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『まず、自分で考える。#13Vendée Globe1992 』

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30年前、初めて見たヴァンデ・グローブ 私が初めて Vendée Globe(ヴァンデ・グローブ) を観戦したのは、1992年の第2回大会でした。 今から30年以上も前の話です。 当時、故・斉藤実さんもヴァンデ・グローブへの挑戦を考えていました。 そこで、斉藤実さん、故・大貫一郎さん、そして私の3人でフランスのレ・サーブル=ドロンヌへ行き、第2回ヴァンデ・グローブのスタートを観戦することになりました。 大貫さんは当時、日本のベネトウ特約店ファーストマリンに勤めていて、仕事でフランスのベネトウ本社を何度か訪れていました。その関係もあって、現地では斉藤さんと二人で造船所などを視察していたようです。 「二人でいったい何をしているんだろう?」 私はというと、当時の目標は Mini Transat(ミニ・トランザット)。 ヴァンデ・グローブももちろん見たかったのですが、フランスまで来たのだから、ついでにMini 6.50の船を見ることができれば、それだけでも十分でした。 Mini 6.50の前で出会った若者 マリーナのヤードを歩いていると、Mini Transatに使われるMini 6.50が置いてありました。 その船の前で、一人の若者が彼女と二人でスポンサー探しをしていました。 「自分と同じことを考えている人間がいる」 そう思った私は、その後も何度となくそこへ足を運びました。 船を見せてもらい、話をしているうちに友達になりました。 私も日本へ帰ればスポンサーを探し、Mini Transatに出場したいと思っていた時代です。 考えてみれば、あの頃のレ・サーブル=ドロンヌには、世界一周を目指す人間、Mini Transatを目指す人間、スポンサーを探す人間、船を造る人間が集まっていたのでしょう。 FUJICOLOR IIIとロイック・ペイロン 1992年のヴァンデ・グローブには、日本企業の富士フイルムがスポンサーとなった Fujicolor III が参戦していました。 スキッパーは、ロイック・ペイロン(Loïck Peyron)。 第1回ヴァンデ・グローブで2位に入った、当時すでにフランスを代表する外洋セーラーの一人でした。 Fujicolor IIIは新艇で、当然、優勝を狙っての参戦だったと思います。 現在のヴァンデ・グローブとは違い、当時の会場はまだそれほど混雑していませ...

聖書朗読箇所 裁判官

今日の聖書朗読箇所は、**פרשת שפטים(ショフティーム)――「裁判官たち」**です。 なんとも今の自分にぴったりの聖書朗読箇所です。 現在、店舗の立ち退き問題を抱えていて、場合によっては裁判になるかもしれません。 7月に突然連絡があり、「8月中に立ち退いてください」とのこと。 自分は法律の専門家ではありませんが、調べてみると、通常の建物賃貸借では、賃貸人からの解約申入れは、正当事由が必要なうえ、原則として申入れから6か月を経過して終了するとされています。 それから移転先をどうするのか、営業への影響をどう考えるのか、立退料をどうするのか――本来なら、そうしたことを話し合っていくものだと思います。 それを「来月には出てください」と言われれば、いくら素人の自分でも、少々乱暴ではないかと感じてしまいます。 しかも宅建の資格を持つ不動産業者が間に入っています。 こちらとしては、正直なところ「喧嘩を売られているのかな?」と感じてしまった部分もあります。 しかし、今日のトーラーにはこうあります。 צֶדֶק צֶדֶק תִּרְדֹּף 「正義、正義を追い求めなさい」 一つの正義だけではなく、相手にも相手の正義があり、自分にも自分の正義がある。 確かに、自分は長い間、比較的安い家賃で店舗を借りてきました。それも事実です。 しかし、ただで借りていたわけでもありません。毎月きちんと家賃を払い、そこで仕事を続けてきました。 では、今の自分にとっての「正義」とは何なのか。 相手を責め続けることでも、意地になって居座ることでもなく、今までどおり家賃をきちんと払いながら、必要な話し合いをして、移転の準備も少しずつ進めていく。 それが今の自分にできる **צדק(ツェデク=正義)**であり、同時に **אמת(エメット=真実・誠実)**なのかな、と思っています。 もちろん、相手の正義を考えるからといって、自分の正当な権利まで放棄する必要はないでしょう。 相手の正義も見る。 しかし、自分の正義も忘れない。 二つの正義の間に、どこか合意できる場所を探す。 言葉で書くのは簡単ですが、実際に自分が当事者になるとなかなか難しいものですね。 もっとも、今は暑すぎて、あまり難しいことを考える気にもなりません(笑)。 昔から暑さには頭が弱いんですよね。 ということで、ブログを検索してみたところ、なん...

箴言8:6〜7

​משלי ח ו ז שמעו כי נגידים אדבר ומפתח שפתי מישרים   כי אמת יהגה חכי ותועבת שפתי רשע

『まず、自分で考える。#1 Vendée Globe 2028』

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昨夜、IMOCA「MALIZIA」のスキッパーが気になり、AIに詳しく教えてもらいました。 そこから昔の記憶が次々と蘇り、白石康次郎さんのこと、スポンサーや人脈のこと、Mini Transat、ヤニック・ベスタヴェン、そして鈴木晶友君のVendée Globe挑戦へ――。 気がつけば、AI相手に2〜3時間もヨット談義をしていました。 会話全体では、なんと約7万字だそうです。 そして今朝、その長いヨット談義をAIにブログ用にまとめてもらったところ、わずか数十秒ほど。一瞬です。 昔はよくヨットレースの観戦に出かけ、その様子を書いてヨット雑誌に掲載してもらったこともあります。 もし、あの頃にこんなAIがあったら――。 取材して、感じたことを話し、資料を調べてもらい、それを一瞬で文章にまとめる。 もしかしたら私も、立派なヨットジャーナリストになっていたかもしれませんね (笑)。 そんなことを考えながら、昨夜の長いヨット談義をまとめてみました。 昨日、IMOCAのTeam Maliziaについて調べていたら、いつの間にか白石康次郎さんの話になりました。 私は40年近く、白石康次郎さんの記事を読んできました。 高校を卒業してからヨット一筋。 多田雄幸さんに弟子入りし、単独世界一周、Around Alone、VELUX 5 OCEANS、そしてVendée Globeへ。 好き嫌いやセーラーとしての評価は別として、これだけ長い間、外洋レースを「仕事」として続けてきたのですから、間違いなくプロです。 ただ、昔から私には一つ不思議なことがありました。 なぜ、次から次へとスポンサーがつながるのだろう? ヨット乗りにとってスポンサー探しは大仕事 私自身も昔、外洋レースに出場し、さらにIMOCAで世界一周レースに出たいと思ってスポンサーを探した経験があります。 また、斎藤実さんをはじめ、長い間さまざまな外洋セーラーを見てきました。 そこで感じるのは、 ヨットが上手ければスポンサーが付くわけではない。 ということです。 むしろヨット関係の企業ほど、道具や技術面での協力はできても、何千万円、何億円というメインスポンサーになるのは簡単ではありません。 ところが白石さんを長く見ていると、2000年を過ぎた頃から何かが変わったように、私には見えました。 2000年前後から変わった人脈 2000年には...

法だけに縛られない、豊かな国

前澤友作さんがXで、興味深いことを言っていました。 人口を増やして経済規模を維持することばかり考えるのではなく、人口が減ったとしても、一人ひとりが豊かに暮らせる日本をつくればいい――そんな趣旨だったと思います。 なるほどな、と思いました。 国の豊かさというと、GDPが世界何位だとか、人口が何人だとか、大きな数字で語られます。 でも、貧乏人の自分からすれば(笑)、そんな大きな数字よりも、国民一人ひとりが実際に使えるお金が増えるほうがありがたい。 人口が少なくなっても、一人ひとりが豊かで、安心して暮らせる国なら、それでいいのではないでしょうか。 以前、知人が、 「日本はある程度、社会主義的でないとダメなんじゃないか」 と言っていました。 もちろん、何でも平等にすればいいという単純な話ではありません。 一生懸命働いた人、努力した人、リスクを取って商売をした人が報われることも大切です。 その一方で、同じように働いていても、正社員と派遣社員など雇用形態によって大きな収入格差が生まれ、若い人が結婚や子育てをためらうほど生活に余裕がなくなれば、人口を増やそうと言ったところで簡単ではないでしょう。 少子化対策というと、「どうやって子どもを増やすか」という話になります。 でも、その前に、 今ここで暮らしている人たちが、安心して生きていける社会なのか。 そこを考える必要があるような気がします。 そして政治の話になると、さらに難しい。 消費税を下げる政党がいいのか。 社会保障を充実させる政党がいいのか。 小さな政府がいいのか、大きな政府がいいのか。 どの政党にも良いところと疑問に思うところがあります。 法律についても同じです。 法律を増やして細かく決めれば社会は安全になるのか。それとも、人間が自分の頭で「これは正しいのか」と考える力を失ってしまうのか。 先ほど思い出したユダヤの教えがあります。 לפנים משורת הדין Lifnim mi-shurat ha-din 「法の要求を超えて行動する」 法律上の権利を限界まで押し通すのではなく、一歩引いて、相手の事情や苦しみを考えるという教えです。 言い換えれば、 「法律的には正しい。でも、人としてそれでいいのか?」 という問いでしょう。 教育も政治も法律も、簡単ではありません。 だから結局、一番大切なのは、一人ひとりが自分の頭で考える...

新盆に「愚鈍」を読む

新盆ですので、今日は仏様の教えです。 ということで、『ブッダの真理のことば・感興のことば』を何気なく広げてみたら、なんとも自分にぴったりのような言葉が出てきました。 『法句経』第二十三章「象」325。 大食いをして、眠りを飲み込み、ころげまわって寝て、まどろんでいる愚鈍な人は、大きな豚のように糧を食べて肥り、くりかえし母体に入って、迷いの生存をつづける。 いやあ、耳が痛い(笑)。 食べて、飲んで、寝て、また欲しがる。 自分のことを言われているような気もします。 昔、「京都の祇園の飲み屋へ行くと、お坊さんが多い」なんて話を聞いた記憶があります。本当かどうかは知りません。 家のお寺のお坊さんなら、銀座で飲めるくらいのお布施です。 しかも、お布施には一般の商品やサービスの代金のように消費税がかかるものではありません。 もっとも、ここでお坊さんを笑って終わったら、この「愚鈍」という言葉を読んだ意味がありませんね。 ブッダが言っているのは、坊さんがどうとか、他人がどうとかではなく、 「お前自身は、欲に食われていないか?」 ということでしょう。 金が欲しい。 うまいものが食べたい。 楽をしたい。 人から認められたい。 坊さんにも欲はある。 水道屋にも欲はある。 人間ですからね。 新盆に仏様の前で、自分の「愚鈍」を少し眺めてみる。 そして菊を一輪。 湯を沸かして、茶を一服。 賢くなろうとするより、自分の愚かさを知る。 案外、それくらいがちょうどいいのかもしれません。 合掌。 PS 愚鈍すぎるのか、夏の疲れなのか、それとも飲みすぎなのか。 よくわかりませんが、このところ胃の調子が悪く、どうも欲が湧きません。 食欲もない。性欲もない。 欲を捨てれば楽になる――仏様はそう教えているのかもしれませんが、いざ欲がなくなってみると、なんだか寂しいものですね。 考えてみれば、食べたい、飲みたい、遊びたい、恋をしたい。 そんな欲に少しくらい溺れているのも、人間として楽しいことなのかもしれません。 欲があるから迷い、欲があるから苦しむ。 でも、欲があるから人生は面白い。 『デスペラード』。 ならず者、無法者、そして、どうしようもない人間。 仏様から見れば、まだまだ迷いの中をころげ回っている大きな豚かもしれません(笑)。 まあ、それも人間。 欲を捨てきれない自分を眺めながら、今日も一服のお茶をいただ...

YouTube ダブルヒロシ先生へのコメント

昨日、YouTubeを見ていたら、伊木ヒロシ先生の番組に、戸塚ヨットスクールの戸塚宏校長が出演していました。 これは興味深い組み合わせです。 「お金」を語るヒロシ先生と、「教育」を語る戸塚校長。いわばダブル・ヒロシ先生ですね(笑)。 自分は一セーラーとして、若い頃から戸塚校長には強い関心がありました。若い頃、本当は戸塚ヨットスクールでヨットを習ってみたいと思ったこともあります。 今回の対談を聞きながら、教育とは何なのか、お金とは何なのか、そして子どもを育てる責任は誰にあるのか――いろいろ考えさせられました。 そこで、久しぶりに少し長めのYouTubeコメントを書いてみました。 以下、そのコメントです。 ダブル・ヒロシ先生 お金のヒロシ先生と戸塚宏校長の対談、興味津々で聞かせてもらいました。 自分も若い頃、戸塚ヨットスクールでヨットを習ってみたいと思ったことがあります。しかし、そこまで余裕のある家庭ではなかったので、残念ながら実現することはできませんでした。 それでも、一人のセーラーとして、戸塚校長には昔から強い関心と敬意を持っています。 もちろん、当時の暴力的な指導や、そこで起きた事故については、簡単に肯定できるものではありません。 ただ、複数のコーチや関係者がいる中で、最終的に自分が責任を負うという戸塚校長の姿勢には、良くも悪くも、昔の日本人が持っていた「大和魂」のようなものを感じます。 個人的に残念に思うのは、そこに「お金」が介在していたことです。 もちろん、お金への欲から事故が起きたと言いたいわけではありません。 ただ、親がお金を払い、子どもの教育を他人に委ねる。見方を変えれば、家庭で担うべき教育の一部を、学校や指導者に託していたとも考えられます。 そして、その先で事故が起きてしまった。 もし戸塚校長が持っていたヨットや海を通じた教育の思想を、学校体育や社会教育の中で生かすことができていたら、また違った結果になっていたのではないか、と一セーラーとして残念に思います。 また、当時は今ほどNPOのような仕組みが一般的ではありませんでしたが、もし非営利の活動として、教育と商売をもう少し切り離すことができていたなら、戸塚校長の教育思想の良い部分が、違った形で社会に残ったのかもしれません。 そうそう、昔、戸塚校長がテレビの討論番組などでよく口にしていた、 「これは、ただ...

見ると言うこと

今週のパラシャー「ראה(レエ)=見よ」を学んでいて、ラビ・マービン・トケイヤー先生の言葉、「耳で見て、目で聞く」を思い出しました。 最初は、その意味がよくわかりませんでした。 約15年前、ハウステンボスから銚子までヨットを回航したことがあります。 出航前の夜、ハウステンボスの居酒屋で知人たちと酒を酌み交わしました。その席には、目の不自由な方も同席されていました。 私が少し難しい話をすると、その方は静かにこちらへ顔を向け、一言も聞き漏らすまいと、まるで話を「見る」ように耳を傾けてくださいました。 その姿が今でも心に残っています。 人は目だけで見るのではありません。 耳で見て、心で聞くこともできるのです。 今週のパラシャーは、「見よ」と私たちに語りかけます。それは、ただ目で景色を見ることではなく、神様の教えや、人との出会い、日々の出来事の中にある意味を心で見つめなさい、という呼びかけなのかもしれません。 茶の湯でも、お客様の表情や言葉だけでなく、その場の空気や心の動きを感じ取ることが大切だと教えられます。 「耳で見て、目で聞く」。 ユダヤの学びも、茶の湯も、本当に大切なものは目には見えず、心で受け取るものなのだと、あの日の居酒屋での出来事を思い出しながら感じました。