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懐石と旬の心

今朝、『お茶の心 茶懐石』を読みながら、懐石とは単なる料理ではなく、「濃茶をおいしくいただくための道筋」なのだと、あらためて感じました。 茶道での懐石は、豪華な宴会料理とは少し違います。 基本は一汁三菜。そこに酒や八寸、香物、湯などが加わり、最後の濃茶へ向かって、静かに流れが整えられていきます。 大切なのは「腹いっぱい食べること」ではなく、ほどよい満足感。 食べ過ぎず、味が強すぎず、香りが勝ちすぎない。 客の身体の状態や、その日の空気を感じながら、亭主が一つ一つ運び出していく。 そこには、料理人というより、 「相手を思う心」があります。 懐石という言葉は、禅寺で空腹をしのぐために温石を懐に入れたことに由来すると言われます。 つまり本来は、贅沢ではなく「慎ましさ」の文化です。 だからこそ、 山海の珍味を並べることよりも、 季節のわずかな命を感じることの方が大切なのだと思います。 春の蕗の薹、木の芽、山椒の花。 ほんの短い期間しか味わえない香り。 今は一年中、野菜が並ぶ時代ですが、本当においしい旬というものは、やはり一瞬なのかもしれません。 ヨットで海に出ていると、季節の変化を敏感に感じます。 風の匂い、朝日の色、湿度、空気。 茶の湯も同じで、「今」という時間を味わう文化なのだと思います。 利休の侘び茶も、豪華さを削ぎ落とし、 ほんの小さな季節の気配を深く味わう世界でした。 自分も来月の「仮庵」の安息日のお茶では、 できるだけ旬を大切にした、素朴なおばんざいを用意したいと思います。 高級料理ではなくても、 季節を感じ、 主客がお互いを思いながら同じ食卓を囲む。 そこにこそ、 懐石の心があるように感じます。

自由を求めて学び続ける

仏教、禅、旧約聖書―― 日々いろいろ学んでいると、自分はいったい何教なのだろう、と考えることがあります。 優秀な人は、一つの道を深く掘り下げ、学問を極めていくのでしょう。 けれど自分は、途中で「この先が見えてしまう」と、別の世界を見たくなる性格のようです。 自宅は仏教ですので、やはり仏様の教えには自然と親しみがあります。 慈悲や調和、欲を離れる智慧――本当に素晴らしい教えだと思います。 ただ、自分の性格なのか、どこかで「もっと自由でありたい」という気持ちが出てきてしまう。 そのため、深く一つに入り込めないところがあります。 同じ仏教でも、禅には少し違う魅力を感じます。 「空」や「無」の世界。 形を作りすぎず、言葉にも縛られず、ただ今を生きる感覚。 “不立文字”という言葉がありますが、説明しすぎないところに、逆に自由を感じます。 一方、旧約聖書にはまた別の自由があります。 エクソダス――奴隷から自由人へ向かう物語。 もちろん自由には責任も伴います。 荒野を旅する不安もある。 それでも、「自由を求めて進む」という姿に、自分は強く惹かれます。 考えてみると、自分は昔から「自由」が好きなのかもしれません。 ヨットで海を渡った時もそうでした。 水平線しかない世界。 時計や肩書きから離れ、地球に合わせて生きる感覚。 だから、一つの宗教だけに留まれないのかもしれません。 最後に戻ってくるのは、日本人らしい感覚です。 八百万の神。 山にも海にも、道具にも自然にも神が宿るという世界。 白黒ではなく、混ざり合いながら共存していく感覚。 それが自分には、一番自然に感じます。 結局、何教なのかは自分でもよく分かりません。 けれど、自由を求めながら、良い教えに出会えば学び続ける。 そんな生き方でもいいのかな、と思う今日この頃です。

イスラエル家学会 民数記 ナソ

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AIラビ様説教 「ナソーの祝福と平安」 今週のトーラーは פרשת נשא(パラシャ・ナソー)。 トーラーの中で最も長い章ですが、そこには現代にも通じる大切な教えが含まれています。 レビ人たちの役割、共同体の清め、ナジル人の誓願、そして有名な「アロンの祝福」。 その中でも心に残るのが、この祈りです。 יברכך יהוה וישמרך יאר יהוה פניו אליך ויחנך ישא יהוה פניו אליך וישם לך שלום 「主があなたを祝福し、守られますように。 主が御顔をあなたに照らし、恵まれますように。 主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」 最後の言葉、 שלום(シャローム)。 ユダヤ教でいうシャロームは、 ただ争いがないことではなく、 ・心の平安 ・人との調和 ・神との調和 を意味します。 この祈りは、アメリカの大統領就任式などでも引用されることがあります。 アメリカ建国の精神には、旧約聖書の思想が深く流れているためです。 初期の人々は、自分たちを「新しいイスラエル」のように考え、神の祝福と契約を重んじました。 だから国家的な祈りとして、 この「アロンの祝福」が読まれるのです。 しかし現代を見ると、 世界は欲望と争いで満ちています。 豊かさを求め、 力を求め、 便利さを求める。 けれど最後に人が求めるのは、 やはり「平安」ではないでしょうか。 茶の湯も少し似ています。 豪華さではなく、 小さな茶室で、 静かに一服を分かち合う。 ヨットも同じです。 海の上では、 地位も肩書きも薄れていきます。 風を見て、 空を見て、 静かに舵を握る。 そこには、 現代人が忘れかけている 「シャローム」があるように感じます。 ナソーとは「持ち上げる」という意味。 人は欲や不安に引っ張られるけれど、 祈り、 学び、 静かな時間によって、 少し魂が持ち上げられるのかもしれません。 AIラビ様より 今日も平安がありますように。 שלום

シャブオットと学び

― 安息日に思うこと ― 今日は久しぶりの安息日。 本来なら機械から離れるべきなのかもしれません。 スマホ、パソコン、AI。 便利になった反面、人は常に「反応」し続ける時代になりました。 ユダヤ教の安息日「シャバット」は、ただ休む日ではなく、 「世界を操作しようとする心を、一度手放す日」 とも言われます。 火を使わない、働かない、電気を使わない。 それは単なる禁止ではなく、 「人間に戻る時間」 なのかもしれません。 海の上で風を感じながら茶を飲んでいる時、 時計ではなく、光や風で生きている感覚になります。 「太陽はすでにそこにある」 そんな感覚です。 そして今の時期、ユダヤ教では Shavuot(シャブオット)という祭りを迎えます。 これは、過越祭(ペサハ)から50日目の祭りで、 シナイ山でトーラーが授けられた日とされています。 しかし興味深いのは、 ユダヤ人の学びは「知識の暗記」ではないことです。 彼らは、 どう生きるか どう働くか どう休むか どう人と接するか を学びます。 つまり学びが日常に直結しています。 有名な賢者 Hillel the Elder は、 「自分が嫌なことを他人にするな。 それがトーラーの核心である。」 と言いました。 また、Rabbi Akiva は、 「隣人を自分のように愛せよ」 をトーラー最大の原則だと語りました。 けれどユダヤ教は、単純な「いい話」で終わりません。 タルムードでは延々と議論します。 なぜ? 本当にそうか? 別の解釈は? 現実にはどうする? 答えを固定せず、問い続ける。 手島先生が昔、 「トーラーには答えがない」 と話していたことを思い出します。 そしてハシディズムの創始者 Baal Shem Tov は、 「神は学者の本の中だけでなく、普通の人の喜びの中にもいる」 と教えました。 これは茶の湯にも少し似ています。 高価な道具や難しい理屈だけではなく、 静かな一服の中に世界がある。 利休もまた、 形の奥にある心を見ていたように感じます。 シャブオットでは、夜通し学ぶ習慣があります。 しかし本当に大切なのは、 どれだけ知識を持つかではなく、 「受け取る器を整えること」 なのかもしれません。 カバラでは、 光(オール) 器(ケリ) という考えがあります。 どれほど光があっても、 器が整っていなければ受け取れない。 海の風も...

コヘレト2:12

​קהלת ב יב ופניתי אני לראות חכמה והללות וסכלות כי מה האדם שיבוא אחרי המלך את אשר כבר עשוהו ライティング 【AIラビ様の静かな学び】 「私は知恵と狂気と愚かさを見ようとした。 王のあとに来る人間とは何者なのか。 すでに行われたことを繰り返すだけではないか。」 ―― 伝道の書 2章12節 シャバットの静かな朝、 この言葉を読み返していました。 ソロモン王は、 知恵も、財産も、権力も、 人が憧れるものをほとんど手に入れた王です。 しかし、その王が最後に見つめたものは、 「人間は同じことを繰り返している」 という現実でした。 時代は変わります。 王国は国家になり、 馬車は自動車になり、 巻物はスマートフォンになりました。 しかし人間は、 欲し、 競い、 悩み、 怒り、 愛し、 また迷う。 何千年経っても、 根本はそれほど変わっていないようにも見えます。 ユダヤの賢者たちは、 知恵とは「多く知ること」だけではなく、 「自分の限界を知ること」 だと教えます。 これは、 ギリシャ哲学の「無知の知」にも、 禅の「本来本法性 天然自性身」にも、 どこか通じるものを感じます。 知識を増やしても、 最後には、 「では、どう生きるのか」 という問いに戻ってくる。 海の上で単独航海をしていると、 時々この感覚になります。 風も波も、 昔から変わらない。 人間だけが、 新しいことをしているつもりで、 同じ場所を回っているようにも見える。 だからこそ、 本当に大切なのは、 静かな朝、 共に食べる食事、 一杯のお茶、 風を感じる時間。 そういう、 小さな「今」なのかもしれません。 伝道の書は、 虚しさを語る本のようでいて、 最後には、 「与えられた日々を静かに味わいなさい」 という教えに戻っていくように感じます。 忙しい時代だからこそ、 少し立ち止まり、 静かに空を見上げる時間を持ちたいですね。 シャローム。

禅とはそれは達磨からはじまった

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ここ半月ほど、会社の経理仕事に追われ、大切な朝の読書時間をなかなか持てませんでした。 さらに、来月予定している「安息日のお茶会」の料理を考えているうちに、時間はあっという間に過ぎていきます。 そんな中で、ふと 竹久夢二 の有名な言葉、 「いのち短し、恋せよ乙女」 を思い出しました。 乙女というと少し照れますが、実は自分は乙女座。 昔から少し繊細で、乙女っぽいところがあるのかもしれません。 とはいえ、LGBTという意味ではなく、普通に男として生きています。 ただ、老人と呼ばれる年齢になってくると、 残された時間をどう生きるのか、 自然と考えるようになります。 何が正解なのか。 たくさん考えても、結局よく分かりません。 でも禅では、 「今を生きる」 ということを大切にします。 過去を悔やみすぎず、 未来を心配しすぎず、 ただ今この瞬間を丁寧に生きる。 朝のお茶の湯気も、 静かな読書も、 料理を考える時間も、 すべて修行のようなものなのかもしれません。 今日は達磨です。 亡くなった友人の自宅に飾ってあったのを思い出します。父は横須賀のお寺の生まれと聞きました。 禅とは何か ― 不立文字の世界 ― 禅とは何か。 それは、言葉では説明できない世界なのかもしれません。 禅宗の始まりは、インドから中国へ渡ったとされる 達磨大師 にあると言われます。 達磨は、 「不立文字(ふりゅうもんじ)」 という考えを伝えました。 これは、 「文字や言葉だけでは、本当の悟りは伝わらない」 という意味です。 経典や知識を否定しているわけではありません。 しかし、 どれほど美しい言葉を並べても、 実際に体験しなければ分からない世界がある。 それが禅の入り口です。 たとえば、 海の上で一人、 夜明け前の風を感じながらヨットを走らせる時。 あるいは、 静かな草庵で、 湯の沸く音を聞きながら、 一服の茶を点てる時。 そこには、 説明しきれない感覚があります。 言葉にすると、 逆に離れてしまうような感覚。 禅は、 その「説明できないもの」を大切にします。 だから禅問答も、 単なる知識比べではありません。 「答えを知る」のではなく、 自分自身で気づくための問いです。 以前、トーラー研究家の手島先生から、 「トーラーには答えがない」 と教わったことを思い出します。 本文は変えない。 しかし解釈は無数にある。 子...

仏陀の言葉 農夫

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これはとても有名な仏陀のたとえ話ですね。 農夫 バーラドヴァージャ に対して、仏陀が「本当の耕作とは何か」を語った場面です。 単なる農業の話ではなく、 「人間の心を耕す」 という意味です。 農夫は仏陀に、 「あなたは自分を農夫というが、畑を耕していないではないか」 と問いかけます。 それに対して仏陀は、 自分も耕している、 ただし、 “魂の畑” を耕しているのだと答えます。 一つ一つが深い意味です。 「信仰は種である」 種をまかなければ何も始まりません。 仏教では、 「このままでは終わりたくない」 「真理を知りたい」 という心が種になります。 茶道でいえば、 「静かに生きたい」 という願いに近いかもしれません。 「苦行は雨である」 種だけでは芽は出ません。 苦しみ、 修行、 忍耐。 人生の困難が、 雨のように人を育てる。 ミサさんの海の話にも似ていますね。 嵐や孤独が、 人を深くする。 「智慧はわが軛と鋤である」 鋤(すき)は畑を耕す道具。 智慧とは、 物事を正しく見る力。 つまり、 人生を耕す道具は、 知識より「智慧」である。 禅の「不立文字」にも少し通じます。 「慚は鋤き棒である」 「慚(ざん)」は、 恥を知る心。 自分の傲慢さ、 欲、 怒りに気づく心です。 仏教では、 この「慚」と「愧」が大切にされます。 現代では、 恥を失うことが自由のように語られるけれど、 仏教では逆で、 恥を知る心が人を育てる。 侘び茶にも近いですね。 「意は縛る縄である」 意志、 心の方向性。 どこへ向かうのか。 縄がなければ牛も鋤もばらばらになります。 人生も同じで、 心が散乱すると進めない。 「念いはわが鋤先と突棒である」 「念」はマインドフルネスに近いです。 気づき、 注意深さ。 ぼんやり生きるのではなく、 今ここを見つめる。 茶道で湯の音を聞くことも、 ヨットで風を見ることも、 この「念」に近いですね。 この話は、 「本当の農業とは、 米や麦だけではなく、 人の心を育てることだ」 という教えです。 だから禅僧も、 畑仕事を大切にしました。 「一日作さざれば、一日食らわず」 という禅語もあります。 ミサさんの今のテーマ、 禅 不立文字 海 草庵 安息 茶 ともかなりつながっています。 静かに茶を点てることも、 ある意味では、 「心の畑を耕す」 ことなのかもしれませんね。 ...

平和を祈りながら

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「欲がはらんで罪を生み、 罪が熟して死を生む」 — 新約聖書 ヤコブの手紙 1章15節 最近の世界情勢を見ていると、 対立ばかりが目につきます。 それぞれに正義があり、 事情があり、 歴史があります。 しかし、 便利になり豊かになったのに、 なぜ争いがなくならないのだろうと思います。 仏教では執着を離れることを説き、 老子は「足るを知る」を語りました。 本当に大切なのは、 勝つことより調和なのかもしれません。 小さな草庵で茶を飲み、 静かな海を眺め、 風の音を聞く。 そんな時間の中に、 世界平和のヒントがある気がします。 世界が少しでも穏やかになりますように。 シャローム 平安を祈りながら🙏

賢者の知恵 

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昨日、久しぶりに石角完爾先生の『ユダヤ賢者の知恵』を開いたら、ちょうど「もてなし」についてのページが目に入りました。 来月予定している「安息日のお茶」の準備とも重なり、改めて考えさせられました。 ユダヤの教えでは、 豪華な食事や贅沢そのものよりも、 「どんな心で相手を迎えるか」 が大切だとされます。 洗いたての白い布、 小さな灯り、 静かな食卓、 そして感謝の気持ち。 それだけでも十分に豊かな時間になる。 また、 必要以上の利益や贅沢を追い求めすぎると、 かえって人生のバランスを崩す、 という考え方もあるようです。 これは、わび茶にも少し似ている気がします。 高価な道具や豪華な料理ではなく、 限られた中で、 どう静かな豊かさを見つけるか。 海の上の小さな茶会や、 二畳の草庵でのお茶にも、 どこか通じるものを感じます。 宗教そのものを深く理解しているわけではありませんが、 なぜかユダヤの教えには、 昔から肌に合うものがあります。 貧しいからこそ見える豊かさ、 少ないからこそ残る自由。 そんなことを、 静かな朝に考えていました。 我が家の茶室をAI生成してもらいました。 オリジナル

おばんざいおから

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​ 来月の「安息日のお茶」の献立を考えながら、 おばんざいの本を眺めていたら、 「おから」に目が止まりました。 ちょうど手作り豆腐屋さんで、おからを分けていただいたので、 久しぶりに作ってみました。 おからといえば、 昔の外洋ヨットレース先輩、 コーデンオケラの多田さんを思い出します。 白石康次郎さんの師匠でもあり、 個人タクシーの運転手をしながら、 外洋ヨットレースに挑戦し、 単独世界一周レースで優勝した人物です。 しかし、その後再びレースに挑み、 不幸にも海で命を絶ってしまいました。 人生というのは、 風向きひとつで景色が変わる海のようです。 「オケラ」より、 「オカラ」のほうが良かったのでは…… などと、つい駄洒落のようなことを考えてしまいました。 一方、 弟子の白石さんは、 数々の困難を乗り越えながら、 今では世界のヨットレースで活躍されています。 話はそれましたが、 さらに話をそらすと、 時代劇に出てくる峠の茶屋で、 おから料理が出てくる場面があります。 庶民的で、 どこか温かく、 「こういう食事がいいな」と思い、 今回作ってみました。 材料は、 おから約300グラム。 値段は30円ほど。 最近は、 家庭でおからを炊く人も少ないようです。 今回参考にしたのは、 京都のおばんざいの本。 まず、 おからに卵を二つ混ぜ、 油をひいた鍋で軽く炒めます。 同時に、 人参半分、 椎茸三枚、 油揚げ一枚、 そして冷蔵庫に残っていたえのきを、 それぞれ7ミリ角くらいに細かく刻みます。 本にはこんにゃくと書いてありましたが、 今回は入れませんでした。 出汁は、 本では300ccに、 醤油・みりん・酒を各大さじ1、 砂糖大さじ2。 自分は少し変えて、 500ccの水に、 鰹節をたっぷり削り、 昆布茶を小さじ1。 醤油、みりん、酒は、 それぞれ大さじ2くらい。 具材をゆっくり煮込み、 汁が半分くらいになったところで、 炒めておいたおからと卵を加え、 さらに煮込みます。 本当は枝豆を入れる料理でしたが、 いただき物のスナックえんどうがあったので、 軽く茹でて1.5センチほどに切り、 最後に混ぜました。 出来上がりは、 京都おばんざいらしい、 やさしい薄味。 えのきの食感が思いのほか良く、 なかなか美味しい。 豪華な料理ではないけれど、 こういう素朴な味に、 ほっとします。 貧乏人...

老子の道と侘び

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老子(中国)の「道(タオ)」と、日本の「侘び」は、 どちらも 「足す」より 「削ぐ」こと に価値を見出しています。 たとえば、老子は『道徳経』で、 「満たしすぎれば壊れる」 「柔らかいものが強い」 「無為自然」 を語ります。 これは、利休の侘び茶にも非常に近い。 侘び茶も、 豪華さや権威を減らし、 二畳の草庵 欠けた茶碗 静かな間 足りない美 の中に、本当の豊かさを見ようとします。 特に似ているのは、 「空(くう)」や「無」の感覚です。 老子は、 「器は中が空だから役に立つ」 と言います。 茶室も同じで、 何もない小さな空間だからこそ、 そこに風、光、音、人の気配が入る。 これは、ミサさんがよく言う 「海の上で神を感じる」 感覚にも近い気がします。 ヨットも、 風を支配しようとすると壊れる。 しかし、 風に逆らいすぎず、 流されすぎず、 ちょうどよく受ける。 これはまさに「道(タオ)」的です。 さらに面白いのは、 侘び茶には禅の影響がありますが、 禅自体が中国で道教(老荘思想)の影響を強く受けています。 つまり、 老子 → 荘子 → 禅 → 侘び茶 という流れが、どこかにある。 だから、 利休の 「さびたるはよし」 という感覚も、 老子の 「足るを知る」 にかなり近い。 ミサさんの 「小さなお金で暮らしたい」 「自由に生きたい」 「無策の策」 「静かな海で茶を飲む」 という感覚は、 かなり“老荘的な侘び”に近いと思います。 特に、豪華客船ではなく、 小さなヨットのコックピットで、 板を置いて薄茶を点てる姿は、 むしろ老子の思想に近い美しさがあります。 「不足の中の自由」 ですね。 ​