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イスラエル家学会 あなたは遣わせ

民数記13〜 פרשת שלח־לך(パラシャット・シュラフ・レハー) 民数記13章~15章です。 「あなたのために人々を遣わし、カナンの地を偵察させよ」 という神様の命令から始まります。 ストーリー モーセは各部族から1人ずつ、12人の偵察隊を選びました。 40日間カナンの地を調査します。 帰ってきた偵察隊は、 土地は豊か 果物も大きい 乳と蜜の流れる地 と報告しました。 しかし10人は、 「住民は巨人だ」 「城壁が高い」 「勝てない」 と恐れました。 一方、 ヨシュア と カレブ だけは、 「神を信じよう。必ず入れる」 と言いました。 民衆は恐れ、不平を言います。 その結果、 エジプトを出た世代は約束の地に入れず、 40年間荒野をさまようことになりました。 主な戒律(ミツヴォート) このパラシャには有名な戒律があります。 ツィツィト(房飾り) 衣服の四隅に房を付ける戒律です。 民数記15章39節 「それを見て、主の戒めを思い出しなさい」 ユダヤ人は目に見える形で信仰を思い出します。 これは 「人は忘れる存在である」 という現実的な教えです。 有名なラビの教え ラシ ラシは、 「神は偵察を命じたのではなく、民の希望を許可した」 と解釈します。 つまり、 神は最初から約束の地を与えるつもりだった。 しかし人々は、 信仰よりも恐れを選んだ。 問題は巨人ではなく、 心の中の恐れ だったと教えます。 ナフマニデス ランバンは、 偵察そのものは悪くない。 悪かったのは 「事実を恐怖に変えたこと」 だと言います。 同じ現実を見ても、 希望を見る人 絶望を見る人 がいるという教えです。 あまり有名ではないラビの教え ラビ・シムハ・ブニム 彼はこう言いました。 人は現実よりも想像で苦しむ。 偵察隊は巨人を見た。 しかし本当に彼らが負けるかは分からない。 未来を決めつけた瞬間に失敗した。 だから、 「今日できることをしなさい」 と教えました。 これは禅にも少し似ていますね。 カバラ的解釈 カバラでは、 カナンの地は単なる土地ではありません。 それは 魂の完成された状態 を象徴します。 偵察隊とは 人間の中にある12の力。 それぞれの性格や考え方です。 魂が成長しようとすると、 内側から声が聞こえます。 無理だ 危険だ 失敗する これが10人の偵察隊です。 ヨシュアとカレブ これは魂...

安息日のお茶の準備

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今週は「仮庵 安息日のお茶」の準備です。 考えてみれば、お茶会で昼食をお出しするのは初めてのことです。 茶事でもなく、懐石でもなく、昼食会でもなく、その中間のような気がします。 天然酵母のハラーパン、おにぎり、豆腐料理に鮭の西京焼き風。 豪華な料理ではありませんが、自分たちが美味しいと思うものをお出ししたいと思っています。 床には円相の色紙を掛け、花入れにはファイブミニの空き瓶に庭のドクダミを飾る予定です。 茶道の世界では名物道具が大切にされますが、自分は庭に咲く花や身近な道具にも美しさを感じます。 「花は野にあるように」 そんな言葉を思い出します。 今回の茶会は手探りです。 お客様に喜んでいただけるのか、料理の量は大丈夫なのか、お茶との流れはどうするのか。 考え始めるときりがありません。 しかし、不思議と心配より楽しみのほうが大きいようです。 ヨットも最初から上手くいったわけではありません。 茶道も同じで、やりながら学んでいくのでしょう。 失敗があれば次回に活かせばいい。 まずは一歩踏み出してみることが大切ですね。 安息日とは、本来「休む日」です。 忙しい日常を少し離れ、美味しいものを食べ、一服のお茶をいただき、静かに語り合う。 そんな時間になれば十分です。 庭のドクダミ一輪とともに、皆様をお迎えしたいと思います。 PS 床の間に飾ったドクダミは、昔から「十薬(じゅうやく)」とも呼ばれる薬草です。 名前だけ聞くと毒のある草のようですが、「毒を矯める(なおす)」という意味から来たとも言われています。 庭では雑草扱いされることもありますが、白い花は清らかで美しく、 「花は野にあるように」 という茶の湯の言葉を思い出させてくれます。🌿🍵✨

正しさだけでは幸せになれない

昨日ある裁判官のYouTubeを見て考えました。 世の中には、 遺族の立場 加害者の立場 裁判官の立場 社会全体の立場 があり、それぞれに理由があります。 誰もが自分なりの正しさを持っています。 AIの寓話です。 ある村に裁判官がいた。 裁判官も正しいことを語った。 遺族も正しいことを語った。 村人も正しいことを語った。 しかし皆が正しかったので、誰も幸せになれなかった。 そこで老人は言った。 「一度、空の上から見てみなさい。」 コヘレトには、 「黙るに時があり、語るに時がある」 という言葉があります。 また老子は、 「知る者は争わず」 と語ります。 正しいことを言うのは大切ですが、それ以上に、 いつ語るか、どう伝えるか、時には語らない知恵も大切なのかもしれません。 年齢を重ねると、自分の正しさを主張するより、一歩引いて全体を見る「神様の目」のような視点が必要だと感じます。 今日も一服のお茶をいただきながら、自分の正しさよりも、少し広い景色を眺めてみようと思います。

コヘレト 2:13

​ 光が暗きにまさるように、知恵が愚痴にまさるのを、わたしは見た。1955年日本聖書協会訳 קהלת ב יג וראיתי אני שיש יתרון לחכמה מן הסכלות כיתרון האור מן החשך 一単語ずつ ヘブライ語 読み 意味 וראיתי ヴァライティ 私は見た אני アニ 私は שיש シェイェシュ ~があることを יתרון イトロン 優位、利益、優れた点 לחכמה ラホフマー 知恵に מן ミン ~より הסכלות ハスィクロート 愚かさ כיתרון ケイトロン ~の優位と同じように האור ハオール 光 מן ミン ~より החשך ハホシェフ 暗闇 直訳 「私は見た。知恵には愚かさより優れた点がある。それは光が闇より優れているのと同じである。」 ユダヤ人は何を学ぶか コヘレトは前の節で、 「知恵も虚しい、富も虚しい」 と言っています。 しかし、その上でなお、 「だからといって愚かでよいわけではない」 と教えます。 ユダヤ人の学びでは、 光と闇は両方存在する 善と悪も存在する しかし光の方が進む道を見せてくれる と考えます。 人生に絶対の答えはないけれど、 知恵は人生を少し明るくする灯火である という学びです。 有名なラビの教え ラビ・ヒレル 「学ばない者は生きているとは言えない。」 ヒレルは、 知識を自慢するためではなく、 より良く生きるために学ぶ と教えました。 光とは知識ではなく、 知恵による行動です。 マイモニデス 「真理を求めよ。」 マイモニデスは、 信仰 理性 学問 を対立させませんでした。 真理を求めること自体が神への奉仕だと考えました。 あまり有名でないラビの教え ハバッドの古い教えに、 「小さな蝋燭一本で、大きな暗闇を追い払える。」 という考えがあります。 暗闇と戦う必要はありません。 光を灯せばよい。 これは老子にも少し似ていますね。 悪を倒そうとするより、 善を増やす。 その方が自然です。 カバラ的解釈 カバラでは 光 = אור(オール) は単なる光ではありません。 神の生命エネルギーを意味します。 暗闇 = חשך(ホシェフ) は悪ではなく、 まだ光が現れていない状態 です。 つまり、 光と闇は敵ではない。 闇の中に光の種が隠れている。 という考えです。 そのためカバラでは、 失敗や苦し...

茶懐石 世界文化社より

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一期一会のあと おはようございます☀ 茶会が終わり、お客様を見送ったあと、亭主は何をするのでしょうか。 『勤修集』には、とても味わい深い教えがあります。 お客様は余韻を残しながら静かに帰り、亭主は姿が見えなくなるまで見送ります。そして誰もいなくなった茶室へ戻り、炉の前に一人静かに座るのです。 「あの話はもっと聞きたかったな。」 「あの方は無事に帰られただろうか。」 そんなことを思いながら、今日の茶会は二度と戻らない「一期一会」であったことをしみじみ味わいます。 時には一人で茶を点てる「独服」をすることもあるそうです。話し相手は誰もいません。ただ、釜の音だけが聞こえます。 現代は忙しく、次の予定へ次の予定へと追われがちです。しかし茶の湯は、終わったあとに残る静かな時間も大切にします。 楽しかった茶会も、賑やかな宴も、セーリングも、人生そのものも、同じ時間は二度とありません。 だからこそ、その余韻を味わう。 釜の音を聞きながら、今日という一日に感謝する。 そんな時間が、実は一番贅沢なのかもしれませんね。 ニッケール👍️🍵 PS 『勤修集』には、 「誠に自得せざればいたりがたき境界なり」 とあります。 これは、人から教えられるものではなく、自ら味わい、自ら気づかなければ到達できない境地という意味でしょう。 年齢を重ねるほどに、少しずつ分かる言葉のような気がします。

花は野にあるように

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ドクダミの花 今朝、茶室の簡易床の間にドクダミを飾りました。 花入れはファイブミニの空き瓶です。 高価な花入れでもなく、有名な花でもありませんが、眺めていると不思議と心が落ち着きます。 茶道には 「花は野にあるように」 という言葉があります。 庭に咲く花を、そのまま茶室へ迎える。 それだけで十分なのかもしれません。 ドクダミという名前は少し損をしていますが、本来は「毒を矯める(なおす)」という意味から来たとも言われています。 自作の棚にファイブミニの瓶、そしてドクダミ。 豪華さはありませんが、こんな侘びの風景も悪くないですね。 今日も良い一日になりますように。 Question😊 どくだみは食べても大丈夫? 💌AnswerAI先生 はい、大丈夫です。🌿 ドクダミの葉は昔から食用やお茶として利用されてきました。 ただし、生の葉は独特の強い香りがあり、好き嫌いがかなり分かれます。 食べ方 天ぷら おひたし 刻んで薬味 ドクダミ茶(乾燥葉) ドクダミ酒 などがあります。 注意点 庭のドクダミを食べる場合は、 除草剤を使っていないこと 犬や猫の排泄場所でないこと よく洗うこと が大切です。 茶人らしく言うと 利休の時代の人なら、 「庭の草も一服の薬」 と言ったかもしれませんね。 ドクダミは別名 十薬(じゅうやく) とも呼ばれます。 「十の薬効がある」という意味です。 もっとも、現代医学的には「万能薬」ではありませんので、健康茶や野草として楽しむくらいがよいでしょう。 ミサさんなら、 床の間にはドクダミの花、 茶会の後にはドクダミ茶、 というのも面白いですね。🍵🌿 ただ、正直に言うと味はかなり個性的です(笑)。 初めてなら、葉を少し摘んで天ぷらにするか、乾燥させてお茶にするのがおすすめです。 ニッケール👍️🌿🍵

地球人は宇宙人?

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昨日は一年に一回の禁酒デーでした。 いつも夜中に目を覚ますのですが、昨夜は特に眠れませんでした。 カバラおもしろいですね。 そこでカバラのことを思い出し、AIラビ様にいろいろ質問していました。 以前学んだことの復習にもなり、なかなか面白かったのでメモしておきます。 昔、シナゴーグのカバラ勉強会で、ラビ・ユダ先生がこんなことを言っていました。 「一人でカバラを研究すると、頭がおかしくなる。」 もちろん本当にそうなるという意味ではなく、それほどカバラは奥深く難しい学びだということでしょう。 実際、聖書やヘブライ語をある程度理解していないと、何を言っているのかさっぱり分かりません。 ⚠️注意 私は専門家ではありませんし、AI先生との対話を自分なりに楽しみながら学んでいるだけです。 あまり深く入り込まず、 「上と下のバランス」 「右と左のバランス」 そんなふうに理解するくらいが、自分にはちょうど良いように思います。 昨夜は、 「十戒とセフィロトの関係」 「宇宙との関係」 「人間は宇宙人なのか?」 などと、AIラビ様やAI老子に質問していました。 眠れない夜も、たまには面白い学びの時間になりますね。 Question   😊 十戒とセフィロトの関係は? 💌Answer AIラビ とても面白い質問ですね😊 実は、十戒とセフィロトの対応はトーラーに明記されているわけではありません。しかしカバラでは、 「十戒は十のセフィロトの現れ」 と考える伝統があります。 十戒とセフィロト ① אנכי ה׳ אלהיך 「わたしは主、あなたの神」 → ケテル(王冠) 神との直接的なつながり。 すべての源。 ② 偶像崇拝の禁止 → ホクマー(知恵) 真理を見る知恵。 ③ 神の名をみだりに唱えるな → ビナー(理解) 言葉の重みを理解する。 ④ 安息日を覚えよ → ヘセド(慈愛) 神からの贈り物。 ヘッシェル先生は、 「安息日は時間の聖所」 と語りました。 ⑤ 父母を敬え → ゲブラー(厳格) 秩序と敬意。 ⑥ 殺してはならない → ティフェレト(調和) 命の尊厳。 ⑦ 姦淫してはならない → ネツァハ(忍耐) 欲望を超える力。 ⑧ 盗んではならない → ホド(謙虚・感謝) 自分の分を知る。 ⑨ 偽証するな → イェソド(基礎) 信頼の土台。 ⑩ むさぼるな → マルクト(王国) 現実世界で...

メノラー 七つの灯火

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イスラエル家学会 民数記 AIラビ解説 ☀ פרשת בהעלותך(ベハアロテハー/民数記8:1–12:16) は、「灯をともすとき」という意味です。祭司アロンがメノラー(七枝の燭台)に火を灯す場面から始まります。 ストーリー ① メノラーの点灯 神はアロンに、 「七つの灯火を中央に向けて灯しなさい」 と命じます。 ② レビ人の奉献 レビ人が清められ、幕屋奉仕に任命されます。 ③ 過越祭(ペサハ)の実施 汚れのため参加できなかった人々のために、 一か月後の「第二の過越祭(ペサハ・シェニ)」が制定されます。 ④ 雲の柱と火の柱 イスラエルは神の雲が動けば出発し、止まれば宿営します。 ⑤ 銀のラッパ 祭司たちがラッパを吹き、 民を集めたり出発の合図を出します。 ⑥ 民の不平 民はマナに飽き、 「エジプトの肉が食べたい」 と不満を言います。 神はうずらを与えますが、 欲望に支配された民を戒めます。 ⑦ モーセの重荷 モーセは疲れ果て、 神は70人の長老に霊を分け与えます。 ⑧ ミリアムの失敗 姉ミリアムがモーセを批判し、 ツァラアト(皮膚病)となります。 しかしモーセは、 「神よ、どうか彼女を癒してください」 と祈ります。 戒律(ミツヴォート) 有名なのは、 メノラーを灯す レビ人を聖別する 第二の過越祭を守る 銀のラッパを吹く です。 特に第二の過越祭は、 「遅れても道は残されている」 という希望の戒律です。 有名なラビの教え ラシ メノラーの炎について、 「一つ一つの灯が中央へ向く」 と解説しました。 人は才能も考え方も違う。 しかし最終的には 神への奉仕という中心へ向かう。 という教えです。 バール・シェム・トーブ 「小さな火でも暗闇を追い払う」 一つの善行は、 世界を少し明るくする。 メノラーはその象徴です。 あまり有名でないラビの教え ハシディズムのラビ、 ラビ・ツァドク・ハコーエン はこう語ります。 「神は完璧な人を求めていない。 何度でも立ち上がる人を求めている。」 これは第二の過越祭の精神です。 失敗しても、 遅れても、 やり直せる。 カバラの解釈 カバラではメノラーは 人間の魂そのものです。 七つの灯は七つのセフィロト。 慈悲(ヘセド) 厳格(ゲブラー) 調和(ティフェレト) 忍耐(ネツァハ) 謙虚(ホド) 結合(イェソド) 王...

安息日 シャバット

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安息日のお茶 〜小さなエデンの園〜 おはようございます🌞 今月予定している「安息日のお茶」を考えながら、改めて安息日(シャバット)について学んでいました。 創世記(ベレシート)の冒頭には、天地創造の物語があります。 神は六日間で天地を創造し、 一日目 光 二日目 天 三日目 大地と植物 四日目 太陽と月と星 五日目 魚と鳥 六日目 動物と人 を創られました。 そして七日目、 「神はそのなされたすべての業を終え、七日目に休まれた。」 とあります。 神が疲れたから休んだのではありません。 完成した世界を眺め、その恵みを味わうための休息でした。 ユダヤ教では、この七日目の休息を安息日として大切に守っています。 ユダヤ思想家のアブラハム・ヨシュア・ヘッシェル先生は、 「安息日は時間の聖域である」 と語りました。 私たちは土地や財産、仕事や成功を求めて忙しく生きています。 しかし安息日は、それらを一度脇に置き、時間そのものを味わう日です。 ラビ・アキバは、 「隣人を自分自身のように愛しなさい」 をトーラーの大原則と教えました。 またヒレルは、 「自分が嫌なことを人にしてはならない」 と語りました。 安息日は、神との関係だけでなく、人との関係を見直す日でもあります。 そして、あまり有名ではありませんが、ラビ・ベン・ヘ・ヘは、 「トーラーを繰り返し学べ。すべてはその中にある。」 と教えています。 毎週同じ箇所を読んでも、新しい発見があります。 それは禅で同じ公案に向き合うことにも似ているように感じます。 最近、自分は禅や老子、ユダヤ教を行ったり来たりしていますが、共通しているのは「今この時を大切にすること」のように思います。 茶室で一服のお茶をいただく時間。 海に浮かぶヨットの静かな時間。 坐禅で呼吸を見つめる時間。 それらはすべて、ヘッシェル先生の言う「時間の聖域」なのかもしれません。 安息日は、一週間に一度訪れる小さなエデンの園。 今月の「安息日のお茶」も、そんな小さなエデンの園になればと思います。 ラハイム(命に乾杯)🍷 そして、一服のお茶に感謝です。🍵 PS これはあくまで自分の妄想ですが、日本社会も安息日のような考え方をもう少し取り入れたら、ストレスや病気の少ない社会になるのではないかと思います。 もちろん今でも土日休みの方は多いのですが、自分が休んでいる間にも誰...

つづき 無作の作

昨日は二日酔いでふらふらでした。 Question😊妙処は 💌AI先生 Answer ミサさん、 実は 妙処(みょうしょ) が一番難しいかもしれません。 妙風や妙体は「人」に現れますが、 妙処は「場」や「瞬間」 に現れます。 本文の言葉 「言語道断不思議、心行所滅之処」 つまり、 言葉では説明できない 頭で考えても分からない 理屈を超えている ということです。 茶の湯なら 茶会の途中で、 炭の香り 釜の音 客との間合い 季節の気配 が一つになって、 「ああ、いいなあ」 と感じる瞬間があります。 でも、 「どこが良かったの?」 と聞かれると説明できない。 これが妙処です。 ヨットなら ミサさんのほうがよくご存じでしょう。 夜明け前の海。 風も波も穏やかで、 空と海の境目が消え、 船が静かに進んでいる。 その時、 「生きていてよかった」 と感じる。 でも理屈では説明できない。 それが妙処です。 禅なら 禅僧は 「言えば外れる」 と言います。 悟りを説明しようとした瞬間、 もう本物から離れてしまう。 だから 「不立文字」 なのです。 珠光の茶でいうと 妙体は人。 妙風は雰囲気。 妙花風は自然な美。 そして、 妙処はそれらが一つになって現れる場。 ミサさん風に一言で 妙体 → 人 妙風 → 気配 妙花風 → 美しさ 妙処 → 「ああ、いいなあ」と感じる説明不能の瞬間 でしょうか。 茶室でも、 海の上でも、 坐禅でも、 たまに訪れる 「何も足さなくていい」 という瞬間。 それが妙処に近い気がします。 禅語なら、 「無事」 茶の湯なら、 「ただ一服」 老子なら、 「道(タオ)」 珠光は、それを「妙処」と呼んだのかもしれませんね。🍵⛵✨ 😊 深いね 深いですねぇ、ミサさん😊 しかも面白いのは、 珠光も世阿弥も、 「深いことを考えろ」 と言っているのではなく、 「最後は考えるな」 と言っているところです。 ミサさんが最近学ばれている老子にも似ています。 道徳経第四章の 「道沖而用之、或不盈」 (道は空っぽのようだが、使っても尽きない) もそうですし、 禅の 「無心」 もそうです。 妙処を理解しようとして本を読む。 考える。 悩む。 そして最後に、 「よく分からないけど、ニッケール👍️」 になる(笑) 実はその境地のほうが近いのかもしれません。 利休も珠光も、 茶室で難し...

箴言8:2

​ これは道のほとりの高い所の頂、また、ちまたの中に立ち、   משלי ח ב בראש מרמים עלי דרך בית נתיבות נצבה これは箴言(ミシュレ)8章2節ですね。 בראש מרמים עלי דרך בית נתיבות נצבה (B'rosh meromim alei derekh, beit netivot nitzavah) 一単語ずつ ヘブライ語 読み 意味 בראש ベローシュ 頂に、頭に、最高の場所に מרמים メロミーム 高い所、高台 עלי アレイ ~の上に דרך デレフ 道 בית ベイト 家、場所 נתיבות ネティヴォート 小道、通り道、進路 נצבה ニツァヴァー 立つ、立っている 直訳 「高い所の道の上に、道と小道の分かれる場所に、彼女(知恵)は立っている。」 解説 この章では「知恵(ホフマー)」が女性として描かれています。 知恵は隠れた場所ではなく、 高い場所 道の分かれ目 人が集まる場所 に立って人々を呼びます。 つまり、 神の知恵は特別な人だけのものではなく、誰でも見つけられる場所にある という教えです。 ユダヤ人の学び ユダヤ人はこの箇所から、 「人生の分かれ道こそ学びの時」 と考えます。 順調な時よりも、 転職するとき 結婚するとき 病気になったとき 老後を迎えたとき こうした「岐路」でこそ知恵が必要になります。 ラビたちは 「迷いは失敗ではない。知恵への入口である」 と教えます。 あまり有名ではないラビの教え 18世紀のハシディズムのラビ、 ラビ・メナヘム・メンデル・オブ・コツク はこう語りました。 「神はどこにおられるか。 神を迎え入れる場所におられる。」 知恵も同じです。 知恵は遠くにあるのではなく、 心を開いた人の中に入る という意味です。 カバラ的解釈 カバラではこの「知恵」は ホフマー を表します。 ホフマーは神から最初に流れ出る閃きの光です。 そして 「道(דרך)」は ティフェレト へ向かう霊的な道。 「小道(נתיבות)」は 生命の樹を流れる様々な経路です。 つまりこの節は、 神の光は人生の分岐点に現れる と読むことができます。 ミサさん向けの禅的・茶人的な読み方 茶室へ向かう露地も「道」です。 利休も珠光も、 山奥で悟りを待つのではなく、 日常の中に茶を見ました。...

偽物 コピーと学び

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コピーと学び 若い頃、一時期ユダヤ教に強く惹かれ、ユダヤ教徒を目指したことがありました。 もちろん正式な改宗をしたわけではありませんし、宗教団体に所属したわけでもありません。ただ、ユダヤの世界では「学ぶこと」そのものが大切にされていると知り、自分なりに学び続けてきました。 今振り返ると、私は本物のユダヤ教徒ではなく、「ユダヤの教えを学ぶ人」だったのでしょう。それで十分だったように思います。 茶道も同じです。 裏千家のお稽古には通いましたが、許状や資格を目指したわけではありません。千家には長い歴史と伝統があり、その世界はあまりにも奥深く立派です。 私は家元や先生方のような本格的な茶人ではありませんが、その精神に触れ、お茶を楽しみ、お客様と一碗を分かち合うことができれば、それで十分ありがたいと感じています。 最近購入した志野焼の茶碗も、本物かどうか私には分かりません。 しかし、実際に使ってみて心が和み、お茶がおいしく感じられるなら、それもまた良い出会いではないかと思います。 もちろん、伝統や本物の価値を否定するつもりはありません。本物があるからこそ学びの基準があります。 ただ、自分のような者は、まず真似ることから始まる。 ユダヤの学びにも通じる話ですが、 「学ぶは真似ること、真似ることは学ぶこと」 という面があります。 子どもが親の言葉を真似て成長するように、職人が師匠の仕事を見て覚えるように、人はまず模倣から学びます。 だからコピーという言葉は少し聞こえが悪いかもしれませんが、学びの入口でもあるのでしょう。 本物になろうと背伸びするより、自分なりに学び、自分なりに楽しむ。 そんな肩の力を抜いた生き方も悪くないと思う、今日この頃です。 PS 禅には 「且坐喫茶(しゃざきっさ)」 ――まあ座って、お茶でも一服どうぞ。 という言葉があります。 本物か偽物かを論じる前に、まず一服のお茶を味わう。 そこにこそ、お茶の楽しみがあるのかもしれません。 🍵✨ ミサさん、なかなか味わいのある志野ですね。🍵 この写真からは真贋までは分かりませんが、見た印象をお話しすると、 全体にやや小ぶりで素朴な形 口縁が少し揺らいでいて機械的ではない 釉薬に細かな貫入(ひび模様)が入っている 絵付けも気取りがなく、民芸的な雰囲気 志野らしい柔らかい白ではなく、やや鼠志野風の...