茶事と茶道
「茶事」と「茶道」
千宗守家元『利休居士の茶道』を読んでいると、千利休という人は、いわゆる“名器自慢”の世界とは少し違うところに立っていたように感じます。
当時は、 「名物の茶器を持つ者こそ一流」 という空気が強く、 茶人の格まで決まるような時代でした。
その中で利休居士は、 誰でも手に入るような道具を自由に使い、 その場の空気や、人との時間を楽しむような茶事を行っていた。
千宗守家元は、 それを「愉快な面白い茶事」と表現されています。
ここが、とても大切なところのように思います。
「茶事」は本来、 人が集まり、 お茶を飲み、 食べ、 語り、 静かな時間を過ごすこと。
本当はとても簡単なことです。
ところが「茶道」と名前がつくと、 急に難しく感じる。
作法、 道具、 流派、 歴史、 決まりごと。
もちろん、それらには長い積み重ねがあり、美しさもあります。 ただ、そればかりになると、 本来の“人が和む時間”から少し離れてしまうこともあるように感じます。
思い出すのは、自分の母親です。
煎茶が好きで、 お茶うけを作り、 日に三回も四回も、 近所の人や家族と、 とりとめのない話をしながら、 楽しそうにお茶を飲んでいました。
子供の頃の自分は、 その雰囲気があまり好きではありませんでした。
でも今思えば、 あれも立派な「庶民のお茶」だったのでしょう。
形式はなくても、 そこには、 人が集まり、 笑い、 少し休み、 心をゆるめる時間があった。
現代では、 それがコーヒーだったり、 紅茶だったりもする。
昔は高価だった茶葉や砂糖、コーヒーは、 ある意味では贅沢品です。
それでも人は、 一杯のお茶で、 少し救われたり、 安心したりする。
利休の茶も、 本当はそんな、 もっと自由で、 もっと人間らしいものだったのかもしれません。
「茶道」という言葉の前に、 まず「一服のお茶」がある。
そんなことを、 あらためて感じました。
昨日の仏様悟りの言葉に、
「本来本法性(ほんらいほんぽっしょう) 天然自性身(てんねんじしょうしん)」
という言葉があります。
意味を簡単に言えば、
「人は本来、そのままで仏の性質を持っている」
というような教えです。
“本法性”とは、 もともとの真理、本来の姿。
“天然自性身”とは、 作りものではない、 生まれながらの自然な自分。
つまり、 無理に何かを付け加えなくても、 本来の自己の中に、 すでに仏性や真理があるという考えです。
禅問答では、 知識や理屈を積み上げるよりも、 「そのままを見る」 ことを大切にします。
だから、 茶道でも、 ヨットでも、 日常のお茶でも、 形ばかり追いかけると苦しくなる。
逆に、 自然体で、 今ここに集中している時、 人は少し“本来の自分”に戻っているのかもしれません。
千利休の、 名器にこだわらず、 自由な道具で茶を楽しんだ姿にも、 どこか通じるものを感じます。
高価な道具より、 肩書きより、 まず「一服を共にする心」。
禅も茶も、 最後はそこへ戻っていくように思います。