禅悦食 一休宗純より

禅悦食(ぜんえつじき)とは何か
— 一休宗純の言いたかったこと
この言葉は、一休宗純",の禅の核心を、
とても生々しく語っています。
① 夢中になると、人は喜びに包まれる
商売でも学問でも芸術でも、
何もかも忘れて打ちこんでいるとき、
人は深い歓喜に包まれる。
これは
結果が出たから嬉しいのではありません。
儲かったから
評価されたから
ではない。
没頭している「その瞬間」そのものが喜びなのです。
② 自分と対象が一つになるとき
自分と対象が一つになりきったと感じるとき、
禅悦食をいただいたことになる。
商売でも、仕事でも、人でも、道具でもいい。
「自分がやっている」という感覚が消えて、
手が勝手に動く
時間を忘れる
良し悪しを考えていない
そんな状態。
これが禅で言う
無心であり、
**禅悦(ぜんえつ)**です。
③ 命が輝くときとは
命が輝くときなのだ。
一休は、
命が輝く瞬間を
「成功」や「長生き」には置いていません。
生き生きしている
今ここに完全にいる
つながりの中で動いている
その状態こそが
いのちが輝いているということ。
④ 自分を滅して、人のためにする
自分を滅して、人のためにすることこそ禅悦食なのだ。
それは自分のためである。
ここが一番、禅らしいところです。
「自分を捨てて人のためにすると損をする」
――そう思いがちですが、逆。
自分を忘れる
計算をやめる
見返りを考えない
すると、
一番よろこぶのは自分自身。
なぜなら、
喜びで自分の“いのちが輝く”ように
いのちはつくられている
からです。
⑤ 新しい道は、そこから開ける
このことを常にわきまえてすれば
かならずや新しい道が開けようぞ。
努力や知識の前に、
在り方を間違えないこと。
我を張らず
自然に動き
つながりの中に身を置く
そうすれば、
道は「探すもの」ではなく
自然に開いてくる。
⑥ 山水草木に学べ
自分のまわりの山水草木に学ぶのだ。
自然は、
無理をしない
比べない
役に立とうとしない
それでも、
ちゃんと役割を果たし、
つながりの中で生きています。
そこに気づけたら、
しめたものよ。
気づけなければ、
どんなに知識を詰め込んでも
生き方は変わらない。
まとめ(とても短く)
禅悦食とは、
自分を忘れて誰かや何かと一つになり、
命が自然に輝いてしまう状態のこと。
独服、仕事、商売、掃除、食事――
すべてが禅悦食になりうる。
一休は、
**「特別な悟り」ではなく
「今日の生き方」**を教えているのです。
とても実践的で、
とてもやさしい禅ですね。

今日の禅語 

**寿似南山(ことぶき なんざんに にたり)**ですね。

寿似南山(じゅし なんざん)
寿は南山に似たり。
――寿命や生き方は、南の山のようであれ、という言葉です。
南山とは、
中国の古典で「いつまでも崩れない山」「変わらず在り続ける山」の象徴。
高くそびえるというより、
静かに、どっしりと、そこに在る山です。
寿似南山は、
長生きを願う祝いの言葉としても使われますが、
禅の眼で見ると、
生き方そのものへの教えに聞こえてきます。
急がず、競わず、
人と比べず、
一喜一憂せず。
季節が巡っても、
風雨にさらされても、
山は山として在り続ける。
そんなふうに、
日々を重ねること自体が寿なのだと、
この言葉は静かに語っているようです。
茶の湯で言えば、
派手な趣向ではなく、
続けて点ててきた一服一服。
独服のような、
誰にも見せない時間の積み重ね。
寿似南山とは、
「長く生きよ」ではなく、
**「ぶれずに、生きよ」**という教えなのかもしれません。
今日もまた、
南山のように。


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