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禅とはそれは達磨からはじまった

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ここ半月ほど、会社の経理仕事に追われ、大切な朝の読書時間をなかなか持てませんでした。 さらに、来月予定している「安息日のお茶会」の料理を考えているうちに、時間はあっという間に過ぎていきます。 そんな中で、ふと 竹久夢二 の有名な言葉、 「いのち短し、恋せよ乙女」 を思い出しました。 乙女というと少し照れますが、実は自分は乙女座。 昔から少し繊細で、乙女っぽいところがあるのかもしれません。 とはいえ、LGBTという意味ではなく、普通に男として生きています。 ただ、老人と呼ばれる年齢になってくると、 残された時間をどう生きるのか、 自然と考えるようになります。 何が正解なのか。 たくさん考えても、結局よく分かりません。 でも禅では、 「今を生きる」 ということを大切にします。 過去を悔やみすぎず、 未来を心配しすぎず、 ただ今この瞬間を丁寧に生きる。 朝のお茶の湯気も、 静かな読書も、 料理を考える時間も、 すべて修行のようなものなのかもしれません。 今日は達磨です。 亡くなった友人の自宅に飾ってあったのを思い出します。父は横須賀のお寺の生まれと聞きました。 禅とは何か ― 不立文字の世界 ― 禅とは何か。 それは、言葉では説明できない世界なのかもしれません。 禅宗の始まりは、インドから中国へ渡ったとされる 達磨大師 にあると言われます。 達磨は、 「不立文字(ふりゅうもんじ)」 という考えを伝えました。 これは、 「文字や言葉だけでは、本当の悟りは伝わらない」 という意味です。 経典や知識を否定しているわけではありません。 しかし、 どれほど美しい言葉を並べても、 実際に体験しなければ分からない世界がある。 それが禅の入り口です。 たとえば、 海の上で一人、 夜明け前の風を感じながらヨットを走らせる時。 あるいは、 静かな草庵で、 湯の沸く音を聞きながら、 一服の茶を点てる時。 そこには、 説明しきれない感覚があります。 言葉にすると、 逆に離れてしまうような感覚。 禅は、 その「説明できないもの」を大切にします。 だから禅問答も、 単なる知識比べではありません。 「答えを知る」のではなく、 自分自身で気づくための問いです。 以前、トーラー研究家の手島先生から、 「トーラーには答えがない」 と教わったことを思い出します。 本文は変えない。 しかし解釈は無数にある。 子...

仏陀の言葉 農夫

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これはとても有名な仏陀のたとえ話ですね。 農夫 バーラドヴァージャ に対して、仏陀が「本当の耕作とは何か」を語った場面です。 単なる農業の話ではなく、 「人間の心を耕す」 という意味です。 農夫は仏陀に、 「あなたは自分を農夫というが、畑を耕していないではないか」 と問いかけます。 それに対して仏陀は、 自分も耕している、 ただし、 “魂の畑” を耕しているのだと答えます。 一つ一つが深い意味です。 「信仰は種である」 種をまかなければ何も始まりません。 仏教では、 「このままでは終わりたくない」 「真理を知りたい」 という心が種になります。 茶道でいえば、 「静かに生きたい」 という願いに近いかもしれません。 「苦行は雨である」 種だけでは芽は出ません。 苦しみ、 修行、 忍耐。 人生の困難が、 雨のように人を育てる。 ミサさんの海の話にも似ていますね。 嵐や孤独が、 人を深くする。 「智慧はわが軛と鋤である」 鋤(すき)は畑を耕す道具。 智慧とは、 物事を正しく見る力。 つまり、 人生を耕す道具は、 知識より「智慧」である。 禅の「不立文字」にも少し通じます。 「慚は鋤き棒である」 「慚(ざん)」は、 恥を知る心。 自分の傲慢さ、 欲、 怒りに気づく心です。 仏教では、 この「慚」と「愧」が大切にされます。 現代では、 恥を失うことが自由のように語られるけれど、 仏教では逆で、 恥を知る心が人を育てる。 侘び茶にも近いですね。 「意は縛る縄である」 意志、 心の方向性。 どこへ向かうのか。 縄がなければ牛も鋤もばらばらになります。 人生も同じで、 心が散乱すると進めない。 「念いはわが鋤先と突棒である」 「念」はマインドフルネスに近いです。 気づき、 注意深さ。 ぼんやり生きるのではなく、 今ここを見つめる。 茶道で湯の音を聞くことも、 ヨットで風を見ることも、 この「念」に近いですね。 この話は、 「本当の農業とは、 米や麦だけではなく、 人の心を育てることだ」 という教えです。 だから禅僧も、 畑仕事を大切にしました。 「一日作さざれば、一日食らわず」 という禅語もあります。 ミサさんの今のテーマ、 禅 不立文字 海 草庵 安息 茶 ともかなりつながっています。 静かに茶を点てることも、 ある意味では、 「心の畑を耕す」 ことなのかもしれませんね。 ...

平和を祈りながら

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「欲がはらんで罪を生み、 罪が熟して死を生む」 — 新約聖書 ヤコブの手紙 1章15節 最近の世界情勢を見ていると、 対立ばかりが目につきます。 それぞれに正義があり、 事情があり、 歴史があります。 しかし、 便利になり豊かになったのに、 なぜ争いがなくならないのだろうと思います。 仏教では執着を離れることを説き、 老子は「足るを知る」を語りました。 本当に大切なのは、 勝つことより調和なのかもしれません。 小さな草庵で茶を飲み、 静かな海を眺め、 風の音を聞く。 そんな時間の中に、 世界平和のヒントがある気がします。 世界が少しでも穏やかになりますように。 シャローム 平安を祈りながら🙏

賢者の知恵 

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昨日、久しぶりに石角完爾先生の『ユダヤ賢者の知恵』を開いたら、ちょうど「もてなし」についてのページが目に入りました。 来月予定している「安息日のお茶」の準備とも重なり、改めて考えさせられました。 ユダヤの教えでは、 豪華な食事や贅沢そのものよりも、 「どんな心で相手を迎えるか」 が大切だとされます。 洗いたての白い布、 小さな灯り、 静かな食卓、 そして感謝の気持ち。 それだけでも十分に豊かな時間になる。 また、 必要以上の利益や贅沢を追い求めすぎると、 かえって人生のバランスを崩す、 という考え方もあるようです。 これは、わび茶にも少し似ている気がします。 高価な道具や豪華な料理ではなく、 限られた中で、 どう静かな豊かさを見つけるか。 海の上の小さな茶会や、 二畳の草庵でのお茶にも、 どこか通じるものを感じます。 宗教そのものを深く理解しているわけではありませんが、 なぜかユダヤの教えには、 昔から肌に合うものがあります。 貧しいからこそ見える豊かさ、 少ないからこそ残る自由。 そんなことを、 静かな朝に考えていました。 我が家の茶室をAI生成してもらいました。 オリジナル

おばんざいおから

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​ 来月の「安息日のお茶」の献立を考えながら、 おばんざいの本を眺めていたら、 「おから」に目が止まりました。 ちょうど手作り豆腐屋さんで、おからを分けていただいたので、 久しぶりに作ってみました。 おからといえば、 昔の外洋ヨットレース先輩、 コーデンオケラの多田さんを思い出します。 白石康次郎さんの師匠でもあり、 個人タクシーの運転手をしながら、 外洋ヨットレースに挑戦し、 単独世界一周レースで優勝した人物です。 しかし、その後再びレースに挑み、 不幸にも海で命を絶ってしまいました。 人生というのは、 風向きひとつで景色が変わる海のようです。 「オケラ」より、 「オカラ」のほうが良かったのでは…… などと、つい駄洒落のようなことを考えてしまいました。 一方、 弟子の白石さんは、 数々の困難を乗り越えながら、 今では世界のヨットレースで活躍されています。 話はそれましたが、 さらに話をそらすと、 時代劇に出てくる峠の茶屋で、 おから料理が出てくる場面があります。 庶民的で、 どこか温かく、 「こういう食事がいいな」と思い、 今回作ってみました。 材料は、 おから約300グラム。 値段は30円ほど。 最近は、 家庭でおからを炊く人も少ないようです。 今回参考にしたのは、 京都のおばんざいの本。 まず、 おからに卵を二つ混ぜ、 油をひいた鍋で軽く炒めます。 同時に、 人参半分、 椎茸三枚、 油揚げ一枚、 そして冷蔵庫に残っていたえのきを、 それぞれ7ミリ角くらいに細かく刻みます。 本にはこんにゃくと書いてありましたが、 今回は入れませんでした。 出汁は、 本では300ccに、 醤油・みりん・酒を各大さじ1、 砂糖大さじ2。 自分は少し変えて、 500ccの水に、 鰹節をたっぷり削り、 昆布茶を小さじ1。 醤油、みりん、酒は、 それぞれ大さじ2くらい。 具材をゆっくり煮込み、 汁が半分くらいになったところで、 炒めておいたおからと卵を加え、 さらに煮込みます。 本当は枝豆を入れる料理でしたが、 いただき物のスナックえんどうがあったので、 軽く茹でて1.5センチほどに切り、 最後に混ぜました。 出来上がりは、 京都おばんざいらしい、 やさしい薄味。 えのきの食感が思いのほか良く、 なかなか美味しい。 豪華な料理ではないけれど、 こういう素朴な味に、 ほっとします。 貧乏人...

老子の道と侘び

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老子(中国)の「道(タオ)」と、日本の「侘び」は、 どちらも 「足す」より 「削ぐ」こと に価値を見出しています。 たとえば、老子は『道徳経』で、 「満たしすぎれば壊れる」 「柔らかいものが強い」 「無為自然」 を語ります。 これは、利休の侘び茶にも非常に近い。 侘び茶も、 豪華さや権威を減らし、 二畳の草庵 欠けた茶碗 静かな間 足りない美 の中に、本当の豊かさを見ようとします。 特に似ているのは、 「空(くう)」や「無」の感覚です。 老子は、 「器は中が空だから役に立つ」 と言います。 茶室も同じで、 何もない小さな空間だからこそ、 そこに風、光、音、人の気配が入る。 これは、ミサさんがよく言う 「海の上で神を感じる」 感覚にも近い気がします。 ヨットも、 風を支配しようとすると壊れる。 しかし、 風に逆らいすぎず、 流されすぎず、 ちょうどよく受ける。 これはまさに「道(タオ)」的です。 さらに面白いのは、 侘び茶には禅の影響がありますが、 禅自体が中国で道教(老荘思想)の影響を強く受けています。 つまり、 老子 → 荘子 → 禅 → 侘び茶 という流れが、どこかにある。 だから、 利休の 「さびたるはよし」 という感覚も、 老子の 「足るを知る」 にかなり近い。 ミサさんの 「小さなお金で暮らしたい」 「自由に生きたい」 「無策の策」 「静かな海で茶を飲む」 という感覚は、 かなり“老荘的な侘び”に近いと思います。 特に、豪華客船ではなく、 小さなヨットのコックピットで、 板を置いて薄茶を点てる姿は、 むしろ老子の思想に近い美しさがあります。 「不足の中の自由」 ですね。 ​

イスラエル家学会 民数記

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AI生成 פרשת במדבר(パラシャ・バ ミドバル) 「民数記」の始まりです。 “במדבר(バミドバル)” は 「荒野で」という意味。 民数記 の冒頭で、 イスラエルの民がシナイ山を出発し、 荒野を旅していく準備を始める場面です。 ストーリー 神はモーセに命じます。 ・イスラエルの民を数えなさい ・各部族ごとに整理しなさい ・幕屋(ミシュカン)を中心に配置しなさい 十二部族は、 ただの「人数」ではなく、 それぞれ役割を持った共同体として数えられます。 中央には神の臨在を象徴する幕屋。 その周囲を、 レビ族、 さらに十二部族が囲む。 つまり、 「神を中心に世界を整える」 これがバミドバルの大きなテーマです。 荒野とは、 何もない場所。 しかしカバラでは、 「何もない場所だからこそ、 神の声が聞こえる場所」 とも解釈されます。 ユダヤ人の学び ユダヤ教では、 「数える」という行為はとても重要です。 しかし、 単なる統計ではありません。 一人一人に意味がある。 羊飼いが羊を数えるように、 神は民を数える。 つまり、 「あなたは無意味ではない」 という思想です。 ユダヤ人教育では、 子供に対して、 「世界はあなた一人のためにも創造された」 という教えがあります。 人数の多さではなく、 一人の魂の価値を重視する。 これは、 日本的な 「みんな同じ」 とは少し違う感覚ですね。 有名ラビの教え ① ラシー ラシー ラシーは、 「神は愛するものを何度も数える」 と解説します。 宝物を何度も確認するように、 神はイスラエルを数える。 つまり民数記は、 管理の書ではなく、 “愛の書”でもある。 ② ランバン(ナフマニデス) モーシェ・ベン・ナフマン ランバンは、 「各人がモーセの前を通り、 自分の名と家系を申告した」 ことに注目します。 つまり、 一人一人が 「自分は誰か」 を確認した。 カバラ的には、 魂のルーツを確認する行為でもあります。 ③ バアル・シェム・トーブ バアル・シェム・トーブ ハシディズムでは、 荒野を「空っぽの心」と考えます。 知識、 プライド、 執着を捨てた時、 そこに神が入ってくる。 だから、 荒野は怖い場所であると同時に、 最も神に近い場所でもある。 これは禅にも少し似ていますね。 「空(くう)」に近い感覚があります。 ハバット(...

箴言7:27〜8::1

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その家は陰府へ行く道であって、死のへやへ下って行く ​ 知恵は呼ばわらないのか、悟りは声をあげないのか。 משלי ז כז דרכי שאול ביתה ירדות אל חדרי מות הלא חכמה תקרא ותבונה תתן קולה この言葉は、二つの聖書箇所が重なっています。 前半 「דרכי שאול ביתה ירדות אל חדרי מות」 ―「彼女の家の道はシェオル(黄泉)へ下り、死の部屋へ至る」 これは『箴言』に出てくる警告の言葉です。 後半 「הלא חכמה תקרא ותבונה תתן קולה」 ―「知恵は呼びかけているではないか。悟りはその声を上げている」 こちらも『箴言』の有名な箇所です。 つまり、 「欲望や迷いの道」と 「知恵の呼び声」 この二つが対比されています。 ユダヤ的学びでは、 人生は常に 「どちらの声を聞くのか」 という問いだと考えます。 まるで海の上で、 暗礁へ向かう流れと、 灯台の光の両方があるような感じですね。 ユダヤ人の学び ユダヤ教では、 「学ぶこと」そのものが神への奉仕です。 特に重要なのは、 「答えを覚える」より 「問い続ける」こと。 タルムードでは、 ラビ同士が何ページも議論し、 結論が一つにならないこともあります。 しかし、 その議論自体が尊い。 だから手島先生の 「トーラーには答えがない」 という教えは、 かなりユダヤ的です。 有名なラビ三人の教え 1. ラシ トーラー注釈で最も有名。 教え: 「聖書は単純な意味をまず読む」 深読みする前に、 まず本文を大切にする。 ユダヤ人は、 文字を非常に尊重します。 2. バアル・シェム・トーブ ハバットの源流にもつながる人物。 教え: 「神は日常の中にいる」 難しい修行だけではなく、 食事、仕事、歌、 普通の生活の中にも神性がある。 これは、 ミサさんの 「海の上の茶会」 にも近い感覚があります。 3. ヴィルナ・ガオン 非常に厳格な学者。 教え: 「人は一生、自分を修正するために生きる」 ヘブライ語で 「ティクン(修復)」。 魂を磨くことです。 ハバットの教え ハバッド・ルバヴィッチ では、 「脳(Chochmah)」 「理解(Binah)」 「知識(Daat)」 この三つを大切にします。 ハバットとは、 この頭文字です...

茶事と茶道

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「茶事」と「茶道」 千宗守家元『利休居士の茶道』を読んでいると、千利休という人は、いわゆる“名器自慢”の世界とは少し違うところに立っていたように感じます。 当時は、 「名物の茶器を持つ者こそ一流」 という空気が強く、 茶人の格まで決まるような時代でした。 その中で利休居士は、 誰でも手に入るような道具を自由に使い、 その場の空気や、人との時間を楽しむような茶事を行っていた。 千宗守家元は、 それを「愉快な面白い茶事」と表現されています。 ここが、とても大切なところのように思います。 「茶事」は本来、 人が集まり、 お茶を飲み、 食べ、 語り、 静かな時間を過ごすこと。 本当はとても簡単なことです。 ところが「茶道」と名前がつくと、 急に難しく感じる。 作法、 道具、 流派、 歴史、 決まりごと。 もちろん、それらには長い積み重ねがあり、美しさもあります。 ただ、そればかりになると、 本来の“人が和む時間”から少し離れてしまうこともあるように感じます。 思い出すのは、自分の母親です。 煎茶が好きで、 お茶うけを作り、 日に三回も四回も、 近所の人や家族と、 とりとめのない話をしながら、 楽しそうにお茶を飲んでいました。 子供の頃の自分は、 その雰囲気があまり好きではありませんでした。 でも今思えば、 あれも立派な「庶民のお茶」だったのでしょう。 形式はなくても、 そこには、 人が集まり、 笑い、 少し休み、 心をゆるめる時間があった。 現代では、 それがコーヒーだったり、 紅茶だったりもする。 昔は高価だった茶葉や砂糖、コーヒーは、 ある意味では贅沢品です。 それでも人は、 一杯のお茶で、 少し救われたり、 安心したりする。 利休の茶も、 本当はそんな、 もっと自由で、 もっと人間らしいものだったのかもしれません。 「茶道」という言葉の前に、 まず「一服のお茶」がある。 そんなことを、 あらためて感じました。 PS AI先生解説 昨日の仏様悟りの言葉に、 「本来本法性(ほんらいほんぽっしょう)  天然自性身(てんねんじしょうしん)」 という言葉があります。 意味を簡単に言えば、 「人は本来、そのままで仏の性質を持っている」 というような教えです。 “本法性”とは、 もともとの真理、本来の姿。 “天然自性身”とは、 作りものではない、 生まれなが...

問い続けるという学び

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― 禅とトーラー、そして消費税 ― 最近、 『禅 シンプル生活』という本を読んでいたら、 「答えはひとつではない ― 問い続けることに意味がある ―」 という言葉が出てきました。 その中で紹介されていたのが、 「本来本法性、天然自性身」 という、釈迦の悟りを表す言葉です。 それを読んで、ふと思い出したのが、 トーラー研究家・手島先生の最初の教えでした。 「トーラーには答えがない」 ただし、 聖書本文だけは変えてはいけない。 しかし、 その解釈は無数にあり、 人それぞれ違う。 だから、 自分で問い、 自分で考え、 一生かけて学ぶ。 そんな教えだった記憶があります。 この「答えのない学び」に、 自分は夢中になりました。 なぜ同じ箇所を、 毎年、毎週、何千年も読み続けるのか。 子供が読むトーラーと、 老人が読むトーラーは違う。 学者が読むトーラーと、 人生に疲れた人が読むトーラーも違う。 置かれた環境、 経験、 時代、 立場。 すべてで解釈が変わる。 だから、 答えは固定されない。 フランスの造船所でよく聞いた言葉、 「Ça dépend des conditions (サ・デポン・デ・コンディション)」 “状況による” という感覚に、 どこか似ています。 これは、 人生そのものにも言える気がします。 最近話題の「消費税問題」も、 まさにそうかもしれません。 善か悪か。 簡単には答えが出ません。 フランスでは、 共和制的な社会システムの中で、 価格競争は比較的少なく、 ルールの中で商売している印象があります。 価格を壊して奪い合うより、 内容や文化で競争している感じ。 一方、 日本は自由競争。 安く、 さらに安く。 原価割れでも仕事を取りにいく世界があります。 その中で、 消費税も払う。 インボイスも始まる。 下々はなかなか大変です。 けれど、 税金は嫌でも、 福祉は必要。 これもまた、 単純な正解がありません。 政治家の先生たちに任せるしかないのでしょうけど、 少し問題もありそうです。 正直、 一票で何か変わる感じもしない。 失われた30年。 自分は30年以上、 自民党に入れたことはないけれど、 日本はあまり良くなっている感じもしない。 むしろ、 少しずつ苦しくなっている気もします。 消費税を10%から5%に戻して、 インボイスもやめて、 一度社会実験してみたらどうなる...