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海の上の茶の湯 あんこ玉

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海の上のお茶時間と「あんこ玉」 昨日は、和菓子づくりをしてから海へ行ってきました。 最近の楽しみは、方舟亭のお茶の時間です。 ここ数十年、夏になるとアンカーリングをして、静かな入江に船を停め、パラソルを広げて、キンキンに冷えたビールやスパークリングワインを飲むのが何よりの楽しみでした。 でも最近は、酒も少し弱くなりました。 今はアルコールより、お茶のほうが心地よく感じます。 セーリングを終えたあと、和菓子と一服の抹茶。 なんともジャパニーズらしくて、いい時間です。 ということで、昨日作った**「あんこ玉」**が思いのほか美味しくできたので、作り方をご紹介します。 あんこ玉の作り方 材料 小豆 水 砂糖(私は黒砂糖を使いました) 塩 バンホーテンの純ココア(砂糖なし)小さじ1杯ほど まず、小豆に塩を少々加え、柔らかくなるまでじっくり炊きます。 水分が少なくなってきたら、小豆の重さの約3割の砂糖を加えます。さらに塩をひとつまみ入れると、甘さが引き立ちます。 焦がさないように混ぜながら水分を飛ばし、冷めたらラップにスプーンで取り分けます。 空気を抜くように少し力を加えながら丸め、冷蔵庫で冷やせば出来上がりです。 隠し味に入れた純ココアが、ほんのりと味に深みを与えてくれます。 派手さはありませんが、井戸茶碗のような素朴な味わいが気に入っています。 海の風を感じながらいただく一服のお茶と「あんこ玉」。 そんな静かな時間が、今の私には何よりの贅沢です。 PS 「あんこ玉」という名前も、素朴で親しみがあって気に入りました。茶席のお菓子としても、気軽に楽しんでいただけそうです。🍵

聖書朗読箇所 部族長

まず最初に、今週のパラシャー「マトット(部族・族長たち)」から学んだことがあります。 「できないことは言うな。言ったことには責任を持ちなさい。」 これは、若い頃に斉藤実さんから徹底的に鍛えられた教えです。 当時の斉藤さんはとても厳しく、その教えについていけず離れていく人も少なくありませんでした。「あいつはサドだ」と言う人もいたほどです。 それでも私は、大西洋単独横断レースという目標があったため、斉藤実塾で修行を続けました。 今回、パラシャー・マトットを学び、その教えの原点がトーラーにあることを改めて知りました。 「人は主に誓願を立てたなら、その言葉を破ってはならない。口から出たことはすべて行わなければならない。」 欧米では聖書の教えが社会の土台となっている国も多く、日本以上に「言葉の重み」を大切にする文化があります。 マトットは、約束を守ること以上に、軽々しく約束をしないこと、そして自分の言葉に責任を持つことを教えてくれるパラシャーなのだと感じました。 今週のパラシャーは פרשת מטות(マトット/部族) です。 (民数記 30:2〜32:42) פרשת מטות(マトット) ストーリー モーセはイスラエルの部族長たちに、まず**誓願(ネデル)や誓い(シュブア)**について教えます。 「自分の口で語ったことは守りなさい。」 言葉には責任があり、軽々しく約束してはいけないことを学びます。 続いて、神の命令によりイスラエルはミディアンとの戦いに臨みます。 これは復讐ではなく、偶像礼拝へ誘惑された出来事(バアル・ペオル)の決着でもありました。 戦いの後、戦利品は公平に分配され、一部は神への捧げものとなります。 最後に、ルベン族とガド族、そしてマナセ族の半分がヨルダン川東側に住みたいと願い出ます。 モーセは最初反対しますが、「先に仲間と共に戦う」という約束を受け入れ、その願いを認めました。 ユダヤ人の学び 「言葉は行動である」 ユダヤ教では、言葉は単なる音ではありません。 神が「光あれ」と言われて世界が創造されたように、人間の言葉にも現実を形づくる力があると考えます。 だから約束は慎重にし、した約束は誠実に守る。 タルムードにも、 「人の言葉は、その人自身を映す。」 という考え方があります。 有名なラビの教え ラビ・ジョナサン・サックス 「人格とは、自分が語ったことを...

貧困の哲学 

自動運転やお布施の話から、昔書いた「貧困の哲学」を思い出しました。復習を兼ねてコピペします。 ヨットは10年近く前みたいです。 復習  貧困の哲学 3月 08, 2023 貧困と哲学  服を車に替えて ユダヤの教え 金持と貧乏 より * 金は人間に対して、”衣服が人間にすること” しかできない。 衣服を車を変えてみました。 衣服を車に例えました。   金は万能だろうか? もし、そうであったら車も万能である。 金をいくら持っていても、人間の本質を変えることはできない、いくら美しい高価な車に乗っても、車に乗る人間まで変えることはできない、人間を変えることができるのは、その人自身だけだから。 とはいっても、金はあったほうが良い、大きな高級車を持っていたほうが良いのと、同じ話だ。 物を崇拝してはならない、金を崇拝する者が滑稽に見えるのは、物を崇拝しているからである。 人間は自分が崇拝している物にできるだけ近づきたいと思い、同時に同化してしまう、だから、物を崇拝する者は、自分も物になってしまう。 人間は金のために依存しているのではない。 ^_^  自分は車に乗る時間が多いのでよく感じます。 自分が高級車に、自分が乗れないからかな?  貧困と哲学 3 つづき ユダヤの教え 金持と貧乏 より * 金は人間に対して、”衣服が人間にすること” しかできない。 衣服とヨットを変えてみました。 衣服をヨットに例えました。   金は万能だろうか? もし、そうであったらヨットも万能である。 金をいくら持っていても、人間の本質を変えることはできない、いくら美しい高価なヨットに乗っても、ヨットに乗る人間まで変えることはできない、人間を変えることができるのは、その人自身だけだから。 とはいっても、金はあったほうが良い、大きな高級ヨットを持っていたほうが良いのと、同じ話だ。 物を崇拝してはならない、金を崇拝する者が滑稽に見えるのは、物を崇拝しているからである。 人間は自分が崇拝している物にできるだけ近づきたいと思い、同時に同化してしまう、だから、物を崇拝する者は、自分も物になってしまう。 人間は金のために依存しているのではない。 伝えたいことを忘れてしまいました。 モンテーニュのエッセーに移ります。 「物を欲しがらないのは一つの財産である。買いたがらないのは一つの収入である」(キケロ逆説6の...

朝の運転と自動運転

朝、車を運転していた。 車の数も少なかったので、時速30キロくらいで走っていた。 走ってみると、この道には30キロくらいがちょうどいい感じがした。 信号、踏切、一時停止の連続。 急いでいなければ、30キロでも十分だ。 ブレーキを何度も踏むストレスも少ない。 ふと、運転しながら思った。 「あれ? 日本では自動運転はなかなか難しいのではないか」 たとえば目的地が10キロ先だとする。 時速30キロなら約20分。 時速50キロなら約12分。 差は約8分である。 急いでいなければ、30キロで十分とも言える。 しかも、センターラインのない道路なら、法定速度はだいたい30キロから40キロ。 十分に安全な速度である。 ところが、朝7時から夕方6時くらいになると、道路の空気が変わる。 車の群れが動き出す。 後ろを見ながら運転しないといけない。 自分はいつも法定速度より10キロくらいを目安に、流れに合わせて走っている。 それでも追い抜かれることがよくある。 昨日はひどかった。 センターラインのない道路で、対向車線にはみ出して、推定80キロくらいで追い抜いていく車がいた。 しかも続けて2台。 危ない。 アメリカ人風に言えば、オークレージである。 少し狂っている感じがした。 高級車に乗っていると、それがステータスになるのだろうか。 こちらは軽貨物なので、少しバカにされているような気もする。 さて、自動運転の話に戻る。 自分としては、自動運転は楽だと思う。 AIならスピード違反はしないだろうし、車間距離も正確に取るだろう。 ブレーキも急がず、無理な追い抜きもしない。 しかし、そこで思う。 高級車志向の人たちは、法定速度で静かに走るだろうか。 今話題の山太郎先生も、45キロオーバーで交通違反のニュースがあった。 高速道路ならまだ道幅が広いので多少はましかもしれない。 しかし、日本の細い生活道路では、本当に危ない。 そう考えると、日本で本格的な自動運転が広がるのは、まだ先の話のように感じる。 文明学者でYouTuberの加治氏も、日本は道路が悪いと言っていた。 そんなことを思うのは自分くらいかと思っていたが、同じようなことを言っていた。 加治氏は、アメリカで15年生活した経験から、道路の広さについて話していた。 自分もアメリカでレンタカーを何度か借りて運転したことがある。 地域にもよるが、市道で...

千利休 井戸茶碗究極の侘び

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利休が教えてくれたこと 〜井戸茶碗の侘び〜 おはようございます😊 井戸茶碗を購入したのは、一年以上前のことです。 手に取った第一印象は、「なんて雑な茶碗なんだろう」というものでした。 仕上がりは粗く、とても美しいとは思えませんでした。そのため、一度も使うことなく箱にしまったままでした。 ところが最近、土岐信吉先生の小説『千利休』を読み、この井戸茶碗をもう一度手に取ってみました。 すると、不思議なことに、以前とはまったく違う茶碗に見えたのです。 小説の中で宗易(後の千利休)は、魚屋の倉庫で藁の中に転がっていた一つの茶碗を見つけます。 それは朝鮮の百姓たちが毎日の食事に使っていた、ごく普通の飯茶碗でした。 宗易は、その素朴な器の中に、野良仕事を終えて食卓を囲む人々の姿を見ます。 ろくろのゆがみや飾り気のない釉薬は、貧しくとも自然とともに生きる人々の暮らしを映し出していました。 華やかさはありません。しかし、その器には仏の恵みを受け、ありのままに生きる人々の温もりが宿っていたのです。 宗易は、その不思議な美しさに心を打たれ、そっと掌で温めます。 小説の中で宗易は、人は自分の知恵だけで物事を判断しようとするが、人間そのものが不完全な存在なのだと悟ります。 そして、本当の美しさは、作為によって生まれるものではなく、自然のままの姿の中にあることに気づきます。 印象に残った言葉があります。 「あなたがたの周りをよく見なさい。仏の大きな慈悲の中で生かされていることを。」 さらに、 「物を見るのではなく、心を見る。」 「『我』を超えたところに光はある。」 この言葉は、茶碗だけでなく、生き方そのものを教えてくれているように感じました。 私も改めて、自分の井戸茶碗を見つめてみました。 最初は、ただ地味で粗末な茶碗にしか見えませんでした。 しかし今は違います。 枇杷色のやわらかな肌、少し揺らいだ口縁、飾り気のない姿。 そのどれもが、人の手が生み出した自然な美しさに見えてきました。 抹茶を点てると、鮮やかな緑だけが静かに映え、器は一歩引いてお茶そのものを引き立てます。 これ以上ないほど質素だからこそ美しい。 これ以上ないほど飾らないからこそ、心が惹かれる。 これが、後に利休が大成した「侘び」の世界なのだと感じました。 黒楽茶碗は、暗い茶室の中で茶碗の存在が消え、お茶...

コヘレト 2:14

​קהלת ב יד החכם עיניו בראשו והכטיל בחשך הולך וידעתי גם אני שמקרה אחד יקרה את כלם おはようございます😊 今日はコヘレトの言葉 2章14節ですね。 ヘブライ語 הֶחָכָם עֵינָיו בְּרֹאשׁוֹ, וְהַכְּסִיל בַּחֹשֶׁךְ הוֹלֵךְ; וְיָדַעְתִּי גַם־אֲנִי שֶׁמִּקְרֶה אֶחָד יִקְרֶה אֶת־כֻּלָּם׃ 発音 Heḥakham einav berosho, vehakesil baḥoshekh holekh; veyada'ti gam ani shemikreh eḥad yiqreh et kullam. 直訳 知恵ある者は、その目を頭に持つ。 愚かな者は暗闇の中を歩く。 しかし私は知った。 結局は同じ運命が、すべての者に訪れることを。 前後の流れ 2:12〜13 コヘレトは知恵と愚かさを比較します。 知恵は確かに愚かさより優れている。 光が闇より優れているように。 つまり、 知恵を持つ人生は価値がある。 と認めています。 2:14(今日) しかしそこで疑問が生まれます。 知恵があっても、 愚かでも、 最後は同じように死ぬ。 それなら知恵とは何なのか。 これがコヘレトの問いです。 2:15〜17 コヘレトはさらに考えます。 それなら私は 「なぜ知恵を求めたのだろう。」 と心の中で思った。 そして、 すべては空しい。 と続きます。 ユダヤ人の学び ユダヤ教では、 この箇所は 「知恵は死を避けるためではない」 と理解します。 知恵とは 今日を正しく生きるため。 死を避ける道具ではありません。 人生を照らす灯火なのです。 有名なラビの教え ラビ・アキバ 「すべては神の御手にある。 しかし神を敬うことだけは人に委ねられている。」 運命は選べません。 しかし どう生きるか は選べます。 まさに 「知恵ある者は目を頭に持つ」 ということです。 無名なラビの教え あるラビはこう語りました。 「賢者は未来を恐れて前を見る。 愚者は足元だけを見て歩く。」 だから賢者は 転ぶことはあっても、 立ち上がることができます。 カバラの教え カバラでは 「頭(ראש)」 は単なる頭ではありません。 それは...

祝福する心

茶の湯にもいかしたいですね。 相手を祝福する心 偉大なラビ様の教えを学んでいて、改めて思い出したことがあります。 人と会うときは、「この人が幸せになりますように」と心の中で願いながら接したほうが、自分の心も穏やかになります。 逆に最初から喧嘩腰で接してしまえば、お互いに良い結果にはなりません。 口で言うのは簡単ですが、実際にはとても難しいことです。 聖書には「ゴールデンルール」ともいえる教えがあります。 「汝自身のように隣人を愛しなさい。」 (レビ記19章18節) でも、正直に言えば、嫌いな人を愛するのは簡単ではありません。 こんな言葉を聞いたことがあります。 「人類を愛すると言うのは簡単だが、目の前の一人を愛することは難しい。」 確かにその通りだと思います。 そこでAIラビに尋ねてみると、まず実践しやすいのは、ラビ・ヒレルの教えだと教えてくれました。 「自分にされたら嫌なことを、他人にしてはならない。これが律法のすべてであり、残りはその解説である。行って学びなさい。」 (タルムード・シャバット31a) 「愛しなさい」という高い理想の前に、まずは「相手が嫌がることをしない」。 これなら今日からでも実践できます。 さらに、神はアブラハムにこのように語られました。 「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。」 (創世記12章3節) この言葉を読むと、まず自分から相手を祝福する心を持つことの大切さを感じます。 私なりにこの三つの教えを並べると、こんな流れになります。 創世記──「祝福する者は祝福される」 レビ記──「隣人を自分のように愛しなさい」 タルムード──「自分が嫌なことを他人にしてはならない」 どれも別々の教えのようでいて、実は一つにつながっています。 人を祝福し、相手を思いやり、自分がされたくないことは人にしない。 理想を一度に実践するのは難しくても、小さな思いやりから始めることはできます。 今日も、目の前の人の幸せを少しだけ願いながら過ごしてみたいと思います。

聖書朗読箇所 ピンハス

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my Favorite time ジムのプールサイド 海にいきたかったのですけど、檀家のお寺で新盆の説明会なのでいけませんでした。 聖書朗読箇所 ピンハス ピンハス君はベイトイスラエルで昔お世話になりました。今ごろはラビ ピンハスかな。 今回の物語は、多民族の女性に夢中になる民にピンハスが制裁をくわえる話だった記憶があります。 AIラビ解説 おはようございます😊☀ 今週のパラシャは パラシャ・ピンハス(פרשת פינחס) です。 📖 ストーリー 前回、イスラエルの民はモアブの女性たちとの偶像礼拝によって大きな災いを招きました。 祭司ピンハスは、神への熱意から罪を止める行動を取り、その結果、疫病は終息します。 神はピンハスに 「わたしの平和の契約(ברית שלום)」 を与え、祭司職を子孫まで受け継ぐことを約束されました。 その後、 新しい人口調査 娘だけが相続人となったツェロフハドの娘たちの願い ヨシュアがモーセの後継者となること 毎日・安息日・祭日のささげ物 が語られます。 つまり、 「一人の勇気から、次の世代へ命が受け継がれていく」 という章でもあります。 ✡️ ユダヤ人の学び ユダヤ人はこの箇所から、 「情熱だけではなく、平和へ導くことが大切」 と学びます。 神が与えたのは 「戦いの契約」 ではなく 「平和の契約」 でした。 正義のために行動した人にも、最後に必要なのは平和をつくる心です。 また、ツェロフハドの娘たちは、 「前例がない」 と言われても諦めませんでした。 神はその願いを正しいものとして受け入れます。 ユダヤ人はここから、 「敬意を持って質問することは信仰の一部である」 と学びます。 🌿 有名なラビの教え ラシは、 「神は熱心さそのものではなく、その後に平和を与えられた。」 と説明します。 つまり、 怒りや熱意だけでは世界は完成せず、 最後は平和へ向かわなければならないということです。 🍃 あまり知られていないラビの教え ラビ・メナヘム・メンデル・オブ・コツクは、 「真実は時に鋭い。しかし、その鋭さが人を傷つけ続けるなら、それはまだ完成した真実ではない。」 と教えました。 真実は、人を倒すためではなく、人を立ち上がらせるために語られるべきだという教えです。 ✨ カバラの教え カバラでは、 ピンハスは「厳しさ(ゲ...

天皇陛下と平和

今話題の天皇継承について、一国民として思うこと 最近、天皇継承の話題を耳にすることが増えました。 私は専門家ではありません。あくまで一国民としての、個人的な思いです。 私の祖父は、父方も母方も戦争で亡くなっています。両親は戦後の苦労の中を生きてきました。 少し社会のことがわかり始めた中学生のころ、私は「戦争は天皇に責任があるのではないか」「天皇制が悪いのではないか」と、単純に考えていました。 ある時、そのことを父に話しました。すると父は、兄貴、つまり私の叔父も学生のころに同じようなことを祖母に言ったことがある、と話してくれました。 その時、祖母はとても怒ったそうです。 「そんなことを言うものではない」 祖母にしてみれば、夫は国のために戦い、戦死した人です。その夫の死を、簡単に否定されるような言葉に聞こえたのかもしれません。 その話を聞いてから、私は天皇制を単純に「悪いもの」とは思えなくなりました。 むしろ今は、天皇陛下という存在が、国の象徴として日本の安定につながっているように感じています。現行の皇位継承順位では、秋篠宮皇嗣殿下、そして悠仁親王殿下へと続く流れが示されています。最近の議論でも、皇位継承順位そのものを変えるのではなく、皇族数の確保が大きな課題として話し合われています。 旧約聖書を読むようになってから、出エジプト期に祭司として任命されたアロンの姿と、日本の天皇陛下の祭祀のお役目が、どこか重なって見えるようになりました。 もちろん、古代イスラエルの祭司と日本の天皇は、歴史も宗教も制度もまったく違います。 それでも、奴隷状態から解放された民が荒野を進む時、法律や制度だけでは民族はまとまりませんでした。民の平和を祈り、神と民をつなぐ祭司の存在が必要だったのだと思います。 日本でも、政治家が国を動かします。しかし、政治家は選挙で変わります。安倍首相、岸田首相、石破首相、そして高市首相というように、時代によって国の顔は変わっていきます。 もし日本に天皇陛下という存在がなければ、その時々の首相だけが国の代表のように見えてしまうかもしれません。 けれども、天皇陛下は政治権力者ではありません。日本国と日本国民統合の象徴として、国民の安寧と世界の平和を祈られる存在です。 ここに、政治とは別の大切な役目があるように思います。 現代のイスラエルは戦争の中にあります。もし古代の...