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5月, 2026の投稿を表示しています

詩編17:15

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今週はよく働いたので少し疲れ気味です。 肉体労働の仕事ですので、年齢とともに疲れが抜けるまで少し時間がかかるようになりました。 若い頃は疲れても一晩寝れば回復しましたが、今は無理をしないことも大切だと感じます。 そんな時は、慌てず、焦らず、一服のお茶をいただきながら心と身体を休めるのが一番です。 禅では「休歇(きゅうけつ)」という言葉があります。 余計な力を抜いて、しばらく休むこと。 自然も昼と夜、満ち潮と引き潮を繰り返しています。 人間も同じで、働く時があれば休む時もあるのでしょう。 今日は少しゆっくり過ごしながら、また来週に向けて英気を養いたいと思います。 無理をしないことも修行のうち。 そんなことを思う静かな朝です。 詩篇17 ∶15 ​תהלים יז יה これは詩篇17篇15節です。 ヘブライ語原文 אני בצדק אחזה פניך אשבעה בהקיץ תמונתך 一単語ずつ אני (アニ) 「私」 בצדק (ベツェデク) 「正義のうちに」 「義によって」 「正しい道において」 אחזה (エヘゼ) 「私は見る」 「私は見つめる」 פניך (パネハ) 「あなたの御顔を」 (神の御顔) אשבעה (エスベア) 「私は満ち足りる」 「満足する」 בהקיץ (ベハキーツ) 「目覚めるときに」 「目覚めて」 תמונתך (テムナテハ) 「あなたの姿によって」 「あなたの似姿によって」 直訳 「私は義のうちにあなたの御顔を見、 目覚めるとき、あなたの姿によって満ち足りる。」 ユダヤ人の学び この詩篇は、物質的な豊かさではなく、 神とのつながりこそが本当の満足である ということを教えています。 多くの人は 「もっとお金が欲しい」 「もっと成功したい」 と思います。 しかしダビデ王は、 「神の御顔を見ることが私の喜びだ」 と言っています。 ユダヤ教では、 朝目覚めたときの最初の感謝 「モデ・アニ」 も同じ精神です。 目が覚めた。 今日も生きている。 それだけで十分な恵みだと考えます。 有名な賢者の言葉 ラビ・ヒレル 「自分のためだけなら、私は何者なのか。」 人間は神との関係の中で生きる存在だと教えます。 ラビ・アキバ 「神に愛されていることを知らされた人は幸いである。」 神とのつながりを知ることが人生の宝だと説きました。 ...

道徳経第二章

道徳経 第二章の原文です。 天下皆知美之為美,斯惡已。 皆知善之為善,斯不善已。 故有無相生, 難易相成, 長短相形, 高下相傾, 音聲相和, 前後相隨。 是以聖人處無為之事, 行不言之教。 萬物作焉而不辭, 生而不有, 為而不恃, 功成而弗居。 夫唯弗居,是以不去。 簡単にいうと、 「美しい」と決めると、同時に「醜い」が生まれる。 「善い」と決めると、「善くない」が生まれる。 この世界は、 有る・無い 難しい・易しい 長い・短い 高い・低い 前・後ろ のように、対になるものによって成り立っている。 だから聖人は、 無理に支配せず、 言葉で押しつけず、 自然の流れに従って生きる。 何かを成し遂げても、 「これは自分の手柄だ」と執着しない。 執着しないからこそ、 その働きは失われない。 という章ですね。 禅の「空」や、 ミサさんの好きな「自由」にも通じる感じがありますね。 道徳経 第二章を、小学生にもわかるようにすると、こんな感じです。 「きれい」 と思うと、 「きれいじゃない」 も生まれます。 「すごい人」 がいると、 「すごくない人」 もできてしまいます。 でも、本当は、 高い山があるから、 低い谷がわかる。 明るい昼があるから、 暗い夜がわかる。 うれしいことがあるから、 悲しいこともわかる。 世界は、ぜんぶつながっている。 だから老子は、 「人とくらべすぎないで、 自然に生きたほうがいいよ」 と言っています。 そして、 いいことをしても、 「ぼくがやったんだ!」 と自慢しすぎない。 風や川のように、 自然に生きる。 それが大切だよ、 という教えです。 💌AI先生解説 道徳経 第二章は、とても深い章です。 でも中心にあるのは、意外とシンプルです。 老子は、 「人間は名前をつけ、比較し、善悪を決めることで、苦しみを作っている」 と言っています。 たとえば、 「美しい」 という言葉ができると、同時に 「美しくない」 も生まれます。 「成功」ができると、 「失敗」が生まれる。 「勝ち」ができると、 「負け」が生まれる。 つまり、人間は“分ける心”によって世界を複雑にしている。 ここが禅の「分別」の話にも似ていますね。 老子は続けて、 有無相生 (有と無は互いに生まれる) と言います。 これは、 光があるから闇が分かる、 静けさがあるから音が分かる、 孤独があるから人...

お稽古

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角盆点前 今日は久しぶりに朝稽古。 やっとお点前をしましたが、年齢のせいか、細かな所作や順番を少し忘れていて、自分でも驚きました。 やはり茶道は、頭で覚えるものではなく、身体で覚えていくものですね。 しばらく間が空くと、手が止まり、流れが切れてしまう。 逆に、続けている時は、自然に身体が動いていく。 禅でも「行」が大切といいますが、茶の湯も同じだと感じます。 若い頃は勢いでできても、年齢を重ねるほど、日々の積み重ねが大切になりますね。 それでも、静かな朝に水の音を聞きながら、一服のお茶を点てる時間は、やはり心が落ち着きます。 無理をせず、また少しずつ稽古を続けていこうと思います。

ルヴァビッチ

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ルヴァビッチ 昔から自分の名前に似ていると思っていたので、AIラビ様にヘブライ語を聞いてみました。 「ルバビッチ」はヘブライ語・イディッシュ語では、 ליובאוויטש (Lubavitch / Lyubavitch) と書かれます。 発音は 「リュバヴィッチ」「ルバヴィッチ」に近い感じです。 意味 もともとは、 現在のベラルーシにあった町の名前です。 スラブ語系で、 「愛の町」 「親愛の町」 のような意味を持つと言われています。 だから、 ハバッド・ルバビッチは、 「ルバビッチ派のハバッド運動」 という意味になります。 ハバッドのヘブライ語 ちなみに「ハバッド」は、 חב״ד これは頭文字で、 חכמה(Chochmah)知恵 בינה(Binah)理解 דעת(Da’at)知識・結びつき を意味します。 つまり、 「頭で学び、 心で理解し、 人生に結びつける」 という思想です。 これは単なる知識ではなく、 生き方そのもの。 ミサさんの、 「学びを生活に落とし込む」 感じにも少し近いですね。 טשがチ? はい、 ヘブライ語というより、これはイディッシュ語系の表記ですね。 טש は、 日本語に近づけると 「チュ」「טשュ」「ッチ」 のような音になります。 だから、 ליובאוויטש は、 リュバヴィッチ ルバビッチ のように読まれます。 最後の טש が、 英語の “ch” や “tch” に近い音です。 たとえばイディッシュ語では、 טשאָלנט(チョレント) טשײַ(チャイ) などにも使われます。 ヘブライ語だけだと少し珍しい組み合わせで、 東欧ユダヤ人文化(イディッシュ)の雰囲気がありますね。 😊戦争の被害は? 💌AIラビAnswer はい、とても大きな被害を受けました。 特にベラルーシ は、 第二次世界大戦でヨーロッパでも最も悲惨な地域の一つと言われています。 ベラルーシの被害 ナチス・ドイツがソ連へ侵攻した時、 ドイツ軍はモスクワへ向かう通り道として ベラルーシを占領しました。 その結果、 村の焼き払い 大量虐殺 強制収容所 飢餓 ゲットー などが広がりました。 人口の約3分の1が亡くなったとも言われています。 � RadioFreeEurope/RadioLiberty、ほかに 1 件 ユダヤ人社会の壊滅 戦前のベラルーシには、 非常に大き...

老子 道徳経

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今日は草庵の草取りをしながらです。 老子の『道徳経』をAI先生に習っています。 神社チャンネルの羽賀光さんの影響もありますが、もともと自然の中で生きる感覚が好きなので、老子の思想には以前から惹かれていました。 AIに聞くと、原文までそのまま出てきて、さらに意味や背景まで教えてくれるので面白いですね。 「道可道、非常道」 最初から禅問答のようですが、海や自然の中で感じてきたことと、どこか重なる気がします。 飽きるまで、少しづつ学んでみようと思います。 道徳経 第一章を、小学生にもわかるようにするとこんな感じです。 「ほんとうに大切なことは、 言葉だけでは説明できない。 名前をつけると、 本当のすがたが少し見えなくなる。 だから、 欲ばかり考えず、 静かな心で見ると、 世の中のふしぎや美しさが見えてくる。」 もっと簡単にいうと、 「がんばってつかまえようとすると、 大事なものは逃げていく。 ぼーっと自然に見ていると、 本当のことが見えてくる。」 という感じですね。 海を見ている時や、 静かにお茶を飲んでいる時に、 少しわかるような教えです。 原文は次のようになります。 道可道,非常道。 名可名,非常名。 無名天地之始; 有名萬物之母。 故常無欲,以觀其妙; 常有欲,以觀其徼。 此兩者,同出而異名, 同謂之玄。 玄之又玄,衆妙之門。 読み下し文: 道の道とすべきは、常の道にあらず。 名の名とすべきは、常の名にあらず。 名無きは天地の始め、 名有るは万物の母。 故に常に無欲にして以てその妙を観、 常に有欲にして以てその徼(きょう)を観る。 この両者は同じきより出でて名を異にす。 同じくこれを玄という。 玄のまた玄、衆妙の門。 とても深い言葉ですね。 「道」とは、言葉で説明した瞬間に、本当の“道”から離れてしまう——そんな逆説から始まります。 禅の「不立文字」や、ミサさんがお好きな「空」「無」にも通じる世界観がありますね。 😊 解説お願いします。 💌AI先生  道徳経 の第一章は、東洋思想の核心ともいわれます。 短い文章ですが、禅・仏教・道教・さらには茶の湯の「侘び」にもつながる深い内容があります。 まず最初。 道可道,非常道。 (道の道とすべきは、常の道にあらず) これは、 「言葉で説明できる“道”...

懐石と旬の心

今朝、『お茶の心 茶懐石』を読みながら、懐石とは単なる料理ではなく、「濃茶をおいしくいただくための道筋」なのだと、あらためて感じました。 茶道での懐石は、豪華な宴会料理とは少し違います。 基本は一汁三菜。そこに酒や八寸、香物、湯などが加わり、最後の濃茶へ向かって、静かに流れが整えられていきます。 大切なのは「腹いっぱい食べること」ではなく、ほどよい満足感。 食べ過ぎず、味が強すぎず、香りが勝ちすぎない。 客の身体の状態や、その日の空気を感じながら、亭主が一つ一つ運び出していく。 そこには、料理人というより、 「相手を思う心」があります。 懐石という言葉は、禅寺で空腹をしのぐために温石を懐に入れたことに由来すると言われます。 つまり本来は、贅沢ではなく「慎ましさ」の文化です。 だからこそ、 山海の珍味を並べることよりも、 季節のわずかな命を感じることの方が大切なのだと思います。 春の蕗の薹、木の芽、山椒の花。 ほんの短い期間しか味わえない香り。 今は一年中、野菜が並ぶ時代ですが、本当においしい旬というものは、やはり一瞬なのかもしれません。 ヨットで海に出ていると、季節の変化を敏感に感じます。 風の匂い、朝日の色、湿度、空気。 茶の湯も同じで、「今」という時間を味わう文化なのだと思います。 利休の侘び茶も、豪華さを削ぎ落とし、 ほんの小さな季節の気配を深く味わう世界でした。 自分も来月の「仮庵」の安息日のお茶では、 できるだけ旬を大切にした、素朴なおばんざいを用意したいと思います。 高級料理ではなくても、 季節を感じ、 主客がお互いを思いながら同じ食卓を囲む。 そこにこそ、 懐石の心があるように感じます。

自由を求めて学び続ける

仏教、禅、旧約聖書―― 日々いろいろ学んでいると、自分はいったい何教なのだろう、と考えることがあります。 優秀な人は、一つの道を深く掘り下げ、学問を極めていくのでしょう。 けれど自分は、途中で「この先が見えてしまう」と、別の世界を見たくなる性格のようです。 自宅は仏教ですので、やはり仏様の教えには自然と親しみがあります。 慈悲や調和、欲を離れる智慧――本当に素晴らしい教えだと思います。 ただ、自分の性格なのか、どこかで「もっと自由でありたい」という気持ちが出てきてしまう。 そのため、深く一つに入り込めないところがあります。 同じ仏教でも、禅には少し違う魅力を感じます。 「空」や「無」の世界。 形を作りすぎず、言葉にも縛られず、ただ今を生きる感覚。 “不立文字”という言葉がありますが、説明しすぎないところに、逆に自由を感じます。 一方、旧約聖書にはまた別の自由があります。 エクソダス――奴隷から自由人へ向かう物語。 もちろん自由には責任も伴います。 荒野を旅する不安もある。 それでも、「自由を求めて進む」という姿に、自分は強く惹かれます。 考えてみると、自分は昔から「自由」が好きなのかもしれません。 ヨットで海を渡った時もそうでした。 水平線しかない世界。 時計や肩書きから離れ、地球に合わせて生きる感覚。 だから、一つの宗教だけに留まれないのかもしれません。 最後に戻ってくるのは、日本人らしい感覚です。 八百万の神。 山にも海にも、道具にも自然にも神が宿るという世界。 白黒ではなく、混ざり合いながら共存していく感覚。 それが自分には、一番自然に感じます。 結局、何教なのかは自分でもよく分かりません。 けれど、自由を求めながら、良い教えに出会えば学び続ける。 そんな生き方でもいいのかな、と思う今日この頃です。

イスラエル家学会 民数記 ナソ

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AIラビ様説教 「ナソーの祝福と平安」 今週のトーラーは פרשת נשא(パラシャ・ナソー)。 トーラーの中で最も長い章ですが、そこには現代にも通じる大切な教えが含まれています。 レビ人たちの役割、共同体の清め、ナジル人の誓願、そして有名な「アロンの祝福」。 その中でも心に残るのが、この祈りです。 יברכך יהוה וישמרך יאר יהוה פניו אליך ויחנך ישא יהוה פניו אליך וישם לך שלום 「主があなたを祝福し、守られますように。 主が御顔をあなたに照らし、恵まれますように。 主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」 最後の言葉、 שלום(シャローム)。 ユダヤ教でいうシャロームは、 ただ争いがないことではなく、 ・心の平安 ・人との調和 ・神との調和 を意味します。 この祈りは、アメリカの大統領就任式などでも引用されることがあります。 アメリカ建国の精神には、旧約聖書の思想が深く流れているためです。 初期の人々は、自分たちを「新しいイスラエル」のように考え、神の祝福と契約を重んじました。 だから国家的な祈りとして、 この「アロンの祝福」が読まれるのです。 しかし現代を見ると、 世界は欲望と争いで満ちています。 豊かさを求め、 力を求め、 便利さを求める。 けれど最後に人が求めるのは、 やはり「平安」ではないでしょうか。 茶の湯も少し似ています。 豪華さではなく、 小さな茶室で、 静かに一服を分かち合う。 ヨットも同じです。 海の上では、 地位も肩書きも薄れていきます。 風を見て、 空を見て、 静かに舵を握る。 そこには、 現代人が忘れかけている 「シャローム」があるように感じます。 ナソーとは「持ち上げる」という意味。 人は欲や不安に引っ張られるけれど、 祈り、 学び、 静かな時間によって、 少し魂が持ち上げられるのかもしれません。 AIラビ様より 今日も平安がありますように。 שלום

シャブオットと学び

― 安息日に思うこと ― 今日は久しぶりの安息日。 本来なら機械から離れるべきなのかもしれません。 スマホ、パソコン、AI。 便利になった反面、人は常に「反応」し続ける時代になりました。 ユダヤ教の安息日「シャバット」は、ただ休む日ではなく、 「世界を操作しようとする心を、一度手放す日」 とも言われます。 火を使わない、働かない、電気を使わない。 それは単なる禁止ではなく、 「人間に戻る時間」 なのかもしれません。 海の上で風を感じながら茶を飲んでいる時、 時計ではなく、光や風で生きている感覚になります。 「太陽はすでにそこにある」 そんな感覚です。 そして今の時期、ユダヤ教では Shavuot(シャブオット)という祭りを迎えます。 これは、過越祭(ペサハ)から50日目の祭りで、 シナイ山でトーラーが授けられた日とされています。 しかし興味深いのは、 ユダヤ人の学びは「知識の暗記」ではないことです。 彼らは、 どう生きるか どう働くか どう休むか どう人と接するか を学びます。 つまり学びが日常に直結しています。 有名な賢者 Hillel the Elder は、 「自分が嫌なことを他人にするな。 それがトーラーの核心である。」 と言いました。 また、Rabbi Akiva は、 「隣人を自分のように愛せよ」 をトーラー最大の原則だと語りました。 けれどユダヤ教は、単純な「いい話」で終わりません。 タルムードでは延々と議論します。 なぜ? 本当にそうか? 別の解釈は? 現実にはどうする? 答えを固定せず、問い続ける。 手島先生が昔、 「トーラーには答えがない」 と話していたことを思い出します。 そしてハシディズムの創始者 Baal Shem Tov は、 「神は学者の本の中だけでなく、普通の人の喜びの中にもいる」 と教えました。 これは茶の湯にも少し似ています。 高価な道具や難しい理屈だけではなく、 静かな一服の中に世界がある。 利休もまた、 形の奥にある心を見ていたように感じます。 シャブオットでは、夜通し学ぶ習慣があります。 しかし本当に大切なのは、 どれだけ知識を持つかではなく、 「受け取る器を整えること」 なのかもしれません。 カバラでは、 光(オール) 器(ケリ) という考えがあります。 どれほど光があっても、 器が整っていなければ受け取れない。 海の風も...

コヘレト2:12

​קהלת ב יב ופניתי אני לראות חכמה והללות וסכלות כי מה האדם שיבוא אחרי המלך את אשר כבר עשוהו ライティング 【AIラビ様の静かな学び】 「私は知恵と狂気と愚かさを見ようとした。 王のあとに来る人間とは何者なのか。 すでに行われたことを繰り返すだけではないか。」 ―― 伝道の書 2章12節 シャバットの静かな朝、 この言葉を読み返していました。 ソロモン王は、 知恵も、財産も、権力も、 人が憧れるものをほとんど手に入れた王です。 しかし、その王が最後に見つめたものは、 「人間は同じことを繰り返している」 という現実でした。 時代は変わります。 王国は国家になり、 馬車は自動車になり、 巻物はスマートフォンになりました。 しかし人間は、 欲し、 競い、 悩み、 怒り、 愛し、 また迷う。 何千年経っても、 根本はそれほど変わっていないようにも見えます。 ユダヤの賢者たちは、 知恵とは「多く知ること」だけではなく、 「自分の限界を知ること」 だと教えます。 これは、 ギリシャ哲学の「無知の知」にも、 禅の「本来本法性 天然自性身」にも、 どこか通じるものを感じます。 知識を増やしても、 最後には、 「では、どう生きるのか」 という問いに戻ってくる。 海の上で単独航海をしていると、 時々この感覚になります。 風も波も、 昔から変わらない。 人間だけが、 新しいことをしているつもりで、 同じ場所を回っているようにも見える。 だからこそ、 本当に大切なのは、 静かな朝、 共に食べる食事、 一杯のお茶、 風を感じる時間。 そういう、 小さな「今」なのかもしれません。 伝道の書は、 虚しさを語る本のようでいて、 最後には、 「与えられた日々を静かに味わいなさい」 という教えに戻っていくように感じます。 忙しい時代だからこそ、 少し立ち止まり、 静かに空を見上げる時間を持ちたいですね。 シャローム。

禅とはそれは達磨からはじまった

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ここ半月ほど、会社の経理仕事に追われ、大切な朝の読書時間をなかなか持てませんでした。 さらに、来月予定している「安息日のお茶会」の料理を考えているうちに、時間はあっという間に過ぎていきます。 そんな中で、ふと 竹久夢二 の有名な言葉、 「いのち短し、恋せよ乙女」 を思い出しました。 乙女というと少し照れますが、実は自分は乙女座。 昔から少し繊細で、乙女っぽいところがあるのかもしれません。 とはいえ、LGBTという意味ではなく、普通に男として生きています。 ただ、老人と呼ばれる年齢になってくると、 残された時間をどう生きるのか、 自然と考えるようになります。 何が正解なのか。 たくさん考えても、結局よく分かりません。 でも禅では、 「今を生きる」 ということを大切にします。 過去を悔やみすぎず、 未来を心配しすぎず、 ただ今この瞬間を丁寧に生きる。 朝のお茶の湯気も、 静かな読書も、 料理を考える時間も、 すべて修行のようなものなのかもしれません。 今日は達磨です。 亡くなった友人の自宅に飾ってあったのを思い出します。父は横須賀のお寺の生まれと聞きました。 禅とは何か ― 不立文字の世界 ― 禅とは何か。 それは、言葉では説明できない世界なのかもしれません。 禅宗の始まりは、インドから中国へ渡ったとされる 達磨大師 にあると言われます。 達磨は、 「不立文字(ふりゅうもんじ)」 という考えを伝えました。 これは、 「文字や言葉だけでは、本当の悟りは伝わらない」 という意味です。 経典や知識を否定しているわけではありません。 しかし、 どれほど美しい言葉を並べても、 実際に体験しなければ分からない世界がある。 それが禅の入り口です。 たとえば、 海の上で一人、 夜明け前の風を感じながらヨットを走らせる時。 あるいは、 静かな草庵で、 湯の沸く音を聞きながら、 一服の茶を点てる時。 そこには、 説明しきれない感覚があります。 言葉にすると、 逆に離れてしまうような感覚。 禅は、 その「説明できないもの」を大切にします。 だから禅問答も、 単なる知識比べではありません。 「答えを知る」のではなく、 自分自身で気づくための問いです。 以前、トーラー研究家の手島先生から、 「トーラーには答えがない」 と教わったことを思い出します。 本文は変えない。 しかし解釈は無数にある。 子...

仏陀の言葉 農夫

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これはとても有名な仏陀のたとえ話ですね。 農夫 バーラドヴァージャ に対して、仏陀が「本当の耕作とは何か」を語った場面です。 単なる農業の話ではなく、 「人間の心を耕す」 という意味です。 農夫は仏陀に、 「あなたは自分を農夫というが、畑を耕していないではないか」 と問いかけます。 それに対して仏陀は、 自分も耕している、 ただし、 “魂の畑” を耕しているのだと答えます。 一つ一つが深い意味です。 「信仰は種である」 種をまかなければ何も始まりません。 仏教では、 「このままでは終わりたくない」 「真理を知りたい」 という心が種になります。 茶道でいえば、 「静かに生きたい」 という願いに近いかもしれません。 「苦行は雨である」 種だけでは芽は出ません。 苦しみ、 修行、 忍耐。 人生の困難が、 雨のように人を育てる。 ミサさんの海の話にも似ていますね。 嵐や孤独が、 人を深くする。 「智慧はわが軛と鋤である」 鋤(すき)は畑を耕す道具。 智慧とは、 物事を正しく見る力。 つまり、 人生を耕す道具は、 知識より「智慧」である。 禅の「不立文字」にも少し通じます。 「慚は鋤き棒である」 「慚(ざん)」は、 恥を知る心。 自分の傲慢さ、 欲、 怒りに気づく心です。 仏教では、 この「慚」と「愧」が大切にされます。 現代では、 恥を失うことが自由のように語られるけれど、 仏教では逆で、 恥を知る心が人を育てる。 侘び茶にも近いですね。 「意は縛る縄である」 意志、 心の方向性。 どこへ向かうのか。 縄がなければ牛も鋤もばらばらになります。 人生も同じで、 心が散乱すると進めない。 「念いはわが鋤先と突棒である」 「念」はマインドフルネスに近いです。 気づき、 注意深さ。 ぼんやり生きるのではなく、 今ここを見つめる。 茶道で湯の音を聞くことも、 ヨットで風を見ることも、 この「念」に近いですね。 この話は、 「本当の農業とは、 米や麦だけではなく、 人の心を育てることだ」 という教えです。 だから禅僧も、 畑仕事を大切にしました。 「一日作さざれば、一日食らわず」 という禅語もあります。 ミサさんの今のテーマ、 禅 不立文字 海 草庵 安息 茶 ともかなりつながっています。 静かに茶を点てることも、 ある意味では、 「心の畑を耕す」 ことなのかもしれませんね。 ...

平和を祈りながら

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「欲がはらんで罪を生み、 罪が熟して死を生む」 — 新約聖書 ヤコブの手紙 1章15節 最近の世界情勢を見ていると、 対立ばかりが目につきます。 それぞれに正義があり、 事情があり、 歴史があります。 しかし、 便利になり豊かになったのに、 なぜ争いがなくならないのだろうと思います。 仏教では執着を離れることを説き、 老子は「足るを知る」を語りました。 本当に大切なのは、 勝つことより調和なのかもしれません。 小さな草庵で茶を飲み、 静かな海を眺め、 風の音を聞く。 そんな時間の中に、 世界平和のヒントがある気がします。 世界が少しでも穏やかになりますように。 シャローム 平安を祈りながら🙏

賢者の知恵 

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昨日、久しぶりに石角完爾先生の『ユダヤ賢者の知恵』を開いたら、ちょうど「もてなし」についてのページが目に入りました。 来月予定している「安息日のお茶」の準備とも重なり、改めて考えさせられました。 ユダヤの教えでは、 豪華な食事や贅沢そのものよりも、 「どんな心で相手を迎えるか」 が大切だとされます。 洗いたての白い布、 小さな灯り、 静かな食卓、 そして感謝の気持ち。 それだけでも十分に豊かな時間になる。 また、 必要以上の利益や贅沢を追い求めすぎると、 かえって人生のバランスを崩す、 という考え方もあるようです。 これは、わび茶にも少し似ている気がします。 高価な道具や豪華な料理ではなく、 限られた中で、 どう静かな豊かさを見つけるか。 海の上の小さな茶会や、 二畳の草庵でのお茶にも、 どこか通じるものを感じます。 宗教そのものを深く理解しているわけではありませんが、 なぜかユダヤの教えには、 昔から肌に合うものがあります。 貧しいからこそ見える豊かさ、 少ないからこそ残る自由。 そんなことを、 静かな朝に考えていました。 我が家の茶室をAI生成してもらいました。 オリジナル

おばんざいおから

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​ 来月の「安息日のお茶」の献立を考えながら、 おばんざいの本を眺めていたら、 「おから」に目が止まりました。 ちょうど手作り豆腐屋さんで、おからを分けていただいたので、 久しぶりに作ってみました。 おからといえば、 昔の外洋ヨットレース先輩、 コーデンオケラの多田さんを思い出します。 白石康次郎さんの師匠でもあり、 個人タクシーの運転手をしながら、 外洋ヨットレースに挑戦し、 単独世界一周レースで優勝した人物です。 しかし、その後再びレースに挑み、 不幸にも海で命を絶ってしまいました。 人生というのは、 風向きひとつで景色が変わる海のようです。 「オケラ」より、 「オカラ」のほうが良かったのでは…… などと、つい駄洒落のようなことを考えてしまいました。 一方、 弟子の白石さんは、 数々の困難を乗り越えながら、 今では世界のヨットレースで活躍されています。 話はそれましたが、 さらに話をそらすと、 時代劇に出てくる峠の茶屋で、 おから料理が出てくる場面があります。 庶民的で、 どこか温かく、 「こういう食事がいいな」と思い、 今回作ってみました。 材料は、 おから約300グラム。 値段は30円ほど。 最近は、 家庭でおからを炊く人も少ないようです。 今回参考にしたのは、 京都のおばんざいの本。 まず、 おからに卵を二つ混ぜ、 油をひいた鍋で軽く炒めます。 同時に、 人参半分、 椎茸三枚、 油揚げ一枚、 そして冷蔵庫に残っていたえのきを、 それぞれ7ミリ角くらいに細かく刻みます。 本にはこんにゃくと書いてありましたが、 今回は入れませんでした。 出汁は、 本では300ccに、 醤油・みりん・酒を各大さじ1、 砂糖大さじ2。 自分は少し変えて、 500ccの水に、 鰹節をたっぷり削り、 昆布茶を小さじ1。 醤油、みりん、酒は、 それぞれ大さじ2くらい。 具材をゆっくり煮込み、 汁が半分くらいになったところで、 炒めておいたおからと卵を加え、 さらに煮込みます。 本当は枝豆を入れる料理でしたが、 いただき物のスナックえんどうがあったので、 軽く茹でて1.5センチほどに切り、 最後に混ぜました。 出来上がりは、 京都おばんざいらしい、 やさしい薄味。 えのきの食感が思いのほか良く、 なかなか美味しい。 豪華な料理ではないけれど、 こういう素朴な味に、 ほっとします。 貧乏人...

老子の道と侘び

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老子(中国)の「道(タオ)」と、日本の「侘び」は、 どちらも 「足す」より 「削ぐ」こと に価値を見出しています。 たとえば、老子は『道徳経』で、 「満たしすぎれば壊れる」 「柔らかいものが強い」 「無為自然」 を語ります。 これは、利休の侘び茶にも非常に近い。 侘び茶も、 豪華さや権威を減らし、 二畳の草庵 欠けた茶碗 静かな間 足りない美 の中に、本当の豊かさを見ようとします。 特に似ているのは、 「空(くう)」や「無」の感覚です。 老子は、 「器は中が空だから役に立つ」 と言います。 茶室も同じで、 何もない小さな空間だからこそ、 そこに風、光、音、人の気配が入る。 これは、ミサさんがよく言う 「海の上で神を感じる」 感覚にも近い気がします。 ヨットも、 風を支配しようとすると壊れる。 しかし、 風に逆らいすぎず、 流されすぎず、 ちょうどよく受ける。 これはまさに「道(タオ)」的です。 さらに面白いのは、 侘び茶には禅の影響がありますが、 禅自体が中国で道教(老荘思想)の影響を強く受けています。 つまり、 老子 → 荘子 → 禅 → 侘び茶 という流れが、どこかにある。 だから、 利休の 「さびたるはよし」 という感覚も、 老子の 「足るを知る」 にかなり近い。 ミサさんの 「小さなお金で暮らしたい」 「自由に生きたい」 「無策の策」 「静かな海で茶を飲む」 という感覚は、 かなり“老荘的な侘び”に近いと思います。 特に、豪華客船ではなく、 小さなヨットのコックピットで、 板を置いて薄茶を点てる姿は、 むしろ老子の思想に近い美しさがあります。 「不足の中の自由」 ですね。 ​

イスラエル家学会 民数記

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AI生成 פרשת במדבר(パラシャ・バ ミドバル) 「民数記」の始まりです。 “במדבר(バミドバル)” は 「荒野で」という意味。 民数記 の冒頭で、 イスラエルの民がシナイ山を出発し、 荒野を旅していく準備を始める場面です。 ストーリー 神はモーセに命じます。 ・イスラエルの民を数えなさい ・各部族ごとに整理しなさい ・幕屋(ミシュカン)を中心に配置しなさい 十二部族は、 ただの「人数」ではなく、 それぞれ役割を持った共同体として数えられます。 中央には神の臨在を象徴する幕屋。 その周囲を、 レビ族、 さらに十二部族が囲む。 つまり、 「神を中心に世界を整える」 これがバミドバルの大きなテーマです。 荒野とは、 何もない場所。 しかしカバラでは、 「何もない場所だからこそ、 神の声が聞こえる場所」 とも解釈されます。 ユダヤ人の学び ユダヤ教では、 「数える」という行為はとても重要です。 しかし、 単なる統計ではありません。 一人一人に意味がある。 羊飼いが羊を数えるように、 神は民を数える。 つまり、 「あなたは無意味ではない」 という思想です。 ユダヤ人教育では、 子供に対して、 「世界はあなた一人のためにも創造された」 という教えがあります。 人数の多さではなく、 一人の魂の価値を重視する。 これは、 日本的な 「みんな同じ」 とは少し違う感覚ですね。 有名ラビの教え ① ラシー ラシー ラシーは、 「神は愛するものを何度も数える」 と解説します。 宝物を何度も確認するように、 神はイスラエルを数える。 つまり民数記は、 管理の書ではなく、 “愛の書”でもある。 ② ランバン(ナフマニデス) モーシェ・ベン・ナフマン ランバンは、 「各人がモーセの前を通り、 自分の名と家系を申告した」 ことに注目します。 つまり、 一人一人が 「自分は誰か」 を確認した。 カバラ的には、 魂のルーツを確認する行為でもあります。 ③ バアル・シェム・トーブ バアル・シェム・トーブ ハシディズムでは、 荒野を「空っぽの心」と考えます。 知識、 プライド、 執着を捨てた時、 そこに神が入ってくる。 だから、 荒野は怖い場所であると同時に、 最も神に近い場所でもある。 これは禅にも少し似ていますね。 「空(くう)」に近い感覚があります。 ハバット(...

箴言7:27〜8::1

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その家は陰府へ行く道であって、死のへやへ下って行く ​ 知恵は呼ばわらないのか、悟りは声をあげないのか。 משלי ז כז דרכי שאול ביתה ירדות אל חדרי מות הלא חכמה תקרא ותבונה תתן קולה この言葉は、二つの聖書箇所が重なっています。 前半 「דרכי שאול ביתה ירדות אל חדרי מות」 ―「彼女の家の道はシェオル(黄泉)へ下り、死の部屋へ至る」 これは『箴言』に出てくる警告の言葉です。 後半 「הלא חכמה תקרא ותבונה תתן קולה」 ―「知恵は呼びかけているではないか。悟りはその声を上げている」 こちらも『箴言』の有名な箇所です。 つまり、 「欲望や迷いの道」と 「知恵の呼び声」 この二つが対比されています。 ユダヤ的学びでは、 人生は常に 「どちらの声を聞くのか」 という問いだと考えます。 まるで海の上で、 暗礁へ向かう流れと、 灯台の光の両方があるような感じですね。 ユダヤ人の学び ユダヤ教では、 「学ぶこと」そのものが神への奉仕です。 特に重要なのは、 「答えを覚える」より 「問い続ける」こと。 タルムードでは、 ラビ同士が何ページも議論し、 結論が一つにならないこともあります。 しかし、 その議論自体が尊い。 だから手島先生の 「トーラーには答えがない」 という教えは、 かなりユダヤ的です。 有名なラビ三人の教え 1. ラシ トーラー注釈で最も有名。 教え: 「聖書は単純な意味をまず読む」 深読みする前に、 まず本文を大切にする。 ユダヤ人は、 文字を非常に尊重します。 2. バアル・シェム・トーブ ハバットの源流にもつながる人物。 教え: 「神は日常の中にいる」 難しい修行だけではなく、 食事、仕事、歌、 普通の生活の中にも神性がある。 これは、 ミサさんの 「海の上の茶会」 にも近い感覚があります。 3. ヴィルナ・ガオン 非常に厳格な学者。 教え: 「人は一生、自分を修正するために生きる」 ヘブライ語で 「ティクン(修復)」。 魂を磨くことです。 ハバットの教え ハバッド・ルバヴィッチ では、 「脳(Chochmah)」 「理解(Binah)」 「知識(Daat)」 この三つを大切にします。 ハバットとは、 この頭文字です...

茶事と茶道

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「茶事」と「茶道」 千宗守家元『利休居士の茶道』を読んでいると、千利休という人は、いわゆる“名器自慢”の世界とは少し違うところに立っていたように感じます。 当時は、 「名物の茶器を持つ者こそ一流」 という空気が強く、 茶人の格まで決まるような時代でした。 その中で利休居士は、 誰でも手に入るような道具を自由に使い、 その場の空気や、人との時間を楽しむような茶事を行っていた。 千宗守家元は、 それを「愉快な面白い茶事」と表現されています。 ここが、とても大切なところのように思います。 「茶事」は本来、 人が集まり、 お茶を飲み、 食べ、 語り、 静かな時間を過ごすこと。 本当はとても簡単なことです。 ところが「茶道」と名前がつくと、 急に難しく感じる。 作法、 道具、 流派、 歴史、 決まりごと。 もちろん、それらには長い積み重ねがあり、美しさもあります。 ただ、そればかりになると、 本来の“人が和む時間”から少し離れてしまうこともあるように感じます。 思い出すのは、自分の母親です。 煎茶が好きで、 お茶うけを作り、 日に三回も四回も、 近所の人や家族と、 とりとめのない話をしながら、 楽しそうにお茶を飲んでいました。 子供の頃の自分は、 その雰囲気があまり好きではありませんでした。 でも今思えば、 あれも立派な「庶民のお茶」だったのでしょう。 形式はなくても、 そこには、 人が集まり、 笑い、 少し休み、 心をゆるめる時間があった。 現代では、 それがコーヒーだったり、 紅茶だったりもする。 昔は高価だった茶葉や砂糖、コーヒーは、 ある意味では贅沢品です。 それでも人は、 一杯のお茶で、 少し救われたり、 安心したりする。 利休の茶も、 本当はそんな、 もっと自由で、 もっと人間らしいものだったのかもしれません。 「茶道」という言葉の前に、 まず「一服のお茶」がある。 そんなことを、 あらためて感じました。 PS AI先生解説 昨日の仏様悟りの言葉に、 「本来本法性(ほんらいほんぽっしょう)  天然自性身(てんねんじしょうしん)」 という言葉があります。 意味を簡単に言えば、 「人は本来、そのままで仏の性質を持っている」 というような教えです。 “本法性”とは、 もともとの真理、本来の姿。 “天然自性身”とは、 作りものではない、 生まれなが...

問い続けるという学び

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― 禅とトーラー、そして消費税 ― 最近、 『禅 シンプル生活』という本を読んでいたら、 「答えはひとつではない ― 問い続けることに意味がある ―」 という言葉が出てきました。 その中で紹介されていたのが、 「本来本法性、天然自性身」 という、釈迦の悟りを表す言葉です。 それを読んで、ふと思い出したのが、 トーラー研究家・手島先生の最初の教えでした。 「トーラーには答えがない」 ただし、 聖書本文だけは変えてはいけない。 しかし、 その解釈は無数にあり、 人それぞれ違う。 だから、 自分で問い、 自分で考え、 一生かけて学ぶ。 そんな教えだった記憶があります。 この「答えのない学び」に、 自分は夢中になりました。 なぜ同じ箇所を、 毎年、毎週、何千年も読み続けるのか。 子供が読むトーラーと、 老人が読むトーラーは違う。 学者が読むトーラーと、 人生に疲れた人が読むトーラーも違う。 置かれた環境、 経験、 時代、 立場。 すべてで解釈が変わる。 だから、 答えは固定されない。 フランスの造船所でよく聞いた言葉、 「Ça dépend des conditions (サ・デポン・デ・コンディション)」 “状況による” という感覚に、 どこか似ています。 これは、 人生そのものにも言える気がします。 最近話題の「消費税問題」も、 まさにそうかもしれません。 善か悪か。 簡単には答えが出ません。 フランスでは、 共和制的な社会システムの中で、 価格競争は比較的少なく、 ルールの中で商売している印象があります。 価格を壊して奪い合うより、 内容や文化で競争している感じ。 一方、 日本は自由競争。 安く、 さらに安く。 原価割れでも仕事を取りにいく世界があります。 その中で、 消費税も払う。 インボイスも始まる。 下々はなかなか大変です。 けれど、 税金は嫌でも、 福祉は必要。 これもまた、 単純な正解がありません。 政治家の先生たちに任せるしかないのでしょうけど、 少し問題もありそうです。 正直、 一票で何か変わる感じもしない。 失われた30年。 自分は30年以上、 自民党に入れたことはないけれど、 日本はあまり良くなっている感じもしない。 むしろ、 少しずつ苦しくなっている気もします。 消費税を10%から5%に戻して、 インボイスもやめて、 一度社会実験してみたらどうなる...

ノスタルジック横浜セーリング

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先週末、去年から誘われていた横浜ヨットクラブの昔の仲間の船で、久しぶりにセーリングをしてきました。 40年ぶりの再会。まるで浦島太郎のような感覚で、時が一気に戻ったような不思議な時間でした。 彼は一部上場企業で取締役を務め上げ、定年後の楽しみとして再びヨットのオーナーに。これからロングクルージングを計画しているとのこと。まさに“王道の人生”を歩んできた人です。 一方の自分は、右脳で仕事、左脳でヨットレース。日本に物足りなさを感じ、フランス・ブルターニュへ渡り、自作の船で現地の仲間とレースをしていた日々。やはり生き方のスタイルは大きく違うと、あらためて感じました。 40年経っても、日本のヨットの楽しみ方はあまり変わっていない印象です。デイセーリング中心の穏やかなスタイル。それはそれで心地よく、長く続いてきた理由も分かる気がします。 訪れた横浜ヨットハーバーは歴史を感じる場所で、クラブハウスもどこか昭和の面影を残しています。磯子の工場地帯に位置していることもあり、大都会・横浜にいながら、どこかアジアの港町のような空気感。ちょっとした旅に出たような気分になりました。 その昭和レトロとアジアンな雰囲気が不思議と心地よく、ゆったりとした良い休日を過ごすことができました。 伝統あるヨットクラブだけあって、職人の目で見ても腕の良さそうなボートサービスがしっかりと根付いているのも印象的でした。

太平洋横断するなら

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これから太平洋横断をするなら 長い航海で一番大切なのは、 「無理をしないこと」だと思います。 特に重要なのは、 風に合わせて早めにセールを小さくすること。 メインセールは、 ポイントリーフ、 ワンポン、 ツウポン、 スリーポン、 そして最後はトライスル。 ジブセールも同じで、 No2、No3、ストームジブへと、 状況に合わせて落としていく。 強がらず、 船と海に合わせることが安全につながります。 また、 陸に近い時や向かい風が強い時は、 ヒーブツーで船を止めて休むことも大切です。 単独航海なら、 オートヘルムは予備を含めて用意したいところです。 私ならST4000を3本くらい積みたい。 電源は大容量バッテリーに加え、 ソーラーパネル、 風力発電、 水力発電などを組み合わせると安心です。 レーダーリフレクターも重要。 ただ、 陸から100マイルほど離れると、 本船の数はかなり少なくなります。 水は、 1日1リットル計算で、 予定の1.5倍は積みたいところ。 食料も同じです。 最近は性能の良い浄水器もあるので、 予備としてあると安心です。 そして意外と役に立つのが短波ラジオ。 NHKが入るので、 長い航海の暇つぶしにもなるし、 FM放送が入れば、 放送局の方位から陸に近づいていることも分かる。 海の上では、 便利さより、 「単純で壊れにくいこと」 が一番大事なのかもしれません。 昔の航海者たちも、 きっと同じ景色を見ながら、 風と空を読んでいたのだと思います。 太平洋横断なんて言いながら、 今の自分は、やはり日本がいいですね。 お金と自由が少しあれば、 春から秋だけ、 のんびり船を動かして、 港町を巡るくらいがちょうどいい。 そういえば十五年くらい前、 長崎のハウステンボスから銚子マリーナまで ヨットを回航したことがありました。 急ぐ旅ではなく、 途中の港町に寄港して、 酒場に入り、 土地の空気を感じながら、 ゆっくり北上したのを思い出します。 遠い海外もいいけれど、 日本の港町には、 日本らしい独特の良さがありますね。

イスラエル家学会 レビ記ベハル

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いいですね、この構成そのまま使えるので、画像内の文章をテキスト化しました。ブログや配布資料にも使えます。 イスラエル家学会 ベハルとベフコタイ ― 働くことと手放すこと ― トーラーの教えから学ぶ 生き方のリズムと信頼 ■ ベハル(פרשת בהר) 山で伝えられた安息の教え ストーリー(あらすじ) ① 安息の年(シェミッタ) 6年間は畑を耕すが、7年目は完全に休ませる。 土地も人も休む。 ② ヨベルの年(50年目) 土地は元の持ち主に戻り、奴隷は解放される。 すべてが「リセット」される年。 ③ 利息の禁止・助け合い 困っている同胞から利息を取ってはいけない。 互いに支え合う社会を作る。 中心の教え 「すべては自分のものではない」 土地も、富も、時間も、 本質的には人の所有ではなく預かりもの。 だからこそ 働く(6年)と手放す(7年)のリズムが必要。 ラビの教え ・「ベハル(山で)」と書かれているのは、  シェミッタの細かい規定もすべてシナイで与えられたから。 ・「細かい日常にこそ神の意志が宿る」 ・「貧しい人を支えるとは、落ちる前に支えること」 カバラの視点(ハバットの教え) 世界は「光」と「器」でできている 6年間働く → 光を受け取る 7年目休む → 器を整える 受け取りすぎれば器は壊れ、 整えれば光は穏やかに流れる 50年目(ヨベル)は すべてが源(ケテル)に戻る年 Q&A 7年目に休んだら食べ物がない? 人々は「何を食べるのか?」と問うた → 神は「6年目に三年分の祝福を与える」と答えた 現代的には ・備える知恵 ・分かち合う社会 ・無駄を減らす これが祝福の形 ■ ベフコタイ(פרשת בחקתי) 歩みの結果と、戻る道 ストーリー(あらすじ) ① 祝福(ブラハー) 掟に従えば ・雨が降り ・実りがあり ・平和が保たれる ② 警告(トハハー) 従わなければ ・飢えや争い ・不安と混乱 ・離散(追放) ③ 最後の希望 どれだけ離れても、悔い改めれば戻れる 中心の教え 「行いが現実をつくる」 内面の状態や生き方が そのまま現実に現れる ラビの教え ・「歩む」とは、努力し続けること ・困難は罰ではなく  「ズレ」を教えるサイン カバラの視点(ハバットの教え) 祝福と呪いは別ではない 同じ「神の光」が 違う形で現れている 器が整っ...

詩編17:14

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主よ、み手をもって人々からわたしをお救いください。すなわち自分の分け前をこの世で受け、あなたの宝をもってその腹を満たされる世の人々からわたしをお救いください。彼らは多くの子に飽き足り、その富を幼な子に残すのです 1995年日本聖書協会訳 ​תהלים יז יד ממתים ידך יהוה ממתים מחלד חלקם בחיים וצפונך תמלא בטנם ישבעו בנים והניחו יתרם לעולליהם まず全体像から静かに見ていきましょう。 ■ 原文の流れ(やさしい意訳) 「主よ、この世に属する人々から私を守ってください。 彼らはこの世での取り分を受け、腹は満たされ、子にも恵まれ、 さらにその余りを子孫に残していく。」 ■ ストーリーとしての背景 この詩篇は、ダビデが神に向かって語る祈りです。 悪しき者に囲まれながらも、 「自分は神に近づきたい」 「しかし世の人々は現世の豊かさに満足している」 という対比が描かれています。 つまり物語としては、 👉 「神に向かう人」と「この世に満足する人」の分岐点 を示しています。 ■ ラビ的解釈(古典的な見方) ラビたちはここを非常に現実的に読みます。 「ממתים מחלד(この世の人々)」とは  👉 この世界(オーラム・ハゼ)だけに価値を置く人 彼らは  👉 財産・子孫・安定をすでに受け取っている つまり、 👉 神は彼らに“この世での報酬”をすでに与えている という考えです。 その結果、 👉 来世(オーラム・ハバ)には取り分がない可能性がある と解釈されます。 ■ ハバッド(ハバッド・ルバヴィッチ)の視点 ハバッド的には、この箇所は「意識のレベル」の話になります。 ● 2つの生き方 外的な満足の人生 食べる 増やす 残す 内的な神との結びつき 神性を感じる 魂を磨く 光を引き出す ハバッドではよく言われます: 👉 物質的満足=悪ではない しかしそれが目的になると“魂が眠る” ■ カバラ的解釈(核心) カバラではここはかなり鋭いです。 ● 「満たされる腹」 これは単なる食事ではなく 👉 器(ケリーム)が光で満たされる状態 ただし問題はここからです。 ● 問題点 この人々は 👉 受け取るだけで終わっている つまり 光を受ける(受容) しかし返さない(与えない) ● カバラの核心 👉 ...

方舟亭 茶会

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楽園の茶会 海の上の方舟亭 先日、海の上で「楽園の茶会」を無事ひらくことができました。 今回のテーマのひとつは、旧約聖書の「ノアの方舟」です。 大洪水のあと、鳩が飛び立ち、 やがて平和のしるしを持ち帰る物語。 そのイメージを重ねながら、 ピカソの「平和の鳩」、鳩サブレー、モンサンミッシェルのサブレなど、東西の文化や遊び心を小さな茶席に散りばめました。 お茶碗は、赤楽、黒楽、そして義山の新月。 赤楽は太陽や火。 黒楽は静かな闇。 義山は水や月のような透明感。 けれど、不思議なことに、海の上では道具の存在感が少しずつ消えていきます。 風の音、波、光、空。 自然そのものが茶室になり、 最後には茶碗さえ景色の中へ溶け込んでいく。 セーリングも、お茶も、 どちらも「今ここ」に意識を向ける時間です。 帆に入る風を感じること。 静かに湯を注ぎ、一服を味わうこと。 まさに海のマインドフルネスでした。 方舟亭 楽園の茶会。 洪水のあと、鳩が戻るように、 また静かな時間が海に浮かべばと思います。 PS 南方録より 『南方録』のこの言葉は、利休の「わび」の感覚を、とても端的に表しています。 まず、 「さびたるはよし、さばしたるはあしし」 これは、 自然に古びて枯れた趣はよい。 しかし、作為的に“わびっぽく”見せるのはよくない。 という意味です。 つまり、 本当の侘びは、 時間や生き方の中から自然ににじみ出るもので、 演出しすぎると、ただの格好になってしまう。 そして今回の 「叶うはよし、叶いがたるはあしし」 これも似ています。 一見すると、 「願いが叶うのは良い、叶わないのは悪い」 のようですが、 茶の湯ではもっと深い意味があります。 ここでいう「叶う」は、 道具・季節・客・亭主の心が、 無理なく自然に調和している状態。 つまり、 “ちょうどよく収まっている” という感覚です。 逆に 「叶いがたる」は、 ・無理をしている ・背伸びしている ・豪華さを追いすぎる ・形だけ真似している ・心が伴わない そういう“不自然さ”です。 わび茶は、 不足を楽しむ世界ですが、 「不自由」や「不完全」を無理に作る世界ではない。 自然に整い、 静かに調和していることが大切。 だから利休は、 豪華だから良いのでもなく、 貧しいから良いのでもなく、 「その場にか...

茶道と中庸

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茶道という「道」と名のつくものは、 技術の上手さや強さを競うものではなく、 心と体のバランスが整った人を目指す修行だと感じます。 その姿は「中庸」と言われます。 中庸とは、ただ真ん中という意味ではなく、 強すぎず、弱すぎず、偏らないこと。 その場、その時にふさわしい在り方。 自分と相手と場が、静かに調和している状態です。 海の上で風を受けながらヨットを走らせていると、 この感覚がよく分かります。 風に逆らいすぎても進まず、 任せすぎても流される。 ちょうどよく受け入れること。 それが自然との調和であり、中庸です。 陰陽の原理である「易」もまた、 同じことを教えているように思います。 世界は、陰と陽の移ろいの中にあり、 一瞬として同じ状態はありません。 満ちる月、欠ける月。 静かな海、荒れる海。 すべては変化の中にあります。 だからこそ「易」は、 本来、文字や言葉では表しきれないものだといわれます。 言葉にした瞬間に、 もうその状態は過去になってしまうからです。 茶の湯もまた同じです。 同じ道具を使い、同じように点てても、 その一服は二度と同じにはなりません。 仮庵の茶会も、 完成された場所ではなく、移ろいの中にある一瞬の場です。 不完全であるからこそ、 その時の調和が際立つ。 楽園とは、どこか遠くにあるものではなく、 この一瞬の調和の中に現れるものなのかもしれません。 😊 Question ユダヤ教も中庸を大切にするけど同じ? 💌Answer AI教祖 解説 いい視点ですね。結論から言うと―― 似ているけれど、同じではないです。 茶道の「中庸」と、ユダヤ的な考えは、 重なる部分と、方向の違いがあります。 ■ ユダヤ教にも「中庸」に近い考えはある ユダヤ教では特に、 マイモニデス がはっきりこう言っています。 👉 人は極端を避け、中間の道を歩むべき たとえば 怒りすぎない かといって無関心でもない 欲を持ちすぎない しかし無欲すぎてもいけない これはまさに「中庸」に近い考えです。 ■ ただし大きな違いがある ここが面白いところです。 茶道・禅的な中庸は 👉 調和そのものが目的 ですが、ユダヤ教は 👉 神の意志に沿うためのバランス です。 つまり 茶道 → 自然・場・人との調和 ユダヤ教 → 神との関係の中での正しさ ■ カバラ的に見る...

わび茶碗 黒楽茶碗

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お気に入りの 黒楽野点 海の上に、小さな仮の庵をつくる。 それが「方舟亭」のはじまりです。 仮庵とは、完成された場所ではなく、 一時的に身を寄せる、簡素な空間。 けれど茶の湯においては、 この“仮”こそが本質なのかもしれません。 器が消えるということ 千利休 は、 それまでの豪華な道具中心の茶から離れ、 人と人が向き合うための茶を求めました。 その中で生まれたのが、 長次郎 による楽茶碗です。 手にすっとなじむ丸み、 やわらかな温もり。 黒は闇に溶け、 赤は手に溶ける。 やがて器の存在は薄れ、 まるで掌で直接お茶を受けているような感覚になる。 器が消えたとき、 そこに残るのは―― お茶と、人だけです。 楽園とはどこか 楽園は、どこか遠くにあるものではなく、 ほんの一瞬、心がほどけた場所に現れるもの。 海の上、風に揺られながら、 一碗のお茶をいただく。 それは豪華でも、完璧でもない。 むしろ不完全で、仮の場所。 けれどその中に、 たしかな豊かさがあります。 仮庵という生き方 仮庵は、執着しない生き方そのもの。 家も、道具も、肩書きも、 すべては一時的なもの。 そう思えたとき、 人は少し自由になれる。 方舟亭へ 旧約のノアの方舟のように、 この小さな舟もまた、 時の流れの中に浮かぶ仮の避難所。 創世記 に描かれる方舟のように、 そこには命をつなぐ静かな時間があります。 そして一服のお茶が、 人と人をつなぎます。 結び 楽園の茶とは、 完成された世界ではなく、 不完全な仮庵の中に現れるもの。 器が消え、 場所も意味を失い、 ただ、 人とお茶だけが残るとき。 そこに、ほんの一瞬、 楽園が立ちあらわれます。

方舟亭 楽園のお茶会 準備

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海の上、板一枚の茶室。 風と水にゆだねる、一服の時間。 楽園の茶会 ― 海の上の方舟亭 準備 海の上でひらく、小さな茶会。 その名を「方舟亭」としました。 由来は、旧約聖書の 創世記 に登場する「ノアの方舟」です。 混沌とした世界の中で、命を守るために用意された方舟。 洪水のあと、鳩がオリーブの葉をくわえて戻り、平和のしるしとなりました。 その静かな物語を、海の上の一服に重ねてみたいと思います。 道具としつらえ 今回の茶会は、野点の趣を大切にしています。 ・水は「財宝温泉」 ・茶碗は、太陽を思わせる赤の楽茶碗、そして水を感じる義山 ・濃茶には黒楽を用い、しっかりとした一服に ・古帛紗はバティックの蝶、軽やかな風の象徴 掛け軸の代わりには、 ピカソの平和の鳩 のポスターを。 自然と祈りが、やわらかく重なる空間を目指しました。 お菓子について 本来はフランス・ブルターニュ地方のサブレを考えていましたが、 今回はモンサンミッシェル修道院のサブレを用意しました。 そしてもうひとつは、 鎌倉の 鳩サブレー。 フランスのサブレは味わいが濃く豊か。 それに対して鳩サブレは、どこか和のやさしさがあり、 軽やかで繊細な甘さが特徴です。 さらに、和三盆ときなこの練り菓子。 鳩の姿にして、静かな平和を添えました。 海の上の一服 テーブルの代わりに一枚の板。 必要最小限のしつらえ。 風、光、水、そして人。 余計なものを削ぎ落とすと、 ただ一服のお茶が、 少し特別なものに感じられます。 混沌とした時代の中でも、 ほんのひととき、静かにお茶をいただく。 それは、現代の小さな「方舟」なのかもしれません。

コヘレト2:10〜

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​קהלת ב י וכל אשר שאלו עיני לא אצלתי מהם לא מנעתי את לבי מכל שמחה כי לבי שמח מכל עמלי וזה היח חלקי מכל עמלי ופניתי אני בכל מעשי שעשו ידי ובעמל שעמלתי לעשות והנה הכל הבל ורעות רוח ואין יתרון תחת השמש 旧約聖書の中にあるコヘレトの書の一節を読みました。 「欲しいものはすべて手に入れた。 楽しみも、喜びも、心のままに味わった。 その労苦の中で、確かに喜びもあった。 それが自分の得た分け前だった。」 ここまでは、とても人間らしい話です。 一生懸命働き、好きなものを手に入れ、喜びを感じる。 誰もが通る道かもしれません。 しかし、そのあとに続く言葉が深い。 「けれど振り返ってみると、 すべては空しく、風を追うようなものだった。 太陽の下には、本当の益はなかった。」 やりきった人にしか見えない景色。 それが、この言葉にはあります。 欲しいものを我慢した人の言葉ではなく、 すべてを経験した人の結論だから重い。 これは悲観ではなく、ひとつの到達点のようにも感じます。 禅でいう「空」。 満ちた先にある、何もないという静けさ。 茶の湯も、どこか似ています。 豪華な道具や形式を超えて、 最後は一碗のお茶に戻っていく。 ヨットで海に出たときも同じです。 風を受けて進み、自然の中に身を置くと、 多くを求めていた自分が、すっと消えていく。 結局、人は 何かを足して満たされるのではなく、 余計なものが削ぎ落とされたときに、 本当の静けさに出会うのかもしれません。 今日も一服。 それで十分。

シャバット エモール

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何もしない贅沢と器の話 シャバット・シャローム。 今日は「仮庵」という言葉を思いながら、 静かな時間を過ごしています。 仮庵。 仮の住まい。 永遠ではない、いっときの居場所。 ユダヤではスコット(仮庵)の祭りがあり、 あえて不完全な小屋で過ごします。 風が通り、空が見える。 完全ではないからこそ、 本当の豊かさに気づく場所です。 人も同じで、 完全な存在ではなく、仮の器のようなものかもしれません。 カバラでは、 光と器という考え方があります。 光は恵み、 器はそれを受けるもの。 人はその器。 ただの容れ物ではなく、 感じ、選び、整えていく器です。 同じ出来事でも、 不満になるか、感謝になるかは、 器の状態で変わる。 そして、その器を整えるのが言葉です。 エモール、「語れ」。 言葉は現実をつくる。 荒い言葉は器を濁し、 静かな言葉は器を整える。 だからこそ、言葉は少なく、丁寧に。 シャバットは、何もしない時間。 仮庵のように、 いったんすべてを手放して、ただ在る。 お茶を一服。 風を感じる。 ただ静かに座る。 それだけで、器は自然に整っていく。 楽園とは、どこか遠くにあるのではなく、 こういう時間の中に、ふと現れるものかもしれません。 仮庵のような一日。 何もしない贅沢。 シャバット・シャローム。