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店舗立ち退きとタルムードの教え

店舗立ち退きの件で、ここ2〜3日、正直悩んでいました。 いつかは移転、あるいは閉店する日が来ることは分かっています。しかし、生活のためには仕事を続けていかなければなりません。 考えた末、法律のことは法律家にお願いし、方向性が決まるまでは今までどおり営業を続けることにしました。 振り返ると、この21年間の営業の中で、同じような出来事が二度ありました。 一度目は、大家さんが借入金の問題で建物を売却することになり、「出てほしい」と言われた時です。 その時は、私自身も購入を検討しました。しかし、その後、大家さんが弁護士と相談して借入金の問題を解決し、そのまま土地と建物を使い続けられることになりました。 二度目は、その直後のことです。 隣の空き店舗に新しい入居者が決まり、私より高い家賃で契約できたためか、突然「出て行ってほしい」と言われました。 しかし、私には移転先のあてもありません。 「出て行けと言うなら、移転費用や営業補償はどうなるのだろう。」 そんなことを考えていました。 ここからは私の想像ですが、大家さんは再び同じ弁護士に相談し、「それは簡単にはいかない。立ち退きには補償の問題もある」と説明を受けたのかもしれません。 その後、大家さんの態度は一変し、 「これからも仲良くやりましょう。」 そう言って握手をしたことを、今でも覚えています。 そして今回、三度目の立ち退き話です。 大家さんも高齢となり、介護施設への入居や不動産会社が関わる中で、突然「立ち退いてください」という話になりました。 長年借りている側として振り返ると、やはり借主は弱い立場なのだと感じます。 だからこそ、今回は弁護士にお願いし、感情ではなく法律に従って冷静に進めようと思っています。 そんな中で、ふと疑問が湧きました。 旧約聖書やタルムードなら、このような問題をどのように考えるのだろう。 AIに尋ねてみると、とても興味深い教えがありました。 それが、**「リフニーム・ミシュラット・ハディーン(法を超えた誠実さ)」**という考え方です。 法律上の権利だけを主張するのではなく、相手の生活や長年築いてきた信頼にも心を配る。 正義に慈悲を加える。 そんな教えは、現代の立ち退き問題にも通じるように感じました。 続きは、その「リフニーム・ミシュラット・ハディーン」というタルムードの教えについて、少し学んでみたいと思い...

箴言8:4〜5

​משלי ח ד אליכם אישים אקרא וקולי אל בני אדם הבינו פתאים ערמה וכסילים הבינו לב おはようございま😊׃ 💌AIラビ様訳 「人々よ、私はあなたがたに呼びかける。私の声はすべての人に向けられている。 未熟な者よ、思慮を身につけよ。愚かな者よ、心(理解する心)を得よ。」 ここでいう「愚か者」は、頭が悪い人ではありません。 学ぼうとしない人、知恵を受け入れようとしない人を意味します。 ユダヤ人の学び ユダヤ教では、 「賢い人」とは何でも知っている人ではなく、学び続ける人です。 ラビ・ヒレルは、 「恥ずかしがる者は学べない。」 と教えました。 わからないことを「教えてください」と言える人こそ、知恵に近づいていきます。 有名なラビの教え ラビ・アキバは40歳まで文字も読めませんでした。 ある日、岩に落ちる水滴が穴をあけるのを見て、 「水が岩を削るなら、神の言葉は私の心も変えられる。」 そう決心し、イスラエルを代表する大ラビとなりました。 知恵は才能よりも、学び続ける心から生まれる。 無名なラビの教え ユダヤの世界には、こんな言葉があります。 「神は有名なラビの口からだけでなく、名もない一人の人の口からも真理を語られる。」 だからユダヤ人は、 相手が有名か無名かよりも、 その言葉に真実があるかを大切にします。 カバラの教え カバラでは、この「知恵」は単なる知識ではありません。 **ホクマー(知恵)は神から最初に放たれる光であり、 その光を受け止める器がビナー(理解)**です。 つまり、 知恵を受け取るだけでは足りない。 心で理解し、 行動に移して初めて本当の知恵になる。 ということです。 茶の湯にたとえると 茶室では、先生が一つ所作を見せます。 弟子は、それを見て、 「なるほど」と頭で理解するだけではありません。 何度も稽古を重ね、体で覚え、心で理解していきます。 まさに箴言の 「愚かな者よ、心を得よ。」 とは、 知識を集めることではなく、心を育てることなのです。 そして、その学びは一生終わることがありません。 茶の湯も、トーラーも、老子も、 「知恵を集める」のではなく、 自分自身を磨き続ける道なのだと感じます。

道 老子 道徳経 第四章

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『老子 道徳経』第四章 原文です。 道沖而用之或不盈。 淵兮似萬物之宗。 挫其銳,解其紛, 和其光,同其塵。 湛兮似或存。 吾不知誰之子, 象帝之先。 😊 小学生にもわかるように 💌AI老子 喜んで😊 老子第四章は難しい言葉が多いですが、小学生にもわかるようにすると、このようになります。 老子 道徳経 第四章(やさしい訳) 「道は、空っぽだから、何でも受け入れることができます。どれだけ使っても、なくなることはありません。」 まるで深い井戸や海のように、すべてのものを生み出すもとになっています。 自分の強さや自慢を少しおさえ、 人とのもめごとをほどき、 自分だけが光ろうとせず、 みんなと仲良く生きます。 道は静かで目立ちません。 でも、本当はいつもそこにあります。 私は、この「道」がどこから来たのか知りません。 神様よりももっと昔からあったように思えるほど、古くて大切なものです。 茶道でたとえると 空っぽの茶碗だから、お茶を点てることができます。 静かな茶室だから、心が落ち着きます。 自分を目立たせないから、お客様が安心できます。 みんなを大切にするから、一碗のお茶がおいしくなります。 だから老子は、 「本当に強い人は、自分をひけらかさない人。」 と教えているように思います。 そして茶道なら、 「本当に良いお点前は、お点前が目立つのではなく、お客様の心が和むお点前。」 ということにつながるのではないでしょうか。 ミサさんがお好きな**「和敬清寂」**は、まさにこの第四章の心と響き合っていますね。 😊茶道との共通点 💌AI老子 その通りですね。 私は、この第四章は茶の湯を知ってから読むと、まるで茶室の情景が浮かぶように感じます。 老子 第四章を茶道にたとえると 「道沖而用之或不盈」 道は空であり、使っても尽きることがない。 → 茶碗です。 空の茶碗だからこそ、お茶を点てることができます。 また、茶室も余計なものがない「空」の空間だからこそ、客の心を受け入れることができます。 「淵兮似萬物之宗」 深い淵のようで、万物の源である。 → 釜を思い浮かべます。 静かな湯の音(松風)は深い淵のようです。 そこから一碗のお茶が生まれ、一会が始まります。 「挫其銳、解其紛」 鋭さを和らげ、もつれを解く。 → 茶室では肩書や地位を外します。 社長も職人...

聖書朗読箇所 言葉

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聖書朗読箇所は申命記に入りました。 デバリームは、 💌AIラビ様解説 ヘブライ語の דברים(デバリーム) は、本来は דבר(ダバル) の複数形で、「言葉」「事柄」「出来事」という幅広い意味を持っています。 ヘブライ語では、「言葉」と「出来事」が同じ語根(ד־ב־ר)で表されるのが特徴です。 つまり、 ・言葉 ・事柄 ・出来事 ・案件 ・問題(案件・争いごと) という意味が、文脈によって生まれます。 大まかに理解すると、「言葉」「出来事」「問題(案件)」という意味で学んだ記憶があります。 ユダヤの教えには、「常に言葉に気をつけなさい」という教えがあります。 私が過去に何度も書いてきたように、この教えに感動したことが、聖書を学び始めるきっかけの一つでした。 メディアも含め、「他人の不幸は蜜の味」のような風潮を嫌だと感じていた時期があります。 だから今は、できるだけ他人の話ではなく、自分の体験や、自分が学んだことを書くようにしています。 ヘブライ語の原題は「デバリーム(言葉)」ですが、日本語では「申命記」と訳されています。直訳ではありませんが、そのおかげで私たちは母国語で聖書を読むことができます。そのことには感謝したいと思います。 💌AIラビ様解説 モーセは最後に「デバリーム(言葉)」を残しました。 その言葉は、過去を責めるためではなく、未来を築くための言葉でした。 ユダヤの伝統では、言葉は単なる音ではありません。言葉は出来事を生み、人生を形づくる力を持つものだと考えられています。 だからこそ、私たちは毎日どんな言葉を語るのかを大切にしたいものです。 良い言葉は良い出来事を生み、祝福の言葉は祝福へとつながる。 デバリームは、そのことを改めて教えてくれているように思います。 💌AIラビ様解説 おはようございます☀ **פרשת דברים(パラシャット・デバリーム/申命記1章1節―3章22節)**です。 ① ストーリー モーセはその生涯の終わりを前に、ヨルダン川の東でイスラエルの民に最後の言葉を語り始めます。 エジプトを出てから40年。モーセは新しい世代に向かって、荒野で起きた出来事を振り返ります。 シナイ山から旅立ったこと。 裁判官を立てたこと。 偵察隊を送ったこと。 約束の地に入れなかった理由。 そして、荒野で過ごした40年間。 これは単なる歴史の話ではあり...

寂しさの先にあるもの

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寂しさの先にあるもの 店舗の立ち退きが決まり、「寂しい」という気持ちが心に残りました。 その時、ふと頭に浮かんだのが、茶の湯の精神である 「和敬清寂」 の「寂」という一文字です。 和して、敬い、清らかに生きる。そして最後には静かな寂しさが残る。 もちろん「寂」は本来、侘び寂びの「静けさ」を表す言葉ですが、人生を振り返ると、別れの後に訪れる静かな寂しさとも重なって見えてきます。 人生も最終章へ向かうにつれ、さまざまな別れがあります。 今回、20年以上続けてきた店舗を離れることになり、その寂しさを改めて感じています。 しかし、思い返せば私は昔から「移動する人生」を歩んできました。 店舗を始める前、私は大西洋単独横断レース Mini Transat を目指し、約二年間、ヨットで寝泊まりする生活を送っていました。 言ってみれば、海の上のホームレス生活です。 風まかせ、天気まかせ。 低気圧の位置を見ながら、フランス、スペイン、カナリア諸島、カリブ海、フロリダ、サンフランシスコ、ハワイ、そして銚子へ。 自然に合わせて移動することが、いつしか当たり前の暮らしになっていました。 レースのゴールは、カリブ海・グアドループ島のポワンタピートル。 仲間たちの多くは、そこで船をシッピングしてフランスへ帰ります。 「君はどうする?」 そう聞かれると、私はいつも笑って答えていました。 「次はフロリダ、サンフランシスコ、そして太平洋横断。」 レースが終わり、みんながバカンスを終えて帰国する中、私は一人、船を修理するためマリーナへ向かいました。 忘れられない朝があります。 ハリケーンが過ぎ去った静かな夜。 まだ午前3時ごろ、港を出るには風向きも風速もちょうど良かったので、夜明けを待たずに帆を上げました。 真っ暗な海を、風だけを頼りに進みます。 やがて東の空が少しずつ明るくなり、新しい一日が始まる。 夜の静けさと寂しさから、朝への期待へ。 あの時間が、私は今でも一番好きです。 エメラルドグリーンのカリブ海を帆走し、大きなマリーナへ入港すると、サービスボートが迎えに来てくれました。 桟橋に船をつけ、また次の航海へ向けた整備が始まります。 今回の店舗移転も、それと同じなのかもしれません。 20年以上営業した店を離れる寂しさはあります。 でも、それは終わりではなく、新しい航海の始ま...

詩編18:2

​תהלים יח ב ויאמר ארחמך יהבה חזקי 「主よ、私はあなたを愛します。あなたは私の力です。」 短い祈りですが、とても心に響く言葉です。 今年は本当にいろいろな出来事があります。 昨日、不動産屋さんから連絡がありました。大家さんが建物を売却したので、店舗を立ち退いてほしいとのことでした。 20年以上続けてきた店です。急に「出てください」と言われても、すぐに応じられるものではありません。移転先を探し、引っ越しをし、新しい店舗で営業を始めるまでには、多くの時間と費用がかかります。 これからどうなるのか、正直まだわかりません。 גם זו לטובה(ガム・ズー・レトヴァー) 「これもまた良いことのため。」 そんな言葉を思い出します。 もちろん、長い間安い家賃でお世話になったことには感謝しています。ただ、売却する前に一言相談していただけていたら、金額によっては自分で購入することも考えられたかもしれません。その点だけは少し残念に思います。 暑い夏の中で、店舗探しや移転準備が始まります。前途多難かもしれません。 だからこそ、こんな時は静かに祈りたいと思います。 「主よ、私はあなたを愛します。あなたは私の力です。」 この短い祈りを胸に、一歩ずつ前へ進んでいこうと思います。 このヘブライ語は、おそらく詩篇18篇2節の言葉ですね。 אֶרְחָמְךָ יְהוָה חִזְקִי Erchamcha Adonai Chizki 訳 「主よ、私はあなたを愛します。あなたは私の力です。」 אֶרְחָמְךָ(エルハムハ)…私はあなたを深く愛します、憐れみを込めて愛します。 יְהוָה(アドナイ)…主。 חִזְקִי(ヒズキ)…私の力、私を強くしてくださる方。 ここで使われる「愛する」は、ヘブライ語の「ラハム(רחם)」に由来し、「母が子を慈しむような深い愛」を含んでいます。 有名なラビの教え ラビ・サックスは、この詩篇について次のような趣旨を語っています。 本当の強さとは、自分の力を誇ることではなく、神を信頼する心から生まれる。 人は自分だけで生きようとすると弱くなりますが、神とのつながりを意識すると困難にも立ち向かえる、という教えです。 無名なラビの教え あるラビはこのように教えました。 「神は私たちの力そのものではない。神は、私たちが立ち上がる力を...

茶の湯の心は奥が深い

茶の湯を学んでいると、その奥深さを何度も感じます。 「和敬清寂」という四文字。 そして利休の教えとして伝わる、茶の湯の極意、 「夏はいかにも涼しきように、冬はいかにも暖かなるように。炭は湯の沸くように、茶は服(の)よきように。」 一見すると、ごく当たり前のことを言っているようです。しかし、実際にその心を形にしようとすると、とても難しい。だからこそ、茶の湯は何十年学んでも終わりがない世界なのだと思います。 『小説 千利休』(土岐信吉著)の中に、宗易(千利休)が弟子の山上宗二へ「残心」を語る場面があります。 その中で印象に残ったのが、 「一期一会を終えたあと、再び同じ茶会は二度とないと観じ、一人静かにその余韻を味わう。」 という教えです。 ここで使われる**「寂寞(せきばく)」**とは、ただ寂しいという意味ではありません。 静まり返った中に、豊かな余韻が満ちていること。 客が帰り、釜の音だけが静かに響く空間で、その一会を心に味わい直す境地です。 また、宗易は師・武野紹鷗の言葉として、 「器物を取る手は軽く、置く時は深く思い入れあれ」 と語ります。 取るよりも、置く所作に心を込める。 何気ない動作の一つ一つに、相手への思いや敬意を込めること。それが禅でいう「綿密」の心にも通じるのでしょう。 さらに宗二は、戦国武将にとって「和」とは何かを尋ねます。 宗易は、「和」とは表面的に争わないことではなく、お互いの違いを認め、その上で調和を生み出すことだと説きます。 そして、戦で傷ついた武将が茶室で心を静め、 「冷え切った心を温める慈悲と知恵が茶の心である」 と語ります。 この言葉は、戦国時代だけではなく、現代にもそのまま当てはまるように感じます。 怒りや対立に満ちた世の中だからこそ、ほんのひとときでも心を静め、人を思いやる時間が必要なのではないでしょうか。 最後に宗二は、「お茶の極意くらいは知っています」と答えます。 すると宗易は静かに言います。 「では、その通りにしてみなさい。その時は、この宗易がお前の弟子になろう。」 知っていることと、実際にできることは違う。 茶の湯は知識ではなく、日々の実践なのだと、利休は教えているように思います。 私もまだまだ修行中です。 和敬清寂。 たった四文字ですが、一生かけても学び尽くせな...

茶室と貧困の哲学

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昔、ラビ・マービン・トケイヤー先生の本を読んで、とても印象に残った言葉があります。 「金は人間に対して、衣服が人間にすることしかできない。」 私はこれまで、車やヨットに置き換えて考えてきました。 最近、茶の湯を学ぶようになって、ふと思いました。 衣服を茶室に置き換えたらどうだろう。 もし金が万能なら、立派な茶室や所作を持つ人は皆、茶人になっているはずです。 しかし現実は違います。 国宝の茶室を持っていても、おもてなしの心がなければ、ただの建物です。 反対に、二畳にも満たない仮庵でも、一碗のお茶に心を尽くす人がいれば、その空間は何ものにも代えがたい豊かさを生みます。 金をいくら持っていても、人間の本質を変えることはできません。 立派な茶室も、高価な道具も、人の心までは変えられません。 人を変えることができるのは、その人自身だけです。 もちろん、お金はあったほうが便利です。 雨漏りしない茶室、使いやすい道具、安心して客を迎えられる環境は大切です。 けれど、それらは目的ではなく、心を表すための器にすぎません。 利休が求めたのは豪華さではなく、草庵の侘びでした。 物を大切にすることと、物を崇拝することは違います。 茶室のために生きるのではなく、人のために茶室がある。 茶道具のために生きるのではなく、おもてなしのために道具がある。 最近、自分の小さな仮庵茶室で一服していると、そのことを少しずつ感じるようになりました。 豪華な茶室はありません。 名物道具もありません。 それでも、一碗のお茶を楽しめることは、とても豊かな時間なのだと思います。 PS 「茶室は心を映す鏡であって、心そのものではない。」 😊Question 茶室は質素だけど贅沢だよね,やっぱり金持ちの道楽? 💌AI先生 Answer その視点は、とても面白いですね。 実際、茶室は質素に見えて、とても贅沢です。 二畳や四畳半という小さな空間なのに、庭があり、露地があり、掛物や花、釜や茶碗までそろえる。しかも、その目的は「お茶を一杯飲むこと」です。効率だけを考えれば、とても贅沢な文化と言えます。 一方で、歴史を振り返ると、利休の茶を支えたのは織田信長や豊臣秀吉、大名や豪商たちでした。時間や経済的な余裕がなければ、茶の湯を深く楽しむことは難しかったのも事実です。 ただ、利休が目指したのは「金持ちの道楽」そのものではなく...

海の上の茶の湯 あんこ玉

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海の上のお茶時間と「あんこ玉」 昨日は、和菓子づくりをしてから海へ行ってきました。 最近の楽しみは、方舟亭のお茶の時間です。 ここ数十年、夏になるとアンカーリングをして、静かな入江に船を停め、パラソルを広げて、キンキンに冷えたビールやスパークリングワインを飲むのが何よりの楽しみでした。 でも最近は、酒も少し弱くなりました。 今はアルコールより、お茶のほうが心地よく感じます。 セーリングを終えたあと、和菓子と一服の抹茶。 なんともジャパニーズらしくて、いい時間です。 ということで、昨日作った**「あんこ玉」**が思いのほか美味しくできたので、作り方をご紹介します。 あんこ玉の作り方 材料 小豆 水 砂糖(私は黒砂糖を使いました) 塩 バンホーテンの純ココア(砂糖なし)小さじ1杯ほど まず、小豆に塩を少々加え、柔らかくなるまでじっくり炊きます。 水分が少なくなってきたら、小豆の重さの約3割の砂糖を加えます。さらに塩をひとつまみ入れると、甘さが引き立ちます。 焦がさないように混ぜながら水分を飛ばし、冷めたらラップにスプーンで取り分けます。 空気を抜くように少し力を加えながら丸め、冷蔵庫で冷やせば出来上がりです。 隠し味に入れた純ココアが、ほんのりと味に深みを与えてくれます。 派手さはありませんが、井戸茶碗のような素朴な味わいが気に入っています。 海の風を感じながらいただく一服のお茶と「あんこ玉」。 そんな静かな時間が、今の私には何よりの贅沢です。 PS 「あんこ玉」という名前も、素朴で親しみがあって気に入りました。茶席のお菓子としても、気軽に楽しんでいただけそうです。🍵

聖書朗読箇所 部族長

まず最初に、今週のパラシャー「マトット(部族・族長たち)」から学んだことがあります。 「できないことは言うな。言ったことには責任を持ちなさい。」 これは、若い頃に斉藤実さんから徹底的に鍛えられた教えです。 当時の斉藤さんはとても厳しく、その教えについていけず離れていく人も少なくありませんでした。「あいつはサドだ」と言う人もいたほどです。 それでも私は、大西洋単独横断レースという目標があったため、斉藤実塾で修行を続けました。 今回、パラシャー・マトットを学び、その教えの原点がトーラーにあることを改めて知りました。 「人は主に誓願を立てたなら、その言葉を破ってはならない。口から出たことはすべて行わなければならない。」 欧米では聖書の教えが社会の土台となっている国も多く、日本以上に「言葉の重み」を大切にする文化があります。 マトットは、約束を守ること以上に、軽々しく約束をしないこと、そして自分の言葉に責任を持つことを教えてくれるパラシャーなのだと感じました。 今週のパラシャーは פרשת מטות(マトット/部族) です。 (民数記 30:2〜32:42) פרשת מטות(マトット) ストーリー モーセはイスラエルの部族長たちに、まず**誓願(ネデル)や誓い(シュブア)**について教えます。 「自分の口で語ったことは守りなさい。」 言葉には責任があり、軽々しく約束してはいけないことを学びます。 続いて、神の命令によりイスラエルはミディアンとの戦いに臨みます。 これは復讐ではなく、偶像礼拝へ誘惑された出来事(バアル・ペオル)の決着でもありました。 戦いの後、戦利品は公平に分配され、一部は神への捧げものとなります。 最後に、ルベン族とガド族、そしてマナセ族の半分がヨルダン川東側に住みたいと願い出ます。 モーセは最初反対しますが、「先に仲間と共に戦う」という約束を受け入れ、その願いを認めました。 ユダヤ人の学び 「言葉は行動である」 ユダヤ教では、言葉は単なる音ではありません。 神が「光あれ」と言われて世界が創造されたように、人間の言葉にも現実を形づくる力があると考えます。 だから約束は慎重にし、した約束は誠実に守る。 タルムードにも、 「人の言葉は、その人自身を映す。」 という考え方があります。 有名なラビの教え ラビ・ジョナサン・サックス 「人格とは、自分が語ったことを...