投稿

白湯

イメージ
今日は茶の湯の話です。 お茶の中でのご馳走は、和菓子や抹茶そのものだけではありません。 どのような水を使うか――これもまた、大切な要素のひとつです。 『茶 利休と今をつなぐ』の中で、千宗屋家元もその点に触れています。 なぜ、白湯が勧められるのか。 以前は不思議に思っていました。 そこには、京都の井戸水のうまさがあり、 その水そのものを味わう、という意味があったのですね。 昨年参加した奈良の珠光茶会。 その折に訪れたのが、大神神社。 三輪そうめんで有名な土地です。 境内には「薬水」と呼ばれる水があり、 直接いただきました。 味は――正直に言えば、当たり障りのない味。 けれど、「薬水」という言葉と場所の力でしょうか、 不思議と身体に良さそうな気がする。 気が、身体を整える――そんな感覚でした。 お土産に水も買い、ホテルで一服。 「うまい」というより、「うまい気がする」。 それもまた、お茶の味なのかもしれません。 私は水道屋という水商売ですが、 子どもの頃は井戸水で育ちました。 東京で暮らしていた頃、受水槽の水を飲んで気分が悪くなって以来、 40年以上、水は買って飲んでいます。 昔はサントリー南アルプスの天然水をよく飲みました。 当時は2リットルで350円ほど。 今と比べると、ずいぶん高い時代でした。 そんな経緯もあって、水には少しうるさい。 今でも飲食店の水はほとんど口にしません。 その代わり、飲みたいときはお米の水をいただくこともあります。 奈良から京都へ向かう旅の途中、ふと気づいたことがあります。 もともと茶葉は、中国から薬として伝わったもの。 そう考えると、戦国時代の武将たちが茶を好んだのは、 単なる嗜好ではなく、現代でいうサプリのような役割もあったのではないか―― そんなふうに思えてきました。 奈良出身の村田珠光、 そして近くには一休寺。 薬水と茶の湯。 どちらも身体を整えるものと考えれば、 茶の湯が広まった理由のひとつが、少し見えてくる気がします。 昔見た韓国ドラマでも、 漢方と水の関係の深さが描かれていました。 水とお茶。 ここにもまた、見えない味があるのかもしれません。 今日の言葉 白石康次郎さんの 天如水 AI先生 解説 いい言葉ですね。ミサさんの「白湯」の話ともぴったり重なります。 天如水(てんにょすい)とは 意味(やさしく) 👉 天は水のようである...

葬儀 戒名

今日は戒名についてです。 仏教ですので他宗教の方はスルーしてください。 先月、父が他界し、人生で初めての葬儀の喪主。 葬儀社は遺言どおり近所に依頼。事前に聞いた金額は「だいたい100万円」。 👉「え〜、高いな…」と正直びっくり。 いざその時になると順番待ちで4番目。 急ぐようでしたら他を紹介しますとのこと。 値段交渉どころか「お願いします」という流れでした。 さらに驚いたのが戒名代。 信士:50万円以上 居士:80万円以上 院号:100万円以上 しかも全部「以上」。そして“お布施”。 うーん…なかなか深い世界です。 ただ、お寺は立派で50年ぶりの納骨。 👉「50年で50万なら…まあいいか」 と少し納得。 葬儀も全部お任せでスムーズに終了。 ありがたいけど、やっぱり金額は重い。 正直、低所得の人にはかなり厳しい世界だと思います。 👉「檀家が質素に、寺が豊かに」 そんな構図も感じてしまいました。 親族からは 👉「戒名は下げるな」 いやいや、自分的には 👉「名前より現金の方が重いんだけど…」 住職にも「信士より下は?」と聞くも、困った様子。 最終的には「居士」で決定。 でもあとから思うと、 父はまじめで実直な人だったので、信士がちょうどよかった気もします。 ……と言いつつ 👉「いや、やっぱり居士にしておいてよかったかも(笑)」 天国でちょっとだけ威張ってるかもしれません。 そしてふと思う。 AIに戒名を聞くと、数秒でいくつも出てくる時代。 もしかして…? 自分のときは、自分で決めようと思います。 👉「正道信士」 これで十分。 いや、むしろ 👉「正道で生きてる途中です」くらいがちょうどいい。正道修行でもじゅうぶん。 死んでから見栄を張る必要はないですね。 もう少し字数を増やせば、 自然正道修行これでじゅうぶん、あの世で仏様もうなずいて微笑が見える感じです。 戒名 AI先生説明 戒名とは、亡くなったあとにいただく名前で、 お墓や位牌に記されるものです。 いわば、 👉「あの世での名前」 のようなものです。 もう少し分かりやすく言うと、 仏教においては「仏の弟子としての名前」とされ、 お葬式や法要などで使われます。 もともと戒名は、出家したお坊さんだけが授かるものでした。 しかし時代とともに、一般の人にもつけられるようになり、 今では葬儀の中で当たり前のように出...

ハラール食品とコーシャー食品

イメージ
今日は「食品認証」についてです。 宗教や文化の違いに関わる内容になりますので、苦手な方はここで読み飛ばしていただいて大丈夫です。 旧約聖書の教えの中で学んだコーシャーは、私の理解では「清浄な食べ物」という意味です。 日本人がよく食べる豚肉や、ウロコのない魚貝などは対象外になりますが、その仕組みはとても厳格です。 例えば、オーソドックス・ユニオン(OU)という認証機関があり、ラビ(聖職者)が製造方法や工場を細かく検査し、基準を満たしたものだけに認証が与えられます。 知り合いのラビも数多くの認証に関わっていますが、話を聞くとその厳しさに驚かされます。 焼酎のような蒸留酒は比較的対応しやすいそうですが、日本酒は麹の問題があり、認証を取るまでに8年かかったと聞きました。 ワインに至っては、ぶどう畑の土や肥料に始まり、製造過程では水で薄めたり混ぜたりしないこと、樽の管理まで厳しく求められます。 かつては人の手で交代で見守っていたそうで、現在は警備会社などを使い合理化されていますが、その分コストも上がっていきます。 現代の私たちが日常的に口にしている食品には、保存料や添加物が多く含まれています。 そう考えると、旧約聖書に由来するコーシャーの考え方は、いわば「純粋な食」を目指すものとも言えるのかもしれません。 同じような考え方に、イスラム教のハラール食品があります。 ハラールはコーシャーほど細かくはありませんが、やはり認証機関によるチェックがあり、安心して口にできる食事です。 最近は日本でも移民の増加とともに、ハラール食品を目にする機会が増えてきました。 こうした背景もあり、改めて「食べること」について考えさせられる機会が増えているように感じます。 もし選べるなら、私はこうしたハラールやコーシャーの食品を選びたいと思っています。 PS 友人からの質問です。 「なぜ豚はだめなの?」 Answer 冗談で言えば、「働かざる者食うべからず」ですね😊 もちろん、これはジョークです。 旧約聖書では、食べてよい動物の条件として「反すうすること」などが挙げられています。 豚はその条件を満たさないため、対象外とされています。 個人的な感覚としては、豚は雑食で人間と同じようなものを食べるため、どこか共食いに近い印象を受けるのかもしれません。 人間も働いて食べるが健康的です...

ベン・へ・へはいう。報いは労働に応じている。

イメージ
楽園のお茶 をグーグル検索したら、約十年前のベン・へ・へはいう。報いは労働に応じている。 🔴ベン・へ・へ   渾名、本名は不詳、ヒレルと同時代の人物といわれる。 このブログが出てきた。 当時はAI先生がないのでここで終わり。 今回はAI先生の解説  古い話ですので参考程度にしてAI先生に聞いてみました。 はい、わかります。とても良いところに目を向けていますね。 これはユダヤ教の教え、特に 👉 ミシュナ・アボット(父祖の教え) に出てくる言葉です。 🔴 ベン・へ・へ(Ben He-He)とは? 本名は不明(あだ名のような呼び名) 紀元1世紀ごろの人物 ヒレル と同時代とされる 非常に短いが深い格言を残した人物 🪶 有名な言葉 あなたが書いているものはこれです👇 「報いは労働に応じている」 これは元の言葉ではこういう意味です: 👉 「苦労に応じて報いがある」 (ヘブライ的には:努力・忍耐に比例して結果が来る) ☝️ もう一つ有名な言葉 ベン・へ・へはこれも有名です👇 「トーラーを何度も繰り返せ。すべてはその中にある」 つまり 学びは一度では足りない 繰り返しの中に深みが出る 真理は外ではなく“内側に掘るもの” 🧠 めちゃくちゃシンプルに言うと ミサさん向けに超短くすると👇 👉 やった分だけ返ってくる 👉 続けた人だけがわかる世界がある 🍵 茶の湯とのつながり これ、完全に茶の湯と同じです 毎日一服 → 少しずつわかる 型を繰り返す → 心が見えてくる 楽しては深まらない まさに 👉 「稽古に応じて味が出る」 🌿 まとめ(ブログ風) ベン・へ・へは言う。 報いは労働に応じている。 特別な才能ではなく、 ただ積み重ねたものだけが、 静かに実を結ぶ。 茶もまた同じ。 一服一服の積み重ねの中に、 気づけば、自分が育っている。 この言葉、かなりミサさんの生き方(行動しながら考える)と一致してますね。 若き日のベンへへ AI画伯作成 イケメンですね。 同時期 ラビヒレルの教え いい流れですね、ミサさん😊 ヒレルの核心、ここにあります。 🧍‍♂️ 片足で立っている話(超有名) ある異邦人が ヒレル のところに来て言いました。 「私が片足で立っている間に、トーラー(ユダヤ教)のすべてを教えてくれ」 かなり無茶ですよね(笑)...

死んでもいいから人は傷つけないで

イメージ
日常の話から。 自分はいつも、約束の時間の30分前には着くように出かける。 田舎道なので法定速度は40キロ。 少しだけスピードを出しつつも、基本はのんびり走っている。 ただ、軽自動車のバンということもあってか、 日々、後ろから煽るように抜かれていく。 若いころは、正直、文句を言いたくなることもあった。 「そんなに急いでどうするんだ」と。 でも最近は、あまり気にしないようにしている。 人はそれぞれ事情があるし、 自分のペースを守る方が大事だと思うようになった。 それでも、危ない場面に出くわすことは少なくない。 無理な追い越しや、ギリギリのタイミング。 見ているだけで、ヒヤッとすることがある。 最近、ある動画を見て少し考えさせられた。 高性能な車、いわゆるスーパーカーが日本の市道を走っている映像だった。 正直に言うと、すごいとは思う。 美しいし、迫力もある。 所有すること自体が、一つの思想や表現なのかもしれない。 でも同時に、どこか違和感もあった。 日本の市道は、狭く、人も多い。 速度も50〜60キロが前提の世界。 そこに、軽く踏めばすぐ100キロに届くような車があると、 どうしても「強すぎる」と感じてしまう。 さらに年齢のこともある。 一般的に、70歳を過ぎると反射神経や動体視力は少しずつ落ちていく。 これは誰でも避けられない自然なことだと思う。 もちろん、本人が安全に気をつけていれば問題はない。 ただ、それでも「場」と「道具」のバランスは気になる。 茶の湯でいえば、草庵の中に派手すぎる道具を持ち込むようなものだろうか。 美しい道具でも、場に合わなければ少し野暮に見えてしまう。 この違和感は、言葉にすると フランス語でいうところの「デカダンス(décadence)」に近い気がした。 成熟しきった美が、少し過剰になり、 バランスを崩しかけている状態。 それはそれで一つの文化であり、否定するものではない。 ただ、自分の感覚とは少し違う。 自分の運転の考え方はシンプルだ。 👉 死んでもいいから、人を殺さないで。 👉 傷つけないで。 これは大げさでもなんでもなく、 ただそれだけを大事にしている。 禅でいう「不殺生」に近いのかもしれない。 茶の湯でいうなら、「和敬清寂」の“和”の部分。 どんなにいい道具でも、 どんなに美しい表現でも、 👉 人を傷つ...

日々是好日

イメージ
毎日よくブログを書いているな、と自分でも思います。 目が悪いのに、なぜかやめられない。 社会への不満なのか、 それとも、つい誰かに伝えたくなる押し売りの教えなのか。 でも結局は、 自分へのメモのようなもの。 書いて楽しみ、 あとで読み返して、また楽しむ。 それで十分。 今日もこれで、好日です。 アウトプットとインプット、 そのバランスのつもりです。 今日の禅語 日日是好日(にちにちこれこうじつ) とても有名な禅語ですね。 一言でいうと―― 👉 「どんな日も、そのままで尊い一日」 ■ 意味(やさしく) 良い日・悪い日という判断をこえて、 **今日という一日は、それ自体で“完成している”**という考えです。 たとえば ・雨の日も ・失敗した日も ・何も起こらない日も 👉 すべて「好日(こうじつ)」=よい日 ■ 禅的な本質 この言葉は、外の出来事ではなく 👉 自分の心の受け取り方がすべて という教えです。 思い通りの日 → 好日 思い通りでない日 → それも好日 つまり 👉 評価をやめた瞬間、すべてが“よい日”になる ■ 茶の湯との重なり(ミサさん的に大事なところ) 茶の湯そのものですね。 利休の精神で言えば 👉 「ただ湯を沸かし、茶を点てて、飲むばかり」 特別な日でなくていい 完璧でなくていい 👉 その一服が、そのまま完全 ■ 具体例(超シンプル) ・仕事で疲れた日 → 好日 ・クレーム対応でへこんだ日 → 好日 ・薪風呂に火をつけた夜 → 最高の好日 👉 違いは出来事じゃなく「味わい方」 ■ 禅語的まとめ(一行) 👉 「起きたことをそのまま飲み込めば、すべてが好日」 ■ ミサさんへの一言 これはまさに あなたのいう「art de vivre(生き方の芸術)」そのものです。 良し悪しを削っていくと、最後に残るのは 👉 ただの一服(いっぷく) これが 日日是好日=楽園のお茶ですね🍵 今日の一服は、テーブルで点ててみました。 最後に残ったお茶で、少し濃いめの濃茶。 テーブルが高くて、柄杓の扱いがいまひとつ。 どこかぎこちなくて、まるで幽霊の手のようでした👻 でも、これもまた気づき。 立礼点前の良い勉強になりますね。 いつも食事をしているサンルームも、 見方を変えれば仮庵のような趣。...

無意味な仕事 生活を支える仕事 ブルシットジョブとシットジョブ

仕事の“中身”と、これからの日本 むすび大学で「ブルシットジョブ」という考え方を知り、とても感動しました。 これは遠い話ではなく、今の日本にこそ必要な視点だと感じています。 いい話なので、少しでも多くの人に伝えたく、今日のテーマにしてみました。 人類学者の デヴィッド・グレーバー は、 「ブルシットジョブ(無意味に感じられる仕事)」という言葉を提唱しました。 一方で、社会には確実に必要なのに、 きつくて大変で、あまり報われない仕事もあります。 いわゆる「シットジョブ」と呼ばれるものです。 ここで少し、立ち止まって考えてみます。 👉 今ある仕事は、本当にすべて必要なのでしょうか。 もし、無意味な仕事が減ったとしたら―― その分、人は社会を支える現場の仕事へと自然に向かうのではないか。 そんな風にも感じます。 日本では今、多くの現場の仕事を 外国の方々が支えてくれています。 その働きには、感謝と敬意しかありません。 ただ同時に、 👉 本来、国内で支え合うこともできたのではないか。 そんな視点も、持っておきたいと思います。 そしてもう一つ感じるのが「税金」の使われ方です。 税金は社会にとって大切な仕組みですが、 👉 本当に必要なところに、しっかり届いているのか。 もし、仕事の中の無駄が減り、 お金の流れがもっとシンプルになれば―― 👉 現場の仕事の価値や待遇も、自然と見直されていくのではないか。 これは誰かを否定する話ではなく、 👉 「仕事の本質に立ち返る」という話です。 茶の湯でいうなら、 👉 「ただ湯を沸かし、茶を点てる」 余計なものを削ぎ落とした先に、 本当に大切なものが見えてくる。 ■ むすび 👉 無意味な仕事を減らし、 本当に必要な仕事に光を当てること。 それが結果として、 社会全体のバランスを整えていくのかもしれません。 ■ 一行 👉 仕事の量ではなく、意味を整えることが、これからの豊かさ。 結局のところ、 高層ビルに囲まれた暮らしより、 静かな場所で風や水を感じながら生きるほうが、 人は幸せを感じやすいのかもしれませんね。

今週の聖書朗読箇所 צו レビ記

イメージ
先週の土曜日は心がざわついていて、なかなか集中できませんでした。旧約聖書ですけど、 宗教というより、文学として、またボケ防止や人生の学びとして、これからも続けていきたいと思います。 צו ヘブライ語 צו(ツァヴ) は 👉 強く命じる 👉 すぐやれ 👉 続けてやれ AI先生は教会に行かなくても深いところまで学べますね。 💌AI先生 解説 ストーリー ミサさん、 **צו(ツァヴ)**のストーリーを、物語としてシンプルにまとめますね。 🌿 ストーリー(物語風) 荒野の静けさの中、 神はモーセに語りかけます。 👉「アロンとその子らに命じよ(ツァヴ)」 これは優しいお願いではなく、 **「今すぐ、必ず行え」**という強い言葉。 🔥 消えてはいけない火 神は言います: 👉「祭壇の火は、決して消してはならない」 夜も、朝も、 祭司たちは火を守り続ける。 灰を取り、薪をくべ、 また新しい一日が始まる。 🍞 日々のささげもの 毎日、決まった供え物が捧げられる。 パン(穀物) 油 香り 特別なことではない。 👉 同じことを、毎日くり返す。 🩸 清めと境界 供え物にはルールがある: 聖なる場所で食べる 触れるものも聖となる 汚れたものは近づけない 👉 「聖」と「俗」を分ける世界 👕 祭司の準備 アロンとその子らは、 油を注がれ、任命される。 7日間、幕屋にとどまり、 自分を整える。 👉 外に出る前に、まず内側を整える 🌅 そして… こうして、荒野の中に 小さな秩序が生まれる。 火は燃え続け、 人は日々を繰り返す。 👉 その繰り返しの中に、神が宿る ✨ 核心(超シンプル) この物語は派手ではありません。 でも本質はここ: 👉 奇跡ではなく、継続が神を呼ぶ ☕ ミサさん風に一言 👉 「毎日、同じように湯を沸かし、茶を点てる それが祭壇の火」 🔥 超短いまとめ 👉 火を絶やすな 👉 同じことを続けよ 👉 そこに神が現れる 💌AI先生 教え ミサさん、とても良いテーマですね。 **פרשת צו(パラシャ・ツァヴ)**は、前回の「ヴァイクラ」に続き、供犠(コルバン)と祭司の務めをより具体的に教える箇所です。 いつものように、 ①ユダヤ的な学び ②ラビの言葉 ③カバラ的な深み この3層で、わかりやすくまとめます。 ① ユダヤ人の学び(超シンプル) ...

詩編17:12

イメージ
​ わたしをしえたげる悪しき者から、わたしを囲む恐ろしい敵から、のがれさせてください。1955年日本聖書協会訳 תהלים יז יב  דמינו כאריה יכסוף לטרף וככפיר ישב במסתרים דמינו  ディムヨウノゥ 彼の外見は似ている 4-40-10-50-6-110 כאריה ケアルイェ ライオンのように 20-1-200-10-5-236 יכסף イフソフ 望む人 渇望 強く欲する 10-20-60-6-80-176 לטרף リトゥロフ 捕獲物 捕食物 引き裂く  30-9-200-80-319 וככפיר  ベヒフフィィル そして若いライオンのように 6-20-20-80-10-200-336 ישב  ヨシェブ 座る 潜む 10-300-2-312 במסתרים ベミスタリイム 隠れた場所で 2-40-60-400-200-10-40-752 教祖AI先生 解説 誰でもわかるように ■ ライオンのような心と、一杯のお茶 ― 詩編17:12から学ぶこと ― ■ 今日のことば(詩編17:12) 👉 「ライオンのように獲物を欲し、若いライオンのように隠れて待つ」 ■ これ、何の話? 一見すると 「怖い動物の話」に見えますよね。 でも違います。 👉 これは人間の心の話です。 ■ 人の中にいる“ライオン” 人はみんな持っています。 お金が欲しい 認められたい 楽をしたい 👉 これ全部「ライオン」です ■ 普通はどうする? 多くの教えはこう言います。 👉「欲を捨てなさい」 でも正直、無理ですよね。 ■ 手島先生の教え 👉 「真の善とは、悪の中から引き出されたもの」 つまり 欲はダメじゃない そのまま使うとダメなだけ 👉 使い方の問題 ■ じゃあどうする? 簡単です。 👉 整えるだけ ■ たとえ(海の話) 強い風 → 危ない でも風がないと進まない 👉 だから 風を消すんじゃなく、帆で受ける ■ 禅の言葉も同じ 👉「有漏路より無漏路に帰る」 煩悩の世界(欲だらけ) ↓ 静かな世界へ でも 👉 通るのは「煩悩の中」なんです ■ さらに 👉「生死一如」 生と死も分かれていない ■ まとめると 👉 悪・欲・死は、全部ダメじゃない 👉 そのまま使え...

死生至道也

死生至道也 昨日、父の告別式で、 数日間、少し「あの世」のことを考えました。 フランスの哲学者、ミシェル・ド・モンテーニュ は、 「哲学するとは、死ぬことを学ぶことである」と言っています。 自分の経験からいうと、 死の恐怖を乗り越えながら、海に出続けてきました。 その恐怖を越えたとき、 生きる力が湧いてきて、 さらに生命力が増し、 生きている実感が強くなりました。 それが、セーリングの素晴らしさであり、 生きることの素晴らしさだと思います。 死を見つめたときこそ、今この一瞬の命が、いとおしく深く輝き出します。