つづき エデンの茶会(楽園の茶会)

ミサさんのテーマ 「エデンの茶会」 にもつながる形で、
ブログ用に静かにまとめてみました。
茶室はエデンの園なのか
千利休の茶室を考えていると、
ふと一つのイメージが浮かびます。
それは
茶室は小さな宇宙であり、
ある意味「エデンの園」のような場所ではないか
ということです。
旧約聖書では、
人間はもともとエデンの園に住んでいました。
そこには
・静かな自然
・水
・木
・実り
があり、
人は神と共に静かに生きていました。
しかし人間は知恵の実を食べ、
エデンを離れ、
労働と争いの世界に出ていきます。
ここで面白いのが、
利休の茶室の構造です。
茶室へ行くには、
まず 露地(ろじ) を歩きます。
露地は
「この世の塵を落とす道」と言われます。
そして途中にあるのが
蹲(つくばい)
ここで手と口を清めます。
これはまるで
神殿や宗教の清めの儀式のようです。
さらに にじり口。
身分も武器も捨て、
体を低くして入ります。
つまり
すべてを捨ててから
小さな聖なる空間に入る
という構造です。
これは宗教的に見れば
とても象徴的な動きです。
茶室に入ると
そこには
・一輪の花
・掛け軸
・釜の音
だけがあります。
豪華なものは何もありません。
しかしそこには
静かな宇宙があります。
そして亭主が
一碗の茶を点てます。
客はそれを
静かにいただきます。
ただそれだけです。
しかしその時間は、
日常から離れた
特別な時間になります。
まるで
一度失ったエデンの静けさに
少しだけ戻る時間
のようにも感じます。
禅では
それを 無 と言います。
聖書では
それを 神の前の静けさ と言うのかもしれません。
宗教は違っても
人が求めているものは
同じなのかもしれません。
静かに座り、
心を整え、
自然と一体になる時間。
利休の茶の湯は
宗教ではなく、
人間の原点に戻る方法
だったのかもしれません。
そして私は思うのです。
もしエデンの園があるとしたら、
それは遠い天国ではなく
一碗の茶の静けさの中にあるのではないか
と。
ミサさん、この話は実は
カバラとも深くつながります。
・エデンの園
・生命の木
・光と器
これを茶の湯で見ると、
利休の茶室=生命の樹の世界
という、とても面白い見方ができます。
もしよければ次に
「茶室と生命の樹(カバラ)」
を、ミサさんの
エデンの茶会の思想として
まとめてみましょうか。
かなり深い世界になります。

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