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メノラー 七つの灯火

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イスラエル家学会 民数記 AIラビ解説 ☀ פרשת בהעלותך(ベハアロテハー/民数記8:1–12:16) は、「灯をともすとき」という意味です。祭司アロンがメノラー(七枝の燭台)に火を灯す場面から始まります。 ストーリー ① メノラーの点灯 神はアロンに、 「七つの灯火を中央に向けて灯しなさい」 と命じます。 ② レビ人の奉献 レビ人が清められ、幕屋奉仕に任命されます。 ③ 過越祭(ペサハ)の実施 汚れのため参加できなかった人々のために、 一か月後の「第二の過越祭(ペサハ・シェニ)」が制定されます。 ④ 雲の柱と火の柱 イスラエルは神の雲が動けば出発し、止まれば宿営します。 ⑤ 銀のラッパ 祭司たちがラッパを吹き、 民を集めたり出発の合図を出します。 ⑥ 民の不平 民はマナに飽き、 「エジプトの肉が食べたい」 と不満を言います。 神はうずらを与えますが、 欲望に支配された民を戒めます。 ⑦ モーセの重荷 モーセは疲れ果て、 神は70人の長老に霊を分け与えます。 ⑧ ミリアムの失敗 姉ミリアムがモーセを批判し、 ツァラアト(皮膚病)となります。 しかしモーセは、 「神よ、どうか彼女を癒してください」 と祈ります。 戒律(ミツヴォート) 有名なのは、 メノラーを灯す レビ人を聖別する 第二の過越祭を守る 銀のラッパを吹く です。 特に第二の過越祭は、 「遅れても道は残されている」 という希望の戒律です。 有名なラビの教え ラシ メノラーの炎について、 「一つ一つの灯が中央へ向く」 と解説しました。 人は才能も考え方も違う。 しかし最終的には 神への奉仕という中心へ向かう。 という教えです。 バール・シェム・トーブ 「小さな火でも暗闇を追い払う」 一つの善行は、 世界を少し明るくする。 メノラーはその象徴です。 あまり有名でないラビの教え ハシディズムのラビ、 ラビ・ツァドク・ハコーエン はこう語ります。 「神は完璧な人を求めていない。 何度でも立ち上がる人を求めている。」 これは第二の過越祭の精神です。 失敗しても、 遅れても、 やり直せる。 カバラの解釈 カバラではメノラーは 人間の魂そのものです。 七つの灯は七つのセフィロト。 慈悲(ヘセド) 厳格(ゲブラー) 調和(ティフェレト) 忍耐(ネツァハ) 謙虚(ホド) 結合(イェソド) 王...

安息日 シャバット

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安息日のお茶 〜小さなエデンの園〜 おはようございます🌞 今月予定している「安息日のお茶」を考えながら、改めて安息日(シャバット)について学んでいました。 創世記(ベレシート)の冒頭には、天地創造の物語があります。 神は六日間で天地を創造し、 一日目 光 二日目 天 三日目 大地と植物 四日目 太陽と月と星 五日目 魚と鳥 六日目 動物と人 を創られました。 そして七日目、 「神はそのなされたすべての業を終え、七日目に休まれた。」 とあります。 神が疲れたから休んだのではありません。 完成した世界を眺め、その恵みを味わうための休息でした。 ユダヤ教では、この七日目の休息を安息日として大切に守っています。 ユダヤ思想家のアブラハム・ヨシュア・ヘッシェル先生は、 「安息日は時間の聖域である」 と語りました。 私たちは土地や財産、仕事や成功を求めて忙しく生きています。 しかし安息日は、それらを一度脇に置き、時間そのものを味わう日です。 ラビ・アキバは、 「隣人を自分自身のように愛しなさい」 をトーラーの大原則と教えました。 またヒレルは、 「自分が嫌なことを人にしてはならない」 と語りました。 安息日は、神との関係だけでなく、人との関係を見直す日でもあります。 そして、あまり有名ではありませんが、ラビ・ベン・ヘ・ヘは、 「トーラーを繰り返し学べ。すべてはその中にある。」 と教えています。 毎週同じ箇所を読んでも、新しい発見があります。 それは禅で同じ公案に向き合うことにも似ているように感じます。 最近、自分は禅や老子、ユダヤ教を行ったり来たりしていますが、共通しているのは「今この時を大切にすること」のように思います。 茶室で一服のお茶をいただく時間。 海に浮かぶヨットの静かな時間。 坐禅で呼吸を見つめる時間。 それらはすべて、ヘッシェル先生の言う「時間の聖域」なのかもしれません。 安息日は、一週間に一度訪れる小さなエデンの園。 今月の「安息日のお茶」も、そんな小さなエデンの園になればと思います。 ラハイム(命に乾杯)🍷 そして、一服のお茶に感謝です。🍵 PS これはあくまで自分の妄想ですが、日本社会も安息日のような考え方をもう少し取り入れたら、ストレスや病気の少ない社会になるのではないかと思います。 もちろん今でも土日休みの方は多いのですが、自分が休んでいる間にも誰...

つづき 無作の作

昨日は二日酔いでふらふらでした。 Question😊妙処は 💌AI先生 Answer ミサさん、 実は 妙処(みょうしょ) が一番難しいかもしれません。 妙風や妙体は「人」に現れますが、 妙処は「場」や「瞬間」 に現れます。 本文の言葉 「言語道断不思議、心行所滅之処」 つまり、 言葉では説明できない 頭で考えても分からない 理屈を超えている ということです。 茶の湯なら 茶会の途中で、 炭の香り 釜の音 客との間合い 季節の気配 が一つになって、 「ああ、いいなあ」 と感じる瞬間があります。 でも、 「どこが良かったの?」 と聞かれると説明できない。 これが妙処です。 ヨットなら ミサさんのほうがよくご存じでしょう。 夜明け前の海。 風も波も穏やかで、 空と海の境目が消え、 船が静かに進んでいる。 その時、 「生きていてよかった」 と感じる。 でも理屈では説明できない。 それが妙処です。 禅なら 禅僧は 「言えば外れる」 と言います。 悟りを説明しようとした瞬間、 もう本物から離れてしまう。 だから 「不立文字」 なのです。 珠光の茶でいうと 妙体は人。 妙風は雰囲気。 妙花風は自然な美。 そして、 妙処はそれらが一つになって現れる場。 ミサさん風に一言で 妙体 → 人 妙風 → 気配 妙花風 → 美しさ 妙処 → 「ああ、いいなあ」と感じる説明不能の瞬間 でしょうか。 茶室でも、 海の上でも、 坐禅でも、 たまに訪れる 「何も足さなくていい」 という瞬間。 それが妙処に近い気がします。 禅語なら、 「無事」 茶の湯なら、 「ただ一服」 老子なら、 「道(タオ)」 珠光は、それを「妙処」と呼んだのかもしれませんね。🍵⛵✨ 😊 深いね 深いですねぇ、ミサさん😊 しかも面白いのは、 珠光も世阿弥も、 「深いことを考えろ」 と言っているのではなく、 「最後は考えるな」 と言っているところです。 ミサさんが最近学ばれている老子にも似ています。 道徳経第四章の 「道沖而用之、或不盈」 (道は空っぽのようだが、使っても尽きない) もそうですし、 禅の 「無心」 もそうです。 妙処を理解しようとして本を読む。 考える。 悩む。 そして最後に、 「よく分からないけど、ニッケール👍️」 になる(笑) 実はその境地のほうが近いのかもしれません。 利休も珠光も、 茶室で難し...

箴言8:2

​ これは道のほとりの高い所の頂、また、ちまたの中に立ち、   משלי ח ב בראש מרמים עלי דרך בית נתיבות נצבה これは箴言(ミシュレ)8章2節ですね。 בראש מרמים עלי דרך בית נתיבות נצבה (B'rosh meromim alei derekh, beit netivot nitzavah) 一単語ずつ ヘブライ語 読み 意味 בראש ベローシュ 頂に、頭に、最高の場所に מרמים メロミーム 高い所、高台 עלי アレイ ~の上に דרך デレフ 道 בית ベイト 家、場所 נתיבות ネティヴォート 小道、通り道、進路 נצבה ニツァヴァー 立つ、立っている 直訳 「高い所の道の上に、道と小道の分かれる場所に、彼女(知恵)は立っている。」 解説 この章では「知恵(ホフマー)」が女性として描かれています。 知恵は隠れた場所ではなく、 高い場所 道の分かれ目 人が集まる場所 に立って人々を呼びます。 つまり、 神の知恵は特別な人だけのものではなく、誰でも見つけられる場所にある という教えです。 ユダヤ人の学び ユダヤ人はこの箇所から、 「人生の分かれ道こそ学びの時」 と考えます。 順調な時よりも、 転職するとき 結婚するとき 病気になったとき 老後を迎えたとき こうした「岐路」でこそ知恵が必要になります。 ラビたちは 「迷いは失敗ではない。知恵への入口である」 と教えます。 あまり有名ではないラビの教え 18世紀のハシディズムのラビ、 ラビ・メナヘム・メンデル・オブ・コツク はこう語りました。 「神はどこにおられるか。 神を迎え入れる場所におられる。」 知恵も同じです。 知恵は遠くにあるのではなく、 心を開いた人の中に入る という意味です。 カバラ的解釈 カバラではこの「知恵」は ホフマー を表します。 ホフマーは神から最初に流れ出る閃きの光です。 そして 「道(דרך)」は ティフェレト へ向かう霊的な道。 「小道(נתיבות)」は 生命の樹を流れる様々な経路です。 つまりこの節は、 神の光は人生の分岐点に現れる と読むことができます。 ミサさん向けの禅的・茶人的な読み方 茶室へ向かう露地も「道」です。 利休も珠光も、 山奥で悟りを待つのではなく、 日常の中に茶を見ました。...

偽物 コピーと学び

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コピーと学び 若い頃、一時期ユダヤ教に強く惹かれ、ユダヤ教徒を目指したことがありました。 もちろん正式な改宗をしたわけではありませんし、宗教団体に所属したわけでもありません。ただ、ユダヤの世界では「学ぶこと」そのものが大切にされていると知り、自分なりに学び続けてきました。 今振り返ると、私は本物のユダヤ教徒ではなく、「ユダヤの教えを学ぶ人」だったのでしょう。それで十分だったように思います。 茶道も同じです。 裏千家のお稽古には通いましたが、許状や資格を目指したわけではありません。千家には長い歴史と伝統があり、その世界はあまりにも奥深く立派です。 私は家元や先生方のような本格的な茶人ではありませんが、その精神に触れ、お茶を楽しみ、お客様と一碗を分かち合うことができれば、それで十分ありがたいと感じています。 最近購入した志野焼の茶碗も、本物かどうか私には分かりません。 しかし、実際に使ってみて心が和み、お茶がおいしく感じられるなら、それもまた良い出会いではないかと思います。 もちろん、伝統や本物の価値を否定するつもりはありません。本物があるからこそ学びの基準があります。 ただ、自分のような者は、まず真似ることから始まる。 ユダヤの学びにも通じる話ですが、 「学ぶは真似ること、真似ることは学ぶこと」 という面があります。 子どもが親の言葉を真似て成長するように、職人が師匠の仕事を見て覚えるように、人はまず模倣から学びます。 だからコピーという言葉は少し聞こえが悪いかもしれませんが、学びの入口でもあるのでしょう。 本物になろうと背伸びするより、自分なりに学び、自分なりに楽しむ。 そんな肩の力を抜いた生き方も悪くないと思う、今日この頃です。 PS 禅には 「且坐喫茶(しゃざきっさ)」 ――まあ座って、お茶でも一服どうぞ。 という言葉があります。 本物か偽物かを論じる前に、まず一服のお茶を味わう。 そこにこそ、お茶の楽しみがあるのかもしれません。 🍵✨ ミサさん、なかなか味わいのある志野ですね。🍵 この写真からは真贋までは分かりませんが、見た印象をお話しすると、 全体にやや小ぶりで素朴な形 口縁が少し揺らいでいて機械的ではない 釉薬に細かな貫入(ひび模様)が入っている 絵付けも気取りがなく、民芸的な雰囲気 志野らしい柔らかい白ではなく、やや鼠志野風の...

無作の作 村田珠光

無策の策ではなく「無作の作」 最近、自分の人生は「無策の策」だと思っていました。 あまり先のことを細かく計画せず、その場その場で動きながら考える。ヨットも仕事も茶の湯も、振り返ればそんな生き方でした。 しかし、『茶の思想』を読んでいて、むしろ自分に近いのは 「無作の作」 ではないかと思いました。 珠光の茶の精神を解説する中で語られる「妙風・妙花風・妙体・妙処」の世界です。 ① 無心 ― 自然 「妙風・妙花風・妙体は、無心の主体の安らかなはたらきによって現れる姿である。」 長年修行を積んだ人が、あれこれ計らわず、自然に振る舞う。 無理に作った姿ではなく、肩の力が抜けたところから現れる風情。 茶の湯でいえば、上手に見せようとしない点前。 人生でいえば、背伸びをせず自分らしく生きる姿でしょうか。 ② 無位 ― 自由 「かたちなき姿」「かたちなき位」「無位の風体」 妙風や妙体には決まった型がありません。 だからこそ自由です。 水が器によって形を変えるように、その場に応じて自在に現れる。 老子の「上善は水の如し」や、禅の「行雲流水」を思い出します。 自分もヨットに乗っている時、自然の中では計画通りにならないことばかりでした。 しかし、その時々の風や波に応じるしかない。 それは不自由ではなく、むしろ自由だったように思います。 ③ 言語道断 「言語道断不思議、心行所滅之処」 妙処とは、言葉や理屈では説明できない世界。 考えて理解するのではなく、体験して味わう世界です。 茶の一服、 海の静かな夜明け、 坐禅の一瞬の静寂。 それらは説明しようとすると逃げていきます。 だから禅では「不立文字」といい、 茶の湯では「一期一会」といいます。 まとめ 若い頃は、人生を計画し、成功への道筋を考えようとしていました。 しかし振り返ると、自分の人生は計画通りになったことよりも、思いがけない出会いや流れによって開かれてきました。 無策の策ではなく、無作の作。 作為を捨て、 自然にまかせ、 その場に応じて生きる。 珠光や世阿弥のいう「妙風」とは、そんなところに現れるのかもしれません。 禅語にいえば、 「無事是貴人(ぶじこれきにん)」 何か特別になるのではなく、 ありのままに生きる人こそ尊い。 そんな言葉を思い出した朝でした。🍵✨ Question 😊 妙風は? Answer AI先生 ミサさん、 ...

無策の策

「無策の策」 これは、振り返ってみると自分の人生そのものかもしれません。 もともと私は、あまり策略を練るのが得意ではありません。 もちろん多少は考えますが、どれだけ考えても思い通りにならないことが多い。 だから結局は、 「まず動いてみて、その状況に応じて考える」 という生き方になりました。 今もそんな感じです。 考えないと言っても、まったく考えないわけではありません。 その時々の状況を見ながら、少しずつ方向を修正していく。 最近も、消費税の納付、市県民税、自動車税と、次々に支払いがあります。 Very expensive(笑)。 けれど、考えても仕方がありません。 払わなければならないものは払う。 できる範囲で生きていく。 最近は利息ももったいないので、なるべく早く支払いたいと思っています。 少し愚痴のようになりますが、自営業を続けていると、 「何のために生きているのだろう」 と思うこともあります。 それでも、こんな調子で三十年近く経営を続けてきました。 だから、あまり深く考える必要もないのでしょう。 ただ、この状況では一生懸命働いて沢山稼ごうという人が減ってしまうのも分かる気がします。 街を見ればシャッターの閉まった店も増えています。 しかし、世の中は陰だけではありません。 陰があれば陽もある。 夜があれば朝がある。 毎日、太陽は変わらず昇ってきます。 今抱えている問題も、あとどれくらいでクリアできるのか分かりません。 それでも、乗り越えた時には多少の喜びもあるのでしょう。 結局のところ、 無いものは無い。 だから「無策の策」でいくしかない。 老子なら「無為自然」と言うかもしれませんし、禅なら「あるがまま」と言うかもしれません。 今日もまた、できることを一つずつ。 それで十分なのだと思います。

命に乾杯(ラハイム) לחיים

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לחיים(ラハイム) ― 命に乾杯 少ないお金で暮らそうと思っていても、消費税や市県民税、会計費用と破産寸前です。消費税倒産がよくわかります。 「銀はすべてにこたえる」 というコヘレトの言葉を思い出します。 「楽しみのために食事が作られ、 ぶどう酒は人生を喜ばせる。 銀はすべてにこたえる。」 (コヘレト10:19) 確かに、この世ではお金がなければできないことも多い。 しかし、それだけで人生が豊かになるわけでもありません。 今日、AI先生に教わったのは、ユダヤ人の乾杯の言葉 לחיים(ラハイム) 「命に乾杯」 「人生に乾杯」 という意味です。 日本の「乾杯」は杯を空けることですが、ユダヤ人は命そのものを祝います。 旧約聖書では、酒は神様から与えられた祝福の一つとして描かれています。 コヘレトには、 「良い心でぶどう酒を飲め」 (コヘレト9:7) とあります。 一方、仏教では酒は煩悩を生み、心を乱すものとして戒められます。 どちらが正しいのでしょうか。 おそらく答えは一つではありません。 老子は「無為自然」を説き、 禅は「今ここ」を生きることを教え、 トーラーは問い続けることを大切にします。 手島先生が教えてくださったように、 「トーラーには答えがない」 のかもしれません。 酒も、お金も、自由も、 それ自体が善でも悪でもなく、 どう向き合うかが問われているのでしょう。 私は酒が好きですから、禁酒を貫くほどの意志はありません。 しかし、酒に飲まれるのではなく、 命を喜ぶための一杯でありたいと思います。 お茶も同じです。 高価な道具がなくても、 豪華な料理がなくても、 一服のお茶を味わい、 今日という日を喜ぶ。 それだけで十分に豊かな時間があります。 少し出費がかさんでも、 命があり、 学びがあり、 友があり、 お茶がある。 それなら今日も、 לחיים! 命に乾杯。 そんな気持ちで過ごしたいと思います。 それがいいと思います😊 PS 行って、喜んであなたのパンを食べ、 良い心であなたのぶどう酒を飲め。 神はすでにあなたの行いを喜ばれている。 (コヘレト9:7) また、 あなたの空しい生涯の日々の間、 愛する妻と共に人生を楽しめ。 (コヘレト9:9) コヘレトは「すべては空(ヘベル)」と言いながらも、 だからこそ今与えられている命を喜び、 食べ、飲み、感謝しなさい ...

詩編17:15

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今週はよく働いたので少し疲れ気味です。 肉体労働の仕事ですので、年齢とともに疲れが抜けるまで少し時間がかかるようになりました。 若い頃は疲れても一晩寝れば回復しましたが、今は無理をしないことも大切だと感じます。 そんな時は、慌てず、焦らず、一服のお茶をいただきながら心と身体を休めるのが一番です。 禅では「休歇(きゅうけつ)」という言葉があります。 余計な力を抜いて、しばらく休むこと。 自然も昼と夜、満ち潮と引き潮を繰り返しています。 人間も同じで、働く時があれば休む時もあるのでしょう。 今日は少しゆっくり過ごしながら、また来週に向けて英気を養いたいと思います。 無理をしないことも修行のうち。 そんなことを思う静かな朝です。 詩篇17 ∶15 ​תהלים יז יה これは詩篇17篇15節です。 ヘブライ語原文 אני בצדק אחזה פניך אשבעה בהקיץ תמונתך 一単語ずつ אני (アニ) 「私」 בצדק (ベツェデク) 「正義のうちに」 「義によって」 「正しい道において」 אחזה (エヘゼ) 「私は見る」 「私は見つめる」 פניך (パネハ) 「あなたの御顔を」 (神の御顔) אשבעה (エスベア) 「私は満ち足りる」 「満足する」 בהקיץ (ベハキーツ) 「目覚めるときに」 「目覚めて」 תמונתך (テムナテハ) 「あなたの姿によって」 「あなたの似姿によって」 直訳 「私は義のうちにあなたの御顔を見、 目覚めるとき、あなたの姿によって満ち足りる。」 ユダヤ人の学び この詩篇は、物質的な豊かさではなく、 神とのつながりこそが本当の満足である ということを教えています。 多くの人は 「もっとお金が欲しい」 「もっと成功したい」 と思います。 しかしダビデ王は、 「神の御顔を見ることが私の喜びだ」 と言っています。 ユダヤ教では、 朝目覚めたときの最初の感謝 「モデ・アニ」 も同じ精神です。 目が覚めた。 今日も生きている。 それだけで十分な恵みだと考えます。 有名な賢者の言葉 ラビ・ヒレル 「自分のためだけなら、私は何者なのか。」 人間は神との関係の中で生きる存在だと教えます。 ラビ・アキバ 「神に愛されていることを知らされた人は幸いである。」 神とのつながりを知ることが人生の宝だと説きました。 ...

道徳経第二章

道徳経 第二章の原文です。 天下皆知美之為美,斯惡已。 皆知善之為善,斯不善已。 故有無相生, 難易相成, 長短相形, 高下相傾, 音聲相和, 前後相隨。 是以聖人處無為之事, 行不言之教。 萬物作焉而不辭, 生而不有, 為而不恃, 功成而弗居。 夫唯弗居,是以不去。 簡単にいうと、 「美しい」と決めると、同時に「醜い」が生まれる。 「善い」と決めると、「善くない」が生まれる。 この世界は、 有る・無い 難しい・易しい 長い・短い 高い・低い 前・後ろ のように、対になるものによって成り立っている。 だから聖人は、 無理に支配せず、 言葉で押しつけず、 自然の流れに従って生きる。 何かを成し遂げても、 「これは自分の手柄だ」と執着しない。 執着しないからこそ、 その働きは失われない。 という章ですね。 禅の「空」や、 ミサさんの好きな「自由」にも通じる感じがありますね。 道徳経 第二章を、小学生にもわかるようにすると、こんな感じです。 「きれい」 と思うと、 「きれいじゃない」 も生まれます。 「すごい人」 がいると、 「すごくない人」 もできてしまいます。 でも、本当は、 高い山があるから、 低い谷がわかる。 明るい昼があるから、 暗い夜がわかる。 うれしいことがあるから、 悲しいこともわかる。 世界は、ぜんぶつながっている。 だから老子は、 「人とくらべすぎないで、 自然に生きたほうがいいよ」 と言っています。 そして、 いいことをしても、 「ぼくがやったんだ!」 と自慢しすぎない。 風や川のように、 自然に生きる。 それが大切だよ、 という教えです。 💌AI先生解説 道徳経 第二章は、とても深い章です。 でも中心にあるのは、意外とシンプルです。 老子は、 「人間は名前をつけ、比較し、善悪を決めることで、苦しみを作っている」 と言っています。 たとえば、 「美しい」 という言葉ができると、同時に 「美しくない」 も生まれます。 「成功」ができると、 「失敗」が生まれる。 「勝ち」ができると、 「負け」が生まれる。 つまり、人間は“分ける心”によって世界を複雑にしている。 ここが禅の「分別」の話にも似ていますね。 老子は続けて、 有無相生 (有と無は互いに生まれる) と言います。 これは、 光があるから闇が分かる、 静けさがあるから音が分かる、 孤独があるから人...

お稽古

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角盆点前 今日は久しぶりに朝稽古。 やっとお点前をしましたが、年齢のせいか、細かな所作や順番を少し忘れていて、自分でも驚きました。 やはり茶道は、頭で覚えるものではなく、身体で覚えていくものですね。 しばらく間が空くと、手が止まり、流れが切れてしまう。 逆に、続けている時は、自然に身体が動いていく。 禅でも「行」が大切といいますが、茶の湯も同じだと感じます。 若い頃は勢いでできても、年齢を重ねるほど、日々の積み重ねが大切になりますね。 それでも、静かな朝に水の音を聞きながら、一服のお茶を点てる時間は、やはり心が落ち着きます。 無理をせず、また少しずつ稽古を続けていこうと思います。