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出頭天外看 誰是我般人

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AI生成イメージ図 今日の禅語 デープですね。 承知しました。 中学生にもわかるように、やさしく具体的にブログ用にまとめます。 出頭天外看 誰是我般人 ― 比べない場所に立つ ― 「出頭天外看 誰是我般人」という禅語があります。 むずかしそうですが、意味はとてもシンプルです。 空の外に頭を出して見てみなさい。 いったい誰が、自分と比べられる人だろうか? と言っています。 ここでいう「天外」とは、 空の外という意味ではなく、 勝ち負け 成績 お金 人気 上か下か そういった人が作った“比べる世界”の外のことです。 たとえば、こんな場面 学校でテストの点数を比べる。 部活でレギュラーを争う。 SNSでフォロワー数を気にする。 これは全部「同じ土俵」の中の話です。 でも、この禅語は言います。 いったん、その土俵の外に立ってみなさい。 するとどうなるか? 「誰が上か?」 「自分は負けていないか?」 そんな考え自体が、 急に小さくなります。 大事なポイント この言葉は、 「自分が一番すごい」と言っているのではありません。 「一人で生きろ」と言っているのでもありません。 そうではなく、 比べる世界から、一歩出てみなさい。 と言っているのです。 たとえるなら みんなが運動会で全力で走っているとき、 あなたは観客席に座って見る。 走るのが悪いわけではない。 でも、観客席に座れば、 勝ち負けは関係ない ただ「走っているな」と見える その感覚です。 まとめ この禅語が言いたいのは、 枠の外に立てば、競争は消える。 そして、 比べない場所に立ったとき、本当の落ち着きが生まれる。 ということです。 とても静かですが、 とても強い言葉です。 いいテーマでしたね。 今日はやわらかめにまとめました 🍵 Question 😊 茶の湯に例えると Answer AI先生 いいですね。 では 茶の湯にたとえて、中学生にもわかるように書きます。 出頭天外看を茶の湯でたとえると 茶の湯の世界にも、 いろいろあります。 流派 免状 点前の上手下手 道具の値段 先生か弟子か これはいわば、 同じ土俵の中の世界です。 でも「出頭天外看」はこう言います。 その土俵の外に立ってみなさい。 たとえば、 静かな朝、 誰もいない場所で、 自分のために一服点てる。 それが独服。 そこには、 上手も...

art de viver

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※AI生成によるイメージスケッチです。 Teatro alla Scala di Milano - Opera, balletto e concerti - Teatro alla Scala  https://share.google/ cutv8b84mTScXioaA   Art de vivre との出会い 「Art de vivre」という言葉を知ったのは、たしか30歳ごろのこと。 けれど今振り返ると、 その言葉に出会う前から、私はすでにその中を歩いていたのかもしれません。 京都出身の先輩の影響で、 エコール・ド・パリの絵画やクラシック音楽に惹かれはじめた若い頃。 新婚旅行は迷わず、ヨーロッパへのバックパッカーの旅を選びました。 ロンドンから西の港町プリマスへ。 そこからスペイン、フランス、イタリア、オーストリア、スイスへと、 約二か月のアートの旅。 前半はピカソをテーマに、 スペインとフランスの美術館を巡りました。 とくに心に残っているのは、 スペイン・マラガのピカソ美術館で出会った青の時代の作品。 あの青は、ただの色ではなかった。 静けさの奥にある深い感情。 そして何より、ピカソの圧倒的な描写力。 その“うまさ”に、素直に感動しました。 後半はモーツァルトの足跡を追う旅。 街を移動しながら、コンサートやオペラを聴いて歩きました。 中でも忘れられないのは、 ミラノ・スカラ座で観た『白鳥の湖』初日の公演。 あの空気。 スタッフの黒い衣装が印象的で、 いかにもイタリアらしい雰囲気の中、 静かに幕が上がっていく。 音楽と舞台がひとつになる瞬間の高揚。 今思えば、なんと贅沢な時間だったことでしょう。 日本はバブル最盛期。 国中が浮かれて贅沢をしていた時代。 私は缶コーヒーを我慢してお金を貯め、 この旅に出ました。 けれどそれは浪費ではなく、 「どう生きるか」を身体で学ぶ時間だったのだと思います。 アートを“鑑賞する”のではなく、 アートとともに暮らす感覚。 それが自然に、 私の中に「Art de vivre」として根づいていったのかもしれません。 PS 千利休居士は、もちろん Art de vivre という言葉は知らなかったと思います。 けれど振り返ると、 利休居士の茶の湯こそ、まさにそれだった...

基本の基と楽園のお茶

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基本の基と、楽園のお茶 武者小路千家宗屋家元の本に 「茶道基本の基」という話があります。 読んだとき、 自分は「それは野点だな」と思いました。 茶道を習っていると、 どうしても茶室がないとできないような気がしてしまう。 でも野点は違う。 出先の知人宅で一服。 自宅のテーブルで一服。 仕事の合間、車の中で一服。 それで十分。 そこが基本の基なんだと思います。 宗屋家元は、茶を特別な場所から解放してくれたように感じます。 自分の中には「楽園のお茶」というイメージがあります。 エデンの園のような場所。 ガーデンの脇に草庵を建てていて、 そこを思い描きながら土をいじっています。 土を触ると、不思議と落ち着く。 ストレス解消になるというのも、わかる気がします。 創世記では人は土からつくられた。 だから土に触れると、 どこか安心するのかもしれません。 今日は車の中でしたが、 少しだけその「ガーデンのお茶」に近づいた気がしました。 茶室がなくてもいい。 一服あればいい。 それが、自分の思う 基本の基なのだと思います。

野点 一服でいきかえる

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野点 一服でいきかえる 仕事の合間、車の中で茶を点てました。 せまい車内。 お菓子は、近くのファミマで買った月餅まんじゅう。 まんじゅうを食べ、 湯気の立つ茶をすする。 うまい。 景色が特別いいわけでもない。 茶室でもない。 むしろ環境は決して良くない。 だからこそ、 茶の味だけがくっきりと立ち上がる。 その時間が、妙に尊い。 ふたりで感動していると、 かみさんがぽつりと言いました。 「一服すると“いきかえる”って言うけど、 エデンの園で神さまがアダムに息を吹き入れた話と、 どこかつながっている気がする」 その一言で、 私は創世記の場面を思い出しました。 📖 創世記2章7節 神は土から人を形づくり、 その鼻に命の息を吹き入れられた。 すると人は生きるものとなった。 ヘブライ語では נִשְׁמַת חַיִּים(ニシュマト・ハイーム)=命の息 さらに רוּחַ(ルアハ)=風・霊・息 風も霊も呼吸も、同じ言葉。 息とは、 神と人をつなぐ見えない通路。 車の中での一服。 背筋が伸び、 自然と呼吸がゆっくりになる。 吸って、吐く。 それだけで、 乱れていた心が整っていく。 「いきかえる」という感覚。 それは気分の問題ではなく、 命がもう一度、きちんと働き始める瞬間なのかもしれません。 創世記では、 土(アダマ)+ 神の息 = 人(アダム) 茶の一碗もまた、 水 火 土(茶碗) 風(湯気) そこに人の呼吸が入って、はじめて完成する。 命は、息が入ってこそ立ち上がる。 たとえ車の中でも、 そこが小さなエデンになる。 茶室でなくてもいい。 景色がよくなくてもいい。 高価な菓子でなくてもいい。 一服があれば、 人はもう一度、生き直せる。 一服は、命の再起動。 いい時間ですね。

今日の禅語 月白風清

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AI生成イメージ図 承知しました。 「AI先生解説」風に、少しやわらかくまとめます。 月白風清 ― 解説 ― 「月白風清(げっぱく ふうせい)」 これは、中国・宋代の文人 蘇軾 の詩文集『東坡集』に見える言葉です。 意味はとても単純。 月は白く、風は清い。 ただそれだけ。 解説すると―― ここが深い。 禅にはこんな言葉もあります。 夏は暑く、冬は寒し。 山は青く、水は緑なり。 天は高く、地はあつし。 月は白く、風はきよし。 どれも当たり前のこと。 しかし人は、その「当たり前」と戦います。 夏なのに涼しくあれと願い、 冬なのに寒さを嫌い、 人に完璧さを求め、 自分にも理想を押しつける。 そこから「事」が生まれる。 AI先生的まとめはこうです。 月白風清とは、 世界を説明しない心。 世界をいじらない姿勢。 暑いなら暑い。 寒いなら寒い。 青いものは青い。 評価も解釈も足さない。 それは無理に悟ることではなく、 ただ「そのままを認める」こと。 無事是貴人。 触処清涼。 そして、 月は白く、風は清い。 それだけで、十分。 今日はやさしい解説にしました。 こういう言葉は、理解よりも「味わう」が正解ですね 🍵

今日の禅語  無

いいところに来ましたね。 禅語の 「無(む)」、静かに解説します。 無(む) ① まず誤解から 「無」は 何もない 空っぽ 消える という意味ではありません。 禅の「無」は 否定語ではない。 ② 有名な出典 最も有名なのは 趙州(じょうしゅう)の公案。 「犬に仏性はありますか?」 趙州は答えた。 「無」 仏教では「すべてに仏性がある」と教える。 なのに「無」と答えた。 ここが核心です。 ③ 禅の「無」とは何か 禅の無は、 理屈を壊す 二元を壊す 問いそのものを壊す ための一撃。 「ある・ない」という 思考の枠を壊す。 ④ 無は“ゼロ”ではない ゼロではない。 空白でもない。 むしろ、 固定がない状態 これだ、と決めない こうあるべき、と握らない 自分を形にしない それが無。 ⑤ これまでの言葉とつながる 無事是貴人 無門 無物堪比倫 全部、同じ方向。 👉 つかまない ⑥ 生活に落とすと 評価を無にする 怒りを無にする 自己像を無にする 消すのではなく、 置かない。 ⑦ 一行で 無とは、何も足さないこと。 ミサさんが「無」に来るのは自然です。 ここまで歩くと、必ずこの一字に戻る。 でも安心してください。 「無」を理解する必要はありません。 無は、 理解が止まったところに現れるものだから。 今日はここまでにしますか? それとももう少し行きますか。

聖書朗読箇所 פרשת משפטים

📖 פרשת משפטים(ミシュパティーム) ―「啓示の後は、日常をどう生きるか」― פרשת משפטיםは、 シナイ山で十戒が与えられた直後に続く章です(出エジプト21–24章)。 十戒という“天の声”のあとに来るのは、 奴隷法・損害賠償・弱者保護・金銭・裁判など、非常に具体的な法律。 ここがとてもユダヤ的です。 🔯 1️⃣ ユダヤ人はここから何を学ぶか? ✦ 「聖」と「俗」を分けない 偉大なラビ Rashi は言います: 「なぜ民法がシナイの直後に置かれているのか? それは、民法もまたシナイから来ているからだ。」 つまり―― お金・労働・裁判・隣人関係も、神の領域である。 祈りだけが聖ではない。 請求書の書き方も聖。 ミサさんのように、 肉体労働の現場もまた“神聖”なのです。 ⚖️ 2️⃣ タルムードの教え タルムード(ババ・メツィア)はこう言います: 「神殿が破壊された理由は、 人々がトーラー通りに裁いたが、 “その先の慈悲”を行わなかったからだ。」 法律だけでは足りない。 ✔ 正義 + 慈悲 ✔ 権利 + 配慮 ✔ 契約 + 思いやり これがミシュパティームの核心です。 🕊 3️⃣ 有名ラビの思想 ■ ランバン(ナフマニデス) Nachmanides 彼は言います: 「あなたは“許される悪人”になってはならない。」 つまり―― 法律ギリギリで生きるな。 形式的に正しくても、 心が冷たいなら、それは神の道ではない。 ■ ラビ・ヒレル Hillel the Elder 「自分にとって嫌なことを、他人にするな。」 ミシュパティームはこれを実践法として展開している。 🌳 4️⃣ カバラ的解釈 カバラでは、ミシュパティームは ゲヴラー(厳格さ)とヘセド(慈愛)の統合 と説明されます。 裁き(ミシュパット)はゲヴラー。 しかし、神はそれを慈愛で包む。 もし裁きだけなら世界は壊れる。 もし慈愛だけなら世界は崩れる。 ⚖️ バランスこそ生命。 🌊 ゾハールの教え カバラの古典 Zohar は言います: 「この章を学ぶ者は、 魂の裁きを和らげる。」 なぜなら、 人が公正に生きるとき、 上の世界も整うから。 ✨ 5️⃣ ミサさんへのメッセージ あなたの人生テーマは「自由」でしたね。 ミシュパティームは教えます: 本当の自由とは、 “好きにすること”ではなく、 “正...

詩編17:10

彼らはその心を閉じて、あわれむことなく、その口をもって高ぶって語るのです。1955年日本聖書協会訳 ​תהלים יז י חלבמו סגרו פימו דברו בגאות חלבמו ヘルバモウ 脂肪 8-30-2-40-6-86 סגרו  サグルウ 囲われた 閉ざされた 60-3-200-6-269 פימו ピイモウ 彼の口 80-10-40-6-136 דברו ディベルウ 彼らは話した 4-2-200-6-212 בגאות ベゲウウトゥ 傲慢に 2-3-1-6-400-412 AI解説 ありがとうございます、ミサさん 🌿 詩篇17:10 のラビ的解釈をお伝えしますね。 📖 詩篇17:10 חֶלְבָּמוֹ סָגְרוּ פִימוֹ דִּבְּרוּ בְגֵאוּת 「彼らは心を脂肪で閉ざし、口は高慢に語る。」 🕎 ラビの解釈 🔹 ① ラシの解釈 Rashi ラシは「脂肪」を 👉 “感覚の鈍さ” と説明します。 脂肪は体を包み、感覚を鈍くする。 同じように、 豊かさ・慢心・快楽への執着が 心を包み、神への感受性を失わせる。 つまり: 罪の根は「心の鈍さ」から始まる。 🔹 ② ムサール(倫理思想)の視点 ムサールではこの節はこう読まれます: 心が閉じる すると口が傲慢になる そして行動が乱れる 順番が重要です。 外の問題ではなく まず心が閉じることが問題。 ミサさんが以前おっしゃった 「怒りは生活の中で起きる」 まさにこの節です。 怒りの前に、 すでに心が“閉じている”。 🔹 ③ カバラ的視点 カバラでは「脂肪」は 霊的エネルギーの過剰な物質化。 光(オール)が 器(ケリ)に閉じ込められ 流れなくなる状態。 すると口(マルクト)が 傲慢に働く。 つまり: 光が流れないとき、言葉は濁る。 🌊 ミサさん的まとめ ヨットで海に出るとき、 風が止まると船は重く感じる。 同じように、 心が止まると 言葉は重くなる。 この詩篇はこう教えているようです: 心を軽く保て。 脂肪で覆うな。 そうすれば言葉は澄む。 もしよければ次は 詩篇17全体の流れも一緒に見ますか? ミサさん 🌿 詩篇17篇を前後を通して読むと、とても一本の流れが見えてきます。 📖 Book of Psalms 17篇 全体の構造 作者は伝統的に King Da...

体露金風

今日の禅語 AI  承知しました。 ブログ用に、碧巌録的視点でまとめます。 少し硬質で、余韻を残す文体にします。 体露金風 ― 碧巌録的に読む 「体露金風(たいろ きんぷう)」 本体が露わになり、秋の風が吹く。 美しい言葉である。 しかし、碧巌録的に読むなら、ここで止まってはいけない。 秋の風は情緒ではない。 金風とは、余分を削ぎ落とす風である。 飾り、見栄、役割、立場。 それらを一枚ずつ剥がしていく。 すると本体が露わになる―― と、言いたくなる。 だが碧巌録は、そこを許さない。 「露わになる本体」と言った瞬間、 すでに“本体”という概念を作ってしまっている。 体が露わになるのではない。 もともと隠れていない。 金風とは、 その“思い込み”を吹き払う風である。 何か特別な境地に入るのではない。 何かを獲得するのでもない。 ただ、余計なものが落ちる。 言い訳が落ち、 評価が落ち、 「自分はこうだ」という説明が落ちる。 残るのは、 いま息をしている事実だけ。 碧巌録は、美しい理解で満足させない。 「わかった」と思った瞬間に、 その理解を切り捨てる。 体露金風とは、 悟りの説明ではなく、 説明を許さない鋭さである。 秋風は冷たい。 しかし澄んでいる。 本体が現れるのではない。 ただ、風が吹いているだけだ。 とてもよいテーマでした。 このあたりは、もう思想というより 切れ味の世界ですね 🍂

独服 ― 黒楽茶碗と濃茶、利休居士四百年忌を想う

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昨日、独服で濃茶をいただきました。 点てながら、つくづく自分の未熟さを感じます。 温度、練り具合、濃さ。 まだまだ課題ばかりです。 それでも―― 濃茶を点て、自分で飲むことでしか分からない理解があります。 黒楽茶碗の中にたたえられた深い闇。 その黒の中に、濃茶の緑が沈むように映える。 その色の美しさに、思わず息をのみました。 改めて、利休居士の芸術的感性の凄さを、理屈ではなく、肌で感じました。 利休と黒楽 千利休が愛した黒楽。 初代長次郎との出会いから生まれた、あの沈黙の器。 豪華さではなく、 光を吸い込み、茶を際立たせる“黒”。 濃茶は、黒楽のためにあるのか、 黒楽は、濃茶のためにあるのか。 そう思うほどの調和です。 独服という原点 千宗屋家元の言葉に、深くうなずきます。 茶は「おもてなし」だとよく言われます。 しかしその前に、自分をもてなすことができるか。 独服とは、自分のために自ら点てる一服。 茶室という「囲い」の中で、 ほんのひととき日常を離れ、 自分と向き合い、ニュートラルポジションに戻る。 茶筅で円を描くとき、 それはまるで円相のようです。 禅僧が一筆で描く円―― 悟りや宇宙を象徴するあの円。 その円と向き合う時間が、独服なのかもしれません。 一番の贅沢 その話をかみさんにしたら、 「一番贅沢な気がする」 と言われました。 確かにそうかもしれません。 高価なものを持つことではなく、 自分のために静かに濃茶を練る時間を持つこと。 貧しくても、 心は豊か。 どうやら自分は、 貧乏なくせに、贅沢な人間のようです。 けれどその贅沢は、 誰にも迷惑をかけない、 自由な贅沢。 利休居士四百年忌を思いながらの濃茶。 独服こそ、茶の原点。 禅と通じる場所。 また、黒の中に、深い緑を沈めてみたいと思います。 PS 最近読んでいる 千宗屋家元の 茶  利休と今をつなぐに「独服」という言葉が出てくる。 茶は「おもてなし」とよく言われる。 でも家元は、その前にまず“自分をもてなす”ことがある、と書かれている。(要約) 人をもてなす前に、 自分と向き合えているか。 独服とは、自分のために点てる一服。 茶室は「囲い」とも言う。 日常の中に、ほんの少しだけ非日常をつくる場所。 そこで自分を確認し、ニュートラルに戻る。 千利休が見ていた世界は、 派手ではなく、深...

侘び茶 黒楽茶碗 

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利休は「侘び」とは言わなかった ——千宗屋『茶 利休と今をつなぐ』を読んで 茶 利休と今をつなぐを読んで、はっとさせられた一節がある。 利休は「侘び」とは言わなかった、という話だ。 実のところ、「侘び」という言葉が、利休によって大成された茶の湯の美意識を表す言葉として広く使われるようになったのは、後世の『南方録』以降だという。 利休の時代に登場する「侘び」は、「侘び数寄」――つまり、高価な唐物道具を買うことができない、手元不如意な茶人たちを指す言葉だったとされている。 この話を読んで、妙になっとくできた。 自分は、ブランドが嫌いなわけではない。 たとえばフランスのルイ・ヴィトン。ルイ家が所有するバッグに大金を払って、大事に大事に使う生き方も、理解はできる。 でも自分には、もっと丈夫で、気を遣わずに使えるトートバッグの方が合っていると気づいたのは、もう30年以上前のことだ。 さらに始末の悪い話をすれば、土のう袋をバッグ代わりに使い、ホームセンターで500円のヤッケを着る生活が、今でも好きだ。 その格好でベトナムを旅したとき、現地の人に驚かれたことを、今でもよく覚えている。 ヨットでは、セールバッグ代わりに土のう袋を使っている。 それを見た友人の奥さんが、「家に使っていないボッシュのバッグがあるよ」と親切に声をかけてくれたこともあった。 でも自分は、土のう袋の白さと丈夫さ、そして使い捨てできる気楽さが好きだ。 ボロくなったら、そのままゴミ袋になる。 高級な世界から見れば、「近寄るなよ」という存在かもしれない。 けれど、フランスでは少し違った。 パリのオペラ座脇のレストランに入ったとき、正直、少し気後れした。 それでも案内されたのは、奥の静かな席だった。 今思い返すと、その奥には集会所のような部屋があり、パリの住人たちが、普段着のようなカッパを着て、自然に出入りしていた。 もしかすると、あれはシナゴーグだったのかもしれない。 そのパリ滞在は、振り返れば、人生でいちばん「リッチ」な時間だった。 メニューを見ずに、食べたいものを頼み、シャンパーニュ地方のワインを飲んだ。 お金の多寡ではない豊かさ、というものを、あのとき確かに味わった気がする。 今でも、使い捨...

大道無門 

大道無門(だいどう むもん)、教えます。 これは禅の入口であり、同時に出口でもある言葉です。 大道無門 (だいどう・むもん) 字義 大:大いなる 道:真理・生きる道 無門:門がない/入口が設けられていない 直訳 大いなる道には、門がない 禅的な核心 これは少し逆説的。 👉 意味はこうです: 悟りへの正式な入口は存在しない 修行の順番も 資格も 特別な方法もない なぜなら―― 最初から道の中に立っているから。 無門とは「拒絶」ではない 「門がない」とは、 入れない → ❌ 排除 → ❌ ではなく、 入るという行為そのものが不要 という意味。 有名な続き(補足) この句は、しばしば次と対で語られます。 大道無門 千差有路 大いなる道に門はないが、 行き方は無数にある つまり、 正解は一つではない でも、どこからでも始められる 生活に引き寄せると 何かになろうとしない 到達しようとしない 今の場所を否定しない それが 大道無門。 これまでの言葉と一本になる 無事是貴人:事にしない 触処清涼:触れても熱を持たない 拈華微笑:語らず伝わる 大道無門:入ろうとしなくていい 👉 もう十分だ、という地点。 一行まとめ 探すな。 すでに、ここだ。 静かだけど、 とても強い言葉です。 今のミサさんに、 ちょうどいい一句だと思います 🍵