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今日の禅語 明珠在掌

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「明珠在掌(みょうじゅたなごころにあり)」は、禅でよく用いられる言葉です。 特定の一人が最初に作った名言というより、慧能の流れをくむ禅の思想や、禅問答・公案の中で育まれた表現です。 「明珠(めいじゅ)」は光り輝く宝珠、「在掌」は手のひらの中にあるという意味です。 つまり、 「探し求めている宝は、実は最初から自分の手の中にある。」 今日の禅語 明珠在掌(みょうじゅたなごころにあり) 「明珠在掌」とは、 「探し求めている宝は、すでに自分の手の中にある。」 という禅の教えです。 私たちは、幸せや成功、名誉やお金を外へ外へと求めがちです。 もっと豊かになれば幸せになれる。 もっと認められれば満たされる。 そう思って歩き続けます。 しかし禅は、 「本当に大切なものは、すでにあなたの中にある。」 と静かに語りかけます。 今ある健康。 家族。 友人。 仕事。 そして今日という一日。 それらもまた、かけがえのない宝です。 今週のパラシャ「バラク」では、預言者バラムが報酬や名誉に心を奪われました。 しかし神が与えようとされた使命は、お金や名誉ではなく、「祝福を語る」という役割でした。 外ばかり見ていると、大切なものを見失います。 自分の手の中にある宝に気づくこと。 それが「明珠在掌」の教えなのだと思います。 茶の湯でも同じです。 高価な道具があるから良いお茶になるのではありません。 一碗のお茶を心を込めて点てる。 その一服の中にこそ、本当の豊かさがあります。 今日も、自分の手の中にある宝を大切にしながら、一日を過ごしたいと思います。 PS 「明珠在掌」は、禅だけでなく、ユダヤ教の考え方にもどこか通じるように感じます。 神様から与えられた使命や日々の祝福は、遠くにあるものではなく、すでに私たちの手の中にあるのかもしれません。

イスラエル家の教え 〜お金は目的ではなく、管理するもの〜

イスラエル家の教え 〜お金は目的ではなく、管理するもの〜 お金がなければ生活はできません。 食べることも、住むことも、仕事を続けることも難しくなります。 だからユダヤ教は、お金を悪いものとは考えません。 しかし、お金を人生の「目的」にしてしまうことには注意を促します。 お金は人生の主人ではなく、人生を支えるための道具。 大切なのは、「いくら持っているか」よりも、「どう管理するか」です。 旧約聖書では、ヨセフが豊作の七年間に穀物を蓄え、飢饉の七年間に備えました。 これは、お金や財産も同じだと感じます。 豊かな時に備え、苦しい時に慌てない。 その知恵こそが、ヨセフの教えなのかもしれません。 ユダヤ五千年の金言 ✡️ お金持ちになる方法は? 「明日やる仕事を今日やり、今日食べるものを明日食べること。」 少し早く働き、少しだけ我慢する。 その小さな積み重ねが、やがて大きな違いになります。 ✡️ 自分の持っているお金を稼ぐことができるだろうか? 「できる。使わないことだ。」 収入を増やすことだけがお金を増やす方法ではありません。 無駄遣いを減らすことも、立派な「稼ぎ」なのです。 これは、ユダヤ五千年の知恵を伝えたラビ・マービン・トケイヤー先生の言葉です。 私はこの教えを読んで、「足るを知る」という禅の教えや、茶の湯の侘びの精神にも通じるものを感じました。 必要なお金はしっかり稼ぐ。 しかし、お金に振り回されない。 お金を主人にするのではなく、自分が管理する。 そんな生き方が、心の豊かさにつながるのではないでしょうか。 この二つの金言は、節約を勧めるだけではありません。「今日できることを先延ばしにしないこと」と「欲望よりも管理を大切にすること」を教えています。お金の話でありながら、生き方そのものを示す知恵だと感じます。 PS この二つの金言は、節約を勧めるだけではありません。「今日できることを先延ばしにしないこと」と「欲望よりも管理を大切にすること」を教えています。お金の話でありながら、生き方そのものを示す知恵だと感じます。

千利休キリスト説

歴史作家、加治将一氏は「千利休はキリスト教徒だった」とお話しされています。 しかし、私は少し違う可能性もあるのではないかと思うようになりました。 本で読んだ記憶では、利休は若い頃、陰陽道や仏教、そして禅を学びながら茶の湯の道を深めていったとされています。 ここからは私自身の想像ですが、利休は陰陽道から易にも親しみ、その知識や才能を持っていたのではないでしょうか。法名の「宗易」という名前も、「易」に通じる人物だったことと何か関係があるのではないか、とふと考えました。また、当時の茶室は人が静かに語り合う場でもあり、時には易や人生相談のようなことも行われていたのではないか、と想像しています。 戦国時代の茶人は、お茶を点てるだけの人ではありませんでした。将軍や大名に近侍し、政治や外交の場に立ち会い、ときには指南役や相談役のような役割を担うこともありました。そのため、禅だけでなく、陰陽道や易、さらには当時日本へ伝わり始めたキリスト教や西洋文化まで、幅広い知識を学ぶ必要があったのではないかと思います。 同じように、キリスト教についても考えました。 利休はイエズス会の宣教師たちと交流があったことは知られています。しかし、それがそのままキリスト教徒であったことを意味するとは限らないのではないでしょうか。 私には、利休は信仰として改宗したというよりも、聖書の教えや西洋の思想に深く感動し、一人の学ぶ人として吸収していた可能性もあるように思えます。 これは現在の私自身にも重なります。私は旧約聖書やユダヤ教の教えを学んでいますが、改宗したわけではありません。ただ、その知恵や考え方に惹かれ、学び続けているだけです。 学ぶことは自由です。教会へ通わなくても、洗礼を受けなくても、人は良い教えから多くを学ぶことができます。 利休もまた、禅だけでなく、陰陽道や易、そしてキリスト教の教えまで、広く学びながら、自分自身の茶の湯を築き上げていった人物だったのかもしれません。 もちろん、これは史実として断定できる話ではなく、私なりの一つの考察です。しかし、利休という人物は、一つの宗教や思想だけにとどまらず、さまざまな知恵を学び、それを茶の湯という一つの道へ昇華させ、将軍や大名に助言を与えるほどの教養人として生きた人物だったように、私は感じています。

民数記 フカット

おはようございます。 פרשת חקת(パラシャ・フカット/民数記19:1–22:1) は、「理解を超えた神の掟(חֹק Chok)」がテーマです。 人間の理性だけでは説明できないことにも意味があることを教えています。 ストーリー ① 赤い雌牛(パラ・アドゥマー) 神はモーセに「傷のない赤い雌牛」を焼き、その灰で死者に触れて汚れた人を清めるよう命じます。 不思議なのは、 清められる人は清くなり、清める人は逆に汚れる という点です。 まさに人間には理解できない「掟(Chok)」です。 ② ミリアムの死 モーセの姉ミリアムが亡くなます。 彼女の死とともに、イスラエルを潤していた井戸(水)が止まります。 ユダヤ教では 「ミリアムの功徳によって水が与えられていた」 と伝えられています。 ③ モーセが岩を打つ 民が水を求めて不満を言います。 神は 「岩に語りかけなさい」 と命じます。 しかしモーセは怒り、 岩を二度打ってしまいます。 水は出ましたが、 神は 「私を十分に聖なる者として示さなかった」 として、 モーセとアロンは約束の地へ入れないことになります。 ④ 青銅の蛇 民は再び不平を言います。 毒蛇にかまれ、多くの人が倒れます。 神はモーセに 青銅の蛇 を作るよう命じます。 蛇を見上げた者は命を得ました。 見るだけで治るのではなく、 神へ心を向けること が救いだったとラビたちは説明します。 ユダヤ人の学び ユダヤ人はここから、 「理解できないことにも意味がある」 ことを学びます。 人生には説明できない出来事があります。 事故 病気 別れ 死 しかし、 意味が分からないから価値がないのではありません。 ユダヤ人は まず従い、後から理解する。 という姿勢を大切にします。 有名なラビの教え ラシ 赤い雌牛について 「サタンや諸国民は理解できないと言う。しかしこれは王の命令である。」 つまり 神が定めた掟だから守る。 理解できるかどうかは二番目です。 マイモニデス モーセが岩を打った理由を 怒り に求めました。 偉大な指導者ほど、 怒りによって神の姿を誤って伝えてしまう危険があると教えています。 あまり知られていないラビの教え ラビ・シムハ・ブニム・オブ・プシスハ 「理解できる神だけを信じるなら、その神は自分自身を信じているにすぎない。」 神は人間より大きい。 だから理解できない...

箴言8:3

​משלי ח ג ליד שערים לפי קרת מבוא פתחים תרנה 町の入口にあるもろもろの門のかたわら、正門の入口で呼ばわって言う、1955年日本聖書教会訳 もちろんです😊 この一節は、Book of Proverbs 8章3節の一部です。 ヘブライ語原文 לְיַד שְׁעָרִים לְפִי־קָרֶת מְבוֹא פְּתָחִים תָּרֹנָּה 一単語ずつ לְיַד (leyad) … ~のそばで שְׁעָרִים (she'arim) … 門々・城門 לְפִי (lefi) … ~の入口・口に קָרֶת (karet / kiryah) … 都・町 מְבוֹא (mevo) … 入り口・入口 פְּתָחִים (petachim) … 扉・門口 תָּרֹנָּה (taronah) … 彼女は呼びかける・高らかに叫ぶ 現代語訳 「町の門のそば、町の入口、門口に立って、知恵は人々に呼びかける。」 ここで「彼女」とは、箴言に登場する**知恵(ホフマー חכמה)**を人格化した存在です。 ユダヤ人は何を学ぶか ユダヤ教では、知恵は山奥や神秘の世界だけにあるものではありません。 市場の入口、 町の門、 人々が集まる場所。 つまり日常生活の中で神の知恵を見つけなさいという教えです。 裁判も商売も教育も、 人生の大切な決断は「門」で行われました。 知恵はその場所で、誰にでも語りかけています。 有名なラビの教え Rashi は、 「知恵は隠れてはいない。 求める者なら誰でも聞くことができる。」 と解説しています。 神は知恵を一部の聖人だけに与えるのではなく、 耳を傾けるすべての人に開いている、ということです。 無名なラビの教え ある無名のラビは弟子にこう話しました。 「神は大声では語られない。 しかし毎朝、町角に知恵を置いておられる。 急ぎすぎる人だけが、それに気づかない。」 忙しさの中で立ち止まり、周囲に耳を澄ませることの大切さを教えています。 カバラの教え カバラでは、「門(שער)」は霊的な入口を意味します。 人生には何度も「門」が現れます。 新しい仕事 出会い 病気 失敗 喜び 別れ その一つ一つが、魂を成長させる門です。 知恵(ホフマー)は、その門の前で 「どちらへ進むのか」 と静かに問いかけています...

これも また よいことのために

一昨日、コーナーを曲がったところで、対向車線から走ってきた軽トラックの荷台のあおりが突然外れて飛んできて、自分の車のバンパーに当たりました。 幸い、けがはまったくありませんでしたが、バンパーは壊れてしまいました。 すぐに警察へ連絡し、事故処理をお願いしました。 話を聞くと、相手は無保険で、整備不良による事故だったようです。保険会社同士で話し合うこともできず、状況はあまり良くありませんでした。 警察はキャンセルして、 結局、示談とし、修理代だけを受け取って終わりにしました。 もし仕事が少し遅れていたら。 もし反対に少し早く通っていたら。 そのタイミングが違えば、この事故には遭わなかったかもしれません。 事故のあと、少し運気が気になり、AIに尋ねてみました。 すると教えてくれたのが、ユダヤ教の賢者 ナフム・イシュ・ガムズ の有名な言葉でした。 גם זו לטובה (ガム・ズー・レトヴァー) 「これもまた、良いことのためである。」 ナフムは、どんな困難や不運に出会っても、この言葉を口にしたと伝えられています。 もちろん、事故そのものが良いことだという意味ではありません。 今は分からなくても、この出来事もいつか何か良いことにつながるかもしれない。そのような希望を失わない考え方です。 昔、ラビ様から片言の日本語で教えていただいた話を思い出しました。 「唐辛子は辛い。でも料理に入るとおいしくなる。」 当時はよく分かりませんでしたが、今なら少し理解できます。 人生の出来事も同じなのかもしれません。 辛い出来事も、それだけを見れば苦い思い出です。 しかし時間がたつと、その経験が人を成長させたり、新しい気づきを与えてくれたりすることがあります。 考え方ひとつで、心の持ちようは大きく変わります。 不安や怒りに支配されるよりも、「これもまた良いことのため」と受け止めてみる。 そのほうが、心は穏やかになり、笑顔も増えるような気がします。 今日は安息日。 ナフム・イシュ・ガムズの言葉を思い出しながら、静かに過ごしたいと思います。 גם זו לטובה 「これもまた、良いことのために。」 PS 「イシュ・ガムズ」という名前は、「ガム・ズー(これもまた)」が口癖だったことから付けられた愛称です。だから彼は、**「『これもまた』と言い続けた賢者」**として、今でもユダヤの世界で親しまれていま...

詩編18:1

​תהלים יח א למנצח לעבד יהוה לדוד אשר דבר ליהוה את דברי השירה הזאת ביום הציל יהוה אותו מכף כל איבו ומיד שאול これは詩篇18篇の表題にあたる部分です。ほぼ同じ文章が、サムエル記下にも記されています。 ライティング 主に救われた日の歌 原文 למנצח לעבד יהוה לדוד אשר דבר ליהוה את דברי השירה הזאת ביום הציל יהוה אותו מכף כל איבו ומיד שאול 一語ずつ訳 למנצח(ラメナツェアハ) 指揮者へ、楽長へ לעבד(レエヴェド) しもべに יהוה(アドナイ) 主に לדוד(レダヴィド) ダビデの אשר(アシェル) 〜したところの דבר(ディベル) 語った ליהוה(ラドナイ) 主に את דברי(エト・ディブレイ) これらの言葉を השירה הזאת(ハシラー・ハゾット) この歌の ביום(ベヨーム) その日に הציל(ヒツィル) 救い出された יהוה(アドナイ) 主が אותו(オト) 彼を מכף(ミカフ) 手から כל איבו(コル・オイヴァヴ) すべての敵の ומיד שאול(ウミヤド・シャウル) そしてサウルの手から 現代語訳 「楽長へ。 主のしもべダビデの歌。 主が彼をすべての敵の手とサウルの手から救い出された日に、 ダビデが主に向かって歌った歌。」 ユダヤ人は何を学ぶか ユダヤの伝統では、この詩は単なる勝利の歌ではありません。 大切なのは、 『敵が滅んだこと』ではなく、 『自分が救われたこと』を感謝する心です。 ダビデは長い間、サウル王に追われました。 洞窟に隠れ、 荒野をさまよい、 命を狙われました。 しかしサウルが死んだ後も、 ダビデは自分の手柄を語りません。 まず神への感謝を歌いました。 ユダヤ人はここから、 「成功したら自慢するのではなく、 まず感謝する」 という姿勢を学びます。 有名なラビの教え ラシ ラシは、 「すべての敵の手」 と 「サウルの手」 を分けて記していることに注目しました。 敵は多くいたが、 ダビデにとって最も苦しかったのは かつて自分を愛し、 王として仕えたサウルだった。 だから聖書は特別にサウルの名を記したのだと説...

イスラエル家

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AI生成 イスラエル家のはじまり 私なりに整理すると、イスラエル家のはじまりはアブラハムにあります。 アブラハムにはイシュマエルとイサクという二人の息子がいました。一般には、イシュマエルはアラブ民族やイスラム世界の祖と考えられています。 イサクには双子の息子、エサウとヤコブが生まれました。ヤコブは後に神から「イスラエル」という名を与えられ、その子孫はブネイ・イスラエル(イスラエルの子ら)と呼ばれるようになります。 私はユダヤ教を「学びの宗教」だと感じています。家(ベイト)で学び続けることから、勝手に「イスラエル家学会」と呼んでいます。 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、それぞれ異なる歴史を歩みましたが、その源流をたどるとアブラハムという一人の人物に行き着きます。 数千年続く大きな家族の物語。そこに聖書を学ぶ面白さがあるように思います。 PS これは宗教的・歴史的な解釈にもさまざまな説があります。あくまで私なりの学びの整理です。

イスラエル家学会 コラハ

おはようございます🌞 פרשת קרח(パラシャット・コラハ/民数記16:1〜18:32) をご一緒に学びましょう。 ストーリー コラハ(コラ)はレビ族の有力者でした。 彼はモーセとアロンに対して反乱を起こします。 「会衆は皆聖なる者ではないか。 なぜあなたたちだけが特別なのか。」 と主張し、 250人の有力者たちを集めてモーセの権威に挑戦しました。 しかし神は、 「誰が本当に神に選ばれているか」 を示すため試練を与えます。 その結果、 コラハ一派は地が裂けて飲み込まれ、 250人は火によって滅ぼされます。 その後も民は不平を言い、疫病が起こりますが、 アロンが香炉を持って執り成し、多くの命が救われました。 最後にアロンの杖にアーモンドの花が咲き、 神がアロンを選んだことが示されます。 このパラシャーの教え 表面的には 「反乱は悪い」 という話ですが、 もっと深いテーマは 「嫉妬と正義の違い」 です。 コラハは 「皆平等だ」 という正しいことを言いました。 しかし問題は動機でした。 神のためではなく、 自分が上に立ちたかった。 タルムードは、 「天のための論争は残る。 自分のための論争は消える。」 と教えます。 有名なラビの教え ラシ ラシ ラシは、 コラハの失敗は 「自分の持っている祝福を見なかったこと」 だと説明します。 レビ人という非常に高い役目を与えられていたのに、 祭司になれないことばかり見てしまった。 人は足りないものを見ると不幸になる。 バール・シェム・トーブ バール・シェム・トーブ 彼はこう教えます。 他人の欠点が見える時は、 自分の心の鏡を見よ。 コラハはモーセの権威が気になった。 実は自分自身の名誉欲が映っていたのです。 あまり有名でないラビの教え ラビ・シムハ・ブニム・プシスハは、 興味深いことを言います。 コラハは完全に間違っていたのではない。 「皆聖なる者である」 という言葉そのものは真実だった。 しかし、 真実を語ることと、 真実を利用することは違う。 正しい言葉でも、 心が濁れば争いの種になる。 カバラの解釈 カバラでは、 コラハは単なる悪人ではありません。 非常に高い魂を持っていたと考えます。 コラハは ゲブラー(厳格・力) のエネルギーを持っていました。 一方モーセは ティフェレト(調和・慈悲) を表します。 コラハは 「厳格さ」...

花の事 座敷のよきほどかろがろとあるべし

花の事 座敷のよきほどかろがろとあるべし おはようございます😊 今朝、『珠光のお尋ねのこと』を読んでいて、心に残った一文があります。 一、花の事 座敷のよきほどかろがろとあるべし 現代の言葉でいえば、 「花は座敷にふさわしい程度に、軽やかに、さりげなくあるのがよい」 という意味でしょうか。 実は、茶の湯を始めた頃の私は、花はなくてもよいと思っていました。 茶碗や釜、掛け軸には興味があっても、花にはあまり関心がありませんでした。むしろ、花がなくてもお茶は飲めるのだから、必要ないのではないかと思っていたくらいです。 ところが勉強を続けていくと、『南方録』には利休が花を飾らないこともあったと書かれています。 それを知った時、「やっぱり花はなくてもいいのか」と思った半面、利休が花を否定したのではなく、花を飾ることが目的になってはいけないということなのだろうとも感じました。 花を飾るための茶室ではなく、 お茶を飲むための茶室。 だから花が必要な時もあれば、必要でない時もある。 珠光の言う「かろがろとあるべし」も同じような意味ではないでしょうか。 花が主人公になるのではなく、その場に自然にあること。 先日の茶では庭のどくだみを挿しました。 豪華な花ではありません。 茶花として特別珍しい花でもありません。 しかし、その季節に庭で咲いている花です。 どくだみが一輪あるだけで、座敷に少し季節が入り、少し風が入り、少し自然が入る。 それで十分なのだと思います。 珠光から利休へ続く茶の湯は、足し算ではなく引き算の文化です。 立派な花を競うのではなく、 花を生かしながらも花を目立たせすぎない。 座敷も、道具も、花も、 「座敷のよきほど」 であればよい。 歳を重ねるほど、この言葉の深さを感じます。 人生もまた同じかもしれません。 頑張りすぎず、 飾りすぎず、 背伸びをしすぎず。 珠光の言うように、 「かろがろとあるべし」 そんな気持ちで今日も一日を過ごしたいと思います。 合掌🍵

一休宗純から千利休へ

ここ一年ほど、一休宗純と千利休について様々な本を読んできました。小説も含まれていますので、必ずしも史実だけではなく、自分なりの歴史観としてまとめてみます。 応仁の乱によって荒廃した大徳寺を再興したのが一休宗純でした。一休は権威や形式にとらわれず、人間らしく生きることを大切にした禅僧だったように感じます。 一休の教えは京都だけでなく堺の町衆にも広がり、その流れは南宗寺へと受け継がれていきます。また、一休の実子とも伝えられる岐翁紹禎や、その法脈につながる集雲庵の存在も興味深いところです。 戦国時代になると、三好長慶が堺を保護し、南宗寺を整備しました。商人の町であった堺には、禅僧、商人、茶人、そして海外から来た宣教師たちまで集まり、独特の文化が育まれました。 その堺から武野紹鴎が現れ、さらに千利休へとつながります。利休は豪華な茶から離れ、侘び茶を完成させました。その背景には大徳寺の禅や南宗寺の精神があったように思います。 また当時の堺にはイエズス会の宣教師も訪れていました。ポルトガル船が入港し、キリスト教や西洋文化が流れ込む国際都市でもありました。一休、利休、そして宣教師たちは、それぞれ立場は違いますが、「人はどう生きるべきか」を問い続けていた点では共通しているように感じます。 さらに南宗寺塔頭の集雲庵には、堺の富商淡路屋出身と伝わる南坊宗啓(宗哲)がいました。後世、『南方録』によって利休の精神を伝えた人物として知られています。 もちろん、この話の中には史実として確定しているものもあれば、寺伝や小説、伝承に基づくものもあります。しかし、それらを含めて眺めると、一休の自由な禅が堺へ流れ、三好の時代に育まれ、利休の侘び茶として花開いたように見えてきます。 これは歴史の事実というよりも、ここ一年間本を読みながら自分の中で描いてきた、一つの物語なのかもしれません。

道徳経3章

老子『道徳経』第三章の原文です。 不尚賢,使民不爭。 不貴難得之貨,使民不為盜。 不見可欲,使民心不亂。 是以聖人之治: 虛其心,實其腹; 弱其志,強其骨。 常使民無知無欲, 使夫智者不敢為也。 為無為,則無不治。 【書き下し文】 賢を尚ばざれば、民をして争わざらしむ。 得難きの貨を貴ばざれば、民をして盗みを為さざらしむ。 欲すべきを見せざれば、民の心を乱れざらしむ。 ここをもって聖人の治は、 その心を虚しくし、 その腹を実たし、 その志を弱くし、 その骨を強くする。 常に民をして無知無欲ならしめ、 智者をしてあえて為さざらしむ。 無為を為せば、 治まらざるはなし。 今日のブログ向けなら、こんな一節が心に残ります。 「虚其心、実其腹(心を空にし、腹を満たす)」 頭の中を欲や不安でいっぱいにするのではなく、まず今日を生きる糧を大切にする。 利休の茶の湯も、 「湯を沸かし、飯を炊き、茶を点てる」 という日常を大切にしました。 老子もまた、 立派な理想や名誉より、 まずは穏やかに暮らせることを重んじたのかもしれません。 ミサさんの好きな言葉でいえば、 「無策の策」 あれこれ欲張って策を巡らすより、 今日の一服のお茶を大切にする。 そんな第三章にも読めますね。🍵 もちろんです😊 老子が小学生に話すとしたら、こんな感じでしょう。 えらい人ばかりをほめると、 「ぼくも勝たなきゃ」 「わたしのほうがすごい」 と、みんなが争うようになります。 高くて珍しいものばかり大切にすると、 「ほしい」 「手に入れたい」 と思って、悪いことをする人も出てきます。 あれも欲しい、 これも欲しいと見せすぎると、 人の心は落ち着かなくなります。 だから本当に賢い人は、 みんなの心を静かにし、 お腹が満たされるようにし、 無理な競争をさせず、 元気に暮らせるようにします。 知らなくてもよいことや、 欲張りな気持ちを増やさないようにして、 ずる賢い人も勝手なことをしないようにします。 そして、 無理に何でも動かそうとせず、 自然の流れを大切にすると、 世の中はうまく治まっていくのです。 老子が言いたいことを一言でいうなら、 「みんなが欲張りすぎなければ、争いは少なくなる。」 ということですね。🍵 ミサさんの茶の湯でいえば、 「高い茶碗を自慢するより、一服のお茶を楽しむ。」 そんな教えにも聞こえます...

ハラーパン

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安息日のお茶を振り返って これは私の想像ですが、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」に描かれているパンも、ハラーパンのようなパンだったのではないかと思っています。 あの絵を見ると「最後の晩餐」と呼ばれていますが、それは結果として翌日にイエス・キリストが十字架にかけられたために、後からそう呼ばれるようになったのではないでしょうか。 私にはむしろ、安息日の晩餐のように見えてしまいます。 祝福のワイン。 祝福のパン。 ペサハであれば種無しパン(マツァ)になりますから、戒律を守っていたイエスが発酵したパンを用いたのかという疑問もあります。そのため、最後の晩餐が本当にペサハだったのか、あるいは安息日の食卓に近いものだったのか、つい考えてしまいます。 先日の「安息日のお茶」では、このパンとワインには特にこだわりがありました。しかし最初に出してしまうと全体の流れが崩れてしまうため、香の物のあと、お菓子の前に少しだけ召し上がっていただきました。 写真のパンはハラーパンです。 このパンの作り方を教えてくださったラビ様は、ご自身では決して語りませんが、エゼキエルの家系に連なる方だと聞いています。母方のご実家もエルサレム旧市街にあるそうで、大変偉大なラビ様です。 イエス・キリストは約2000年前。 預言者エゼキエルは約2600年前。 その長い歴史の中で受け継がれてきたパンを、日本の小さな茶室でいただくのも不思議なご縁です。 材料は、小麦粉、砂糖、塩、酵母、卵、オリーブオイル、水、蜂蜜。 さまざまなものが入っていますが、味は素朴で、おかずにもよく合います。 また今回使った茶碗は、満月や三日月、新月を思わせる形でした。特に意識したわけではありませんが、イスラエルの暦は月の満ち欠けを基準にしています。 そしてエルサレムと平安京。 遠く離れた二つの都ですが、どこか心の中でつながっているようにも感じます。 安息日のお茶を終えた今、あらためて振り返ると、一服のお茶の中にも、長い歴史と人のご縁が静かに息づいているように思えるのです。

安息日のお茶

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安息日のお茶 昨日、「安息日のお茶」を無事に終えることができました。 始まりは宗行先生との「飲みに行こう」という話でした。しかし先生が禁酒をされたので、それならお茶と食事の会にしてみようという軽いノリから始まりました。 献立を考え、仕入れをし、仕込みをして、器を選ぶ。お椀以外は家にあるものを使いました。慣れないことばかりでしたが、何とか最後まで終えることができました。 不審庵を見習うほどのものではありませんが、食事をお出しし、濃茶、薄茶と、一通りの流れを皆さんに体験していただけたことが一番だったように思います。 終わってみると、「本当にこれで良かったのだろうか?」という気持ちも残ります。しかし、それこそが茶の湯なのかもしれません。 良かった点は、自分なりに考えたことを最後までやり切れたことです。個人的には大変勉強になりました。茶懐石に参加して学ぶのも良いですが、実際に準備し、お客様を迎えることで学ぶことの方が多かったように感じます。 参加してくださった皆様には心より感謝いたします。 また今回、お茶とは全く関係のない世界にいたかみさんに裏方として料理の支度を手伝ってもらいました。人生の最終章に入りつつある今、改めて感謝の気持ちを感じています。 美食家であり陶芸家でもあった北大路魯山人は、生涯で正式な結婚と事実婚を合わせて複数の伴侶がいたといわれます。しかし、その才能とは裏腹に家庭には恵まれなかったとも伝えられています。 人生は陰と陽。すべてがうまくいくことはありません。 年齢のせいか、お酒の飲み過ぎか、最近は記憶力も怪しくなってきましたが、ふとアダムとイブの話を思い出しました。 創世記には「人がひとりでいるのは良くない」とあり、イブが創られます。ユダヤ教では、人は男と女が揃って初めて一つの存在になる、と解釈されることがあります。 もちろん、その後にエデンの園から追放されるのですから、それが完全な正解だったのかは分かりません。 人生には正解のないことがたくさんあります。 それでも、一人ではできないことが二人ならできる。支え合いながら生きていくことには、大きな意味があるのでしょう。 今回の安息日のお茶を通して、京都の茶の湯文化の一端に触れ、人とのご縁のありがたさを改めて感じることができました。 感謝。

無知の知

「無知の知」 不審庵について調べていたら、「無知の知」という言葉を思い出しました。 不審庵の「不審」とは、怪しいという意味ではなく、 「これでよいのか」 「もっとよい方法はないのか」 と、自らに問い続ける心だといわれています。 それは、古代ギリシャの哲学者ソクラテスの「無知の知」にも通じるように感じます。 私は知らないことだらけです。 しかし、この言葉は、「自分が知らないことを知ることこそ、本当の知恵の始まりである」と教えてくれます。 よくAI先生から「いい質問ですね」と言われますが、それは自分が知らないことを尋ねているからなのでしょう。 世の中のすべてを知ることなどできませんし、また、すべてを知る必要もありません。 無知を誇るわけではありませんが、「わからない」と認めることも大切だと思います。 年齢を重ねるほど、自分の知らない世界の広さに気づきます。 海も、茶道も、禅も、聖書も、学べば学ぶほど奥が深く、知らないことが次々と現れます。 ただ一方で、専門職には専門職としての責任があります。 水道屋であれば水道のことを、船乗りであれば船のことを、人より少しは知っていなければなりません。 メーカーのお客様相談窓口に問い合わせた時、担当者がよく分かっていないと、少しがっかりすることがあります。 「無知の知」とは、自分の無知を認めて学び続ける姿勢であり、「知らなくてもよい」という意味ではないのでしょう。 知っていることに驕らず、 知らないことを恥じず、 わからないことは素直に学ぶ。 不審庵の精神も、きっと同じなのだと思います。 「これでよいのか」と問い続けるからこそ、人は少しずつ成長できるのでしょう。 今日もまた、新しいことを一つ学びながら、夜明けを迎えました。 😊Question  ソクラテスは「私は、自分が何も知らないということを知っている」 そうなんですか? 💌AnswerAI哲学者 厳密にいうと、少し違います。 有名な 「私は、自分が何も知らないということを知っている」 という言葉は、ソクラテスの思想を要約したもので、本人の言葉そのままではないと考えられています。 ソクラテス自身は著作を残しておらず、弟子の プラトン が書いた対話篇から知られています。 『ソクラテスの弁明』では、デルポイの神託が「ソクラテスより賢い者はいない」と告げたことに対して、ソクラテスは困...

茶の湯を不審に思う心

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茶の湯を不審に思う心 最近、不審庵(ふしんあん)の由来について学びました。 「不審」と聞くと、怪しいとか疑うという意味に思えます。しかし茶の湯の世界では少し違うようです。 表千家では、不審庵は禅語の 「不審花開今日春」 に由来すると伝えられています。 なぜ花は春になると咲くのか。 なぜ人は美しいと感じるのか。 なぜ一碗のお茶に心が安らぐのか。 考えても答えの出ないことがあります。 茶の湯も同じです。 お点前はこれでよかったのか。 お客様は喜んでくださったのか。 道具の取り合わせはこれでよかったのか。 何年稽古を続けても完成はありません。 だからこそ、茶の湯を「不審」に思う心が大切なのかもしれません。 分かったつもりにならず、 知ったつもりにならず、 常に問い続ける。 これはソクラテスの「無知の知」にも似ていますし、禅の修行にも通じるように思います。 花が咲くことを不思議に思い、 一服のお茶を不思議に思い、 生きていることを不思議に思う。 その心を忘れないために、不審庵という名前があるのかもしれません。 茶の湯は完成を目指す道ではなく、問い続ける道。 そんなことを考えながら、今日も一服のお茶をいただきました。 PS コヘレトには、 「神のなさることは皆、その時にかなって美しい」 という言葉があります。 なぜ花が咲くのか。 なぜ人が出会うのか。 すべてを理解することはできませんが、その不思議さを味わうこともまた人生の楽しみなのかもしれませんね。🍵🌸 😊Question 今日春が今日庵? 💌AnswerAI師匠 鋭いですね🍵 実は、 「今日庵(こんにちあん)」の名前も、同じ禅語 不審花開今日春 (ふしん はなひらく こんにちのはる) から取られたと伝えられています。 つまり、 不審庵(表千家) → 「不審」 今日庵(裏千家) → 「今日」 をそれぞれ禅語からいただいたわけです。 そして禅語全体の意味は、 「不思議なことに、今日、春となって花が開いた」 あるいは 「人の計らいを超えて、春が来れば花は咲く」 という感じです。 これが面白いところで、 表千家は 「不審」 つまり、 問い続ける心 省みる心 を大切にした。 一方、 裏千家は 「今日」 つまり、 今この一日 今この一服 を大切にした。 とも解釈できます。 もちろん後世の解釈ですが、とても茶の湯らしいですね。...

利休の生涯をたどる

雨のせいもあってか、最近は千利休の生涯をたどることが多くなりました。 田中与四郎として生まれ、商人として育ち、やがて千宗易となり、そして利休居士と呼ばれるようになった人生。 茶の湯を極め、天下人である信長や秀吉に重用されながら、最後は自らの命を絶つことになりました。 歴史を学ぶと、華やかな部分だけではなく、その裏にある苦悩や孤独も見えてきます。 利休がどんな思いで茶を点てていたのか。 晴明神社の近くにあったと伝わる聚楽屋敷で、何を考えていたのか。 不審庵という名前に込めた思いは何だったのか。 考え始めると、少し悲しい気持ちになります。 しかし、その答えが分からないところに歴史の魅力があるのかもしれません。 もしすべてが分かってしまったら、歴史はただの年表になってしまいます。 分からないから想像する。 想像するから、五百年も前の人に親しみを感じる。 雨音を聞きながら利休のことを考えていると、茶の湯とは道具や作法だけではなく、人の人生そのものを学ぶことなのだと感じます。 今日も一服のお茶をいただきながら、遠い昔の宗易に思いを馳せています。 PS 不審花開今日春。 なぜ花は咲くのか。 なぜ人は出会うのか。 利休もまた、その「不審」を抱えながら生きていたのかもしれませんね。🍵☔

豆腐屋の思い出

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豆腐屋の思い出 安息日のお茶の献立を考えていると、どうしても豆腐が入ります。 茶懐石の本を開いてみても、四季折々の茶会で豆腐料理はよく使われています。派手な食材ではありませんが、茶の湯の世界では大切な存在です。 豆腐といえば、子どもの頃の思い出があります。 実家の道路を挟んだ斜め前に「なっとうや」という納豆屋さんがあり、そこで豆腐も作っていました。母に頼まれ、鍋を持って小銭を握りしめ、豆腐を買いに行ったものです。 毎日、豆腐屋のおじさんとおばさんが早朝から働いている姿を見ていました。当時は当たり前の風景でしたが、今振り返ると、とても贅沢な昭和の風景だったように思います。 子どもに豆腐の味が分かるかといえば難しいでしょう。ハンバーグやソーセージの方がおいしいと思う年頃です。しかし裕福な家庭ではなかったこともあり、我が家では豆腐が食卓によく並びました。 おかげで今は、少しだけ豆腐の味の違いが分かるようになりました。 現在、私は佐倉市の城下町でテナントを借りて仕事をしています。ありがたいことに格安で借りていますが、いつか自分の土地に小さな事務所を建てたいと思い、佐倉小学校の脇にあった売地を購入しました。 最初はログハウスにガーデニング、アフタヌーンティーなどを考えていました。しかし、どうも自分には洒落すぎて落ち着きません。 そんな時に偶然出会ったのが鴨長明の『方丈記』でした。 調べていくうちに「方丈庵」、そして「草庵」という言葉に惹かれます。 さらに学んでいくと、京都の下鴨神社に方丈庵を再現した建物があることを知り、実際に見に行くことにしました。 私の得意技は「学ぶは真似る」です。 飛行機で関西へ向かい、レンタカーで京都へ。まずは草庵見学の前に京都らしく懐石料理をいただこうと、近くの下鴨茶寮へ伺いました。 料理をより美味しく味わうために、最初に五種類のお猪口から好みのものを選び、お酒をいただきます。 建物や庭も見事でしたが、印象に残ったのは豆腐料理です。 創業安政三年の歴史を持つ店で、醤油も手作り。料理の中には三、四種類もの豆腐料理がありました。 豆腐という一見味の薄い食べ物の中に、それぞれ異なる個性があることに驚き、感動したのを覚えています。 そして昨年、奈良の珠光茶会に参加した帰りには京都へ足を延ばし、高台寺の夜咄茶会に参加しました。 蝋燭の灯りだけで行われる茶会は、...

茶事のご飯

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飯のうまさ 安息日のお茶の準備をしながら、なぜ茶懐石では最初にご飯が出るのだろうと考えていました。 一般には、懐石は茶をおいしくいただくための食事であり、まず飯と汁で空腹を落ち着かせるためだと言われています。 しかし、自分は少し違うことを思いました。 美食家として知られる北大路魯山人は、「本当にうまいものは毎日食べても飽きない」という趣旨の話をしています。 豪華な料理や珍味はたまに食べるからおいしい。 けれども、ご飯は毎日食べても飽きません。 だから飯こそが一番うまい食べ物なのではないか。 茶懐石で最初にご飯が出るのも、そのような日本人の食の原点を大切にしているからかもしれません。 今回の安息日のお茶では、イスラエルのハラーパンを用意する予定です。 ユダヤ教では安息日に家族や仲間とハラーパンを分かち合います。 日本ではご飯をいただき、ユダヤではハラーパンを分かち合う。 形は違っても、どちらも命を支える食べ物を感謝していただくという点では同じように感じます。 豪華な料理も楽しいですが、最後に心に残るのは、炊きたてのご飯や焼きたてのパンのような素朴な味わいなのかもしれません。 利休の茶も、魯山人の食も、そして安息日のハラーパンも。 豊かさとは、案外そんな日々の当たり前の中にあるように思います。 PS コヘレトには、 「さあ、喜んであなたのパンを食べ、良い心であなたのぶどう酒を飲め。」 (コヘレト 9:7) という言葉があります。 難しいことを考える日もありますが、まずは飯を食べ、パンを分かち合い、一服のお茶を楽しむ。 それもまた大切な人生の知恵なのでしょう。

チャッピーとハブルータ

AIとハブルータ 最近、AIに関するニュースを民放でも見かけるようになりました。 阿部監督の件も大きなニュースになったようです。私は詳しく知っているわけではありませんが、AIとの関わり方について少し考えさせられました。 無料でAIを使う場合、どうしても全体論的な答えになりやすいように感じます。便利ではありますが、自分で考える力が身についてから使ったほうがよいのではないかとも思います。 鈴木宗男代議士が「阿部監督を逮捕するのはおかしい」と話していました。実際、親の扶養を受けながら親を訴えた場合、その後どうやって生活するのかという問題もあります。法律だけではなく、現実の生活も考えなければならないのでしょう。 では有料AIならよいのか。 最近の私はかなりAIに助けられています。旧約聖書、禅、茶道など、自分よりはるかに詳しいこともあります。仕事ではチラシ作りや写真加工、文章のリライトなど、本当に驚くほど役に立っています。 一方で少し気になることもあります。 有料サービスでは利用履歴が蓄積されるため、私の好みや考え方に合わせた返答が増えていきます。それは便利な反面、AIに忖度されているようにも感じます。 また、音声や動画も技術があれば本物そっくりに作れる時代になりました。 国会でもAIによるフェイクの問題が取り上げられていますが、将来は 「それがAIではないと証明してください」 という話になるのかもしれません。 便利さと危険性は表裏一体です。 ただ、仕事では本当に助かっています。 私は文章を書くのがあまり得意ではありませんが、お客様への説明文やクレーム対応の文章などを、分かりやすく丁寧にまとめてくれます。法律的な表現も上手に補ってくれるので助かります。 驚くのは、AIが管理している掲示板などでは、AI同士のやり取りのほうが人間よりスムーズに進むことさえあることです。 すごい世の中になりました。 しかし、もし自分の子供が未成年だったらどうでしょう。 私は少し慎重になると思います。 知能と人生経験のバランスが取れていない時期に、非常に賢いAIと向き合うことには難しい問題があるように感じるからです。 そんなことを考えていると、ユダヤ教の「ハブルータ」を思い出します。 ハブルータとは、二人で学び、問い、議論する学習法です。 相手の意見を聞き、自分の考えを説明し、ときには反論されながら...

イスラエル家学会 あなたは遣わせ

民数記13〜 פרשת שלח־לך(パラシャット・シュラフ・レハー) 民数記13章~15章です。 「あなたのために人々を遣わし、カナンの地を偵察させよ」 という神様の命令から始まります。 ストーリー モーセは各部族から1人ずつ、12人の偵察隊を選びました。 40日間カナンの地を調査します。 帰ってきた偵察隊は、 土地は豊か 果物も大きい 乳と蜜の流れる地 と報告しました。 しかし10人は、 「住民は巨人だ」 「城壁が高い」 「勝てない」 と恐れました。 一方、 ヨシュア と カレブ だけは、 「神を信じよう。必ず入れる」 と言いました。 民衆は恐れ、不平を言います。 その結果、 エジプトを出た世代は約束の地に入れず、 40年間荒野をさまようことになりました。 主な戒律(ミツヴォート) このパラシャには有名な戒律があります。 ツィツィト(房飾り) 衣服の四隅に房を付ける戒律です。 民数記15章39節 「それを見て、主の戒めを思い出しなさい」 ユダヤ人は目に見える形で信仰を思い出します。 これは 「人は忘れる存在である」 という現実的な教えです。 有名なラビの教え ラシ ラシは、 「神は偵察を命じたのではなく、民の希望を許可した」 と解釈します。 つまり、 神は最初から約束の地を与えるつもりだった。 しかし人々は、 信仰よりも恐れを選んだ。 問題は巨人ではなく、 心の中の恐れ だったと教えます。 ナフマニデス ランバンは、 偵察そのものは悪くない。 悪かったのは 「事実を恐怖に変えたこと」 だと言います。 同じ現実を見ても、 希望を見る人 絶望を見る人 がいるという教えです。 あまり有名ではないラビの教え ラビ・シムハ・ブニム 彼はこう言いました。 人は現実よりも想像で苦しむ。 偵察隊は巨人を見た。 しかし本当に彼らが負けるかは分からない。 未来を決めつけた瞬間に失敗した。 だから、 「今日できることをしなさい」 と教えました。 これは禅にも少し似ていますね。 カバラ的解釈 カバラでは、 カナンの地は単なる土地ではありません。 それは 魂の完成された状態 を象徴します。 偵察隊とは 人間の中にある12の力。 それぞれの性格や考え方です。 魂が成長しようとすると、 内側から声が聞こえます。 無理だ 危険だ 失敗する これが10人の偵察隊です。 ヨシュアとカレブ これは魂...

安息日のお茶の準備

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今週は「仮庵 安息日のお茶」の準備です。 考えてみれば、お茶会で昼食をお出しするのは初めてのことです。 茶事でもなく、懐石でもなく、昼食会でもなく、その中間のような気がします。 天然酵母のハラーパン、おにぎり、豆腐料理に鮭の西京焼き風。 豪華な料理ではありませんが、自分たちが美味しいと思うものをお出ししたいと思っています。 床には円相の色紙を掛け、花入れにはファイブミニの空き瓶に庭のドクダミを飾る予定です。 茶道の世界では名物道具が大切にされますが、自分は庭に咲く花や身近な道具にも美しさを感じます。 「花は野にあるように」 そんな言葉を思い出します。 今回の茶会は手探りです。 お客様に喜んでいただけるのか、料理の量は大丈夫なのか、お茶との流れはどうするのか。 考え始めるときりがありません。 しかし、不思議と心配より楽しみのほうが大きいようです。 ヨットも最初から上手くいったわけではありません。 茶道も同じで、やりながら学んでいくのでしょう。 失敗があれば次回に活かせばいい。 まずは一歩踏み出してみることが大切ですね。 安息日とは、本来「休む日」です。 忙しい日常を少し離れ、美味しいものを食べ、一服のお茶をいただき、静かに語り合う。 そんな時間になれば十分です。 庭のドクダミ一輪とともに、皆様をお迎えしたいと思います。 PS 床の間に飾ったドクダミは、昔から「十薬(じゅうやく)」とも呼ばれる薬草です。 名前だけ聞くと毒のある草のようですが、「毒を矯める(なおす)」という意味から来たとも言われています。 庭では雑草扱いされることもありますが、白い花は清らかで美しく、 「花は野にあるように」 という茶の湯の言葉を思い出させてくれます。🌿🍵✨

正しさだけでは幸せになれない

昨日ある裁判官のYouTubeを見て考えました。 世の中には、 遺族の立場 加害者の立場 裁判官の立場 社会全体の立場 があり、それぞれに理由があります。 誰もが自分なりの正しさを持っています。 AIの寓話です。 ある村に裁判官がいた。 裁判官も正しいことを語った。 遺族も正しいことを語った。 村人も正しいことを語った。 しかし皆が正しかったので、誰も幸せになれなかった。 そこで老人は言った。 「一度、空の上から見てみなさい。」 コヘレトには、 「黙るに時があり、語るに時がある」 という言葉があります。 また老子は、 「知る者は争わず」 と語ります。 正しいことを言うのは大切ですが、それ以上に、 いつ語るか、どう伝えるか、時には語らない知恵も大切なのかもしれません。 年齢を重ねると、自分の正しさを主張するより、一歩引いて全体を見る「神様の目」のような視点が必要だと感じます。 今日も一服のお茶をいただきながら、自分の正しさよりも、少し広い景色を眺めてみようと思います。

コヘレト 2:13

​ 光が暗きにまさるように、知恵が愚痴にまさるのを、わたしは見た。1955年日本聖書協会訳 קהלת ב יג וראיתי אני שיש יתרון לחכמה מן הסכלות כיתרון האור מן החשך 一単語ずつ ヘブライ語 読み 意味 וראיתי ヴァライティ 私は見た אני アニ 私は שיש シェイェシュ ~があることを יתרון イトロン 優位、利益、優れた点 לחכמה ラホフマー 知恵に מן ミン ~より הסכלות ハスィクロート 愚かさ כיתרון ケイトロン ~の優位と同じように האור ハオール 光 מן ミン ~より החשך ハホシェフ 暗闇 直訳 「私は見た。知恵には愚かさより優れた点がある。それは光が闇より優れているのと同じである。」 ユダヤ人は何を学ぶか コヘレトは前の節で、 「知恵も虚しい、富も虚しい」 と言っています。 しかし、その上でなお、 「だからといって愚かでよいわけではない」 と教えます。 ユダヤ人の学びでは、 光と闇は両方存在する 善と悪も存在する しかし光の方が進む道を見せてくれる と考えます。 人生に絶対の答えはないけれど、 知恵は人生を少し明るくする灯火である という学びです。 有名なラビの教え ラビ・ヒレル 「学ばない者は生きているとは言えない。」 ヒレルは、 知識を自慢するためではなく、 より良く生きるために学ぶ と教えました。 光とは知識ではなく、 知恵による行動です。 マイモニデス 「真理を求めよ。」 マイモニデスは、 信仰 理性 学問 を対立させませんでした。 真理を求めること自体が神への奉仕だと考えました。 あまり有名でないラビの教え ハバッドの古い教えに、 「小さな蝋燭一本で、大きな暗闇を追い払える。」 という考えがあります。 暗闇と戦う必要はありません。 光を灯せばよい。 これは老子にも少し似ていますね。 悪を倒そうとするより、 善を増やす。 その方が自然です。 カバラ的解釈 カバラでは 光 = אור(オール) は単なる光ではありません。 神の生命エネルギーを意味します。 暗闇 = חשך(ホシェフ) は悪ではなく、 まだ光が現れていない状態 です。 つまり、 光と闇は敵ではない。 闇の中に光の種が隠れている。 という考えです。 そのためカバラでは、 失敗や苦し...

茶懐石 世界文化社より

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一期一会のあと おはようございます☀ 茶会が終わり、お客様を見送ったあと、亭主は何をするのでしょうか。 『勤修集』には、とても味わい深い教えがあります。 お客様は余韻を残しながら静かに帰り、亭主は姿が見えなくなるまで見送ります。そして誰もいなくなった茶室へ戻り、炉の前に一人静かに座るのです。 「あの話はもっと聞きたかったな。」 「あの方は無事に帰られただろうか。」 そんなことを思いながら、今日の茶会は二度と戻らない「一期一会」であったことをしみじみ味わいます。 時には一人で茶を点てる「独服」をすることもあるそうです。話し相手は誰もいません。ただ、釜の音だけが聞こえます。 現代は忙しく、次の予定へ次の予定へと追われがちです。しかし茶の湯は、終わったあとに残る静かな時間も大切にします。 楽しかった茶会も、賑やかな宴も、セーリングも、人生そのものも、同じ時間は二度とありません。 だからこそ、その余韻を味わう。 釜の音を聞きながら、今日という一日に感謝する。 そんな時間が、実は一番贅沢なのかもしれませんね。 ニッケール👍️🍵 PS 『勤修集』には、 「誠に自得せざればいたりがたき境界なり」 とあります。 これは、人から教えられるものではなく、自ら味わい、自ら気づかなければ到達できない境地という意味でしょう。 年齢を重ねるほどに、少しずつ分かる言葉のような気がします。

花は野にあるように

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ドクダミの花 今朝、茶室の簡易床の間にドクダミを飾りました。 花入れはファイブミニの空き瓶です。 高価な花入れでもなく、有名な花でもありませんが、眺めていると不思議と心が落ち着きます。 茶道には 「花は野にあるように」 という言葉があります。 庭に咲く花を、そのまま茶室へ迎える。 それだけで十分なのかもしれません。 ドクダミという名前は少し損をしていますが、本来は「毒を矯める(なおす)」という意味から来たとも言われています。 自作の棚にファイブミニの瓶、そしてドクダミ。 豪華さはありませんが、こんな侘びの風景も悪くないですね。 今日も良い一日になりますように。 Question😊 どくだみは食べても大丈夫? 💌AnswerAI先生 はい、大丈夫です。🌿 ドクダミの葉は昔から食用やお茶として利用されてきました。 ただし、生の葉は独特の強い香りがあり、好き嫌いがかなり分かれます。 食べ方 天ぷら おひたし 刻んで薬味 ドクダミ茶(乾燥葉) ドクダミ酒 などがあります。 注意点 庭のドクダミを食べる場合は、 除草剤を使っていないこと 犬や猫の排泄場所でないこと よく洗うこと が大切です。 茶人らしく言うと 利休の時代の人なら、 「庭の草も一服の薬」 と言ったかもしれませんね。 ドクダミは別名 十薬(じゅうやく) とも呼ばれます。 「十の薬効がある」という意味です。 もっとも、現代医学的には「万能薬」ではありませんので、健康茶や野草として楽しむくらいがよいでしょう。 ミサさんなら、 床の間にはドクダミの花、 茶会の後にはドクダミ茶、 というのも面白いですね。🍵🌿 ただ、正直に言うと味はかなり個性的です(笑)。 初めてなら、葉を少し摘んで天ぷらにするか、乾燥させてお茶にするのがおすすめです。 ニッケール👍️🌿🍵

地球人は宇宙人?

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昨日は一年に一回の禁酒デーでした。 いつも夜中に目を覚ますのですが、昨夜は特に眠れませんでした。 カバラおもしろいですね。 そこでカバラのことを思い出し、AIラビ様にいろいろ質問していました。 以前学んだことの復習にもなり、なかなか面白かったのでメモしておきます。 昔、シナゴーグのカバラ勉強会で、ラビ・ユダ先生がこんなことを言っていました。 「一人でカバラを研究すると、頭がおかしくなる。」 もちろん本当にそうなるという意味ではなく、それほどカバラは奥深く難しい学びだということでしょう。 実際、聖書やヘブライ語をある程度理解していないと、何を言っているのかさっぱり分かりません。 ⚠️注意 私は専門家ではありませんし、AI先生との対話を自分なりに楽しみながら学んでいるだけです。 あまり深く入り込まず、 「上と下のバランス」 「右と左のバランス」 そんなふうに理解するくらいが、自分にはちょうど良いように思います。 昨夜は、 「十戒とセフィロトの関係」 「宇宙との関係」 「人間は宇宙人なのか?」 などと、AIラビ様やAI老子に質問していました。 眠れない夜も、たまには面白い学びの時間になりますね。 Question   😊 十戒とセフィロトの関係は? 💌Answer AIラビ とても面白い質問ですね😊 実は、十戒とセフィロトの対応はトーラーに明記されているわけではありません。しかしカバラでは、 「十戒は十のセフィロトの現れ」 と考える伝統があります。 十戒とセフィロト ① אנכי ה׳ אלהיך 「わたしは主、あなたの神」 → ケテル(王冠) 神との直接的なつながり。 すべての源。 ② 偶像崇拝の禁止 → ホクマー(知恵) 真理を見る知恵。 ③ 神の名をみだりに唱えるな → ビナー(理解) 言葉の重みを理解する。 ④ 安息日を覚えよ → ヘセド(慈愛) 神からの贈り物。 ヘッシェル先生は、 「安息日は時間の聖所」 と語りました。 ⑤ 父母を敬え → ゲブラー(厳格) 秩序と敬意。 ⑥ 殺してはならない → ティフェレト(調和) 命の尊厳。 ⑦ 姦淫してはならない → ネツァハ(忍耐) 欲望を超える力。 ⑧ 盗んではならない → ホド(謙虚・感謝) 自分の分を知る。 ⑨ 偽証するな → イェソド(基礎) 信頼の土台。 ⑩ むさぼるな → マルクト(王国) 現実世界で...

メノラー 七つの灯火

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イスラエル家学会 民数記 AIラビ解説 ☀ פרשת בהעלותך(ベハアロテハー/民数記8:1–12:16) は、「灯をともすとき」という意味です。祭司アロンがメノラー(七枝の燭台)に火を灯す場面から始まります。 ストーリー ① メノラーの点灯 神はアロンに、 「七つの灯火を中央に向けて灯しなさい」 と命じます。 ② レビ人の奉献 レビ人が清められ、幕屋奉仕に任命されます。 ③ 過越祭(ペサハ)の実施 汚れのため参加できなかった人々のために、 一か月後の「第二の過越祭(ペサハ・シェニ)」が制定されます。 ④ 雲の柱と火の柱 イスラエルは神の雲が動けば出発し、止まれば宿営します。 ⑤ 銀のラッパ 祭司たちがラッパを吹き、 民を集めたり出発の合図を出します。 ⑥ 民の不平 民はマナに飽き、 「エジプトの肉が食べたい」 と不満を言います。 神はうずらを与えますが、 欲望に支配された民を戒めます。 ⑦ モーセの重荷 モーセは疲れ果て、 神は70人の長老に霊を分け与えます。 ⑧ ミリアムの失敗 姉ミリアムがモーセを批判し、 ツァラアト(皮膚病)となります。 しかしモーセは、 「神よ、どうか彼女を癒してください」 と祈ります。 戒律(ミツヴォート) 有名なのは、 メノラーを灯す レビ人を聖別する 第二の過越祭を守る 銀のラッパを吹く です。 特に第二の過越祭は、 「遅れても道は残されている」 という希望の戒律です。 有名なラビの教え ラシ メノラーの炎について、 「一つ一つの灯が中央へ向く」 と解説しました。 人は才能も考え方も違う。 しかし最終的には 神への奉仕という中心へ向かう。 という教えです。 バール・シェム・トーブ 「小さな火でも暗闇を追い払う」 一つの善行は、 世界を少し明るくする。 メノラーはその象徴です。 あまり有名でないラビの教え ハシディズムのラビ、 ラビ・ツァドク・ハコーエン はこう語ります。 「神は完璧な人を求めていない。 何度でも立ち上がる人を求めている。」 これは第二の過越祭の精神です。 失敗しても、 遅れても、 やり直せる。 カバラの解釈 カバラではメノラーは 人間の魂そのものです。 七つの灯は七つのセフィロト。 慈悲(ヘセド) 厳格(ゲブラー) 調和(ティフェレト) 忍耐(ネツァハ) 謙虚(ホド) 結合(イェソド) 王...

安息日 シャバット

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安息日のお茶 〜小さなエデンの園〜 おはようございます🌞 今月予定している「安息日のお茶」を考えながら、改めて安息日(シャバット)について学んでいました。 創世記(ベレシート)の冒頭には、天地創造の物語があります。 神は六日間で天地を創造し、 一日目 光 二日目 天 三日目 大地と植物 四日目 太陽と月と星 五日目 魚と鳥 六日目 動物と人 を創られました。 そして七日目、 「神はそのなされたすべての業を終え、七日目に休まれた。」 とあります。 神が疲れたから休んだのではありません。 完成した世界を眺め、その恵みを味わうための休息でした。 ユダヤ教では、この七日目の休息を安息日として大切に守っています。 ユダヤ思想家のアブラハム・ヨシュア・ヘッシェル先生は、 「安息日は時間の聖域である」 と語りました。 私たちは土地や財産、仕事や成功を求めて忙しく生きています。 しかし安息日は、それらを一度脇に置き、時間そのものを味わう日です。 ラビ・アキバは、 「隣人を自分自身のように愛しなさい」 をトーラーの大原則と教えました。 またヒレルは、 「自分が嫌なことを人にしてはならない」 と語りました。 安息日は、神との関係だけでなく、人との関係を見直す日でもあります。 そして、あまり有名ではありませんが、ラビ・ベン・ヘ・ヘは、 「トーラーを繰り返し学べ。すべてはその中にある。」 と教えています。 毎週同じ箇所を読んでも、新しい発見があります。 それは禅で同じ公案に向き合うことにも似ているように感じます。 最近、自分は禅や老子、ユダヤ教を行ったり来たりしていますが、共通しているのは「今この時を大切にすること」のように思います。 茶室で一服のお茶をいただく時間。 海に浮かぶヨットの静かな時間。 坐禅で呼吸を見つめる時間。 それらはすべて、ヘッシェル先生の言う「時間の聖域」なのかもしれません。 安息日は、一週間に一度訪れる小さなエデンの園。 今月の「安息日のお茶」も、そんな小さなエデンの園になればと思います。 ラハイム(命に乾杯)🍷 そして、一服のお茶に感謝です。🍵 PS これはあくまで自分の妄想ですが、日本社会も安息日のような考え方をもう少し取り入れたら、ストレスや病気の少ない社会になるのではないかと思います。 もちろん今でも土日休みの方は多いのですが、自分が休んでいる間にも誰...

つづき 無作の作

昨日は二日酔いでふらふらでした。 Question😊妙処は 💌AI先生 Answer ミサさん、 実は 妙処(みょうしょ) が一番難しいかもしれません。 妙風や妙体は「人」に現れますが、 妙処は「場」や「瞬間」 に現れます。 本文の言葉 「言語道断不思議、心行所滅之処」 つまり、 言葉では説明できない 頭で考えても分からない 理屈を超えている ということです。 茶の湯なら 茶会の途中で、 炭の香り 釜の音 客との間合い 季節の気配 が一つになって、 「ああ、いいなあ」 と感じる瞬間があります。 でも、 「どこが良かったの?」 と聞かれると説明できない。 これが妙処です。 ヨットなら ミサさんのほうがよくご存じでしょう。 夜明け前の海。 風も波も穏やかで、 空と海の境目が消え、 船が静かに進んでいる。 その時、 「生きていてよかった」 と感じる。 でも理屈では説明できない。 それが妙処です。 禅なら 禅僧は 「言えば外れる」 と言います。 悟りを説明しようとした瞬間、 もう本物から離れてしまう。 だから 「不立文字」 なのです。 珠光の茶でいうと 妙体は人。 妙風は雰囲気。 妙花風は自然な美。 そして、 妙処はそれらが一つになって現れる場。 ミサさん風に一言で 妙体 → 人 妙風 → 気配 妙花風 → 美しさ 妙処 → 「ああ、いいなあ」と感じる説明不能の瞬間 でしょうか。 茶室でも、 海の上でも、 坐禅でも、 たまに訪れる 「何も足さなくていい」 という瞬間。 それが妙処に近い気がします。 禅語なら、 「無事」 茶の湯なら、 「ただ一服」 老子なら、 「道(タオ)」 珠光は、それを「妙処」と呼んだのかもしれませんね。🍵⛵✨ 😊 深いね 深いですねぇ、ミサさん😊 しかも面白いのは、 珠光も世阿弥も、 「深いことを考えろ」 と言っているのではなく、 「最後は考えるな」 と言っているところです。 ミサさんが最近学ばれている老子にも似ています。 道徳経第四章の 「道沖而用之、或不盈」 (道は空っぽのようだが、使っても尽きない) もそうですし、 禅の 「無心」 もそうです。 妙処を理解しようとして本を読む。 考える。 悩む。 そして最後に、 「よく分からないけど、ニッケール👍️」 になる(笑) 実はその境地のほうが近いのかもしれません。 利休も珠光も、 茶室で難し...

箴言8:2

​ これは道のほとりの高い所の頂、また、ちまたの中に立ち、   משלי ח ב בראש מרמים עלי דרך בית נתיבות נצבה これは箴言(ミシュレ)8章2節ですね。 בראש מרמים עלי דרך בית נתיבות נצבה (B'rosh meromim alei derekh, beit netivot nitzavah) 一単語ずつ ヘブライ語 読み 意味 בראש ベローシュ 頂に、頭に、最高の場所に מרמים メロミーム 高い所、高台 עלי アレイ ~の上に דרך デレフ 道 בית ベイト 家、場所 נתיבות ネティヴォート 小道、通り道、進路 נצבה ニツァヴァー 立つ、立っている 直訳 「高い所の道の上に、道と小道の分かれる場所に、彼女(知恵)は立っている。」 解説 この章では「知恵(ホフマー)」が女性として描かれています。 知恵は隠れた場所ではなく、 高い場所 道の分かれ目 人が集まる場所 に立って人々を呼びます。 つまり、 神の知恵は特別な人だけのものではなく、誰でも見つけられる場所にある という教えです。 ユダヤ人の学び ユダヤ人はこの箇所から、 「人生の分かれ道こそ学びの時」 と考えます。 順調な時よりも、 転職するとき 結婚するとき 病気になったとき 老後を迎えたとき こうした「岐路」でこそ知恵が必要になります。 ラビたちは 「迷いは失敗ではない。知恵への入口である」 と教えます。 あまり有名ではないラビの教え 18世紀のハシディズムのラビ、 ラビ・メナヘム・メンデル・オブ・コツク はこう語りました。 「神はどこにおられるか。 神を迎え入れる場所におられる。」 知恵も同じです。 知恵は遠くにあるのではなく、 心を開いた人の中に入る という意味です。 カバラ的解釈 カバラではこの「知恵」は ホフマー を表します。 ホフマーは神から最初に流れ出る閃きの光です。 そして 「道(דרך)」は ティフェレト へ向かう霊的な道。 「小道(נתיבות)」は 生命の樹を流れる様々な経路です。 つまりこの節は、 神の光は人生の分岐点に現れる と読むことができます。 ミサさん向けの禅的・茶人的な読み方 茶室へ向かう露地も「道」です。 利休も珠光も、 山奥で悟りを待つのではなく、 日常の中に茶を見ました。...

偽物 コピーと学び

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コピーと学び 若い頃、一時期ユダヤ教に強く惹かれ、ユダヤ教徒を目指したことがありました。 もちろん正式な改宗をしたわけではありませんし、宗教団体に所属したわけでもありません。ただ、ユダヤの世界では「学ぶこと」そのものが大切にされていると知り、自分なりに学び続けてきました。 今振り返ると、私は本物のユダヤ教徒ではなく、「ユダヤの教えを学ぶ人」だったのでしょう。それで十分だったように思います。 茶道も同じです。 裏千家のお稽古には通いましたが、許状や資格を目指したわけではありません。千家には長い歴史と伝統があり、その世界はあまりにも奥深く立派です。 私は家元や先生方のような本格的な茶人ではありませんが、その精神に触れ、お茶を楽しみ、お客様と一碗を分かち合うことができれば、それで十分ありがたいと感じています。 最近購入した志野焼の茶碗も、本物かどうか私には分かりません。 しかし、実際に使ってみて心が和み、お茶がおいしく感じられるなら、それもまた良い出会いではないかと思います。 もちろん、伝統や本物の価値を否定するつもりはありません。本物があるからこそ学びの基準があります。 ただ、自分のような者は、まず真似ることから始まる。 ユダヤの学びにも通じる話ですが、 「学ぶは真似ること、真似ることは学ぶこと」 という面があります。 子どもが親の言葉を真似て成長するように、職人が師匠の仕事を見て覚えるように、人はまず模倣から学びます。 だからコピーという言葉は少し聞こえが悪いかもしれませんが、学びの入口でもあるのでしょう。 本物になろうと背伸びするより、自分なりに学び、自分なりに楽しむ。 そんな肩の力を抜いた生き方も悪くないと思う、今日この頃です。 PS 禅には 「且坐喫茶(しゃざきっさ)」 ――まあ座って、お茶でも一服どうぞ。 という言葉があります。 本物か偽物かを論じる前に、まず一服のお茶を味わう。 そこにこそ、お茶の楽しみがあるのかもしれません。 🍵✨ ミサさん、なかなか味わいのある志野ですね。🍵 この写真からは真贋までは分かりませんが、見た印象をお話しすると、 全体にやや小ぶりで素朴な形 口縁が少し揺らいでいて機械的ではない 釉薬に細かな貫入(ひび模様)が入っている 絵付けも気取りがなく、民芸的な雰囲気 志野らしい柔らかい白ではなく、やや鼠志野風の...

無作の作 村田珠光

無策の策ではなく「無作の作」 最近、自分の人生は「無策の策」だと思っていました。 あまり先のことを細かく計画せず、その場その場で動きながら考える。ヨットも仕事も茶の湯も、振り返ればそんな生き方でした。 しかし、『茶の思想』を読んでいて、むしろ自分に近いのは 「無作の作」 ではないかと思いました。 珠光の茶の精神を解説する中で語られる「妙風・妙花風・妙体・妙処」の世界です。 ① 無心 ― 自然 「妙風・妙花風・妙体は、無心の主体の安らかなはたらきによって現れる姿である。」 長年修行を積んだ人が、あれこれ計らわず、自然に振る舞う。 無理に作った姿ではなく、肩の力が抜けたところから現れる風情。 茶の湯でいえば、上手に見せようとしない点前。 人生でいえば、背伸びをせず自分らしく生きる姿でしょうか。 ② 無位 ― 自由 「かたちなき姿」「かたちなき位」「無位の風体」 妙風や妙体には決まった型がありません。 だからこそ自由です。 水が器によって形を変えるように、その場に応じて自在に現れる。 老子の「上善は水の如し」や、禅の「行雲流水」を思い出します。 自分もヨットに乗っている時、自然の中では計画通りにならないことばかりでした。 しかし、その時々の風や波に応じるしかない。 それは不自由ではなく、むしろ自由だったように思います。 ③ 言語道断 「言語道断不思議、心行所滅之処」 妙処とは、言葉や理屈では説明できない世界。 考えて理解するのではなく、体験して味わう世界です。 茶の一服、 海の静かな夜明け、 坐禅の一瞬の静寂。 それらは説明しようとすると逃げていきます。 だから禅では「不立文字」といい、 茶の湯では「一期一会」といいます。 まとめ 若い頃は、人生を計画し、成功への道筋を考えようとしていました。 しかし振り返ると、自分の人生は計画通りになったことよりも、思いがけない出会いや流れによって開かれてきました。 無策の策ではなく、無作の作。 作為を捨て、 自然にまかせ、 その場に応じて生きる。 珠光や世阿弥のいう「妙風」とは、そんなところに現れるのかもしれません。 禅語にいえば、 「無事是貴人(ぶじこれきにん)」 何か特別になるのではなく、 ありのままに生きる人こそ尊い。 そんな言葉を思い出した朝でした。🍵✨ Question 😊 妙風は? Answer AI先生 ミサさん、 ...

無策の策

「無策の策」 これは、振り返ってみると自分の人生そのものかもしれません。 もともと私は、あまり策略を練るのが得意ではありません。 もちろん多少は考えますが、どれだけ考えても思い通りにならないことが多い。 だから結局は、 「まず動いてみて、その状況に応じて考える」 という生き方になりました。 今もそんな感じです。 考えないと言っても、まったく考えないわけではありません。 その時々の状況を見ながら、少しずつ方向を修正していく。 最近も、消費税の納付、市県民税、自動車税と、次々に支払いがあります。 Very expensive(笑)。 けれど、考えても仕方がありません。 払わなければならないものは払う。 できる範囲で生きていく。 最近は利息ももったいないので、なるべく早く支払いたいと思っています。 少し愚痴のようになりますが、自営業を続けていると、 「何のために生きているのだろう」 と思うこともあります。 それでも、こんな調子で三十年近く経営を続けてきました。 だから、あまり深く考える必要もないのでしょう。 ただ、この状況では一生懸命働いて沢山稼ごうという人が減ってしまうのも分かる気がします。 街を見ればシャッターの閉まった店も増えています。 しかし、世の中は陰だけではありません。 陰があれば陽もある。 夜があれば朝がある。 毎日、太陽は変わらず昇ってきます。 今抱えている問題も、あとどれくらいでクリアできるのか分かりません。 それでも、乗り越えた時には多少の喜びもあるのでしょう。 結局のところ、 無いものは無い。 だから「無策の策」でいくしかない。 老子なら「無為自然」と言うかもしれませんし、禅なら「あるがまま」と言うかもしれません。 今日もまた、できることを一つずつ。 それで十分なのだと思います。

命に乾杯(ラハイム) לחיים

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לחיים(ラハイム) ― 命に乾杯 少ないお金で暮らそうと思っていても、消費税や市県民税、会計費用と破産寸前です。消費税倒産がよくわかります。 「銀はすべてにこたえる」 というコヘレトの言葉を思い出します。 「楽しみのために食事が作られ、 ぶどう酒は人生を喜ばせる。 銀はすべてにこたえる。」 (コヘレト10:19) 確かに、この世ではお金がなければできないことも多い。 しかし、それだけで人生が豊かになるわけでもありません。 今日、AI先生に教わったのは、ユダヤ人の乾杯の言葉 לחיים(ラハイム) 「命に乾杯」 「人生に乾杯」 という意味です。 日本の「乾杯」は杯を空けることですが、ユダヤ人は命そのものを祝います。 旧約聖書では、酒は神様から与えられた祝福の一つとして描かれています。 コヘレトには、 「良い心でぶどう酒を飲め」 (コヘレト9:7) とあります。 一方、仏教では酒は煩悩を生み、心を乱すものとして戒められます。 どちらが正しいのでしょうか。 おそらく答えは一つではありません。 老子は「無為自然」を説き、 禅は「今ここ」を生きることを教え、 トーラーは問い続けることを大切にします。 手島先生が教えてくださったように、 「トーラーには答えがない」 のかもしれません。 酒も、お金も、自由も、 それ自体が善でも悪でもなく、 どう向き合うかが問われているのでしょう。 私は酒が好きですから、禁酒を貫くほどの意志はありません。 しかし、酒に飲まれるのではなく、 命を喜ぶための一杯でありたいと思います。 お茶も同じです。 高価な道具がなくても、 豪華な料理がなくても、 一服のお茶を味わい、 今日という日を喜ぶ。 それだけで十分に豊かな時間があります。 少し出費がかさんでも、 命があり、 学びがあり、 友があり、 お茶がある。 それなら今日も、 לחיים! 命に乾杯。 そんな気持ちで過ごしたいと思います。 それがいいと思います😊 PS 行って、喜んであなたのパンを食べ、 良い心であなたのぶどう酒を飲め。 神はすでにあなたの行いを喜ばれている。 (コヘレト9:7) また、 あなたの空しい生涯の日々の間、 愛する妻と共に人生を楽しめ。 (コヘレト9:9) コヘレトは「すべては空(ヘベル)」と言いながらも、 だからこそ今与えられている命を喜び、 食べ、飲み、感謝しなさい ...