自由を求めて学び続ける

仏教、禅、旧約聖書――
日々いろいろ学んでいると、自分はいったい何教なのだろう、と考えることがあります。
優秀な人は、一つの道を深く掘り下げ、学問を極めていくのでしょう。
けれど自分は、途中で「この先が見えてしまう」と、別の世界を見たくなる性格のようです。
自宅は仏教ですので、やはり仏様の教えには自然と親しみがあります。
慈悲や調和、欲を離れる智慧――本当に素晴らしい教えだと思います。
ただ、自分の性格なのか、どこかで「もっと自由でありたい」という気持ちが出てきてしまう。
そのため、深く一つに入り込めないところがあります。
同じ仏教でも、禅には少し違う魅力を感じます。
「空」や「無」の世界。
形を作りすぎず、言葉にも縛られず、ただ今を生きる感覚。
“不立文字”という言葉がありますが、説明しすぎないところに、逆に自由を感じます。
一方、旧約聖書にはまた別の自由があります。
エクソダス――奴隷から自由人へ向かう物語。
もちろん自由には責任も伴います。
荒野を旅する不安もある。
それでも、「自由を求めて進む」という姿に、自分は強く惹かれます。
考えてみると、自分は昔から「自由」が好きなのかもしれません。
ヨットで海を渡った時もそうでした。
水平線しかない世界。
時計や肩書きから離れ、地球に合わせて生きる感覚。
だから、一つの宗教だけに留まれないのかもしれません。
最後に戻ってくるのは、日本人らしい感覚です。
八百万の神。
山にも海にも、道具にも自然にも神が宿るという世界。
白黒ではなく、混ざり合いながら共存していく感覚。
それが自分には、一番自然に感じます。
結局、何教なのかは自分でもよく分かりません。
けれど、自由を求めながら、良い教えに出会えば学び続ける。
そんな生き方でもいいのかな、と思う今日この頃です。

このブログの人気の投稿

ラビ ヒレルの格言

③ ヨットの守破離

円相