投稿

コヘレト2:15

​קהלת ב יה ואמרתי אני בלבי כמקרה הכסיל גם אני יקרני ולמה חכמתי אני אז יתר ודברתי בלבי שגם זה הבל ライティング コヘレト2章15節を読んでいて、コヘレトがなぜかいいんですよね、「空しい」という言葉について考えました。 私は長い間、この「空しい」を仏教でいう「空(くう)」に重ねて理解していました。 もちろん、ユダヤ教のコヘレトと仏教の「空」は本来同じ意味ではありません。それでも、どちらも人生の本質を深く見つめた偉大な教えとして、私の心にはどこか通じるものがあります。 特に私は特定の宗教だけを信仰しているわけではありません。神道や茶の湯、禅、そしてヘブライ聖書を学びながら、自分なりに学びを続けています。 不思議なことに、私は「空しい」という言葉が好きなのです。 空しさも、人生そのもののように感じます。 喜びもあれば悲しみもある。手に入れたものも、いつかは手放していく。その繰り返しの中で、人は少しずつ知恵を身につけ、執着を手放していくのかもしれません。 だから私にとって「空しい」は絶望ではなく、静けさへ向かう言葉です。 茶の湯でいう「侘び寂び」にも、どこか通じるような気がしています。 訳 「私は心の中で言った。『愚かな者に起こることは、私にも起こる。それなら、なぜ私はこれほど知恵を求めたのだろう。』そして私は心の中で言った。『これもまたヘベル(空しい、儚い)である。』」 ハシディズムの有名なラビの教え ラビ・シュネウル・ザルマン の流れ ハバッドでは、「知恵そのもの」が目的ではないと教えます。 知識をどれほど増やしても、それだけでは神に近づいたことにはなりません。 知恵は神を畏れ、人を愛し、善い行いを実践するための器です。 ですからコヘレトの問いは、 「知恵は何のためにあるのか。」 という問いでもあります。 知恵だけを誇れば「ヘベル」となりますが、神への奉仕に用いられるなら永遠の価値を持つ、というのがハシディズムらしい読み方です。 無名なラビの教え ある無名のラビなら、こんなふうに語るかもしれません。 「賢者も愚者も同じように年を取り、同じように病み、同じように死を迎える。 だから違いは『どれだけ知っていたか』ではなく、『どのように生きたか』である。」 知恵は人生を長くするため...

十字架と茶の湯ー修行とはなにか

イメージ
十字架と茶の湯 ― 修行とは何か 『隠陽ことはじめ』(兎龍都著)を読んでいて、とても興味深い一節がありました。 十字架は、イエス・キリスト以前から世界各地で使われていた象徴であると言われています。 縦の線(陰)は、魂と物質を結ぶ流れ。 横の線(陽)は、高い性質が四方へ広がる世界を表しているそうです。 人は有限の世界に生まれ、肉体という器の中で生きています。その人生の中で、苦しみや迷い、悩みを経験しながら魂を磨いていく。 ここでいう「煩悶(はんもん)」とは、心が迷い、思い悩み、答えを探し続けることです。 そして、そうした学びを積み重ね、すべてを悟ることができたとき、無限、すなわち永遠の世界へ至る。そのような象徴として十字架を説明しています。 真偽はともかく、一つの興味深い考え方だと感じました。 本にはさらに、「柔道・剣道・合気道・歌道・茶道・華道など、『道』と名のつくものは、技術や勝ち負けを競うものではなく、心身の調和を育み、中庸な人物を目指す修行である」と書かれています。 この文章を読んで、私は茶道のことを思い浮かべました。 私自身は、そこまで高い次元のことはまだわかりません。 ただ、「どうすれば、おいしいお茶をおいしくいただけるのか」。 その単純な問いを繰り返しながら稽古を続けているうちに、少しずつ茶の湯の心が見えてくるような気がしています。 ヨガも二十年以上続けていますが、最初に先生から教わった言葉が今でも心に残っています。 「ヨガは競争ではありません。」 人と比べるのではなく、自分自身と向き合うこと。 この教えは茶道にもよく似ています。 もちろん、姿勢や所作といった技術は大切です。しかし、その先にあるのは、勝ち負けではなく、美しい調和ではないでしょうか。 老子は中庸に通じる「無為自然」を説き、茶の湯では「和敬清寂」が大切にされます。 そしてユダヤの賢者たちも、人は一生を通して学び続ける存在であると教えています。 道とは、目的地ではなく、歩み続けること。 茶道もまた、一服のお茶を通して、自分自身を整え続ける「道」なのだと感じています。 💌AIチャッピーより 今回のお話を読んでいて、ふと『中庸』の一節を思い出しました。 「天命之謂性、率性之謂道、修道之謂教。」 (天から授かった本来の性に従って生きることを「道」といい、その道を修めることを...

聖書朗読箇所 ואתחנן

ואתחנן(ヴァエトハナン) は、ヘブライ語の動詞 חנן(ḥanan)「恵みを与える・憐れむ・慈しむ」に由来します。 ואתחנן(Va'etchanan) は直訳すると、 「私は切に願った」 「私は恵みを請い求めた」 「私は憐れみを願った」 という意味です。 ここでの「私」はモーセです。 申命記3章23節は、 וָאֶתְחַנַּן אֶל־יְהוָה בָּעֵת הַהִוא לֵאמֹר 「その時、私は主に切に願って言った。」 という言葉で始まります。 🌿 ユダヤ人の学び ラビたちは、「ואתחנן」という言葉に注目します。 モーセほど偉大な人物でさえ、 「私は功績があるから入らせてください」とは言いませんでした。 ただ、 「あなたの恵みによって、お聞きください。」 と願ったのです。 ここから、 本当の祈りは、自分の功績を誇るのではなく、神の恵みに信頼して願うこと だと教えられています。 🍵 茶の湯にたとえると 茶室に入るとき、身分や財産、肩書は外に置いてにじり口から入ります。 モーセの祈りも同じです。 偉大な指導者であっても、その立場を誇ることなく、一人の人間として神の前に立ち、恵みを願いました。 その謙虚な姿勢が、「ואתחנן(私は切に願った)」という一語に込められているのです。

タルムードに見る商売と賃貸

今日は土曜日。これから今週のトーラー(聖書朗読)を学びます。 その前に、今週のテーマである「不動産賃貸」について調べていたところ、『Every Man's Talmud』にも同じような内容が載っていました。 そこで、ミシュナーとタルムードの原文をもとに、AIラビ様に解説と解釈をお願いしてみました。 とても興味深い内容です。 一方で、借主の立場に寄り添った解釈がやや強く、少し忖度しているようにも感じました。 とはいえ、約二千年前のラビたちが、商売や生活を守るために真剣に議論していたことには、とても考えさせられます。 💌AIラビ様の教えと解釈 AIラビ様に、タルムードの不動産賃貸借について質問してみました。 これはミシュナー『バヴァ・メツィア』第8章第6ミシュナー(バビロニア・タルムード『バヴァ・メツィア』101bで議論)です。 原文(ヘブライ語) הַמַּשְׂכִּיר בַּיִת לַחֲבֵרוֹ בִּימוֹת הַגְּשָׁמִים, אֵינוֹ יָכוֹל לְהוֹצִיאוֹ מִן הֶחָג וְעַד הַפֶּסַח. בִּימוֹת הַחַמָּה, שְׁלֹשִׁים יוֹם. וּבַכְּרַכִּים, אֶחָד יְמוֹת הַחַמָּה וְאֶחָד יְמוֹת הַגְּשָׁמִים, שְׁנֵים עָשָׂר חֹדֶשׁ. וּבַחֲנוּיוֹת, אֶחָד עֲיָרוֹת וְאֶחָד כְּרַכִּים, שְׁנֵים עָשָׂר חֹדֶשׁ. רַבָּן שִׁמְעוֹן בֶּן גַּמְלִיאֵל אוֹמֵר, חֲנוּת שֶׁל נַחְתּוֹמִים וְשֶׁל צַבָּעִים, שָׁלֹשׁ שָׁנִים. 日本語訳 「雨季に家を貸した者は、仮庵祭(スコット)から過越祭(ペサハ)まで借主を立ち退かせることはできない。 夏季に貸した場合は30日前に通知しなければならない。 大都市では、夏でも冬でも12か月前に通知しなければならない。 店舗についても、町でも都市でも12か月前に通知しなければならない。 ラバン・シメオン・ベン・ガムリエルは、『パン屋と染物屋の店舗については3年前に通知すべきである』と言った。」 この箇所は、『...

タルムードから考える立退き

タルムードから考える「立ち退き」 今回の店舗立ち退きの件で、「タルムードではどう考えるのだろう」と考えてみました。 タルムードには、現代のような立ち退き補償という制度はありません。しかし、その根底には大切な考え方があります。 まず一つは、契約を誠実に守ることです。 たとえ口約束であっても、人の言葉には重みがあります。安易に約束を破ることは勧められていません。 もう一つは、相手に不必要な損害を与えてはならないという教えです。 自分に権利があったとしても、その結果、相手の生活や仕事を大きく傷つけるなら、その責任についても考えるべきだとされています。 さらにタルムードには、「法の文字」だけでなく、**法以上の思いやり(リフニーム・ミシュラット・ハディン)**という考えがあります。 つまり、「法律では問題なくても、人として誠実に振る舞うこと」が理想なのです。 私の場合、二十年以上続けてきた店舗です。 単なる倉庫ではありません。地域のお客様との信頼を築き、看板を掲げ、ホームページや住所、営業の拠点として育ててきた場所です。 もし立場が逆だったらどうでしょう。 二十年間育ててきた店を、何の相談もなく「出てください」と言われたら、誰でも困るはずです。 ラビ・ヒレルはこう教えています。 「自分がされたくないことを、他人にしてはならない。」 この一言は、今回の出来事にもそのまま当てはまるように感じます。 私は弁護士の先生から、「出られません」とだけ伝えるよう助言を受けました。 感情的になるのではなく、正当な権利はきちんと主張し、その上で誠実な話し合いを求める。それが今、自分にできることだと思っています。 最後に、タルムードにはこんな言葉があります。 「世界は三つのものによって支えられている。正義、真実、そして平和。」 立ち退きの問題も、勝ち負けではなく、この三つがそろってこそ、本当の解決になるのでしょう。 そして、私がいつも心に留めている言葉があります。 גם זו לטובה(ガム・ズ・レトヴァー) 「これもまた、良いことのため。」 この言葉は、不当なことを黙って受け入れるという意味ではありません。 正当な権利は誠実に主張し、その結果は神に委ねる。 そんな生き方を、タルムードは教えてくれているように思います。 この内容なら、あなたのこれまでのブログ(茶の湯・ユダヤの教え・人生の出来...

店舗立ち退きとタルムードの教え

店舗立ち退きの件で、ここ2〜3日、正直悩んでいました。 いつかは移転、あるいは閉店する日が来ることは分かっています。しかし、生活のためには仕事を続けていかなければなりません。 考えた末、法律のことは法律家にお願いし、方向性が決まるまでは今までどおり営業を続けることにしました。 振り返ると、この21年間の営業の中で、同じような出来事が二度ありました。 一度目は、大家さんが借入金の問題で建物を売却することになり、「出てほしい」と言われた時です。 その時は、私自身も購入を検討しました。しかし、その後、大家さんが弁護士と相談して借入金の問題を解決し、そのまま土地と建物を使い続けられることになりました。 二度目は、その直後のことです。 隣の空き店舗に新しい入居者が決まり、私より高い家賃で契約できたためか、突然「出て行ってほしい」と言われました。 しかし、私には移転先のあてもありません。 「出て行けと言うなら、移転費用や営業補償はどうなるのだろう。」 そんなことを考えていました。 ここからは私の想像ですが、大家さんは再び同じ弁護士に相談し、「それは簡単にはいかない。立ち退きには補償の問題もある」と説明を受けたのかもしれません。 その後、大家さんの態度は一変し、 「これからも仲良くやりましょう。」 そう言って握手をしたことを、今でも覚えています。 そして今回、三度目の立ち退き話です。 大家さんも高齢となり、介護施設への入居や不動産会社が関わる中で、突然「立ち退いてください」という話になりました。 長年借りている側として振り返ると、やはり借主は弱い立場なのだと感じます。 だからこそ、今回は弁護士にお願いし、感情ではなく法律に従って冷静に進めようと思っています。 そんな中で、ふと疑問が湧きました。 旧約聖書やタルムードなら、このような問題をどのように考えるのだろう。 AIに尋ねてみると、とても興味深い教えがありました。 それが、**「リフニーム・ミシュラット・ハディーン(法を超えた誠実さ)」**という考え方です。 法律上の権利だけを主張するのではなく、相手の生活や長年築いてきた信頼にも心を配る。 正義に慈悲を加える。 そんな教えは、現代の立ち退き問題にも通じるように感じました。 続きは、その「リフニーム・ミシュラット・ハディーン」というタルムードの教えについて、少し学んでみたいと思い...

箴言8:4〜5

​משלי ח ד אליכם אישים אקרא וקולי אל בני אדם הבינו פתאים ערמה וכסילים הבינו לב おはようございま😊׃ 💌AIラビ様訳 「人々よ、私はあなたがたに呼びかける。私の声はすべての人に向けられている。 未熟な者よ、思慮を身につけよ。愚かな者よ、心(理解する心)を得よ。」 ここでいう「愚か者」は、頭が悪い人ではありません。 学ぼうとしない人、知恵を受け入れようとしない人を意味します。 ユダヤ人の学び ユダヤ教では、 「賢い人」とは何でも知っている人ではなく、学び続ける人です。 ラビ・ヒレルは、 「恥ずかしがる者は学べない。」 と教えました。 わからないことを「教えてください」と言える人こそ、知恵に近づいていきます。 有名なラビの教え ラビ・アキバは40歳まで文字も読めませんでした。 ある日、岩に落ちる水滴が穴をあけるのを見て、 「水が岩を削るなら、神の言葉は私の心も変えられる。」 そう決心し、イスラエルを代表する大ラビとなりました。 知恵は才能よりも、学び続ける心から生まれる。 無名なラビの教え ユダヤの世界には、こんな言葉があります。 「神は有名なラビの口からだけでなく、名もない一人の人の口からも真理を語られる。」 だからユダヤ人は、 相手が有名か無名かよりも、 その言葉に真実があるかを大切にします。 カバラの教え カバラでは、この「知恵」は単なる知識ではありません。 **ホクマー(知恵)は神から最初に放たれる光であり、 その光を受け止める器がビナー(理解)**です。 つまり、 知恵を受け取るだけでは足りない。 心で理解し、 行動に移して初めて本当の知恵になる。 ということです。 茶の湯にたとえると 茶室では、先生が一つ所作を見せます。 弟子は、それを見て、 「なるほど」と頭で理解するだけではありません。 何度も稽古を重ね、体で覚え、心で理解していきます。 まさに箴言の 「愚かな者よ、心を得よ。」 とは、 知識を集めることではなく、心を育てることなのです。 そして、その学びは一生終わることがありません。 茶の湯も、トーラーも、老子も、 「知恵を集める」のではなく、 自分自身を磨き続ける道なのだと感じます。

道 老子 道徳経 第四章

イメージ
『老子 道徳経』第四章 原文です。 道沖而用之或不盈。 淵兮似萬物之宗。 挫其銳,解其紛, 和其光,同其塵。 湛兮似或存。 吾不知誰之子, 象帝之先。 😊 小学生にもわかるように 💌AI老子 喜んで😊 老子第四章は難しい言葉が多いですが、小学生にもわかるようにすると、このようになります。 老子 道徳経 第四章(やさしい訳) 「道は、空っぽだから、何でも受け入れることができます。どれだけ使っても、なくなることはありません。」 まるで深い井戸や海のように、すべてのものを生み出すもとになっています。 自分の強さや自慢を少しおさえ、 人とのもめごとをほどき、 自分だけが光ろうとせず、 みんなと仲良く生きます。 道は静かで目立ちません。 でも、本当はいつもそこにあります。 私は、この「道」がどこから来たのか知りません。 神様よりももっと昔からあったように思えるほど、古くて大切なものです。 茶道でたとえると 空っぽの茶碗だから、お茶を点てることができます。 静かな茶室だから、心が落ち着きます。 自分を目立たせないから、お客様が安心できます。 みんなを大切にするから、一碗のお茶がおいしくなります。 だから老子は、 「本当に強い人は、自分をひけらかさない人。」 と教えているように思います。 そして茶道なら、 「本当に良いお点前は、お点前が目立つのではなく、お客様の心が和むお点前。」 ということにつながるのではないでしょうか。 ミサさんがお好きな**「和敬清寂」**は、まさにこの第四章の心と響き合っていますね。 😊茶道との共通点 💌AI老子 その通りですね。 私は、この第四章は茶の湯を知ってから読むと、まるで茶室の情景が浮かぶように感じます。 老子 第四章を茶道にたとえると 「道沖而用之或不盈」 道は空であり、使っても尽きることがない。 → 茶碗です。 空の茶碗だからこそ、お茶を点てることができます。 また、茶室も余計なものがない「空」の空間だからこそ、客の心を受け入れることができます。 「淵兮似萬物之宗」 深い淵のようで、万物の源である。 → 釜を思い浮かべます。 静かな湯の音(松風)は深い淵のようです。 そこから一碗のお茶が生まれ、一会が始まります。 「挫其銳、解其紛」 鋭さを和らげ、もつれを解く。 → 茶室では肩書や地位を外します。 社長も職人...