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ニルヴァーナ

PS 一休宗純の生き方を思い出します。 型にとらわれず、寺の権威にも縛られず、 時に酒を飲み、時に女を愛し、 破戒僧とも呼ばれながら、自由に生きた一休。 一見すると、欲も怒りもそのままに生きたように見えます。 しかし、その奥には 世の中の偽りや執着を見抜いた、鋭い眼がありました。 怒りは権威への反発となり、 欲は人間そのものを肯定する力となり、 無知を破るために、あえて常識を壊していく。 すべてを消すのではなく、 すべてを生き切ることで、 逆に執着から自由になっていく。 その姿は、 無理に火を消そうとするのではなく、 燃え尽きたあとに訪れる静けさのようにも感じます。 一休の人生は、 欲・怒り・無知を否定するのではなく、 それらを通して超えていく道だったのかもしれません。 そして最後は、 雨が降れば降るままに、風が吹けば吹くままに。 ただそのままに生きる。 それこそが、一休なりのニルヴァーナだったように思います。 🍵 ニルヴァーナ(涅槃)とは何か ― 欲・怒り・無知を分けて考える ― ニルヴァーナ(涅槃)とは、 仏教では「火が消えた状態」といわれます。 その火とは、 人の苦しみの原因である 欲・怒り・無知 この三つです。 しかしこれは、 単純に「なくせばいい」という話ではありません。 むしろ、どう向き合うかが大切なのだと感じます。 ■ 欲(よく) 欲とは、ただの願いではなく 👉 手放せなくなった心(執着) のことです。 お金が欲しい、認められたい、 成功したい、学びたい。 こうした欲は、 本来は生きるためのエネルギーです。 しかし 手に入らないと苦しい 失うのが怖い 比べてしまう こうなると、欲は苦しみに変わります。 ニルヴァーナとは、 欲を消すことではなく 👉 欲に振り回されない状態 なのかもしれません。 ■ 怒り(いかり) 怒りとは 👉 思い通りにならないことへの反発 です。 「こうあるべき」 「自分は正しい」 その思いが崩れたとき、怒りは生まれます。 しかし怒りもまた、 危険を避ける 不正に気づく という大切な力でもあります。 問題は 👉 燃え続けてしまうこと です。 ニルヴァーナとは 👉 怒りが自然に鎮まっている状態 火を消すのではなく、 火加減が整っている状態です。 ■ 無知(むち) 無知とは、ただ知らないことではなく 👉 現実をそのまま見てい...

有漏路より無路地へ帰る一休 楽園のお茶

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洗心 心洗われる景色 有漏路より無漏路へ帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け 有漏路――それは、煩悩のあるこの世界。 思い悩み、求め、揺れ動く、人の営みの場。 無漏路――それは、煩悩を離れた本来の世界。 静かで、満ちていて、何も欠けていない場所。 その二つを分けて考えていたけれど、 本当は、そのあいだにこそ 私たちは生きているのかもしれない。 この人生は、どこかへ行くための苦行ではなく、 ただ一度の――一休み。 そう思えたとき、 何かを変えようとする力が、ふっとゆるむ。 雨が降れば、そのままに濡れればいい。 風が吹けば、その流れに身をまかせればいい。 抗うのではなく、委ねる。 操作するのではなく、味わう。 今朝、久しぶりに海の上で朝日を浴びながら、 一服のお茶をいただいた。 素朴な景色に、ただ心が動く。 言葉にならない静けさの中で、 呼吸が深くなり、身体がゆるんでいく。 自律神経が整い、 張りつめていたものがほどけていく。 社会のざわめきから少し離れ、 気づけば、心も軽くなっていた。 ただ光を浴び、ただお茶をいただくだけ。 それだけなのに、十分すぎるほど満ちている。 茶の湯もまた同じ。 湯を沸かし、茶を点て、いただく。 その一連の中に、余計なものは何もない。 だからこそ、心が洗われる。 だからこそ、本来に戻る。 それは特別な修行ではなく、 日常の中にある、小さな奇跡。 ふと思う。 この世界は、仮の住まいであり、 この身体もまた、仮の器。 すべては流れの中にあり、 留まるものは何もない。 それでも、その仮の中で こうして一服できることが、どれほど尊いことか。 風が吹く。 波がゆれる。 太陽が昇る。 そのすべてが、そのままでいい。 そして、その中で一服。 そのとき、ふと心の奥で思った。 ――これを待っていました。 楽園のお茶|仮庵 今日もまた、海と太陽のあいだで。 PS 本当は、一休宗純のような、 破戒僧とも言われる自由で型破りな生き方に触れながら、 仏道について書こうと思っていました。 けれど、この一服があまりにもよかったので、 理屈よりも、この感覚をそのまま残すことにしました。 これでいこうと思います。😊

コヘレト2:8

​קהלת ב ח כנסתי לי גם כסף וזהב וסגלת מלכים והמדינות עשיתי לי שרים ושרות ותענגות בני האדם שדה ושדות  この一節は「すべてを手に入れた人の静かな告白」です。 ブログ用に整えました。 ■ コヘレト2:8 ― すべてを集めた、その先に ― ■  ■ 意訳 私は、銀と金を集め、 王や国々の宝を手に入れた。 歌い手や楽しみを揃え、 人のあらゆる喜びも味わった。 ■ この一節の意味 この言葉は、ただの贅沢の話ではありません。 👉 「人が欲しがるものを、すべて手に入れた」 という宣言です。 お金 権力 名誉 芸術 快楽 つまり、 👉 この世のフルコース ■ それで、どうなったのか? コヘレトはこのあと語ります。 👉 「すべては空(ヘベル)」 ■ 空とはなにか? これは「虚しい」というよりも 👉 「つかめない」 という意味に近い。 どれだけ集めても、 どれだけ満たしても、 👉 心は完全には満たされない ■ 禅との重なり 禅では言います。 👉 「足るを知る」 利休は言いました。 👉 「ただ湯をわかし、茶を点てて飲むばかり」 ■ カバラ的に見ると 人は 👉 受け取る器(ケリ) です。 しかし 👉 受け取るだけでは満たされない なぜなら 👉 光(与える側)とつながらないから ■ 茶の湯での答え すべてを手に入れたあと、 最後に残るものは何か? 👉 一碗の茶 金でもなく、名誉でもなく、 ただ静かに差し出される一服。 そこには 👉 比べるものがない 👉 競うものがない ■ ミサさんの言葉にすると 👉 「すべてを持っても、最後に求めるのは静けさだった」 ■ エデンの茶会へ 楽園とは、 何もない場所ではなく 👉 すべてを手放せる場所 露地を歩き、 躙口をくぐり、 茶碗を手にしたとき、 人はようやく気づく。 👉 もう、これで十分だと。 ■ 結び コヘレト2:8は、 成功の物語ではなく、 👉 目覚めの入口 そしてその先にあるのは、 👉 「一服の自由」

いとまごい(暇乞い)

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画像はAI画伯作成 「掃除は魂をみがく」 この言葉を聞いたとき、 禅であり、茶の湯そのものだと感じました。 床を拭き、道具を清める。 ただそれだけで、心が整っていく。 掃除は外の汚れを落とすと同時に、 自分の内側を磨く時間でもあります。 斎藤一人さんは言います。 「トイレはきれいにしなさい」 トイレは“陰”の場所。 だからこそ、そこを清める人は運がよくなる。 「いとまごい(暇乞い)」 この世を去る前の、最後のあいさつ。 人は弱ると、低く暗い場所に影響が出やすいとも言われます。 だからこそ、トイレのような場所を清める。 それは人に見せるためではなく、 自分の心を整えるため。 「清」とは、形ではなく在り方。 掃除とは、 見えないものを大切にする行為。 誰も見ていない場所を磨くこと。 掃除は、ただの作業ではない。 魂をみがく、静かな修行であります。 今日の禅語  洗心(せんしん) 👉 心を洗う 掃除=外を清めることで、内なる心も清まる

侘茶の真髄 南方録より

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今日は利休の侘茶の教えです。 お茶に興味のない方は、お酒でもどうぞ。 『南方録』(立花実山原編著・戸田勝久訳/教育社)より。 AI先生の補助訳も参考にしています。 侘茶の真髄――これは自分が一番目指してきたところです。 侘びを「乏しさ」と捉え、余分を削ぎ落とした簡素な茶を志す。 利休の目指した世界は、まさにそこにあるように感じます。 また、トーラーを学んだ手島先生からは、 「出どころをはっきりして話せ」と厳しく教えられました。 ユダヤの教えでは、必ず「誰が語った言葉か」を明確にします。 自分の想像や作り話で人に教えることは許されません。 その教えがあるからか、 違うことを教えている場面や、出どころをはっきり言わない話に出会うと、 つい気になってしまう自分がいます。 今日は千利休の侘茶の真髄。 読んでいて、自分の感覚にとても近いと感じました。 平点前の重要性をあらためて感じました。 AI先生本文リライト ミサさん、とても良いところを読まれていますね。 ここはまさに**侘茶の核心(真髄)**です。 ブログ用に、やさしく、でも深みを残してまとめます。 侘茶の真髄とは何か ― 南方録より ― 茶の湯には、無数の「型」や「作法」があります。 台子、点前、道具の扱い……。 多くの人は、それを守ることこそが茶の湯だと考えます。 しかし、千利休はそこに疑問を持ちました。 ■ 法は“階段”にすぎない 利休は言います。 茶の法則は、登るための階段である つまり、作法は目的ではなく、 その先へ進むための手段にすぎないということです。 ■ 目指したものは「草庵の一碗」 豪華な書院や台子を離れ、 利休がたどり着いたのは―― 二畳の待庵 最小限のしつらえ 一碗の茶 そこにあったのは、 「薪水の労をもって修行する自分」 「一碗の中にある真実」 つまり茶の本質とは、 形ではなく、日常の中の真実に気づくことでした。 ■ 茶は「人」によって濁る 利休はさらに深いことを言います。 客が未熟であれば、亭主も迷う 茶の湯は一人では完成しない。 亭主と客、両方の心で成り立つ世界。 だからこそ、 良い客こそが、良い茶を生む という逆説があるのです。 ■ 利休が恐れた未来 利休は強く危惧しています。 権力者が形式ばかり好むこと 師匠が金儲けに走ること 茶が遊びや酒宴になること そしてこう言います。 百年後の茶はど...

明月清風 青山緑水

今日の禅語 AI先生より ミサさん、少しだけ補って書き直しますね。 明月清風 青山緑水 禅語に 明月清風 という言葉があります。 澄んだ月と清らかな風。 人の作為を離れた、自然そのものの姿です。 また 青山緑水。 青い山と緑に流れる水。 大自然の生命の姿をあらわします。 禅の古典 碧巌録 にも通じる世界ですが、 悟りとは特別なものではなく、 月や風、山や水のような自然の中に すでに現れているという教えです。 月は黙って照り、 風は静かに吹く。 その中で、 ただ一服のお茶をいただく。 それだけで、 十分に豊かな時間なのかもしれません。

神経性胃炎が一瞬で治った昔話

昔話になります ヨットや聖書、フランスに興味のない方には、あまりおすすめしません。 この動画「la trinite sur mer」をご覧ください  https://share.google/ 5tUXPrMOLUsSZ9Q4S   ヨットの海、 ユダヤの聖書、 そして茶の湯。 振り返ってみると、 これらはどこかでつながっているように思います。 自分のブログを読み返しているうちに、 また昔のことを思い出しました。 まだサラリーマンで営業職をしていた頃、 神経性胃炎に苦しんでいました。 そんな時、大西洋横断レースに参加するヨットを探しに、 有給休暇をとってフランスのブルターニュ地方へ行きました。 レンタカーを借り、 ブルターニュの港町を回りながら、 レースに関係するマリーナで中古艇を見て歩きました。 その中の一つが、 ブルターニュのバンヌの近くにある トリニーテ=シュル=メールという港町です。 坂道を下りて港へ向かい、 街を歩き始めたときのことです。 目の前に広がる 輝く海、ヨット、そして光。 その景色に感動していると、 胃がふっと動いたような感覚があり、 それまで苦しんでいた神経性胃炎が治ってしまいました。 そしてビールが飲めるようになったのです。 それ以来、 この港町がとても好きになりました。 街は港を囲むように広がり、 中央にはマリーナの事務所があります。 奥の桟橋には、巨大なトライマランが停泊していました。 それが エドモンド・ロスチャイルドの船でした。 ロスチャイルド家は、 ユダヤのラビの家系でもあります。 この港では、 造船所の社長クリスチャンとも知り合いになりました。 そしてそのクリスチャンの造船所で、 自分の船を自作することになります。 船は、 サント・マリーンというキリスト教会のある港町で進水しました。 フランスでロスチャイルドの船を見るたびに、 どこか不思議なつながりを感じていました。 今思い返すと、 とても楽しい思い出です。 PS 当時フランスに行くと、 カフェに入るのが好きでした。 一日に三回以上は通っていたと思います。 朝はエスプレッソを一杯。 それが自分にとっての一服でした。 抹茶ではありませんでしたが、 今思えば、その頃から 一服の時間が好きだったのかもしれません。 カフェという独特の空間。 今思えば、あれもどこか 茶室...

和敬清寂

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今日の禅語 和敬清寂(わけいせいじゃく) 一言で言うと 「互いに敬い、清らかな心で、静かに一服すること。」 🍵本 あたらしい茶道 宗亮博士 p167より 和敬清寂について 鎌倉末期に伝わった「茶堂清規」という書物が出典で、村田珠光が最初に唱えたとされています。調和 尊敬 清潔 静寂 という茶の湯の精神すべてを四文字であらわしています。 千家では特に「利休四規」として重要視されています。 (利休の言葉の前に珠光の言葉のようですね。) 💌AI先生解説 ミサさんの理解、とても茶の湯の核心に近いと思います。 千利休の言葉 「和敬清寂(わけいせいじゃく)」 は、茶の湯の精神を四つの言葉で表したものです。 一つずつ、ミサさんの感じている意味に寄せて整理してみます。 和(わ) 意味:調和・なごやかさ 茶室では身分や立場をいったん外に置きます。 武士も町人も同じ一碗の茶をいただく。 つまり 争わない 心を柔らかくする 空気を和ませる ミサさんの言葉で言えば 和気あいあいとお茶をいただく空気 これが「和」です。 聖徳太子の 「和をもって貴しとなす」 とも重なります。 敬(けい) 意味:互いを尊ぶ心 亭主は客を敬い、 客は亭主を敬います。 さらに 道具を敬う 自然を敬う 一期一会の時間を敬う 利休の世界では すべてに命が宿る という感覚があります。 だからミサさんの疑問の すべてを敬える? 答えは 理想はそうすること。 でも実際は難しい。 だから茶の湯は修行とも言われます。 清(せい) 意味:清らかさ これは単に掃除ではありません。 もちろん 茶室を掃く 道具を清める 手を洗う という形もありますが、 本当は 心を清める ことです。 俗世間の 欲 怒り 執着 を一度外に置く。 ミサさんの言葉の 俗より聖 この感覚に近いです。 露地を歩くのは 俗界 → 聖なる空間 へ入るための儀式とも言われます。 寂(じゃく) 意味:静かな境地 これは少し深い言葉です。 寂とは 静けさ 落ち着き 動じない心 そしてもう一つ 侘びの完成 という意味があります。 時間を経て 派手さが消え 本質だけが残る 状態。 ミサさんの言葉の 貫禄を感じる 誰にも媚びない まさにこれです。 四つをまとめると 和敬清寂とは 人と人が尊び合い 心を清め 静かな境地で 一碗の茶をいただく世界 です。...

明日を思いわずらうな

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PS の PS イエス・キリストも、歴史的に見れば ブネイ・イスラエル(イスラエルの民) 、すなわちユダヤ人であり、その教えもユダヤ教の土台の上にありました。 そう考えると、宗派の違いよりも、 同じ源から流れてきた教えとして、 それぞれを 尊重し、敬意をもって学ぶこと が大切なのではないかと思います。 互いの伝統をリスペクトする心。 それもまた、どこか 和敬清寂 の精神に通じているように感じます。 PS 昔、仕事仲間の故・田中さんに 「あんた何教だい?」 と聞かれたことがあります。 私はとっさに 「ちゃんぽん教ですよ」 と答え、二人で大笑いしました。 日本神道 やおよろずのかみ八百万の神 全てを信じると言いたかったけど、2人で笑った。 少し解説すれば、 日本の考え方でいう 八百万の神 です。 山にも神がいる。 海にも神がいる。 鳥にも花にも神が宿る。 そう考えると、 イエスの言葉の 「空の鳥を見よ」 「野の花を見よ」 という教えも、どこか日本の感覚と重なるように感じます。 宗派にこだわらず、 良い教えは素直に敬い学ぶ。 それが自分なりに色々学ぶ中で、 洗脳が少しずつ解けて理解できたことでした。 すべての神を敬う。 そこにあるのが 日本の神道の良さなのだと思います。 🙏世界の平和を願いながら🙇 明日を思い煩うな 最近、ニュースを見ていると暗い話が多いですね。 イランとイスラエルの戦争、物価高、買い占めの話など、心がざわつくニュースばかりです。 今は何不自由なく暮らしているからこそ、逆に将来が不安になることもあります。 そんな中、ふと昔感動したイエス・キリストの言葉を思い出しました。 記録したノートを探してみましたが見つからず、AI先生に解説してもらいました。 聖書の中の有名な言葉、 **「明日のことを思い煩うな」**です。 イエス・キリストはこう教えています。(マタイ福音書6章) 空の鳥を見なさい。 鳥は種もまかず、倉に食べ物もためません。 それでも神は養ってくださいます。 野の花を見なさい。 花は働かず、着飾りもしません。 それでもとても美しく咲いています。 そして最後にこう言いました。 だから、明日のことを思い煩うな。 明日のことは明日が思い煩う。 今日の苦労は今日で十分である。 未来の不安を考えすぎて心を重くするのではなく、 今日...

ハバットハウスでの学び

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ヨットと聖書、そして茶の湯へ ― ハバットハウスでの学び ― 大西洋横断レース、そして単独太平洋横断を終えて、私は地元の銚子マリーナに戻りました。 次の目標は 無寄港世界一周。 夢は大きかったのですが、現実は厳しい。 スポンサー企業を探しましたが、なかなか見つかりません。 当時必要と言われた資金は 約3億円。 「それなら自分で稼ぐしかない」 そう思い、金儲けの勉強を始めました。 そこで出会ったのが 株式投資でした。 300万円ほどの資金から始め、運にも恵まれ、ましたが。 しかし、ちょうど アベノミクスの時期。 どうしても安倍政権の経済政策を信じきることができず、途中で投資をやめました。 その資金で 家と船を購入し、 私の「お金儲けの旅」は一度そこで終わります。 けれど、金儲けを学ぶ過程で、 あることに気づきました。 世界のお金の流れを学ぶと、必ずユダヤの思想に行き着く。 そこから私は、 聖書とユダヤ思想を学び始めました。 赤坂の勉強会、 ヘブライ語博士 手島先生の教室に通うようになります。 ちょうどその頃、 ユダヤ教団 ハバット(Chabad) でも手島先生が講師を務めており、 その勉強会にも参加するようになりました。 やがてシナゴーグにも通い、 ユダヤの教えを直接学ぶ機会を得ました。 学びはとても楽しく、 聖書、タルムード、カバラなど、 新しい世界がどんどん開けていきました。 けれど途中で、 私は一度すべてを 「洗脳解除」 します。 自分はどうも、 組織や団体に属する生き方には向いていない。 やはり 独学と自由のほうが性に合う。 そう思い、そこからは 自宅で一人、聖書やユダヤ思想を読み続けました。 それでも、気づけば 10年近く学んでいました。 ハバットの本部は ニューヨーク・ブルックリンの 770(セブンセブンティ)。 また、そのルーツは ウクライナ にあります。 本当はその地を訪ねる旅をしたかった。 しかし当時はそこまでの余裕がなく、断念しました。 ただ一度、 フランスの世界一周ヨットレースを観戦しに行ったとき、 プロヴァンス地方を訪れました。 そこには、 カバラ発祥のシナゴーグが残るゲットーの町があります。 宗教的な巡礼のような旅で、 観光のような楽しい思い出ではありません。 けれど、 プロヴァンスのハーブ畑は美しかった。 その素朴な...