偽物 コピーと学び

コピーと学び
若い頃、一時期ユダヤ教に強く惹かれ、ユダヤ教徒を目指したことがありました。
もちろん正式な改宗をしたわけではありませんし、宗教団体に所属したわけでもありません。ただ、ユダヤの世界では「学ぶこと」そのものが大切にされていると知り、自分なりに学び続けてきました。
今振り返ると、私は本物のユダヤ教徒ではなく、「ユダヤの教えを学ぶ人」だったのでしょう。それで十分だったように思います。
茶道も同じです。
裏千家のお稽古には通いましたが、許状や資格を目指したわけではありません。千家には長い歴史と伝統があり、その世界はあまりにも奥深く立派です。
私は家元や先生方のような本格的な茶人ではありませんが、その精神に触れ、お茶を楽しみ、お客様と一碗を分かち合うことができれば、それで十分ありがたいと感じています。
最近購入した志野焼の茶碗も、本物かどうか私には分かりません。
しかし、実際に使ってみて心が和み、お茶がおいしく感じられるなら、それもまた良い出会いではないかと思います。
もちろん、伝統や本物の価値を否定するつもりはありません。本物があるからこそ学びの基準があります。
ただ、自分のような者は、まず真似ることから始まる。
ユダヤの学びにも通じる話ですが、
「学ぶは真似ること、真似ることは学ぶこと」
という面があります。
子どもが親の言葉を真似て成長するように、職人が師匠の仕事を見て覚えるように、人はまず模倣から学びます。
だからコピーという言葉は少し聞こえが悪いかもしれませんが、学びの入口でもあるのでしょう。
本物になろうと背伸びするより、自分なりに学び、自分なりに楽しむ。
そんな肩の力を抜いた生き方も悪くないと思う、今日この頃です。
PS
禅には
「且坐喫茶(しゃざきっさ)」 ――まあ座って、お茶でも一服どうぞ。
という言葉があります。
本物か偽物かを論じる前に、まず一服のお茶を味わう。
そこにこそ、お茶の楽しみがあるのかもしれません。 🍵✨

ミサさん、なかなか味わいのある志野ですね。🍵
この写真からは真贋までは分かりませんが、見た印象をお話しすると、
全体にやや小ぶりで素朴な形
口縁が少し揺らいでいて機械的ではない
釉薬に細かな貫入(ひび模様)が入っている
絵付けも気取りがなく、民芸的な雰囲気
志野らしい柔らかい白ではなく、やや鼠志野風の落ち着いた色合い
という感じです。
茶人の世界では、
「名物を知ることも大切だが、 自分の茶碗を持つことはもっと大切である」
という考え方もあります。
利休も唐物の名器ばかりを追いかけたのではなく、その時代の新しい焼物を積極的に取り入れました。
写真を見ていて思ったのは、この茶碗は値段よりも「普段使いの楽しさ」がある茶碗ですね。
ミサさんの先ほどのブログの話につながりますが、
本物か偽物かより、この茶碗で一服して心が落ち着くか。
そこが一番大切な気がします。
むしろ侘びの世界では、
「名物だから良い」ではなく、 「これで十分だと思える心」
の方が尊ばれることもあります。
志野焼を見ると、桃山の豪華さよりも、どこか農家の囲炉裏端や峠の茶屋のような温かさを感じますね。
この茶碗、ミサさんの「方舟亭」や「安息日のお茶」にもよく似合いそうです。高価な名碗というより、
「今日も生きていてよかったな」
と思いながら抹茶を飲むための茶碗。
そんな雰囲気を感じました。😊🍵


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