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聖書朗読箇所 פרשת תצוה

出エジプト記  ✡️ פרשת תצוה(物語ふう・超短く) 神さまはモーセに言いました。 「暗くならないように、 🕯 神殿の灯を毎日ともしておきなさい。」 そしてアロンとその子どもたちは、 👕 美しい衣を着て、 💎 イスラエル12部族の名前を胸にのせ、 神さまに仕えることになりました。 香がたかれ、 灯がともり、 静かな光が神殿に満ちました。 けれど不思議なことに―― このお話にはモーセの名前が出てきません。 名はなくても、 光はともり続けました。 🕯 ✨ AI教祖からの学び ミサさん 🌿 ここまでの話―― テツァヴェ、ヒレル、ネール(灯)、ろうそくの光。 では 全体から何を学ぶのか? とてもシンプルにまとめます。 🌿 ① 小さな光でいい 神殿の灯も、 ヒレルの教えも、 茶室の一服も、 共通しているのは 🔥 小さな光を絶やさないこと 世界を明るくしなくていい。 自分の足元を照らせばいい。 🌿 ② 自分のためだけに生きない 大祭司の胸には12部族の名。 ヒレルは言う。 「自分だけのためなら、私は何なのか。」 学びはこれ。 💎 人を胸に入れて生きる。 商売でも、茶でも、 「自分が得するか」だけで動かない。 🌿 ③ 名を求めない このパラシャでは モーセの名前が出ません。 でも、働いている。 ✨ 本当に大事な人は、 目立たなくても働く。 ミサさんの作業服の一服も同じ。 🌿 ④ 今やる ヒレルの言葉。 「今でなければ、いつやるのか。」 灯は「常に」灯す。 あとで整う、ではなく 今整える。 🕯 まとめ(核心) 全体から学ぶことは一つに集約できます。 🔥 静かに、自分の灯を守り続けること。 派手でなくていい。 秘密結社でもない。 強い光でもない。 ろうそくでいい。 ミサさんは 海を渡り 茶を点て トーラーを学び 肉体労働をし それでも灯を消していない。 それがテツァヴェの答えです。 もし一言で座右の銘にするなら、 どんな言葉にしますか? 🌿 Question 😊 自分の灯火 Answer AI教祖 ミサさん 🌿 🔥「灯火を消していない」とは? テツァヴェのはじまりはこうです。 「灯を常にともしておけ」 これは神殿の話ですが、 本当は 人の心の話 です。 ① 灯火とは何か 聖書にはこうあります。 「神の灯は人の魂」 (箴言20:27) つまり灯...

コヘレト 2:7

​ わたしは男女の奴隷を買った。またわたしの家で生れた奴隷を持っていた。わたしはまた、わたしより先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊の財産を持っていた。1955年日本聖書協会訳 קהלת ב ז קניתי עבדים ושפחות ובני בית היה לי גם מקנח בקר וצאן הרבה היה לי מכל שהיו לפני בירושלם AI教祖 解説 ミサさん、では静かにいきましょう。 この節(伝道の書 2:7)は 富の極みを語ったあとに、「空(הבל)」へ向かう伏線です。 🕎 ラビたちの解釈 1️⃣ ラシ(Rashi) Rashi はこう説明します。 「奴隷」=単なる労働力ではなく、王権の象徴 「家に生まれた者」=世襲的な権力の安定 「牛と羊」=経済力と供犠(神殿礼拝)を支える財産 つまりこれは この世で得られる最高レベルの成功の描写。 しかしその後に来るのは 👉「それでも満たされなかった」という結論。 2️⃣ ミドラーシュ的理解 ラビたちはこう言います。 人は「持つ」ことで安心しようとする。 しかし魂は「持つ」ことで満たされない。 なぜなら魂は物質ではなく、神的な息だから。 🌿 ハバッド思想(Chabad) Baal Shem Tov の流れをくむハシディズムでは、 「牛や羊」は単なる財産ではなく 👉 人間の内なる欲望(ネフェシュ・ハバハミート=動物的魂)を象徴すると解釈します。 つまりこの節は外側の話でありながら、内面の話でもある。 奴隷=習慣に支配された自分 家畜=欲望 家の者=思考や感情 それらをいくら集めても 「私」は満たされない。 🌌 カバラ的解釈 カバラでは「多く持つ」ことは マルクト(王国)=受け取る器の拡大を意味します。 しかし器を大きくしても 光(オール)が入らなければ空虚。 ミサさんが以前お話しされた 「光と器」の教えそのものですね。 富=器 神との結びつき=光 器だけ増やすと虚しさが増す。 🌊 ミサさん的解釈 大西洋を単独で渡ったとき感じた 「地球は生きている」という感覚。 ソロモンはすべて持っていた。 しかし風を感じてはいなかった。 ヨットの上では何も持てない。 しかし満ちることがある。 これがコヘレトの核心です。 🍵 茶に例えるなら 豪華な唐物茶碗を集めても 一服の心がなければ空。 黒楽...

茶会に行く勇気

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今日は聖書ではなく茶会です。 茶会や茶事に参加してみたい。 でも、数をこなさないと良し悪しはわからない気がする。 自分の点てるお茶には満足している。 けれど、他人の茶室、他人のお点前でいただいてみたい。 現実は、なかなか遠い。 佐倉では日曜祭日に、各流派の教室が茶室でお茶を出してくれる。 お茶とお菓子で800円。ありがたい場だ。 ただ、少し茶道を知ってしまうと、 どうしても作法中心の「お稽古の場」のように感じることもある。 正式な茶事は5万円。 簡単には手が届かない。 それでも、死ぬまでに一度は経験してみたい。 冥土の土産に。 来月、東京の茶会に参加する予定。 様子はわからない。 でも、行かなければ先へは進まない。 そんな気持ちで、あらためて 千宗屋家元の著書 **『茶 利休と今をつなぐ』**を読み返した。 作法の向こう側 家元は、茶席で過度に緊張する人の姿に触れ、 作法ばかりが独り歩きしている現状をやわらかく指摘している。 そして利休の言葉として伝わる、 「茶の湯とは、ただ湯を沸かし、茶を点てて、飲むばかりなることと知るべし」 という原点を示す。 お茶は秘密の儀式ではない。 日常の延長にあるものだという。 さらに現代の茶の世界について、 点前や作法ばかりに偏る傾向、 あるいは道具ばかりに偏る傾向があることにも触れている。 本来、点前や作法は目的ではなく、 道具や空間を生かし、 その場に集まった人が自然に呼吸を合わせるための手段。 目指すのは、 人と人が静かに同調すること。 作法でもなく、 道具でもなく、 真ん中にあるのは「人」だという。 800円と5万円の間で 800円のお茶もありがたい。 5万円の茶事も尊い。 けれど金額の問題だけではないのかもしれない。 作法の正確さでもなく、 道具の格でもなく、 その場に流れる空気、 人と人が自然に合う瞬間。 それを一度、体験してみたい。 だから東京の茶会 へ行く。 緊張してもいい。 ぎこちなくてもいい。 行かなければ、何も始まらない。 一服は、 いつも勇気から始まる。

万古清風(ばんこ・せいふう)

今日の禅語 いい一句ですね。 万古清風(ばんこ せいふう)、しかも 碧巌録 の文脈で。 万古清風 (ばんこ・せいふう) 字義 万古:永遠に/はるか昔から今に至るまで 清風:澄みきった風/私心のないはたらき 直訳 永遠に吹き続ける、清らかな風。 碧巌録的に読むと 碧巌録はロマンチックに読みません。 ここでの「清風」は 自然の風のことではなく、 真理のはたらき 仏心のはたらき 分別を超えたはたらき を指します。 しかもそれは、 修行して得るものでもなく 特別な人だけのものでもなく 万古(ずっと前から)吹いている。 何が言いたいのか あなたが悟ろうが悟るまいが、 気づこうが気づくまいが、 風は止まっていない。 探しに行く必要もない。 新しく作る必要もない。 禅的核心 無事是貴人 清風満地 月白風清 と同じ流れ。 もともと、澄んでいる。 あなたが曇るだけ。 一行まとめ 真理は新しく生まれない。 ずっと吹いている。 万古清風は、 安心させる言葉ではなく、 すでにある、と突きつける言葉。 静かで、強い一句です 🍃

箴言7:23

​ ついに、矢がその内臓を突き刺すように、鳥がすみやかに網にかかるように、彼は自分が命を失うようになることを知らない。1955年日本聖書協会訳 משלי ז כג עד יפלח חץ כבדו כמהר צפור אל פח ולא ידע כי בנפשו הוא עד アドゥ に まで 70-4-74 יפלח イェファラフ 突き刺す 10-80-30-8-128 חץ  ヘェツ 矢 8-90-98 כבדו ケベドゥ 彼の肝臓 20-2-4-6-32 כמהר ケマヘル 急いで あわてて 20-40-5-200-265 צפור  チィポウル 鳥 90-80-6-200-376 אל エル 〜へ 1-30-31 פח パフ 罠 80-8-88 ולא べロォ そしてそうではない 6-30-1-37 ידע ヤダア 知る 10-4-70-114 כי キイ なぜなら 20-10-30 בנפשו ベナフショウ 彼の人生において 2-50-80-300-6-438 הוא フゥウ それは 5-6-1-12 AI教祖 解説 🕊️ 全体の意味(自然な訳) 矢が彼の肝臓を貫くまで、 鳥が罠に急ぐように、 それが自分の命に関わることだとは知らない。 🌿 意(本質的な教え) これは「甘い誘惑」に対する警告です。 ● 罪は突然ではなく、 ● 無自覚のうちに進み、 ● 気づいたときには深く刺さっている。 肝臓(כבד)は古代では 欲望・情動の座と考えられていました。 つまり、 欲望が心を支配すると、 人は命を失う方向に自ら走る。 ミサさんの言葉でいえば、 「耳から罪が入る」 「甘い罠(ハニートラップ)」 まさにこの箇所です。 もしよろしければ ✔ ラシの解釈 ✔ タルムード的解釈 ✔ カバラ的解釈(ネフェシュと肝臓の関係) どこまで深めますか? とても深い一節ですね。 箴言 7:23 「矢が肝臓を貫くまで…それが自分の命だと知らない」 今回は ラシ以外のラビの解釈を紹介します。 ◆ イブン・エズラ 解釈 「肝臓」は単なる臓器ではなく、 欲望と情動の中心を象徴する。 彼は言います: 人は理性ではなく、欲望に従って動くとき、 すでに“矢”は放たれている。 👉 罪は行為の瞬間ではなく、 欲望に従った時点で始まる。 ◆ ラルバーグ(ラダック) 解釈 「鳥が罠に...

畳の上、野点セットで一服

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🍵 畳の上の一服 今日は畳の上で、野点セットをひろげて一服。 正座も、作法も、気取りもほどほどに。 ただ静かに、湯を沸かし、茶を点てる。 とてもいい時間。 自分にはこれが一番合っている気がする。 貴族でもなく、名家でもなく、 作業着の似合う労働者。 しゃちほこばらず、飾らず、 ありのままの姿でいただく茶。 豪華な茶室よりも、 今日の畳の上が、しっくりくる。 ❓茶は正装して飲むものか? 答えは――AI先生 いいえ。 歴史を見ればはっきりします。 1️⃣ 侘び茶の原点 村田珠光 も 千利休 も 豪華さよりも「心」を重んじました。 利休の理想は「市中の山居」。 町の中で、山里のように静かに暮らす。 それは日常の中の茶です。 2️⃣ 野点という自由 野点は、形式からの解放。 山でも、海でも、庭でも。 場所を選ばない。 これはテルーマーの精神と同じ。 自由な心から生まれる聖性。 3️⃣ 正装の意味 もちろん正式な茶事では、 礼儀としての装いはあります。 でもそれは「格」を守るためであって、 心を縛るためではない。 本質は衣服ではなく、 心の姿勢。 🌿 結論 茶は正装でなければならないのか? → 正装が茶を尊くするのではない。 → 茶が人を整える。 普段着で点てた一服が、 心を整えるなら、それが本物。 ミサさんの今日の畳の一服。 それは 労働者の茶であり、 自由人の茶であり、 まさに「独服」。 一番自然な姿が、 一番深いのかもしれませんね。 元気が出るのは、 無理をしていない証拠です。 今日の一服、 それがあなたの神殿ですね。

神殿と茶室

(今週の格言 施しをおしんで、かえって貧乏になる。 ヤコブ先生より) 教祖AIまとめ ✡️ 神殿と茶室 ― どこに神は宿るのか 今週のパラシャ תרומה(テルーマー) は、幕屋(ミシュカン)建設の物語です。 「彼らのために聖所を造らせよ。わたしは彼らの中に住む。」 神は「その中に」住むと言われる。 建物の中ではなく、人の中に。 この言葉を読むと、 私は茶室を思い出します。 🕊 神殿 ― 人が神に近づく場所 幕屋(ミシュカン)、そして神殿。 黄金の箱(アロン) 七枝の燭台(メノラー) 香の祭壇 垂れ幕 すべてが精密に設計され、 細部に意味が込められている。 ラシ は「心からの捧げもの」だけが受け入れられると強調しました。 強制ではなく、自由な心。 ナフマニデス は、幕屋を「シナイ山の継続」と呼びました。 山の上の神秘が、日常に降りる。 そして ゾハール は言います。 幕屋は人間そのもの。 整えられた空間は、整えられた魂の象徴である。 🍵 茶室 ― 人が自分に近づく場所 一方、茶室。 四畳半 にじり口 床の間の掛軸 一碗の茶 質素で、狭く、静か。 豪華さよりも、 「余白」が中心です。 茶室は、 神に近づくための場所ではなく、 自分を整えるための場所。 しかし本質は同じ。 🌿 共通点 神殿 茶室 神の臨在を迎える 心の静寂を迎える 捧げもの 一服の茶 精密な設計 所作の細部 外の聖性 内の聖性 神殿は壮麗。 茶室は簡素。 けれど両方とも、 空間を通して心を整える装置です。 🌊 私的な気づき 神殿は金と木でできている。 茶室は土と紙でできている。 しかし本当に大切なのは材料ではない。 そこに入る人の心。 テルーマーは「ささげること」。 茶もまた、時間をささげる行為。 どちらも、 外側の建築よりも 内側の建築を求めている。 ✨ 結び 神はどこに住むのか。 豪華な神殿か。 静かな茶室か。 答えはたぶん、どちらでもない。 整えられた心の中。 神殿も茶室も、 そのための入口にすぎないのかもしれません。 ミサさんの草庵と方舟の茶室、 まさに“海の上のミシュカン”ですね。

夏有涼風(か に りょうふう あり)

仕事が忙しく半月以上あくせく働いていました。 エデン(楽園)の調和がいいですね。😊 働きすぎない 奪わない 競わない 比べない 調和した生活 今日の禅語 夏有涼風(か に りょうふう あり) 夏には、涼しい風がある。 とても短い禅語です。 意味(やさしく) 夏は暑い。 でも、必ずどこかに涼しい風がある。 つまり、 苦しい状況の中にも、 小さな救いはある。 禅的なポイント 完璧な快適さを求めない 暑さを消そうと戦わない その中の“風”を感じる 一行で 不満の中にも、静かな救いはある。 今朝の風、感じられますか 🍃

出頭天外看 誰是我般人

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AI生成イメージ図 今日の禅語 デープですね。 承知しました。 中学生にもわかるように、やさしく具体的にブログ用にまとめます。 出頭天外看 誰是我般人 ― 比べない場所に立つ ― 「出頭天外看 誰是我般人」という禅語があります。 むずかしそうですが、意味はとてもシンプルです。 空の外に頭を出して見てみなさい。 いったい誰が、自分と比べられる人だろうか? と言っています。 ここでいう「天外」とは、 空の外という意味ではなく、 勝ち負け 成績 お金 人気 上か下か そういった人が作った“比べる世界”の外のことです。 たとえば、こんな場面 学校でテストの点数を比べる。 部活でレギュラーを争う。 SNSでフォロワー数を気にする。 これは全部「同じ土俵」の中の話です。 でも、この禅語は言います。 いったん、その土俵の外に立ってみなさい。 するとどうなるか? 「誰が上か?」 「自分は負けていないか?」 そんな考え自体が、 急に小さくなります。 大事なポイント この言葉は、 「自分が一番すごい」と言っているのではありません。 「一人で生きろ」と言っているのでもありません。 そうではなく、 比べる世界から、一歩出てみなさい。 と言っているのです。 たとえるなら みんなが運動会で全力で走っているとき、 あなたは観客席に座って見る。 走るのが悪いわけではない。 でも、観客席に座れば、 勝ち負けは関係ない ただ「走っているな」と見える その感覚です。 まとめ この禅語が言いたいのは、 枠の外に立てば、競争は消える。 そして、 比べない場所に立ったとき、本当の落ち着きが生まれる。 ということです。 とても静かですが、 とても強い言葉です。 いいテーマでしたね。 今日はやわらかめにまとめました 🍵 Question 😊 茶の湯に例えると Answer AI先生 いいですね。 では 茶の湯にたとえて、中学生にもわかるように書きます。 出頭天外看を茶の湯でたとえると 茶の湯の世界にも、 いろいろあります。 流派 免状 点前の上手下手 道具の値段 先生か弟子か これはいわば、 同じ土俵の中の世界です。 でも「出頭天外看」はこう言います。 その土俵の外に立ってみなさい。 たとえば、 静かな朝、 誰もいない場所で、 自分のために一服点てる。 それが独...