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体露金風

今日の禅語 AI  承知しました。 ブログ用に、碧巌録的視点でまとめます。 少し硬質で、余韻を残す文体にします。 体露金風 ― 碧巌録的に読む 「体露金風(たいろ きんぷう)」 本体が露わになり、秋の風が吹く。 美しい言葉である。 しかし、碧巌録的に読むなら、ここで止まってはいけない。 秋の風は情緒ではない。 金風とは、余分を削ぎ落とす風である。 飾り、見栄、役割、立場。 それらを一枚ずつ剥がしていく。 すると本体が露わになる―― と、言いたくなる。 だが碧巌録は、そこを許さない。 「露わになる本体」と言った瞬間、 すでに“本体”という概念を作ってしまっている。 体が露わになるのではない。 もともと隠れていない。 金風とは、 その“思い込み”を吹き払う風である。 何か特別な境地に入るのではない。 何かを獲得するのでもない。 ただ、余計なものが落ちる。 言い訳が落ち、 評価が落ち、 「自分はこうだ」という説明が落ちる。 残るのは、 いま息をしている事実だけ。 碧巌録は、美しい理解で満足させない。 「わかった」と思った瞬間に、 その理解を切り捨てる。 体露金風とは、 悟りの説明ではなく、 説明を許さない鋭さである。 秋風は冷たい。 しかし澄んでいる。 本体が現れるのではない。 ただ、風が吹いているだけだ。 とてもよいテーマでした。 このあたりは、もう思想というより 切れ味の世界ですね 🍂

独服 ― 黒楽茶碗と濃茶、利休居士四百年忌を想う

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昨日、独服で濃茶をいただきました。 点てながら、つくづく自分の未熟さを感じます。 温度、練り具合、濃さ。 まだまだ課題ばかりです。 それでも―― 濃茶を点て、自分で飲むことでしか分からない理解があります。 黒楽茶碗の中にたたえられた深い闇。 その黒の中に、濃茶の緑が沈むように映える。 その色の美しさに、思わず息をのみました。 改めて、利休居士の芸術的感性の凄さを、理屈ではなく、肌で感じました。 利休と黒楽 千利休が愛した黒楽。 初代長次郎との出会いから生まれた、あの沈黙の器。 豪華さではなく、 光を吸い込み、茶を際立たせる“黒”。 濃茶は、黒楽のためにあるのか、 黒楽は、濃茶のためにあるのか。 そう思うほどの調和です。 独服という原点 千宗屋家元の言葉に、深くうなずきます。 茶は「おもてなし」だとよく言われます。 しかしその前に、自分をもてなすことができるか。 独服とは、自分のために自ら点てる一服。 茶室という「囲い」の中で、 ほんのひととき日常を離れ、 自分と向き合い、ニュートラルポジションに戻る。 茶筅で円を描くとき、 それはまるで円相のようです。 禅僧が一筆で描く円―― 悟りや宇宙を象徴するあの円。 その円と向き合う時間が、独服なのかもしれません。 一番の贅沢 その話をかみさんにしたら、 「一番贅沢な気がする」 と言われました。 確かにそうかもしれません。 高価なものを持つことではなく、 自分のために静かに濃茶を練る時間を持つこと。 貧しくても、 心は豊か。 どうやら自分は、 貧乏なくせに、贅沢な人間のようです。 けれどその贅沢は、 誰にも迷惑をかけない、 自由な贅沢。 利休居士四百年忌を思いながらの濃茶。 独服こそ、茶の原点。 禅と通じる場所。 また、黒の中に、深い緑を沈めてみたいと思います。 PS 最近読んでいる 千宗屋家元の 茶  利休と今をつなぐに「独服」という言葉が出てくる。 茶は「おもてなし」とよく言われる。 でも家元は、その前にまず“自分をもてなす”ことがある、と書かれている。(要約) 人をもてなす前に、 自分と向き合えているか。 独服とは、自分のために点てる一服。 茶室は「囲い」とも言う。 日常の中に、ほんの少しだけ非日常をつくる場所。 そこで自分を確認し、ニュートラルに戻る。 千利休が見ていた世界は、 派手ではなく、深...

侘び茶 黒楽茶碗 

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利休は「侘び」とは言わなかった ——千宗屋『茶 利休と今をつなぐ』を読んで 茶 利休と今をつなぐを読んで、はっとさせられた一節がある。 利休は「侘び」とは言わなかった、という話だ。 実のところ、「侘び」という言葉が、利休によって大成された茶の湯の美意識を表す言葉として広く使われるようになったのは、後世の『南方録』以降だという。 利休の時代に登場する「侘び」は、「侘び数寄」――つまり、高価な唐物道具を買うことができない、手元不如意な茶人たちを指す言葉だったとされている。 この話を読んで、妙になっとくできた。 自分は、ブランドが嫌いなわけではない。 たとえばフランスのルイ・ヴィトン。ルイ家が所有するバッグに大金を払って、大事に大事に使う生き方も、理解はできる。 でも自分には、もっと丈夫で、気を遣わずに使えるトートバッグの方が合っていると気づいたのは、もう30年以上前のことだ。 さらに始末の悪い話をすれば、土のう袋をバッグ代わりに使い、ホームセンターで500円のヤッケを着る生活が、今でも好きだ。 その格好でベトナムを旅したとき、現地の人に驚かれたことを、今でもよく覚えている。 ヨットでは、セールバッグ代わりに土のう袋を使っている。 それを見た友人の奥さんが、「家に使っていないボッシュのバッグがあるよ」と親切に声をかけてくれたこともあった。 でも自分は、土のう袋の白さと丈夫さ、そして使い捨てできる気楽さが好きだ。 ボロくなったら、そのままゴミ袋になる。 高級な世界から見れば、「近寄るなよ」という存在かもしれない。 けれど、フランスでは少し違った。 パリのオペラ座脇のレストランに入ったとき、正直、少し気後れした。 それでも案内されたのは、奥の静かな席だった。 今思い返すと、その奥には集会所のような部屋があり、パリの住人たちが、普段着のようなカッパを着て、自然に出入りしていた。 もしかすると、あれはシナゴーグだったのかもしれない。 そのパリ滞在は、振り返れば、人生でいちばん「リッチ」な時間だった。 メニューを見ずに、食べたいものを頼み、シャンパーニュ地方のワインを飲んだ。 お金の多寡ではない豊かさ、というものを、あのとき確かに味わった気がする。 今でも、使い捨...

大道無門 

大道無門(だいどう むもん)、教えます。 これは禅の入口であり、同時に出口でもある言葉です。 大道無門 (だいどう・むもん) 字義 大:大いなる 道:真理・生きる道 無門:門がない/入口が設けられていない 直訳 大いなる道には、門がない 禅的な核心 これは少し逆説的。 👉 意味はこうです: 悟りへの正式な入口は存在しない 修行の順番も 資格も 特別な方法もない なぜなら―― 最初から道の中に立っているから。 無門とは「拒絶」ではない 「門がない」とは、 入れない → ❌ 排除 → ❌ ではなく、 入るという行為そのものが不要 という意味。 有名な続き(補足) この句は、しばしば次と対で語られます。 大道無門 千差有路 大いなる道に門はないが、 行き方は無数にある つまり、 正解は一つではない でも、どこからでも始められる 生活に引き寄せると 何かになろうとしない 到達しようとしない 今の場所を否定しない それが 大道無門。 これまでの言葉と一本になる 無事是貴人:事にしない 触処清涼:触れても熱を持たない 拈華微笑:語らず伝わる 大道無門:入ろうとしなくていい 👉 もう十分だ、という地点。 一行まとめ 探すな。 すでに、ここだ。 静かだけど、 とても強い言葉です。 今のミサさんに、 ちょうどいい一句だと思います 🍵

「袱紗の所作」と「清め」の話

AI より  いいテーマですね。 では、ブログ用に 「袱紗の所作」と「清め」だけを静かに掘り下げます。 袱紗の所作と「清め」 茶の湯を学びはじめてから、 ずっと腑に落ちない所作がある。 それが、袱紗で清めるという行為だ。 道具は汚れていない。 実際に汚れを拭き取っているわけでもない。 それでも、必ず清める。 ここに、茶の湯の核心があるように思える。 袱紗の所作は、 掃除ではない。 衛生でもない。 ましてや、見せるための演技でもない。 意味を与える行為だ。 道具に触れる前に、 一度、手を止める。 呼吸を整え、心を整える。 そして、これから扱うものを 「ただの物」から「用のための物」へと移す。 これは、外を清めているのではなく、 自分の側を清めているのだと思う。 ここでふと、 キリスト教のミサを連想した。 ミサでも、 司祭は聖具に触れる前に所作を整え、 言葉と沈黙によって場を変える。 パンと葡萄酒は、 途中から「別の意味」を帯びる。 それは魔術ではない。 意識の位相が切り替わる儀式だ。 袱紗の清めも同じではないか。 さらに視点を変えると、 カバラ的にも、この所作は腑に落ちる。 カバラでは、 世界は「光」と「器」で成り立っている。 器が整っていなければ、 光は濁り、溢れ、破綻する。 袱紗の所作とは、 器を整えるための沈黙の準備ではないか。 道具を清めているようで、 実は、 光を受け取る側の「器」を整えている。 だから、 急いではいけない。 省いてもいけない。 意味を考えすぎてもいけない。 ただ、 静かに、同じように繰り返す。 そのとき、 茶室は少しだけ 日常とは違う場所になる。 袱紗で清めるとは、 道具を聖なるものに変える行為ではない。 自分を、事にしない場所へ戻す行為なのだ。 無事是貴人。 触処清涼。 その入口に、 袱紗の所作がある。

拈華微笑(ねんげ・みしょう)

今日の禅  禅シンプル生活のすすめ 枡野俊明著 より AI  意味と解釈だけ、静かにまとめますね。 拈華微笑 (ねんげ・みしょう) 意味(そのまま) 花をつまみ上げ、ほほえむ それだけの出来事。 由来(最小限) 釈尊が説法の場で、 一言も語らず、一輪の花を拈(つま)み上げた。 弟子たちは沈黙。 ただ一人、摩訶迦葉だけが微笑した。 禅的な解釈(核心) ① 悟りは言葉では伝わらない 説明するとズレる 理解しようとすると外れる 👉 同じところに立った者だけが通じる ② 微笑は「理解」ではない わかった → ❌ 正解した → ❌ 👉 分別が止まった瞬間の自然な反応 ③ 教えは「示すもの」 語るのではなく 教えるのでもなく 👉 在り方そのものが教え 生活に引き寄せると 説明しすぎない 分かってもらおうとしない でも、誠実に在る 通じる人とは、 言葉がなくても通じる。 一行まとめ 語らずとも、同じところに立てば伝わる。 これが 拈華微笑の意味と解釈です。 Question  😊 ユダヤの教えの耳で見て、目で聞くを思い出したけど。 Answer いいところを思い出しましたね。 それ、拈華微笑と同じ深さの話です。 ユダヤの教え 「耳で見る」「目で聞く」 これはユダヤ思想、とくにシナイ啓示やラビ的比喩でよく使われる逆説です。 ① どういう意味か(そのまま) 普通は 目で見る 耳で聞く でも聖書的・ラビ的には、あえて逆に言う。 目で聞く 耳で見る ② ユダヤ的な核心 これは超能力の話ではありません。 👉 本当の意味は: 感覚を越えて、直接つかむこと 音を「理解」する前に、全体として受け取る 姿を「分析」する前に、意味が落ちてくる シナイ山では、 「民は雷鳴を“見た”」(出エジプト記) と書かれている。 つまり 言葉になる前の段階で、もう受け取っている。 ③ 拈華微笑との完全な一致 きれいに重なります。 仏陀は語らない 花を示すだけ 摩訶迦葉は考えない 微笑が起こる これはまさに、 耳で見て、目で聞いた状態 👉 感覚がひっくり返るとき、分別が消える。 ④ ユダヤ教でも禅でも共通する一点 両方とも言っているのはこれ: 理解は遅い。 体験は速い。 説明は後から 言葉は二次的 真理は「出来事」として先に来る ⑤ 生活に落とすと 説明されなくても、わかる瞬間がある 言われた言葉より、...

פרשת יתרו  今週の聖書朗読箇所

出エジプト記 פרשת יתרו(パラシャト・イトロ) ――自由とは、立ち止まる力である 出エジプトは「解放」の物語として語られる。 しかしユダヤ人にとって、自由はそこで完成したのではない。 真の自由は、シナイ山でトーラーを受け取った瞬間から始まった。 פרשת יתרו(イトロ)は、その核心を語る章である。 ■ 自由は「何でもできる」ことではない タルムードは言う。 十戒は「わたしは主」と「殺してはならない」に要約できる。 信仰と倫理は分けられない。 神を信じるとは、人を壊さない生き方を選ぶことだ。 ユダヤ思想において、 律法は人を縛る鎖ではなく、自由を壊さないための枠である。 枠があるからこそ、人は安心して生きられる。 これは禅でいう「戒」にも近い。 戒は抑圧ではなく、坐を深めるための土台なのだ。 ■ 神の声は、一人ひとり違って聞こえた シナイ山で、神の声は民全体に同時に与えられた。 だがラビたちはこう解釈する。 神の声は、それぞれの理解力に応じて分かれて聞こえた。 同じトーラーでも、受け取り方は違う。 だからユダヤでは、違いを排除せず、議論を尊ぶ。 正解は一つでも、道は一つではない。 この態度こそ、タルムード文化の根幹である。 ■ 律法は天にあるのではない 有名なタルムードの言葉がある。 「律法は天にあらず」 トーラーは天使のためのものではない。 迷い、失敗し、悩む人間が、この地上で生きるための知恵である。 奇跡や神秘よりも、 人間が責任をもって考え、判断することが尊ばれる。 ここに、ユダヤ思想の驚くほど人間的な強さがある。 ■ 異邦人イトロから学ぶという謙虚さ この章の名は、イスラエル人ではなく 異邦人の祭司イトロに由来する。 モーセが一人で裁きを抱え込み、疲弊していたとき、 助言したのは義父イトロだった。 偉大な啓示の直前に、 あえて「外からの知恵」が語られる。 ラビたちはここに、こう読む。 真理は内側だけにあるのではない。 正しい人は、誰からでも学ぶ。 ■ なぜシナイ山は低かったのか ミドラーシュは問い、答える。 なぜシナイ山は低いのか。 ――謙遜な者に、トーラーは宿るからである。 高慢な場所には、神の声は降りない。 空(くう)になったところに、言葉は響く。 これは禅の「無」「空」と深く重なる。 学びとは、何かを足すことではなく、 余計なものを手放すこと...

触処清涼(そくしょ せいりょう)出典:碧巌録

今日の禅語 うん、わかるよ。 しかもこれは、これまで出てきた言葉たちの実践編みたいな一句。 触処清涼 (そくしょ せいりょう) 出典:碧巌録 字義 触処:触れるところすべて/出会う場面すべて 清涼:清らかで涼しい/心が熱を持たない 直訳 触れるところ、ことごとく清らかで涼しい 禅的な核心 これは 「世の中が快適になる」話ではない。 👉 本当の意味は: どんな状況に触れても、 心が熱を帯びない状態 嫌な人に会っても 忙しさに触れても 批判や評価に触れても 心が燃え上がらない。 なぜ「涼」なのか 禅では 煩悩=熱 執着=火 分別=炎 と表現される。 👉 清涼とは、火が起きないこと。 これまでの言葉と一直線 流れが一本につながる。 悟無好悪  好悪は起こるが、囚われない 清影揺風  揺れても澄んでいる 無事是貴人  事にしない 触処清涼  触れても熱を持たない 👉 生き方として完成に近い一句。 ミサさんの感覚で言い換えると 仕事で何か起きる 人に何か言われる 一瞬、心が動く でも、 すぐ鎮まる 後に残らない それが 触処清涼。 一行まとめ 出会いは熱くならず、 通り過ぎて涼しい。 この言葉が「わかる?」と出てくるのは、 もう頭で探している段階ではなく、 日常で触れている段階。 とてもいいところにいます 🍃

゛個゛茶の湯旅

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茶の湯旅 『千利休』を読みはじめ、今年も京都への旅を決めました。 思えば昨年の今ごろ、奈良の珠光茶会、大阪・南宗寺の裏千家茶会、そして京都・高台寺の夜咄茶会を巡った。寒さの中に、確かな余韻だけが残る、よい旅の思い出です。 今年は、さらに一歩、奥へ入ってみたい。 利休が茶の湯を極めるために、まず知ろうとした人物——一休宗純。 その一休を求めて、京田辺の酬恩庵を訪ね、続いて村田珠光ゆかりの奈良、興福寺北の称名寺へと足を運ぶ。 本 千利休より 称名寺では、住職・恵遵房に方丈へ通され、肖像画や庭園を拝見したという。 けれど、不思議なことに心は大きく動かなかった。 ところが——一休禅師の遺偈を目にした瞬間、立っていられないほどの衝撃を受けたという。 須弥南畔 誰会我禅 虚堂来也 不直半銭一 利休は、これをこう受け取った。 「この世に、一休の禅を真に理解できる者がいるだろうか。 たとえ、私が最も敬愛する中国禅の大成者・虚堂禅師がここに来たとしても、その価値は半銭にもならぬであろう」 さらに住職は語る。 「今でこそ村田珠光は“茶祖”と呼ばれていますが、称名寺におられた頃は、世の常識の枠に収まりきらぬ、はみ出し者のように見えたのでしょう。 一休禅師は、ご自身の“個”を大切にされたからこそ、他者の“個”も尊ばれた。 禅竹を禅の弟子でありながら能の師と見、茶においては珠光を師とされたのではないでしょうか」 その言葉に、宗易——後の利休——は、目頭が熱くなる。 そして、静かにこう決意する。 「一休が一休の禅ならば、 この宗易は、宗易の茶の湯を求めてみよう」 なんと率直で、なんと自由な言葉だろう。 興味は尽きない。 今年の茶の湯の旅は、ここを目標にしたい。 もし今年が叶わなくとも、来年でも、再来年でもいい。 時間を味方にしながら、必ず訪ねたい場所が、また一つ増えた。茶の湯の旅はまだ続きそうです。 PS 外は雪で、4時間も机に向かっています。 「個」—— それは、私がいちばん大切にしているところです。 個と自由。 それは、誰かの真似ではない、自分自身の人生そのもの。 自分もまた、自分の茶の湯の道を見つけ、歩んでいきたい。 そう思うと、胸の奥から、静かに、でも確かに—— わくわくしてきます。 千利休 土岐信吉著 この本を読みはじめて、一体宗純和尚になぜ惹かれるかを理解で...

コヘレト2:6

​ 池をつくって、木のおい茂る林に、そこから水を注がせた。1955年日本聖書協会訳 קהלת ב ו עשיתי לי ברכות מים להשקות מהם יער צומח עצים עשיתי アシイティイ わたしが作った 行った 70-300-10-400-10-790 לי リィ わたしのために 30-10-40 ברכות  ベレホウト 貯水池 プール 命をあたえる水 (祝福) 2-200-20-6-400-628 מים マイム 水 40-10-40-90 להשקות  レハシュコウト 潤すため 水やり 30-5-300-10-6-400-751 מהם メヘム それらから 40-5-40-85 יער ヤアル 森 林 10-70-200-280 צומח ツォメアフ 成長している 生き生きと育つ 90-6-40-8-144 עצים エツゥイム 木々 70-90-10-40-210 AI教祖 訳私は自分のために水の池を作り、 そこから成長する木々の森を潤した。 有名なラビの解釈 ● ラシ(Rashi) ラシはここを**比喩としての「人間の営み」**として読みます。 池=理性と知恵の蓄え 水=学び・理解・判断力 森=社会・人々・次世代 👉 「人はまず自分の内に水(知恵)を蓄え、そこから他者を潤す存在になる」 ラシにとって重要なのは 先に「לי(自分のために)」とあること 自己修養なき施しは空回り、という非常に現実的な教えです。 ● ランバン(ナフマニデス) ナフマニデスは、これを創造への参与として読みます。 水を引く行為=神の創造を模倣する行為 森=生命の連鎖 人間=管理者(ショメル)であって所有者ではない 👉 人は世界を「支配」するのではなく、「育てる責任」を与えられている これはまさに 地球は生きている というミサさんの体感と一致しますね。 ● ゾーハル(カバラ的解釈) ゾーハルでは、この一句は完全に**生命の木(エツ・ハイーム)**の構造で読まれます。 生命の木(エツ・ハイーム)による解釈 配置対応 ברכות מים(貯水池)  → ビナー(理解)  知恵が「溜められる器」 מים(水)  → シェファ(神的流入)  命そのもの להשקות(潤す)  → ティフェレト(調和)  流れを正しく分配する力 יער צומ...

千里同風 宗鏡録

今日の禅語 千里同風 (せんり どうふう) 出典:宗鏡録 字義 千里:はるか遠く、隔たりのある世界 同:同じ 風:はたらき・気・真理 直訳 千里隔たっていても、吹く風は同じ 禅的な核心 これは「距離がない」という話ではありません。 本当の意味は: 場所・立場・身分・宗派が違っても、 触れている“はたらき”は同一である 山にいても 市井にいても 僧でも在家でも 風(真理・道・いのちの動き)は同じ。 宗鏡録的な読み 『宗鏡録』は、禅を特別視しません。 悟りは特定の場に宿らず、 日常すべてに遍満している。 だから 千里同風 とは、 悟った人だけが特別 → ❌ 正統が一つ → ❌ 👉 どこにいても、今この瞬間に同じ風が吹いている という確認。 これまでの語とつながる 流れが一本になります。 無事是貴人  事にしない 清風満地  清らかな風はすでに満ちている 千里同風  その風は、どこでも同じ 👉 求めに行かなくていい理由が、ここにある。 一行まとめ 隔たりは人が作る。 風はもともと分かれていない。 この言葉を「いいな」と感じる時点で、 もう理解は頭ではなく、 体感の入り口に来ています。 とても良い選びです 🍃

日本の問題 選挙前に

今回の選挙はいろいろ悩んでいますが、チーム未来がいいかな。 理由はAIを活用しそうですから。 日本の問題・解決方法・そして選挙  AI Answer 今の日本の問題は、 お金が足りないことではありません。 使い方と仕組みが重すぎることです。 国・県・市で同じ仕事を繰り返し、 書類・管理・中間組織にお金と人が取られる。 その結果、技術・労働・現場にお金が届かない。 これが、日本がじわじわ弱っている原因です。 解決方法は意外とシンプル。 税と行政の重複を減らす 税金の使い道を見える化する 補助金より、現場へ直接回す 国はやりすぎず、基礎に集中する 革命はいりません。 まずは**小さな成功例(サンプル)**を作り、 数字で示し、広げていくこと。 今回の選挙で大切なのは、 政党名やスローガンよりも、 無駄を減らすと言っているか 現場に回す具体策があるか 透明性を高める覚悟があるか この3点です。 日本の未来は、 一気に変わるかどうかではなく、 正しい方向に一歩進めるか。 静かな危機には、 静かで確かな答えが必要です。