安息日のお茶
安息日のお茶 昨日、「安息日のお茶」を無事に終えることができました。 始まりは宗行先生との「飲みに行こう」という話でした。しかし先生が禁酒をされたので、それならお茶と食事の会にしてみようという軽いノリから始まりました。 献立を考え、仕入れをし、仕込みをして、器を選ぶ。お椀以外は家にあるものを使いました。慣れないことばかりでしたが、何とか最後まで終えることができました。 不審庵を見習うほどのものではありませんが、食事をお出しし、濃茶、薄茶と、一通りの流れを皆さんに体験していただけたことが一番だったように思います。 終わってみると、「本当にこれで良かったのだろうか?」という気持ちも残ります。しかし、それこそが茶の湯なのかもしれません。 良かった点は、自分なりに考えたことを最後までやり切れたことです。個人的には大変勉強になりました。茶懐石に参加して学ぶのも良いですが、実際に準備し、お客様を迎えることで学ぶことの方が多かったように感じます。 参加してくださった皆様には心より感謝いたします。 また今回、お茶とは全く関係のない世界にいたかみさんに裏方として料理の支度を手伝ってもらいました。人生の最終章に入りつつある今、改めて感謝の気持ちを感じています。 美食家であり陶芸家でもあった北大路魯山人は、生涯で正式な結婚と事実婚を合わせて複数の伴侶がいたといわれます。しかし、その才能とは裏腹に家庭には恵まれなかったとも伝えられています。 人生は陰と陽。すべてがうまくいくことはありません。 年齢のせいか、お酒の飲み過ぎか、最近は記憶力も怪しくなってきましたが、ふとアダムとイブの話を思い出しました。 創世記には「人がひとりでいるのは良くない」とあり、イブが創られます。ユダヤ教では、人は男と女が揃って初めて一つの存在になる、と解釈されることがあります。 もちろん、その後にエデンの園から追放されるのですから、それが完全な正解だったのかは分かりません。 人生には正解のないことがたくさんあります。 それでも、一人ではできないことが二人ならできる。支え合いながら生きていくことには、大きな意味があるのでしょう。 今回の安息日のお茶を通して、京都の茶の湯文化の一端に触れ、人とのご縁のありがたさを改めて感じることができました。 感謝。