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方舟亭 茶会

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楽園の茶会 海の上の方舟亭 先日、海の上で「楽園の茶会」を無事ひらくことができました。 今回のテーマのひとつは、旧約聖書の「ノアの方舟」です。 大洪水のあと、鳩が飛び立ち、 やがて平和のしるしを持ち帰る物語。 そのイメージを重ねながら、 ピカソの「平和の鳩」、鳩サブレー、モンサンミッシェルのサブレなど、東西の文化や遊び心を小さな茶席に散りばめました。 お茶碗は、赤楽、黒楽、そして義山の新月。 赤楽は太陽や火。 黒楽は静かな闇。 義山は水や月のような透明感。 けれど、不思議なことに、海の上では道具の存在感が少しずつ消えていきます。 風の音、波、光、空。 自然そのものが茶室になり、 最後には茶碗さえ景色の中へ溶け込んでいく。 セーリングも、お茶も、 どちらも「今ここ」に意識を向ける時間です。 帆に入る風を感じること。 静かに湯を注ぎ、一服を味わうこと。 まさに海のマインドフルネスでした。 方舟亭 楽園の茶会。 洪水のあと、鳩が戻るように、 また静かな時間が海に浮かべばと思います。 PS 南方録より 『南方録』のこの言葉は、利休の「わび」の感覚を、とても端的に表しています。 まず、 「さびたるはよし、さばしたるはあしし」 これは、 自然に古びて枯れた趣はよい。 しかし、作為的に“わびっぽく”見せるのはよくない。 という意味です。 つまり、 本当の侘びは、 時間や生き方の中から自然ににじみ出るもので、 演出しすぎると、ただの格好になってしまう。 そして今回の 「叶うはよし、叶いがたるはあしし」 これも似ています。 一見すると、 「願いが叶うのは良い、叶わないのは悪い」 のようですが、 茶の湯ではもっと深い意味があります。 ここでいう「叶う」は、 道具・季節・客・亭主の心が、 無理なく自然に調和している状態。 つまり、 “ちょうどよく収まっている” という感覚です。 逆に 「叶いがたる」は、 ・無理をしている ・背伸びしている ・豪華さを追いすぎる ・形だけ真似している ・心が伴わない そういう“不自然さ”です。 わび茶は、 不足を楽しむ世界ですが、 「不自由」や「不完全」を無理に作る世界ではない。 自然に整い、 静かに調和していることが大切。 だから利休は、 豪華だから良いのでもなく、 貧しいから良いのでもなく、 「その場にか...

茶道と中庸

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茶道という「道」と名のつくものは、 技術の上手さや強さを競うものではなく、 心と体のバランスが整った人を目指す修行だと感じます。 その姿は「中庸」と言われます。 中庸とは、ただ真ん中という意味ではなく、 強すぎず、弱すぎず、偏らないこと。 その場、その時にふさわしい在り方。 自分と相手と場が、静かに調和している状態です。 海の上で風を受けながらヨットを走らせていると、 この感覚がよく分かります。 風に逆らいすぎても進まず、 任せすぎても流される。 ちょうどよく受け入れること。 それが自然との調和であり、中庸です。 陰陽の原理である「易」もまた、 同じことを教えているように思います。 世界は、陰と陽の移ろいの中にあり、 一瞬として同じ状態はありません。 満ちる月、欠ける月。 静かな海、荒れる海。 すべては変化の中にあります。 だからこそ「易」は、 本来、文字や言葉では表しきれないものだといわれます。 言葉にした瞬間に、 もうその状態は過去になってしまうからです。 茶の湯もまた同じです。 同じ道具を使い、同じように点てても、 その一服は二度と同じにはなりません。 仮庵の茶会も、 完成された場所ではなく、移ろいの中にある一瞬の場です。 不完全であるからこそ、 その時の調和が際立つ。 楽園とは、どこか遠くにあるものではなく、 この一瞬の調和の中に現れるものなのかもしれません。 😊 Question ユダヤ教も中庸を大切にするけど同じ? 💌Answer AI教祖 解説 いい視点ですね。結論から言うと―― 似ているけれど、同じではないです。 茶道の「中庸」と、ユダヤ的な考えは、 重なる部分と、方向の違いがあります。 ■ ユダヤ教にも「中庸」に近い考えはある ユダヤ教では特に、 マイモニデス がはっきりこう言っています。 👉 人は極端を避け、中間の道を歩むべき たとえば 怒りすぎない かといって無関心でもない 欲を持ちすぎない しかし無欲すぎてもいけない これはまさに「中庸」に近い考えです。 ■ ただし大きな違いがある ここが面白いところです。 茶道・禅的な中庸は 👉 調和そのものが目的 ですが、ユダヤ教は 👉 神の意志に沿うためのバランス です。 つまり 茶道 → 自然・場・人との調和 ユダヤ教 → 神との関係の中での正しさ ■ カバラ的に見る...

わび茶碗 黒楽茶碗

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お気に入りの 黒楽野点 海の上に、小さな仮の庵をつくる。 それが「方舟亭」のはじまりです。 仮庵とは、完成された場所ではなく、 一時的に身を寄せる、簡素な空間。 けれど茶の湯においては、 この“仮”こそが本質なのかもしれません。 器が消えるということ 千利休 は、 それまでの豪華な道具中心の茶から離れ、 人と人が向き合うための茶を求めました。 その中で生まれたのが、 長次郎 による楽茶碗です。 手にすっとなじむ丸み、 やわらかな温もり。 黒は闇に溶け、 赤は手に溶ける。 やがて器の存在は薄れ、 まるで掌で直接お茶を受けているような感覚になる。 器が消えたとき、 そこに残るのは―― お茶と、人だけです。 楽園とはどこか 楽園は、どこか遠くにあるものではなく、 ほんの一瞬、心がほどけた場所に現れるもの。 海の上、風に揺られながら、 一碗のお茶をいただく。 それは豪華でも、完璧でもない。 むしろ不完全で、仮の場所。 けれどその中に、 たしかな豊かさがあります。 仮庵という生き方 仮庵は、執着しない生き方そのもの。 家も、道具も、肩書きも、 すべては一時的なもの。 そう思えたとき、 人は少し自由になれる。 方舟亭へ 旧約のノアの方舟のように、 この小さな舟もまた、 時の流れの中に浮かぶ仮の避難所。 創世記 に描かれる方舟のように、 そこには命をつなぐ静かな時間があります。 そして一服のお茶が、 人と人をつなぎます。 結び 楽園の茶とは、 完成された世界ではなく、 不完全な仮庵の中に現れるもの。 器が消え、 場所も意味を失い、 ただ、 人とお茶だけが残るとき。 そこに、ほんの一瞬、 楽園が立ちあらわれます。

方舟亭 楽園のお茶会 準備

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海の上、板一枚の茶室。 風と水にゆだねる、一服の時間。 楽園の茶会 ― 海の上の方舟亭 準備 海の上でひらく、小さな茶会。 その名を「方舟亭」としました。 由来は、旧約聖書の 創世記 に登場する「ノアの方舟」です。 混沌とした世界の中で、命を守るために用意された方舟。 洪水のあと、鳩がオリーブの葉をくわえて戻り、平和のしるしとなりました。 その静かな物語を、海の上の一服に重ねてみたいと思います。 道具としつらえ 今回の茶会は、野点の趣を大切にしています。 ・水は「財宝温泉」 ・茶碗は、太陽を思わせる赤の楽茶碗、そして水を感じる義山 ・濃茶には黒楽を用い、しっかりとした一服に ・古帛紗はバティックの蝶、軽やかな風の象徴 掛け軸の代わりには、 ピカソの平和の鳩 のポスターを。 自然と祈りが、やわらかく重なる空間を目指しました。 お菓子について 本来はフランス・ブルターニュ地方のサブレを考えていましたが、 今回はモンサンミッシェル修道院のサブレを用意しました。 そしてもうひとつは、 鎌倉の 鳩サブレー。 フランスのサブレは味わいが濃く豊か。 それに対して鳩サブレは、どこか和のやさしさがあり、 軽やかで繊細な甘さが特徴です。 さらに、和三盆ときなこの練り菓子。 鳩の姿にして、静かな平和を添えました。 海の上の一服 テーブルの代わりに一枚の板。 必要最小限のしつらえ。 風、光、水、そして人。 余計なものを削ぎ落とすと、 ただ一服のお茶が、 少し特別なものに感じられます。 混沌とした時代の中でも、 ほんのひととき、静かにお茶をいただく。 それは、現代の小さな「方舟」なのかもしれません。

コヘレト2:10〜

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​קהלת ב י וכל אשר שאלו עיני לא אצלתי מהם לא מנעתי את לבי מכל שמחה כי לבי שמח מכל עמלי וזה היח חלקי מכל עמלי ופניתי אני בכל מעשי שעשו ידי ובעמל שעמלתי לעשות והנה הכל הבל ורעות רוח ואין יתרון תחת השמש 旧約聖書の中にあるコヘレトの書の一節を読みました。 「欲しいものはすべて手に入れた。 楽しみも、喜びも、心のままに味わった。 その労苦の中で、確かに喜びもあった。 それが自分の得た分け前だった。」 ここまでは、とても人間らしい話です。 一生懸命働き、好きなものを手に入れ、喜びを感じる。 誰もが通る道かもしれません。 しかし、そのあとに続く言葉が深い。 「けれど振り返ってみると、 すべては空しく、風を追うようなものだった。 太陽の下には、本当の益はなかった。」 やりきった人にしか見えない景色。 それが、この言葉にはあります。 欲しいものを我慢した人の言葉ではなく、 すべてを経験した人の結論だから重い。 これは悲観ではなく、ひとつの到達点のようにも感じます。 禅でいう「空」。 満ちた先にある、何もないという静けさ。 茶の湯も、どこか似ています。 豪華な道具や形式を超えて、 最後は一碗のお茶に戻っていく。 ヨットで海に出たときも同じです。 風を受けて進み、自然の中に身を置くと、 多くを求めていた自分が、すっと消えていく。 結局、人は 何かを足して満たされるのではなく、 余計なものが削ぎ落とされたときに、 本当の静けさに出会うのかもしれません。 今日も一服。 それで十分。

シャバット エモール

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何もしない贅沢と器の話 シャバット・シャローム。 今日は「仮庵」という言葉を思いながら、 静かな時間を過ごしています。 仮庵。 仮の住まい。 永遠ではない、いっときの居場所。 ユダヤではスコット(仮庵)の祭りがあり、 あえて不完全な小屋で過ごします。 風が通り、空が見える。 完全ではないからこそ、 本当の豊かさに気づく場所です。 人も同じで、 完全な存在ではなく、仮の器のようなものかもしれません。 カバラでは、 光と器という考え方があります。 光は恵み、 器はそれを受けるもの。 人はその器。 ただの容れ物ではなく、 感じ、選び、整えていく器です。 同じ出来事でも、 不満になるか、感謝になるかは、 器の状態で変わる。 そして、その器を整えるのが言葉です。 エモール、「語れ」。 言葉は現実をつくる。 荒い言葉は器を濁し、 静かな言葉は器を整える。 だからこそ、言葉は少なく、丁寧に。 シャバットは、何もしない時間。 仮庵のように、 いったんすべてを手放して、ただ在る。 お茶を一服。 風を感じる。 ただ静かに座る。 それだけで、器は自然に整っていく。 楽園とは、どこか遠くにあるのではなく、 こういう時間の中に、ふと現れるものかもしれません。 仮庵のような一日。 何もしない贅沢。 シャバット・シャローム。

自然療法

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健康と陰陽 ― からだは調和で生きている ― 今日は「健康」について。 一昔前に安倍先生からいただいた 陰陽ことはじめ うたつみやこ を、ふと手に取りました。 今の自分に、ちょうどいい内容でした。 ■ 自然と薬のあいだで もともとナチュラリストなので、 薬にはあまり頼らずに生きてきました。 伊豆で断食をしたり、自然治療を続けて10年以上。 ただ、年齢とともに体も変わり、 今は薬も使いながらの生活です。 本当はまた断食に行きたいのですが、 施設の料金も上がり、なかなか難しいのが現実。 👉 健康=自由 あらためて、そう感じます。 ■ オートファジー(短く) 👉 オートファジーとは 体が自分の古い細胞を分解して、新しくする仕組み 空腹の時間があることで働きます。 ■ 一日一食の悩み 自分は一日一食。 ただ、肉体労働で酒も好きなので、 どうしてもその一食が「大食い」になります。 いいのか、悪いのか。 でも空腹時間は長いので、 オートファジーは働いているはず。 このバランスは、まだ模索中です。 ■ ニーム茶と節制 同年代のお客さんに勧められて、 今日はアーユルヴェーダのニーム茶を飲んでいます。 正直、体が悪くならないと節制できない。 少し情けない気もしますが、 それもまた人間らしさかもしれません。 ■ からだは陰陽でできている 私たちの体は、すべて陰陽の働きです。 目は開く(陽)と閉じる(陰) 心臓は収縮(陽)と拡張(陰) 呼吸も、吸う(陽)と吐く(陰) すべてが、行ったり来たりしながら バランスをとっています。 ■ 部分ではなく全体 肝臓が悪いからといって、 そこだけを見るのは機械の修理のようなもの。 一時的には良くなっても、 本質は「全体の調和」にあります。 👉 体は一つの宇宙 すべての器官がつながり、 情報を交換しながら生きています。 ■ ひとこと 健康とは 👉 無理に整えるものではなく、 バランスに戻る力を取り戻すこと 今日は少し陰の日でもいい。 そんな日には、 静かにお茶を一服。 それだけでも、 体はまた整いはじめるのかもしれません。 楽園のお茶🍵

千利休居士の草庵茶事

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千利休の草庵茶事 ― 同じ道具を繰り返し使うという美 ― (利休居士の茶道より) 千利休の茶事を、千宗守家元の記述から読み解くと、現代の茶人とは少し違う感覚が見えてきます。 それは「道具の観念」です。 現代では、客ごと・場面ごとに道具を替えることが大切にされがちです。 しかし利休は、気に入った道具を何度も繰り返し使いました。 たとえば 「鶴のはし」の花入、 そして「橋立の茶壷」。 同じ客でも、違う客でも、ほとんど区別なく何度も用いる。 この“繰り返し”こそ、利休の茶の面白さであり、本質でもあります。 天正十一年五月十九日(1583年6月頃) この日、荒木村重(道薫村重)が、利休の客となりました。 四畳半の草庵。 床には墨蹟。 濃紫の袋に包まれた肩衝茶入が、四方盆に据えられています。 一尺四寸の囲炉裏には、大きな霰釜。 五徳にかけられ、静かに湯が立ちのぼる。 客が席に入る頃、香は外で焚かれ、 やがて香炉が室内に運ばれ、ほのかに香りが広がります。 さりげない所作の中に、深いもてなしが感じられます。 懐石 ― 控えめの中の豊かさ 懐石もまた、華美ではありません。 朱塗りの折敷 鯛の酒浸し(薄塩) 鶉のたたきの汁 山椒の枝付きの香の物 飯は二度すすめられ、 唐金の飯器と杓子。 さらに このわた、田楽一串。 酒は錫の鳶口。 菓子は、軽く炙った薄皮饅頭に、かや・焼栗・からす芋。 どれも素朴でありながら、心に残るものばかりです。 利休の茶とは何か 利休の茶は、 珍しい道具を見せることでも、 豪華さを競うことでもありません。 同じ道具を繰り返し使いながら、 その都度、違う一席を生み出す。 それはまるで、 毎日同じ海に出ても、同じ波がひとつもないのと同じです。 道具ではなく、 人と場と、その一瞬の心。 そこにこそ、草庵の茶の本質があります。

死のあとに聖さがある 〜今を生きるということ〜レビ記

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AI先生作成 今週のパラシャ 「アハレイ・モート/ケドシーム」。 レビ記 にあるこの箇所は、 とても静かで、しかし深い問いを投げかけてきます。 ■ 死のあとから始まる教え 「アハレイ・モート」 意味は「死のあと」 アロンの息子が神の前で命を落とした、その後の話から始まります。 ここで語られるのは 贖罪の日、そして「どう神に近づくか」 罪や穢れを外へ流すために、 一匹のヤギが荒野へ放たれます。 人は、自分の中の重たいものを 外に出したくなる存在なのかもしれません。 ■ 聖さとは何か 続く「ケドシーム」はこう言います。 👉「あなたたちは聖であれ」 でもその内容は驚くほど日常的です。 親を敬う 嘘をつかない 人をだまさない 隣人を自分のように愛する 特別な修行ではなく、 当たり前のことを丁寧に生きること。 それが「聖さ」だと語られています。 ■ ラビの教え ラビたちは、この並びに意味を見ます。 👉 死のあとに、聖さが来る つまり 👉 苦しみや失敗、死と向き合ったあとに 👉 人は本当の意味で整っていく また、あるラビはこう言います。 👉「自分が嫌なことを人にするな。それがトーラーの本質だ」 難しい教えではなく、 とてもシンプルなことに帰ってきます。 ■ カバラの視点 カバラでは、少し違った角度から見ます。 ゾーハル によると、 死は終わりではなく 光に触れた出来事とも考えられます。 強すぎる光に触れたとき、 人の器は耐えられず壊れてしまう。 また、荒野に放たれるヤギは ネガティブなものを外へ流す象徴。 抑えるのではなく、流す。 整えるという発想です。 ■ 死のあとに天国はあるのか よくある問いです。 でもユダヤの考え方は少し違います。 すぐに天国へ行くというよりも、 👉 一度、整えられる そして 👉 整った魂が次の世界へ進む 死は終わりではなく 「移動」や「通過点」として見られています。 ■ 禅の視点 禅はさらにシンプルです。 👉「生死一如」 生と死は別ではない。 あるのは 👉 今この瞬間だけ ■ ヨットと茶の湯 ヨットで海に出るとわかります。 嵐も、静けさも、 どちらも同じ海です。 茶の湯も同じです。 一服の茶は ただそれだけのことなのに、 深く心に残る。 👉 一期一会 二度と同じ「今」はありません。 ■ 結局のところ 死んだら...