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ノスタルジック横浜セーリング

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先週末、去年から誘われていた横浜ヨットクラブの昔の仲間の船で、久しぶりにセーリングをしてきました。 40年ぶりの再会。まるで浦島太郎のような感覚で、時が一気に戻ったような不思議な時間でした。 彼は一部上場企業で取締役を務め上げ、定年後の楽しみとして再びヨットのオーナーに。これからロングクルージングを計画しているとのこと。まさに“王道の人生”を歩んできた人です。 一方の自分は、右脳で仕事、左脳でヨットレース。日本に物足りなさを感じ、フランス・ブルターニュへ渡り、自作の船で現地の仲間とレースをしていた日々。やはり生き方のスタイルは大きく違うと、あらためて感じました。 40年経っても、日本のヨットの楽しみ方はあまり変わっていない印象です。デイセーリング中心の穏やかなスタイル。それはそれで心地よく、長く続いてきた理由も分かる気がします。 訪れた横浜ヨットハーバーは歴史を感じる場所で、クラブハウスもどこか昭和の面影を残しています。磯子の工場地帯に位置していることもあり、大都会・横浜にいながら、どこかアジアの港町のような空気感。ちょっとした旅に出たような気分になりました。 その昭和レトロとアジアンな雰囲気が不思議と心地よく、ゆったりとした良い休日を過ごすことができました。 伝統あるヨットクラブだけあって、職人の目で見ても腕の良さそうなボートサービスがしっかりと根付いているのも印象的でした。

太平洋横断するなら

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これから太平洋横断をするなら 長い航海で一番大切なのは、 「無理をしないこと」だと思います。 特に重要なのは、 風に合わせて早めにセールを小さくすること。 メインセールは、 ポイントリーフ、 ワンポン、 ツウポン、 スリーポン、 そして最後はトライスル。 ジブセールも同じで、 No2、No3、ストームジブへと、 状況に合わせて落としていく。 強がらず、 船と海に合わせることが安全につながります。 また、 陸に近い時や向かい風が強い時は、 ヒーブツーで船を止めて休むことも大切です。 単独航海なら、 オートヘルムは予備を含めて用意したいところです。 私ならST4000を3本くらい積みたい。 電源は大容量バッテリーに加え、 ソーラーパネル、 風力発電、 水力発電などを組み合わせると安心です。 レーダーリフレクターも重要。 ただ、 陸から100マイルほど離れると、 本船の数はかなり少なくなります。 水は、 1日1リットル計算で、 予定の1.5倍は積みたいところ。 食料も同じです。 最近は性能の良い浄水器もあるので、 予備としてあると安心です。 そして意外と役に立つのが短波ラジオ。 NHKが入るので、 長い航海の暇つぶしにもなるし、 FM放送が入れば、 放送局の方位から陸に近づいていることも分かる。 海の上では、 便利さより、 「単純で壊れにくいこと」 が一番大事なのかもしれません。 昔の航海者たちも、 きっと同じ景色を見ながら、 風と空を読んでいたのだと思います。 太平洋横断なんて言いながら、 今の自分は、やはり日本がいいですね。 お金と自由が少しあれば、 春から秋だけ、 のんびり船を動かして、 港町を巡るくらいがちょうどいい。 そういえば十五年くらい前、 長崎のハウステンボスから銚子マリーナまで ヨットを回航したことがありました。 急ぐ旅ではなく、 途中の港町に寄港して、 酒場に入り、 土地の空気を感じながら、 ゆっくり北上したのを思い出します。 遠い海外もいいけれど、 日本の港町には、 日本らしい独特の良さがありますね。

イスラエル家学会 レビ記ベハル

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いいですね、この構成そのまま使えるので、画像内の文章をテキスト化しました。ブログや配布資料にも使えます。 イスラエル家学会 ベハルとベフコタイ ― 働くことと手放すこと ― トーラーの教えから学ぶ 生き方のリズムと信頼 ■ ベハル(פרשת בהר) 山で伝えられた安息の教え ストーリー(あらすじ) ① 安息の年(シェミッタ) 6年間は畑を耕すが、7年目は完全に休ませる。 土地も人も休む。 ② ヨベルの年(50年目) 土地は元の持ち主に戻り、奴隷は解放される。 すべてが「リセット」される年。 ③ 利息の禁止・助け合い 困っている同胞から利息を取ってはいけない。 互いに支え合う社会を作る。 中心の教え 「すべては自分のものではない」 土地も、富も、時間も、 本質的には人の所有ではなく預かりもの。 だからこそ 働く(6年)と手放す(7年)のリズムが必要。 ラビの教え ・「ベハル(山で)」と書かれているのは、  シェミッタの細かい規定もすべてシナイで与えられたから。 ・「細かい日常にこそ神の意志が宿る」 ・「貧しい人を支えるとは、落ちる前に支えること」 カバラの視点(ハバットの教え) 世界は「光」と「器」でできている 6年間働く → 光を受け取る 7年目休む → 器を整える 受け取りすぎれば器は壊れ、 整えれば光は穏やかに流れる 50年目(ヨベル)は すべてが源(ケテル)に戻る年 Q&A 7年目に休んだら食べ物がない? 人々は「何を食べるのか?」と問うた → 神は「6年目に三年分の祝福を与える」と答えた 現代的には ・備える知恵 ・分かち合う社会 ・無駄を減らす これが祝福の形 ■ ベフコタイ(פרשת בחקתי) 歩みの結果と、戻る道 ストーリー(あらすじ) ① 祝福(ブラハー) 掟に従えば ・雨が降り ・実りがあり ・平和が保たれる ② 警告(トハハー) 従わなければ ・飢えや争い ・不安と混乱 ・離散(追放) ③ 最後の希望 どれだけ離れても、悔い改めれば戻れる 中心の教え 「行いが現実をつくる」 内面の状態や生き方が そのまま現実に現れる ラビの教え ・「歩む」とは、努力し続けること ・困難は罰ではなく  「ズレ」を教えるサイン カバラの視点(ハバットの教え) 祝福と呪いは別ではない 同じ「神の光」が 違う形で現れている 器が整っ...

詩編17:14

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主よ、み手をもって人々からわたしをお救いください。すなわち自分の分け前をこの世で受け、あなたの宝をもってその腹を満たされる世の人々からわたしをお救いください。彼らは多くの子に飽き足り、その富を幼な子に残すのです 1995年日本聖書協会訳 ​תהלים יז יד ממתים ידך יהוה ממתים מחלד חלקם בחיים וצפונך תמלא בטנם ישבעו בנים והניחו יתרם לעולליהם まず全体像から静かに見ていきましょう。 ■ 原文の流れ(やさしい意訳) 「主よ、この世に属する人々から私を守ってください。 彼らはこの世での取り分を受け、腹は満たされ、子にも恵まれ、 さらにその余りを子孫に残していく。」 ■ ストーリーとしての背景 この詩篇は、ダビデが神に向かって語る祈りです。 悪しき者に囲まれながらも、 「自分は神に近づきたい」 「しかし世の人々は現世の豊かさに満足している」 という対比が描かれています。 つまり物語としては、 👉 「神に向かう人」と「この世に満足する人」の分岐点 を示しています。 ■ ラビ的解釈(古典的な見方) ラビたちはここを非常に現実的に読みます。 「ממתים מחלד(この世の人々)」とは  👉 この世界(オーラム・ハゼ)だけに価値を置く人 彼らは  👉 財産・子孫・安定をすでに受け取っている つまり、 👉 神は彼らに“この世での報酬”をすでに与えている という考えです。 その結果、 👉 来世(オーラム・ハバ)には取り分がない可能性がある と解釈されます。 ■ ハバッド(ハバッド・ルバヴィッチ)の視点 ハバッド的には、この箇所は「意識のレベル」の話になります。 ● 2つの生き方 外的な満足の人生 食べる 増やす 残す 内的な神との結びつき 神性を感じる 魂を磨く 光を引き出す ハバッドではよく言われます: 👉 物質的満足=悪ではない しかしそれが目的になると“魂が眠る” ■ カバラ的解釈(核心) カバラではここはかなり鋭いです。 ● 「満たされる腹」 これは単なる食事ではなく 👉 器(ケリーム)が光で満たされる状態 ただし問題はここからです。 ● 問題点 この人々は 👉 受け取るだけで終わっている つまり 光を受ける(受容) しかし返さない(与えない) ● カバラの核心 👉 ...

方舟亭 茶会

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楽園の茶会 海の上の方舟亭 先日、海の上で「楽園の茶会」を無事ひらくことができました。 今回のテーマのひとつは、旧約聖書の「ノアの方舟」です。 大洪水のあと、鳩が飛び立ち、 やがて平和のしるしを持ち帰る物語。 そのイメージを重ねながら、 ピカソの「平和の鳩」、鳩サブレー、モンサンミッシェルのサブレなど、東西の文化や遊び心を小さな茶席に散りばめました。 お茶碗は、赤楽、黒楽、そして義山の新月。 赤楽は太陽や火。 黒楽は静かな闇。 義山は水や月のような透明感。 けれど、不思議なことに、海の上では道具の存在感が少しずつ消えていきます。 風の音、波、光、空。 自然そのものが茶室になり、 最後には茶碗さえ景色の中へ溶け込んでいく。 セーリングも、お茶も、 どちらも「今ここ」に意識を向ける時間です。 帆に入る風を感じること。 静かに湯を注ぎ、一服を味わうこと。 まさに海のマインドフルネスでした。 方舟亭 楽園の茶会。 洪水のあと、鳩が戻るように、 また静かな時間が海に浮かべばと思います。 PS 南方録より 『南方録』のこの言葉は、利休の「わび」の感覚を、とても端的に表しています。 まず、 「さびたるはよし、さばしたるはあしし」 これは、 自然に古びて枯れた趣はよい。 しかし、作為的に“わびっぽく”見せるのはよくない。 という意味です。 つまり、 本当の侘びは、 時間や生き方の中から自然ににじみ出るもので、 演出しすぎると、ただの格好になってしまう。 そして今回の 「叶うはよし、叶いがたるはあしし」 これも似ています。 一見すると、 「願いが叶うのは良い、叶わないのは悪い」 のようですが、 茶の湯ではもっと深い意味があります。 ここでいう「叶う」は、 道具・季節・客・亭主の心が、 無理なく自然に調和している状態。 つまり、 “ちょうどよく収まっている” という感覚です。 逆に 「叶いがたる」は、 ・無理をしている ・背伸びしている ・豪華さを追いすぎる ・形だけ真似している ・心が伴わない そういう“不自然さ”です。 わび茶は、 不足を楽しむ世界ですが、 「不自由」や「不完全」を無理に作る世界ではない。 自然に整い、 静かに調和していることが大切。 だから利休は、 豪華だから良いのでもなく、 貧しいから良いのでもなく、 「その場にか...

茶道と中庸

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茶道という「道」と名のつくものは、 技術の上手さや強さを競うものではなく、 心と体のバランスが整った人を目指す修行だと感じます。 その姿は「中庸」と言われます。 中庸とは、ただ真ん中という意味ではなく、 強すぎず、弱すぎず、偏らないこと。 その場、その時にふさわしい在り方。 自分と相手と場が、静かに調和している状態です。 海の上で風を受けながらヨットを走らせていると、 この感覚がよく分かります。 風に逆らいすぎても進まず、 任せすぎても流される。 ちょうどよく受け入れること。 それが自然との調和であり、中庸です。 陰陽の原理である「易」もまた、 同じことを教えているように思います。 世界は、陰と陽の移ろいの中にあり、 一瞬として同じ状態はありません。 満ちる月、欠ける月。 静かな海、荒れる海。 すべては変化の中にあります。 だからこそ「易」は、 本来、文字や言葉では表しきれないものだといわれます。 言葉にした瞬間に、 もうその状態は過去になってしまうからです。 茶の湯もまた同じです。 同じ道具を使い、同じように点てても、 その一服は二度と同じにはなりません。 仮庵の茶会も、 完成された場所ではなく、移ろいの中にある一瞬の場です。 不完全であるからこそ、 その時の調和が際立つ。 楽園とは、どこか遠くにあるものではなく、 この一瞬の調和の中に現れるものなのかもしれません。 😊 Question ユダヤ教も中庸を大切にするけど同じ? 💌Answer AI教祖 解説 いい視点ですね。結論から言うと―― 似ているけれど、同じではないです。 茶道の「中庸」と、ユダヤ的な考えは、 重なる部分と、方向の違いがあります。 ■ ユダヤ教にも「中庸」に近い考えはある ユダヤ教では特に、 マイモニデス がはっきりこう言っています。 👉 人は極端を避け、中間の道を歩むべき たとえば 怒りすぎない かといって無関心でもない 欲を持ちすぎない しかし無欲すぎてもいけない これはまさに「中庸」に近い考えです。 ■ ただし大きな違いがある ここが面白いところです。 茶道・禅的な中庸は 👉 調和そのものが目的 ですが、ユダヤ教は 👉 神の意志に沿うためのバランス です。 つまり 茶道 → 自然・場・人との調和 ユダヤ教 → 神との関係の中での正しさ ■ カバラ的に見る...

わび茶碗 黒楽茶碗

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お気に入りの 黒楽野点 海の上に、小さな仮の庵をつくる。 それが「方舟亭」のはじまりです。 仮庵とは、完成された場所ではなく、 一時的に身を寄せる、簡素な空間。 けれど茶の湯においては、 この“仮”こそが本質なのかもしれません。 器が消えるということ 千利休 は、 それまでの豪華な道具中心の茶から離れ、 人と人が向き合うための茶を求めました。 その中で生まれたのが、 長次郎 による楽茶碗です。 手にすっとなじむ丸み、 やわらかな温もり。 黒は闇に溶け、 赤は手に溶ける。 やがて器の存在は薄れ、 まるで掌で直接お茶を受けているような感覚になる。 器が消えたとき、 そこに残るのは―― お茶と、人だけです。 楽園とはどこか 楽園は、どこか遠くにあるものではなく、 ほんの一瞬、心がほどけた場所に現れるもの。 海の上、風に揺られながら、 一碗のお茶をいただく。 それは豪華でも、完璧でもない。 むしろ不完全で、仮の場所。 けれどその中に、 たしかな豊かさがあります。 仮庵という生き方 仮庵は、執着しない生き方そのもの。 家も、道具も、肩書きも、 すべては一時的なもの。 そう思えたとき、 人は少し自由になれる。 方舟亭へ 旧約のノアの方舟のように、 この小さな舟もまた、 時の流れの中に浮かぶ仮の避難所。 創世記 に描かれる方舟のように、 そこには命をつなぐ静かな時間があります。 そして一服のお茶が、 人と人をつなぎます。 結び 楽園の茶とは、 完成された世界ではなく、 不完全な仮庵の中に現れるもの。 器が消え、 場所も意味を失い、 ただ、 人とお茶だけが残るとき。 そこに、ほんの一瞬、 楽園が立ちあらわれます。

方舟亭 楽園のお茶会 準備

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海の上、板一枚の茶室。 風と水にゆだねる、一服の時間。 楽園の茶会 ― 海の上の方舟亭 準備 海の上でひらく、小さな茶会。 その名を「方舟亭」としました。 由来は、旧約聖書の 創世記 に登場する「ノアの方舟」です。 混沌とした世界の中で、命を守るために用意された方舟。 洪水のあと、鳩がオリーブの葉をくわえて戻り、平和のしるしとなりました。 その静かな物語を、海の上の一服に重ねてみたいと思います。 道具としつらえ 今回の茶会は、野点の趣を大切にしています。 ・水は「財宝温泉」 ・茶碗は、太陽を思わせる赤の楽茶碗、そして水を感じる義山 ・濃茶には黒楽を用い、しっかりとした一服に ・古帛紗はバティックの蝶、軽やかな風の象徴 掛け軸の代わりには、 ピカソの平和の鳩 のポスターを。 自然と祈りが、やわらかく重なる空間を目指しました。 お菓子について 本来はフランス・ブルターニュ地方のサブレを考えていましたが、 今回はモンサンミッシェル修道院のサブレを用意しました。 そしてもうひとつは、 鎌倉の 鳩サブレー。 フランスのサブレは味わいが濃く豊か。 それに対して鳩サブレは、どこか和のやさしさがあり、 軽やかで繊細な甘さが特徴です。 さらに、和三盆ときなこの練り菓子。 鳩の姿にして、静かな平和を添えました。 海の上の一服 テーブルの代わりに一枚の板。 必要最小限のしつらえ。 風、光、水、そして人。 余計なものを削ぎ落とすと、 ただ一服のお茶が、 少し特別なものに感じられます。 混沌とした時代の中でも、 ほんのひととき、静かにお茶をいただく。 それは、現代の小さな「方舟」なのかもしれません。

コヘレト2:10〜

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​קהלת ב י וכל אשר שאלו עיני לא אצלתי מהם לא מנעתי את לבי מכל שמחה כי לבי שמח מכל עמלי וזה היח חלקי מכל עמלי ופניתי אני בכל מעשי שעשו ידי ובעמל שעמלתי לעשות והנה הכל הבל ורעות רוח ואין יתרון תחת השמש 旧約聖書の中にあるコヘレトの書の一節を読みました。 「欲しいものはすべて手に入れた。 楽しみも、喜びも、心のままに味わった。 その労苦の中で、確かに喜びもあった。 それが自分の得た分け前だった。」 ここまでは、とても人間らしい話です。 一生懸命働き、好きなものを手に入れ、喜びを感じる。 誰もが通る道かもしれません。 しかし、そのあとに続く言葉が深い。 「けれど振り返ってみると、 すべては空しく、風を追うようなものだった。 太陽の下には、本当の益はなかった。」 やりきった人にしか見えない景色。 それが、この言葉にはあります。 欲しいものを我慢した人の言葉ではなく、 すべてを経験した人の結論だから重い。 これは悲観ではなく、ひとつの到達点のようにも感じます。 禅でいう「空」。 満ちた先にある、何もないという静けさ。 茶の湯も、どこか似ています。 豪華な道具や形式を超えて、 最後は一碗のお茶に戻っていく。 ヨットで海に出たときも同じです。 風を受けて進み、自然の中に身を置くと、 多くを求めていた自分が、すっと消えていく。 結局、人は 何かを足して満たされるのではなく、 余計なものが削ぎ落とされたときに、 本当の静けさに出会うのかもしれません。 今日も一服。 それで十分。

シャバット エモール

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何もしない贅沢と器の話 シャバット・シャローム。 今日は「仮庵」という言葉を思いながら、 静かな時間を過ごしています。 仮庵。 仮の住まい。 永遠ではない、いっときの居場所。 ユダヤではスコット(仮庵)の祭りがあり、 あえて不完全な小屋で過ごします。 風が通り、空が見える。 完全ではないからこそ、 本当の豊かさに気づく場所です。 人も同じで、 完全な存在ではなく、仮の器のようなものかもしれません。 カバラでは、 光と器という考え方があります。 光は恵み、 器はそれを受けるもの。 人はその器。 ただの容れ物ではなく、 感じ、選び、整えていく器です。 同じ出来事でも、 不満になるか、感謝になるかは、 器の状態で変わる。 そして、その器を整えるのが言葉です。 エモール、「語れ」。 言葉は現実をつくる。 荒い言葉は器を濁し、 静かな言葉は器を整える。 だからこそ、言葉は少なく、丁寧に。 シャバットは、何もしない時間。 仮庵のように、 いったんすべてを手放して、ただ在る。 お茶を一服。 風を感じる。 ただ静かに座る。 それだけで、器は自然に整っていく。 楽園とは、どこか遠くにあるのではなく、 こういう時間の中に、ふと現れるものかもしれません。 仮庵のような一日。 何もしない贅沢。 シャバット・シャローム。