イスラエル家学会 コラハ
おはようございます🌞
פרשת קרח(パラシャット・コラハ/民数記16:1〜18:32) をご一緒に学びましょう。
ストーリー
コラハ(コラ)はレビ族の有力者でした。
彼はモーセとアロンに対して反乱を起こします。
「会衆は皆聖なる者ではないか。 なぜあなたたちだけが特別なのか。」
と主張し、
250人の有力者たちを集めてモーセの権威に挑戦しました。
しかし神は、
「誰が本当に神に選ばれているか」
を示すため試練を与えます。
その結果、
コラハ一派は地が裂けて飲み込まれ、 250人は火によって滅ぼされます。
その後も民は不平を言い、疫病が起こりますが、 アロンが香炉を持って執り成し、多くの命が救われました。
最後にアロンの杖にアーモンドの花が咲き、 神がアロンを選んだことが示されます。
このパラシャーの教え
表面的には
「反乱は悪い」
という話ですが、
もっと深いテーマは
「嫉妬と正義の違い」
です。
コラハは
「皆平等だ」
という正しいことを言いました。
しかし問題は動機でした。
神のためではなく、
自分が上に立ちたかった。
タルムードは、
「天のための論争は残る。 自分のための論争は消える。」
と教えます。
有名なラビの教え
ラシ
ラシ
ラシは、
コラハの失敗は
「自分の持っている祝福を見なかったこと」
だと説明します。
レビ人という非常に高い役目を与えられていたのに、
祭司になれないことばかり見てしまった。
人は足りないものを見ると不幸になる。
バール・シェム・トーブ
バール・シェム・トーブ
彼はこう教えます。
他人の欠点が見える時は、 自分の心の鏡を見よ。
コラハはモーセの権威が気になった。
実は自分自身の名誉欲が映っていたのです。
あまり有名でないラビの教え
ラビ・シムハ・ブニム・プシスハは、
興味深いことを言います。
コラハは完全に間違っていたのではない。
「皆聖なる者である」
という言葉そのものは真実だった。
しかし、
真実を語ることと、
真実を利用することは違う。
正しい言葉でも、
心が濁れば争いの種になる。
カバラの解釈
カバラでは、
コラハは単なる悪人ではありません。
非常に高い魂を持っていたと考えます。
コラハは
ゲブラー(厳格・力)
のエネルギーを持っていました。
一方モーセは
ティフェレト(調和・慈悲)
を表します。
コラハは
「厳格さ」だけで世界を見ました。
モーセは
「厳格さと慈悲の調和」
で世界を見ました。
カバラでは、
コラハは間違った時代に生まれた理想家とも解釈されます。
未来の世界では、
彼の一部の思想が理解されるとも言われています。
AIラビの一言
コラハの物語は、
「反対してはいけない」
という話ではありません。
むしろ、
なぜ反対するのかを問いなさい
という教えです。
正義のためなのか。
自分の名誉のためなのか。
その違いは外から見えません。
しかし神は心を見る。
だからコラハの物語は、
他人を裁くためではなく、
自分の心を点検するために読むのです。
茶の湯でいえば、
不審庵の「不審」の心にも少し通じるかもしれませんね。
「私は本当に正しいのだろうか。」
そう問い続ける人は、 コラハの道ではなく、 モーセの道を歩いているのかもしれません。🍵✨
😊Question 自分の心の鏡?
💌AI Answer
はい、その通りです。
バール・シェム・トーブは、
「他人の欠点が見えるとき、それは自分の心を映す鏡である」
と教えました。
もちろん、
他人の欠点がすべて自分と同じという意味ではありません。
しかし、
なぜその欠点がそんなに気になるのか、
なぜ腹が立つのか、
なぜ何度も考えてしまうのか、
そこに自分の心を知る手がかりがあるということです。
例えば、
自慢話ばかりする人が気になる → 自分も認められたい気持ちがあるのかもしれない。
お金の話ばかりする人が気になる → 自分もお金に不安があるのかもしれない。
偉そうな人が嫌い → 自分も人から評価されたい気持ちがあるのかもしれない。
禅でも似たような考えがあります。
「人の過ちを見るなかれ。 まず自らを見よ。」
コラハも、
モーセの権威ばかり見ていました。
しかし本当に見るべきだったのは、
モーセではなく、
自分の心の中の嫉妬や名誉欲だったとハシディズムは解釈します。
ただし、これは
「だから何も批判するな」
という意味ではありません。
世の中には本当に間違ったこともあります。
大切なのは、
まず鏡を見ることです。
その上で、
それでもなお言うべきことなら言う。
これがユダヤ教でも禅でも大切にされる姿勢です。
ミサさんがよく好きな言葉の
「無知の知」
にも少し似ていますね。
「相手がおかしい」
で終わらず、
「自分は何を見ているのだろう」
と一度立ち止まる。
その瞬間に、人は少し賢くなるのだと思います。🍵✨
PS
仕事で総家(仮名)さんというお宅に伺ったことがありました。
その時、「総家」という名字から、なぜか創価学会を連想し、さらに旧約聖書の「イスラエルの子ら(ブネイ・イスラエル)」という言葉を思い出しました。
そこで勝手な思いつきですが、自分の学んでいるものを「イスラエル家学会」と名付けてみました(笑)。
もちろん正式な団体ではありません。
ただ、「家で学ぶ会」という意味で考えると、創価学会もイスラエルの民も、どちらも学びを大切にしているという点では少し似ているのかもしれません。
これもまた、自分なりの連想と妄想です。