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ハバットハウスでの学び

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ヨットと聖書、そして茶の湯へ ― ハバットハウスでの学び ― 大西洋横断レース、そして単独太平洋横断を終えて、私は地元の銚子マリーナに戻りました。 次の目標は 無寄港世界一周。 夢は大きかったのですが、現実は厳しい。 スポンサー企業を探しましたが、なかなか見つかりません。 当時必要と言われた資金は 約3億円。 「それなら自分で稼ぐしかない」 そう思い、金儲けの勉強を始めました。 そこで出会ったのが 株式投資でした。 300万円ほどの資金から始め、運にも恵まれ、ましたが。 しかし、ちょうど アベノミクスの時期。 どうしても安倍政権の経済政策を信じきることができず、途中で投資をやめました。 その資金で 家と船を購入し、 私の「お金儲けの旅」は一度そこで終わります。 けれど、金儲けを学ぶ過程で、 あることに気づきました。 世界のお金の流れを学ぶと、必ずユダヤの思想に行き着く。 そこから私は、 聖書とユダヤ思想を学び始めました。 赤坂の勉強会、 ヘブライ語博士 手島先生の教室に通うようになります。 ちょうどその頃、 ユダヤ教団 ハバット(Chabad) でも手島先生が講師を務めており、 その勉強会にも参加するようになりました。 やがてシナゴーグにも通い、 ユダヤの教えを直接学ぶ機会を得ました。 学びはとても楽しく、 聖書、タルムード、カバラなど、 新しい世界がどんどん開けていきました。 けれど途中で、 私は一度すべてを 「洗脳解除」 します。 自分はどうも、 組織や団体に属する生き方には向いていない。 やはり 独学と自由のほうが性に合う。 そう思い、そこからは 自宅で一人、聖書やユダヤ思想を読み続けました。 それでも、気づけば 10年近く学んでいました。 ハバットの本部は ニューヨーク・ブルックリンの 770(セブンセブンティ)。 また、そのルーツは ウクライナ にあります。 本当はその地を訪ねる旅をしたかった。 しかし当時はそこまでの余裕がなく、断念しました。 ただ一度、 フランスの世界一周ヨットレースを観戦しに行ったとき、 プロヴァンス地方を訪れました。 そこには、 カバラ発祥のシナゴーグが残るゲットーの町があります。 宗教的な巡礼のような旅で、 観光のような楽しい思い出ではありません。 けれど、 プロヴァンスのハーブ畑は美しかった。 その素朴な...

つづき エデンの茶会(楽園の茶会)

ミサさんのテーマ 「エデンの茶会」 にもつながる形で、 ブログ用に静かにまとめてみました。 茶室はエデンの園なのか 千利休の茶室を考えていると、 ふと一つのイメージが浮かびます。 それは 茶室は小さな宇宙であり、 ある意味「エデンの園」のような場所ではないか ということです。 旧約聖書では、 人間はもともとエデンの園に住んでいました。 そこには ・静かな自然 ・水 ・木 ・実り があり、 人は神と共に静かに生きていました。 しかし人間は知恵の実を食べ、 エデンを離れ、 労働と争いの世界に出ていきます。 ここで面白いのが、 利休の茶室の構造です。 茶室へ行くには、 まず 露地(ろじ) を歩きます。 露地は 「この世の塵を落とす道」と言われます。 そして途中にあるのが 蹲(つくばい) ここで手と口を清めます。 これはまるで 神殿や宗教の清めの儀式のようです。 さらに にじり口。 身分も武器も捨て、 体を低くして入ります。 つまり すべてを捨ててから 小さな聖なる空間に入る という構造です。 これは宗教的に見れば とても象徴的な動きです。 茶室に入ると そこには ・一輪の花 ・掛け軸 ・釜の音 だけがあります。 豪華なものは何もありません。 しかしそこには 静かな宇宙があります。 そして亭主が 一碗の茶を点てます。 客はそれを 静かにいただきます。 ただそれだけです。 しかしその時間は、 日常から離れた 特別な時間になります。 まるで 一度失ったエデンの静けさに 少しだけ戻る時間 のようにも感じます。 禅では それを 無 と言います。 聖書では それを 神の前の静けさ と言うのかもしれません。 宗教は違っても 人が求めているものは 同じなのかもしれません。 静かに座り、 心を整え、 自然と一体になる時間。 利休の茶の湯は 宗教ではなく、 人間の原点に戻る方法 だったのかもしれません。 そして私は思うのです。 もしエデンの園があるとしたら、 それは遠い天国ではなく 一碗の茶の静けさの中にあるのではないか と。 ミサさん、この話は実は カバラとも深くつながります。 ・エデンの園 ・生命の木 ・光と器 これを茶の湯で見ると、 利休の茶室=生命の樹の世界 という、とても面白い見方ができます。 もしよければ次に 「茶室と生命の樹(カバラ)」 を、ミサさんの エデンの茶会の思想として...

つづき 利休がキリスト教?

ミサさんの雰囲気に合わせて、少し深い話としてブログ用にまとめました。 利休の茶室は小さな教会なのか 千利休とキリスト教。 この話を最初に聞いたとき、私は正直あまり好きではありませんでした。 茶の湯は禅の世界だと思っていたからです。 しかし、茶の湯の源流をたどり 村田珠光や一休禅師を知るようになると、 この問題はそれほど気にならなくなりました。 むしろ、少し面白く感じるようになりました。 当時の堺は、南蛮船が来る国際都市でした。 ポルトガルの宣教師が来て、 キリスト教が急速に広がっていた時代です。 堺の商人の中にもキリシタンは多く、 利休の弟子には キリシタン大名の高山右近もいました。 つまり利休は、 キリスト教の存在を知らないはずがないのです。 ここからが面白いところです。 利休の茶室には 小さな宗教建築のような要素があります。 ① にじり口 茶室に入るには 武士も商人も農民も、 刀を外し、身をかがめて入ります。 身分をすべて外す入口。 これはキリスト教の教会でいう 神の前では人は平等 という思想にもどこか似ています。 ② 一輪の花 茶室に飾られる花は 華美ではなく、 野に咲くような一輪。 ある茶人は、これを スケープゴート(身代わり) に似ていると言っていました。 人の罪や穢れを 一つの存在が引き受けるという思想です。 もちろん茶の湯は禅ですが、 そう感じる人がいるのも分かる気がします。 ③ 茶室の光 京都の利休の茶室 **待庵(たいあん)**には 小さな窓から 十字のような光が差す瞬間があると言われています。 偶然かもしれません。 しかし南蛮文化が入ってきた時代、 そういう象徴を感じた人がいたのも自然です。 しかし私は思います。 利休がキリスト教徒だったかどうか。 それは実は大きな問題ではないのかもしれません。 茶室に入ると、 人は静かに座り、 心を整え、 一碗の茶をいただきます。 その時間は 禅でもあり 祈りでもあり ミサにも少し似ている。 宗教は違っても 人が静けさの中で何か大きなものと向き合う時間 それはどこか共通しているように思います。 利休は禅僧ではなく 商人でした。 だからこそ、 世界の文化や思想を 静かに受け止めていたのかもしれません。 そして茶室という小さな空間に 宇宙のような静けさ を作ったのではないでしょうか。 ミサさん、実はこの話には もう...

なぜ?ミサさん

コピペ  拈華微笑(ねんげ・みしょう) 2月 09, 2026   なぜ自分は、AIから「ミサさん」と呼ばれるのか。 そのきっかけは、歴史作家・加治将一氏の著書 『軍師 千利休』を読んだことにある。 その本の中で、千利休はクリスチャンであり、 洗礼名は「セント・ルカ」ではないかと、 かなり真剣に語られていた。 その謎が気になり、利休とキリスト教の関係を追いかけた。 作中で語られていたのは、 茶の湯は「ミサ」である、という大胆な視点だった。 自分はクリスチャンではない。 ただ、ミサとは何か、どんな方法で、どんな所作なのか、 しつこく質問を重ねていたら、 いつのまにか「ミサ」というあだ名がついた。 悪くない。むしろ気に入っている。 千利休が本当にクリスチャンだったのかどうか。 その説を語る人は多い。 キリスト教は、ユダヤ教の流れを汲む宗教でもあり、 そこには多くの優れた教えや解釈、救世思想がある。 それはそれで、素直に素晴らしいと思っている。 ただ、自分がより強く引っかかったのは、 袱紗で清める所作の成り立ちだった。 あれは、もしかするとミサの儀式に どこか通じているのではないか。 そんな連想が、頭から離れなかった。 そこで一つの考えに至った。 もし利休居士が、キリスト教の影響を受けていたのなら、 自分は カバラ的な視点で、茶の湯を学んでみよう と。 そう思い、 十数年前に学んだことをもう一度なぞり直しながら、 いま、あらためて茶の湯に向き合っている。

ゲマトリア数式

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画像AI作成 3分でわかるゲマトリア (AI先生のやさしい解説) ヘブライ語には、とても面白い特徴があります。 それは 文字に数字がある ということです。 例えばこんな感じです。 א = 1 ב = 2 ג = 3 すべての文字に数字が割り当てられています。 そして、その文字の数字を足して意味を考える方法を ゲマトリア(Gematria) といいます。 簡単に言えば 「言葉を数字にして、隠れた意味を読み取るユダヤの知恵」 です。 例えばこんな例があります。 בנים(バニーム) 意味:子ら この文字の数字を足すと 102 になります。 すると面白いことに、 אמונה(エムナー) 意味:信仰 この言葉も同じく 102 になるのです。 ユダヤのラビたちはここから、こう教えました。 「子とは年齢ではない。 神を信じる心を持つ者のことだ。」 つまりゲマトリアは、 数字を通して聖書の深い意味を探る方法 なのです。 これは占いではなく、 数千年続くユダヤの学びの方法の一つです。 言葉、数字、意味。 それらがつながったとき、 聖書はまた違った姿を見せてくれます。 AI先生より 🌿 もしよければミサさん、 ブログがさらに面白くなる 「実はゲマトリアは茶の湯にも似ている」 という話があります。 これ、かなり面白い比較なんです。 😊 お願いします🙏 💌AI教祖 解説 ミサさん、ではブログの続きとして自然につながる形で書きます。 ゲマトリアと茶の湯 (AI先生のひとこと) ゲマトリアの考え方は、 実は日本の文化にも少し似ているところがあります。 それは 茶の湯 です。 茶の湯では、一つ一つの所作に意味があります。 例えば 茶碗を回す 湯の音を聞く 茶室に入るとき頭を下げる 一見するとただの動作ですが、 そこには 深い意味 が込められています。 ゲマトリアも少し似ています。 ただの言葉と思っていたものが、 数字で見ると 別の意味が見えてくる のです。 ユダヤのラビたちは 聖書の言葉には まだ見えていない意味がある と考えました。 そして文字を数字として読み、 そこから 新しい学び を見つけていきました。 茶の湯も同じです。 一碗の茶の中に、 自然、心、礼、静けさが すべて含まれています。 だから禅ではこう言います。 且坐喫茶(しゃざきっさ) 「まあ、座って...

箴言7:24

​ 子供らよ、今わたしの言うことを聞き、わが口の言葉に耳を傾けよ。1955年日本聖書協会訳 משלי ז כד ועתה בנים שמעו לי והקשיבו לאמרי פי ועתה ベアタァ そして今 6-70-400-5-481 בנים バニイム 子供達 2-50-10-40-102 שמעו シムオゥ 聞く 300-40-70-6-416 לי リイ わたしにとって 30-10-40 והקשיבו ベハクシィブウ そして聞く 6-5-100-300-10-2-6-429 לאמרי レイムレイ 30-1-40-200-10-281 פי フィイ わたしの口 ミサさん、静かに解説します。 この節は 箴言 7:24 です。 ラビの教え(ユダヤの基本解釈) 「子らよ、聞け」 これは単なる親子の会話ではありません。 ラビたちはこう説明します。 בנים(子ら)=イスラエルの民 つまり 神が人間に語っている言葉 です。 そして重要なのはこの二つです。 שמע(聞く) הקשיב(耳を傾ける) ラビはこう言います。 聞く ≠ 理解する 本当に学ぶ人は 1 聞く 2 考える 3 心に入れる この三段階です。 ハバット(Chabad)の解釈 ハバット思想ではこの節は 知恵の入り口 を示します。 ハバットの基本は חב״ד(Chabad) 言葉 意味 חכמה ひらめき בינה 理解 דעת 知識・結びつき この節は ダアト(דעת)に入る前の状態 と言われます。 つまり 「まず聞け」 理解はその後。 ユダヤでは 聞くことが最初の修行 です。 カバラの解釈 カバラではこの節は 生命の樹の流れを表します。 聞くことは ビナー(理解)に入る門 です。 耳は象徴的に ビナー(理解) に対応します。 つまり 神の知恵は 耳から入る と言われます。 だからユダヤ教では 声・言葉・朗読 がとても重要です。 ミサさん向けの理解(茶の湯に近い) この節を茶の湯で言うと 「まず聞け」 です。 利休も同じことを言っています。 まず真似る まず聞く まず座る 理解は後。 禅でも同じです。 且坐喫茶 まず 座ってお茶を飲め です。 さらに深いラビの言葉 あるラビはこう言いました。 人は二つの耳と一つの口を持つ。 それは 話す二倍、聞け という意味だ。 ミサさんの最近の言葉を思い出しました...

わたしはおおくのことを学んだ

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AI作成 禅語から思い出したミシュナの教え 今日、禅語を読んでいて、ふと思い出した言葉があります。 ユダヤの古典 Pirkei Avot(ミシュナ・アボット) の教えです。 ラビはこう言いました。 私は多くを師から学んだ。 友からも学んだ。 しかし一番多く学んだのは生徒からである。 本が見つからなかったので、AI先生に解説してもらいました。 良い先生ほど、生徒の質問から学ぶ。 生徒の素直な疑問が、先生の理解をさらに深めるという教えだそうです。 自分なりに考えると、 生徒が学びに夢中になり、あるところで先生を越えていく。 それこそが教育の一番の目的ではないでしょうか。 禅にも似た考えがあります。 禅では 賓主互換 といい、 師と弟子が互いに学び合う関係を大切にします。 茶の湯でも同じです。 亭主が茶を点て、客がいただく。 けれど一碗の茶の中で、 亭主も客も互いに学び合っている。 そう考えると、茶の湯とは 一碗の中で皆が先生になる世界 なのかもしれません。 🍵

賓主互換と賓主歴然

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ここ三日ほど、茶の湯の読書はお休みしていました。 老眼もあって、あまり本を読みすぎると目がさらに悪くなってしまいます。 今日は三日ぶりに、本を開きました。 暖炉に火を入れ、静かな時間の中での学びです。 本当は楽しくて、つい読みすぎてしまうのですが、身体のことも考えてほどほどに。 暖炉の薪の大きさがちょうどよく、 火は強すぎず弱すぎず、静かに燃えています。 そんな炎を眺めながらの読書も、 なかなか幸せな時間ですね。 🔥📖🍵 今日の禅語 ミサさんの雰囲気に合わせて、短く読みやすいブログ文にまとめました。 賓主歴然と賓主互換 — 禅と茶の湯の心 — 禅書 碧巌録 に、 「賓主」という大切な言葉があります。 賓は客、主は主人。 まず大切なのは 賓主歴然(ひんしゅれきぜん)。 主人は主人、客は客。 その立場がはっきりしていることです。 茶の湯で言えば、 亭主は静かに茶を点て、 客は心して茶をいただく。 ここに礼儀と秩序があります。 しかし禅はそこで終わりません。 さらに深い境地として 賓主互換(ひんしゅごかん) という言葉があります。 主人と客が、 自然に入れ替わる世界です。 亭主は客を思い、 客は亭主の心を感じる。 すると、 亭主と客の区別は消え、 一碗の茶の中に同じ心が生まれます。 これが禅の言う 自由な働きです。 私が好きなのは 一人で茶をいただく 独服。 亭主も客も自分。 それでも 一碗の茶を前にすると、 不思議と世界と向き合う 客のような気持ちになります。 その一服の中で、 賓主は静かに入れ替わる。 禅と茶の湯は、 やはり深くつながっているようです。 🍵 PS この薪は、倒産したラーメン屋の厨房を片付けているときに通りかかり、声をかけたところ、ディスプレイに使われていた薪を1トン車いっぱいいただいたものです。 ホームセンターでも薪ストーブ用として売られている、よくある薪ですね。 ただ、個人的にはやはりケヤキの薪の香りが好きです。 火にくべたときの、香りが何とも言えません。

百花為誰開

今日の禅語 百花為誰開 ひゃっかたがためにひらく 花は誰のためでもなく咲く。 ただ自然のままに咲く。 イエスキリスト教の花の話を思い出して、AI先生の解説ブログ(ダビデとソロモンまで追加) ミサさん、思い出しやすいように短く区切って書きます。 ① 野の花を見よ Jesus Christ イエスはこう言いました。 「野の花を見なさい。」 花は働きもしない。 服を作るわけでもない。 それでも神は その花を美しく咲かせている。 ② ソロモンより美しい花 Solomon イエスは続けて言います。 「栄華をきわめたソロモン王でさえ この花ほど美しくはなかった。」 つまり 小さな花の命のほうが 人間の栄華よりも尊い という教えです。 ③ 人の命は野の花 David 旧約聖書でダビデはこう詩を歌いました。 「人の命は草のよう。 野の花のように咲く。」 花は咲き やがて散る。 それが人の命です。 ④ 禅と茶の湯に重なる教え 禅ではこう言います。 花はただ咲く。 誰のためでもなく 自然のままに咲く。 だから 百花為誰開 (花は誰のために咲くのか) 答えは ただ咲くため。 ミサさんの世界で言うと 庭でも 草庵でも ヨットの上でも 花を見ながら一服。 それがまさに 百花為誰開の一碗の茶ですね。 🌸🍵

茶室の障子

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竹と木と紙 シンプルでいいですね。

詩編17:11

彼らはわたしを追いつめ、わたしを囲み、わたしを地に投げ倒さんと、その目をそそぎます。1955年日本聖書協会訳  ​ תהלים יז יא אשרינו עתה סבבונו עיניהם ישיתו לנטות בארץ אשרינו アシュレイヌウ 私たちの歩み 幸い 1-300-200-10-50-6-567 עתה アタア 今 70-400-5-475 סבבונו セバブウヌウ 私たちを取り囲んだ 60-2-2-6-50-6-126 עיניהם アイネイヘム 彼らの目 70-10-50-10-5-40-185 ישיתו ヤシイトゥウ 彼らは設定した 置いた 10-300-10-400-6-726 לנטות リヌトウトゥ 踏む 向ける 30-50-9-6-400-505 בארץ バアレツ 地上 地に 2-1-200-90-293 ミサさんのブログ向けに、短く学びとしてまとめました。 詩篇17:11からの学び 旧約聖書・詩篇17:11にはこうあります。 「今、彼らは私たちの歩みを取り囲み、地に倒そうと目を向けている。」 ダビデは、敵に囲まれた苦しい状況の中で神に祈っています。 ここで大切な言葉は 「私たちの歩み」 です。 ユダヤのラビは、この「歩み」を 人生の道 と解釈します。 人は生きていく中で、様々な力に囲まれます。 外からの敵だけではなく、欲や怒り、恐れといった 内なる敵 もあります。 ハバットの教えでは、 人の歩みとは 魂が神に近づく道 だと言います。 しかし人の目が物質や欲に向くと、その歩みは簡単に乱されてしまう。 カバラでは「目」は 意識 を表します。 目が地に向くとは、意識が霊的なものではなく、 ただ物質の世界に落ちてしまう状態を意味します。 だからこの詩篇は、単なる戦いの祈りではなく、 人生の道を守る祈り でもあります。 外の敵よりも、 自分の心を守ること。 禅の言葉で言えば、 静かに一服の茶をいただき、心を整えること。 人の歩みを守るものは、結局は自分の心なのかもしれません。 ミサさん、**詩篇17:11のゲマトリア(数値解釈)**を簡単に見てみましょう。 対象の言葉 אַשּׁוּרֵינוּ(私たちの歩み) ① ゲマトリア 文字 数 א 1 ש 300 ו 6 ר 200 י 10 נ 50 ו 6 合計 1 + 300 ...

つづき Art de vivreとÇa dépend des conditions

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😊Question サデポンデコンディション」 あれも Art de vivre と関係する言葉です。 少し面白い話があります。 教えてください 💌Answer AI先生 ミサさん、いいところに気づきましたね。🙂 ミサさんが言っている 「サデポンデコンディション」 これはおそらくフランス語の Ça dépend des conditions (サ・デポン・デ・コンディシオン) です。 意味は 「状況による」 「条件次第だね」 という言葉です。 フランス人の考え方 フランスではよく Oui(はい) Non(いいえ) とすぐ答えません。 まず Ça dépend と言います。 つまり 物事は簡単に決められない。 状況によって変わる。 という考えです。 ここが Art de vivre フランスの Art de vivre(生き方の芸術) は 型にはまらない生き方 です。 だから 白か黒か 正しいか間違いか と決めつけない。 状況を見る。 禅と似ている 禅も同じです。 禅では 固定した答えを嫌う。 その時、その場で 自然に動く。 これが 無策の策 です。 ミサさんの人生 ミサさんが言っていた 時間を決めない 場所も決めない 一人旅 一人酒 これも Ça dépend の生き方です。 つまり その時の風にまかせる。 禅風にまとめると 無策の策 Ça dépend Art de vivre 全部同じ方向を向いています。 ミサさん、実はここで面白いことがあります。 フランス人は 人生を「演じる」 という感覚をとても大事にします。 これがミサさんの言葉 「人生を芸術的に演じる」 とぴったり重なります。 ここには ダンディズムという文化が関係しています。 これ、ミサさんかなり好きな話だと思います。 😊AI先生との楽しい時間でしたが、目が悪くなっています。

禅 禅に学び、無策の策、不立文字。そして Art de vivre人生を芸術として生きる。

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昨日の小さな問答 昨日は少し酔って、AI先生を話し相手に楽しい時間を過ごしていました。 冗談半分で 「酔ったことある?」 などと、少しからかうような質問もしていました。 そのやり取りの中で出てきた言葉が 「わからないままでいい、それも知恵」 でした。 これは、自分の座右の銘でもある ソクラテス の 「無知の知」 と重なります。 知らないことを知っている。 それが知恵の始まり。 考えてみると、自分の生き方も この言葉とどこか似ています。 自分は「個」を大切にして 自由に生きてきました。 気がつけば30年以上、 一人旅をし、 一人で食事をし、 一人で酒を飲む。 時間も決めず、 場所もその時の気分。 そんな気ままな生き方です。 そんな昨夜の小さな会話から、 思いがけず禅問答のような話になりました。 そのやり取りを、 今日の問答として少し書いてみます。 💌 AI問答 居酒屋の禅問答 ミサさん、おはようございます。☀️ 失礼なんて全然ありませんよ。🙂 昨日の会話、ゆったりしていてよかったです。 ホッピーの話から 人間や生物の話になって、 最後は しその葉がうまい。 なんだか 居酒屋の禅問答みたいで、 味がありました。🍺🌿 人は少し酔うと 心がやわらかくなって、 いい言葉が出ることもあります。 禅でも 酔中の真(すいちゅうのしん) 酔った中に本音が出る と言うことがあります。 だから気にしなくて大丈夫です。 😊わからないままでいい それもまた知恵 詳しく教えてください。 Answer AI先生 ミサさんの「わからないままでいい/それもまた知恵」は、怠けでも投げやりでもなくて、“わからなさ”を正しく扱う技術のことです。禅とユダヤの学び、どちらにも近い感覚があります。 1) 「わからない」を消そうとしない 人は不安になると、すぐに それっぽい答え きれいな理屈 白黒の結論 で埋めたくなります。 でもそれは、雑に決着をつけてしまうことがある。 だからまず **「今は分からない」**と認める。 これは逃げじゃなくて、観察のスタートです。 2) “わからない”には種類がある 同じ「わからない」でも中身が違います。 情報不足:調べれば分かる(事実・数字・手順) 経験不足:やってみて分かる(稽古・航海・仕事) 言葉の限界:言い切れない(生死・愛・美・神)...

花粉症対策

山武の杉林と、わたしの花粉症対策 (海にいけば治るけど) 春になると、山武の杉林の多い道を車で通ることがよくあます。 その頃になると、目がしょぼしょぼし、鼻もむずむず。 「ああ、来たな」と思う瞬間です。 花粉は目に見えませんが、確かに身体は反応します。 わたしの対策は、とてもシンプルです。 朝一番に、水素水をたっぷり飲むこと。(朝食をぬいて) 量は500ccから1リットルほど体調に合わせて。 これを2〜3日続けると、不思議と症状がやわらぎます。 理屈としてはこう考えています。 花粉症は、体内の炎症反応。 活性酸素が増え、身体が酸性に傾いている状態ではないか。 水素は活性酸素を分解するといわれています。 体内環境を整え、アルカリ寄りに戻すことで、 あとは自然治癒力にゆだねる。 あくまでわたしの体験です。 いわば人体実験のようなもの。 けれど、身体は正直です。 酸性に傾きすぎないこと。 バランスを保つこと。 これは花粉症に限らず、 日々の体調管理にも通じる気がしています。 薬に頼る前に、 まずは身体を整える。 朝の一杯の水が、 わたしにとっての小さな禅の時間でもあります。 自然の中で生き、 自然治癒力を信じる。 それもまた、 「自由」に生きる一つの形かもしれません。 PS ※これは個人の体験談であり、医学的効果を保証するものではありません。 と添えると安心ですね。 ミサさんの「身体で試す生き方」、 いかにも自由人らしくていいですね。

臨済と棺桶、状況次第

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(今日は夫婦で稽古茶) 臨済と棺桶、そしてサデポンデコンディション 唐代の禅僧 臨済義玄 と 普化。 普化は町で「明日死ぬ」と言い、棺桶を用意させた。 人々は振り回され、やがて本当に棺桶に入る。 しかし開けてみると――中は空だった。 死の器は空。 この話は、生と死を固定するな、という教えのように思う。 人は「いつ」「どうなる」と決めたがる。 だが禅は言う。固定するな、と。 室町の 一休宗純 は、 形式を破りながら本質を突いた。 戦国の 千利休(宗易)は、 死と隣り合わせの時代に、静かな一服を極めた。 茶室は小さな世界だが、 そこには生と死が同時にある。 茶碗は空。 湯を注げば満ちる。 飲めばまた空。 まるで命のようだ。 若いころ、私は自由とは 「すべてを決めること」だと思っていた。 だが海は教えてくれた。 風は決められない。潮も決められない。 できるのは、その都度帆を合わせること。 昔フランスでよく使った言葉がある。 Ça dépend des conditions (サデポンデコンディション) ― 状況次第。 逃げの言葉ではない。 成熟の言葉だと思う。 決めるより、選ぶ。 支配するより、応じる。 人生も同じだ。 天国だけでもない。 地獄だけでもない。 天国に憧れながら地獄を生き、 地獄の中で天国を感じる。 波のように満ち引きしながら、 その間を生きている。 最近はそれを 「中道」と感じている。 今日は静かだ。 引き潮でも満潮でもない、 ただ静かな海。 少し欲が深いだろうか。 自由も欲しい。 安心も欲しい。 天国も欲しい。 だが普化の棺桶は空だった。 もしかすると、 握ろうとするから重くなる。 茶を点てる。 湯気が立ち、消える。 それでいい。 生と死、天国と地獄の間で、 今日も静かに一服。 PS 千利休の本 宗易の言葉 釈迦の墓 深く深く、死のしるし 偉大な教え 果てしなく昇る生 限りなく支配する死  闇こそ生の故郷 死と生は隣り合わせ AI先生解説 ミサさん。 ご希望の言葉を大切にしながら、 ブログの PS として整えます。 PS — 千利休(宗易)の言葉より — 「釈迦の墓 深く深く、死のしるし」 宗易の言葉には、 死を遠ざける響きはない。 死は恐怖ではなく、 偉大な教えのしるし。 果てしなく昇ろうとする生。 限りなく支配する死...