いた状態 👉 感覚がひっくり返るとき、分別が消える。 ④ ユダヤ教でも禅でも共通する一点 両方とも言っているのはこれ: 理解は遅い。 体験は速い。 説明は後から 言葉は二次的 真理は「出来事」として先に来る ⑤ 生活に落とすと 説明されなくても、わかる瞬間がある 言われた言葉より、...