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コヘレト2:10〜

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​קהלת ב י וכל אשר שאלו עיני לא אצלתי מהם לא מנעתי את לבי מכל שמחה כי לבי שמח מכל עמלי וזה היח חלקי מכל עמלי ופניתי אני בכל מעשי שעשו ידי ובעמל שעמלתי לעשות והנה הכל הבל ורעות רוח ואין יתרון תחת השמש 旧約聖書の中にあるコヘレトの書の一節を読みました。 「欲しいものはすべて手に入れた。 楽しみも、喜びも、心のままに味わった。 その労苦の中で、確かに喜びもあった。 それが自分の得た分け前だった。」 ここまでは、とても人間らしい話です。 一生懸命働き、好きなものを手に入れ、喜びを感じる。 誰もが通る道かもしれません。 しかし、そのあとに続く言葉が深い。 「けれど振り返ってみると、 すべては空しく、風を追うようなものだった。 太陽の下には、本当の益はなかった。」 やりきった人にしか見えない景色。 それが、この言葉にはあります。 欲しいものを我慢した人の言葉ではなく、 すべてを経験した人の結論だから重い。 これは悲観ではなく、ひとつの到達点のようにも感じます。 禅でいう「空」。 満ちた先にある、何もないという静けさ。 茶の湯も、どこか似ています。 豪華な道具や形式を超えて、 最後は一碗のお茶に戻っていく。 ヨットで海に出たときも同じです。 風を受けて進み、自然の中に身を置くと、 多くを求めていた自分が、すっと消えていく。 結局、人は 何かを足して満たされるのではなく、 余計なものが削ぎ落とされたときに、 本当の静けさに出会うのかもしれません。 今日も一服。 それで十分。

シャバット エモール

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何もしない贅沢と器の話 シャバット・シャローム。 今日は「仮庵」という言葉を思いながら、 静かな時間を過ごしています。 仮庵。 仮の住まい。 永遠ではない、いっときの居場所。 ユダヤではスコット(仮庵)の祭りがあり、 あえて不完全な小屋で過ごします。 風が通り、空が見える。 完全ではないからこそ、 本当の豊かさに気づく場所です。 人も同じで、 完全な存在ではなく、仮の器のようなものかもしれません。 カバラでは、 光と器という考え方があります。 光は恵み、 器はそれを受けるもの。 人はその器。 ただの容れ物ではなく、 感じ、選び、整えていく器です。 同じ出来事でも、 不満になるか、感謝になるかは、 器の状態で変わる。 そして、その器を整えるのが言葉です。 エモール、「語れ」。 言葉は現実をつくる。 荒い言葉は器を濁し、 静かな言葉は器を整える。 だからこそ、言葉は少なく、丁寧に。 シャバットは、何もしない時間。 仮庵のように、 いったんすべてを手放して、ただ在る。 お茶を一服。 風を感じる。 ただ静かに座る。 それだけで、器は自然に整っていく。 楽園とは、どこか遠くにあるのではなく、 こういう時間の中に、ふと現れるものかもしれません。 仮庵のような一日。 何もしない贅沢。 シャバット・シャローム。