映画 千利休より 侘数寄常住 茶の湯肝要
侘数寄常住 茶の湯肝要 来週の「一休茶会」の準備を始めなければなりません。 今年は炉を開かず、風炉のままでいこうと思います。 村田珠光の時代には風炉が使われていたと読んだこともあり、今年は風炉で通してみるのもよいかなと。 個人的には炉の配置が好きなのですが、自分流の平台点前では、どうもしっくりきません。 まあ、自分流ですから、それでよいと思っています。 山上宗二と自分流の茶の湯 昨日、映画『千利休 本覺坊遺文』を観ました。 これまでに三度ほど観ていますが、今回はようやく、その奥深さが理解できたように感じました。 特に印象に残ったのが、山上宗二の生き方です。 映画では、秀吉から書院の茶を命じられた宗二が、それに従わず、平点前こそが優れていると自分の信念を貫き、死を迎える姿が描かれています。 権力者の前でも、自分の茶の湯を曲げない。 宗二の頑固さに、どこか自分と似たものを感じました。 もちろん、私には切腹するほどの覚悟はありませんが。 茶の湯とは何なのか。 権力に従うことなのか、流派や作法を守ることなのか。それとも、自分の心に正直であることなのか。 侘数寄常住 茶の湯肝要 今回、茶の湯の言葉として心に残ったのが、 侘数寄(わびすき) 常住(じょうじゅう) 茶の湯(ちゃのゆ) 肝要(かんよう) という言葉です。 「侘数寄」とは、侘び茶の精神を愛し、大切にすること。 「常住」とは、いつも変わらず、寝ても覚めてもその心を忘れないこと。 つまり、 茶の心、侘びの精神を、日常生活の中でも常に持ち続けること だと理解しています。 一方、「茶の湯肝要」とは、茶の心を語るだけではなく、実際にお茶を点て、人をもてなすことが大切だという教えです。 どれほど立派な茶道具を持っていても、どれほど作法を知っていても、お茶を点てなければ茶の湯にはなりません。 茶の湯は知識だけではなく、実践なのですね。 私なりの解釈 この言葉を学んで、改めて思いました。 茶の湯の心は、茶室の中だけにあるものではない。 日々の仕事にも、人との付き合いにも、暮らしの中にもある。 そして、茶の湯を学ぶだけでなく、自分で茶を点て、人と一服を楽しむ。 それが大切なのではないでしょうか。 侘びとは、貧しく見せることではなく、豊かさを見せびらかさないこと。 ...