詩編18:1

​תהלים יח א

למנצח לעבד יהוה לדוד אשר דבר ליהוה את דברי השירה הזאת ביום הציל יהוה אותו מכף כל איבו ומיד שאול


これは詩篇18篇の表題にあたる部分です。ほぼ同じ文章が、サムエル記下にも記されています。

ライティング

主に救われた日の歌

原文

למנצח לעבד יהוה לדוד אשר דבר ליהוה את דברי השירה הזאת ביום הציל יהוה אותו מכף כל איבו ומיד שאול

一語ずつ訳

למנצח(ラメナツェアハ) 指揮者へ、楽長へ

לעבד(レエヴェド) しもべに

יהוה(アドナイ) 主に

לדוד(レダヴィド) ダビデの

אשר(アシェル) 〜したところの

דבר(ディベル) 語った

ליהוה(ラドナイ) 主に

את דברי(エト・ディブレイ) これらの言葉を

השירה הזאת(ハシラー・ハゾット) この歌の

ביום(ベヨーム) その日に

הציל(ヒツィル) 救い出された

יהוה(アドナイ) 主が

אותו(オト) 彼を

מכף(ミカフ) 手から

כל איבו(コル・オイヴァヴ) すべての敵の

ומיד שאול(ウミヤド・シャウル) そしてサウルの手から

現代語訳

「楽長へ。 主のしもべダビデの歌。 主が彼をすべての敵の手とサウルの手から救い出された日に、 ダビデが主に向かって歌った歌。」

ユダヤ人は何を学ぶか

ユダヤの伝統では、この詩は単なる勝利の歌ではありません。

大切なのは、

『敵が滅んだこと』ではなく、 『自分が救われたこと』を感謝する心です。

ダビデは長い間、サウル王に追われました。

洞窟に隠れ、 荒野をさまよい、 命を狙われました。

しかしサウルが死んだ後も、 ダビデは自分の手柄を語りません。

まず神への感謝を歌いました。

ユダヤ人はここから、

「成功したら自慢するのではなく、 まず感謝する」

という姿勢を学びます。

有名なラビの教え

ラシ

ラシは、

「すべての敵の手」

「サウルの手」

を分けて記していることに注目しました。

敵は多くいたが、 ダビデにとって最も苦しかったのは かつて自分を愛し、 王として仕えたサウルだった。

だから聖書は特別にサウルの名を記したのだと説明します。

外敵より、 近しい人との葛藤のほうが苦しいことがある。

ラシはそう教えています。

あまり有名ではないラビの教え

あるハシディズムのラビはこう語りました。

「神は敵からだけでなく、 自分自身からも救ってくださる。」

人は怒りや嫉妬、 執着によって自分自身の敵になります。

ダビデが救われたのは、 サウルからだけではなく、

復讐したいという自分の心からでもあった。

だからこの歌は 勝利の歌ではなく、

心の解放の歌なのだと教えています。

カバラの解釈

カバラでは、

サウル(שאול)

は単なる歴史上の王ではなく、

「恐れ」 「不安」 「欠乏感」

の象徴として読むことがあります。

ダビデは

マルクト(王国)

のセフィラに対応します。

マルクトは現実世界、 私たち自身です。

人は日々、

「足りない」 「失敗するかもしれない」 「認められたい」

というサウルに追われています。

しかし神とのつながりを取り戻すと、

恐れから信頼へ、

欠乏から感謝へ、

執着から自由へ移ることができます。

これが

「主がサウルの手から救った」

という霊的な意味だと解釈されます。

AIラビのひとこと

人生には敵がいます。

しかし本当に手強い敵は、 外にいる人ではなく、 心の中の不安や恐れかもしれません。

ダビデは王になった後も、

「私は自分の力でここまで来た」

とは言いませんでした。

まず感謝の歌を歌いました。

茶の湯でいえば、 一服のお茶をいただけること。

禅でいえば、 今日無事に坐れること。

それだけでも十分に救いなのかもしれません。

「主が私を救ってくださった日」とは、 特別な奇跡の日ではなく、

今日という一日を感謝して生きられる日なのだと思います。

🙏 今日の一言

「敵に勝つことより、感謝を忘れないこと。」




私も旧約聖書の祈りから学なんだことがあります。
それは、 「美味しいご飯を食べさせてください」 と願うことよりも、
今いただけるご飯に感謝することです。
ユダヤの祈りには、 まず与えられているものへの感謝があります。
これは食事だけではありません。
トイレも同じです。
体の悪い方は、 「普通にトイレへ行けますように」 と願うかもしれません。
しかしユダヤの祈りでは、 まず今日も排便できること、 体が働いてくれていることに感謝します。
普段は当たり前と思っていることも、 病気になると当たり前ではなかったことに気づきます。
ご飯を食べられること。 眠れること。 歩けること。 排泄できること。
そうした日常の一つひとつが、 実は大きな恵みなのだと思います。
だから私も、 何かを求める前に、 まず今あるものに感謝する心を忘れないようにしたいと思います。

「奇跡とは特別な出来事ではなく、当たり前と思っている日常そのものかもしれません。」

😊Question
テトラグラマトン
יהוה
日本の神様に例えると

💌AIラビ様
とても面白い質問ですね😊
まず、יהוה(YHWH) は一般に「テトラグラマトン(四文字神名)」と呼ばれます。
ヘブライ語では
י (ヨッド) ה (ヘー) ו (ヴァヴ) ה (ヘー)
の四文字です。
ユダヤ教ではあまりにも神聖なので発音せず、
אדני(アドナイ=主)
と読み替えます。
テトラグラマトンの意味
モーセが燃える柴の前で神に
「あなたのお名前は何ですか」
と尋ねた時、
神は
אהיה אשר אהיה (エヘイェ・アシェル・エヘイェ)
「私は在る者である」 「私は私である」
と答えました。
そのためラビたちは、
יהוה
とは
「存在そのもの」
「過去・現在・未来を超えて在る方」
と理解します。
単なる人格神というより、
宇宙を存在させている根源
に近いです。
日本の神様で例えると?
実は完全に一致する神様はいません。
なぜなら神道は多神教、 ユダヤ教は唯一神だからです。
しかし近いイメージで考えるなら、
① 天照大御神
天照大御神
もっとも一般的な比較です。
太陽 光 生命
の源だからです。
ただし天照大神も多くの神々の一柱です。
YHWHはさらにその上の存在です。
② 天之御中主神
天之御中主神
私はこちらの方が近い気がします。
古事記の最初に現れる神で、
姿もなく、 物語にもほとんど登場せず、
天地創造以前から存在する神です。
これは
「存在そのもの」
というYHWHのイメージにかなり近いです。
カバラ的に言うと
さらに厳密には、
YHWHより上に
אין סוף(エイン・ソフ) (無限なるもの)
があります。
神の本体は人間には理解できない。
YHWHはその無限者が世界に現れた姿。
これを日本神話で無理に例えるなら、
天之御中主神よりさらに奥にある
「名もない大いなる働き」
のような感じです。
AIラビのたとえ
もミサさんの好きな海で例えるなら、
天照大御神 → 太陽
スサノオ → 嵐
龍神 → 海流
ですが、
יהוה は海そのもの
です。
波も、 風も、 太陽も、
すべてその中に含まれている。
だからユダヤ教徒は神の名を軽々しく口にせず、
ただ
「主(アドナイ)」
と呼びます。
個人的には、
天照大御神よりも、天之御中主神の方が近い
と思います。
ただし一番近い表現を選ぶなら、
「天之御中主神を含めた、すべての神々の背後にある根源」
という感じでしょうね。

😊Question
אלהיםは?
💌AIラビ様
これも大切な言葉ですね😊
אלהים(エロヒーム/エロヒム)
は創世記の最初に出てくる神の名前です。
בראשית ברא אלהים
「はじめに神は天地を創造された」
の אלהים です。
意味
不思議なことに、
אל(エル) =神
の複数形が
אלהים(エロヒーム)
です。
直訳すると
「神々」
になります。
しかし聖書では、
אלהים ברא
「神は創造した」
と単数動詞が続きます。
つまり、
複数の神ではなく唯一神
を表しています。
ラビたちは、
「神の力や属性の豊かさを表す複数形」
と説明します。
יהוה と אלהים の違い
ユダヤ教ではよくこう説明します。
יהוה (アドナイ)
→ 慈悲・愛・憐れみ
אלהים (エロヒーム)
→ 正義・裁き・法則
例えば、
太陽の光が暖かいのが יהוה、
重力の法則が厳格なのが אלהים、
という感じです。
同じ神でも見え方が違うのです。
日本の神様で例えると
これも完全一致はありませんが、
神道でいう
八百万の神々の働きを一つにまとめたもの
に近いかもしれません。
ミサさん流に言えば、
יהוה
「大いなる命そのもの」
אלהים
「その命が自然界に現れた働き」
です。
カバラの解釈
カバラでは、
אלהים は
ゲブラー(峻厳・裁き)
と深く結びつきます。
自然法則は公平です。
善人だから重力がなくなることも、
悪人だから火が冷たくなることもありません。
そこには厳格な秩序があります。
それが אלהים の側面です。
一方、
慈悲によって世界を支えるのが יהוה です。
だから世界は
慈悲(יהוה) と 裁き(אלהים)
のバランスで成り立つと考えます。
日本神話で無理に例えるなら
私ならこう考えます。
天之御中主神 → יהוה に近い
八百万の神々の働き全体 → אלהים に近い
つまり、
יהוה は根源
אלהים はその根源が世界に現れた姿
です。
茶の湯で例えるなら、
湯を沸かす火
茶葉
茶碗
すべてを生かしている見えない働きが יהוה
実際に湯が沸き、茶が点ち、法則として現れるのが אלהים
そんなイメージでしょうか😊。
ですから創世記の最初が
בראשית ברא אלהים
なのは、
「天地創造という秩序ある世界の誕生」
を語る場面だから、とラビたちは説明します。
そして人間との親しい関係が語られると、
יהוה אלהים (主なる神)
という名前が現れてくるのです。

😊Question
よく理解できます。
穏やかな太陽と嵐、航海を思い出します。

💌AIラビ様
そうですね

ミサさんは実際に大西洋
や太平洋を渡られているので、この話は頭で理解するより体で分かると思います。
航海で例えると、
יהוה(アドナイ) は海そのもの。
穏やかな日も、 嵐の日も、 凪も、 追い風も、
すべてを包む大きな存在です。
一方、
אלהים(エロヒーム) は海の法則。
風が吹けば波が立つ。 低気圧が来れば時化る。 潮は満ち引きする。
人間の都合では変わりません。
ヨット乗りなら、
「今日は頼むから風が吹いてくれ」
と思っても無風の日はあります。
逆に、
「今日は静かでいてくれ」
と思っても嵐になります。
それがエロヒームの世界。
自然法則です。
しかし嵐の中で、
「それでも生かされている」
「港へ帰れた」
「仲間と再会できた」
と感じる時、
そこにユダヤ人は
יהוה
を見るのでしょう。
だから創世記は
אלהים で始まり、
詩篇は
יהוה が多くなる。
創世記は宇宙の法則を語り、
詩篇は人と神との関係を語るからです。
茶の湯で言えば、
湯が沸くのは物理法則。
これは אלהים 。
しかし、
その一碗をいただいて
「ありがたいなあ」
と思う心は
יהוה 。
そんな感じでしょうか。
ミサさんの
「排便できることへの感謝」
もまさに詩篇的ですね。
病気になれば、 ご飯を食べられることも、 眠れることも、 トイレへ行けることも、
当たり前ではなかったと気づきます。
ユダヤ教の祝福も、
「もっとください」
より
「今日あるものをありがとうございます」
が基本です。
ダビデの詩篇を読んでいると、
大海原を渡った船乗りが港に帰ってきて、
まず文句ではなく
「生かされました」
と祈る姿に少し似ているように思います。

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