無常無我から、帰家穏坐へ
無常無我から、帰家穏坐へ
――一期一会としての今を生きる
禅の教えの根本にあるのが、無常無我です。
すべては移ろい、固定した「私」は存在しない。
この事実を忘れたとき、人は悩み、苦しみを抱えます。
それでも私たちは、
何かになろうとし、
立派であろうとし、
自分を作り上げようとして疲れてしまいます。
しかし禅は、逆のことを語ります。
帰家穏坐(きかおんざ)。
外に答えを探すのをやめ、
本来の自分の場所に帰り、
ただ静かに坐れ、と。
そこにあるのは、
努力でつかむ悟りではなく、
もともと備わっていた安心です。
この「今ここ」に立ち返る感覚こそ、
一期一会なのだと思います。
同じ瞬間は二度となく、
この一服、この一言、この沈黙は、
すべて一回きり。
禅の公案集である碧巌録も、
理屈で理解するための本ではありません。
考えれば考えるほど行き詰まり、
最後には手放すしかなくなる。
そのとき初めて、
頭ではなく、身でわかる。
無常無我を受け入れ、
一期一会の今を大切にし、
帰家穏坐として自分に還る。
何かを足さなくてもいい。
何者かにならなくてもいい。
今の自分のままで、静かに坐る。
それが、
禅が教えるシンプルな生き方であり、
茶の湯が大切にしてきた心なのだと思います。
☀️
無常・無我を、やさしく・短く解説します。
無常(むじょう)
すべては変わり続ける
形あるもの、気持ち、立場、命も
同じままは一瞬もない
だから
執着すると苦しくなる
受け入れると軽くなる
👉 花が散るから美しい、という感覚です。
無我(むが)
固定した「私」はない
変わらない自分、絶対の自分は存在しない
心も考えも、状況で常に変わる
「私だ」「私のものだ」と強く握らない
👉 役割や肩書きを脱いだ、素の自分。
二つを合わせると
変わる世界に、固定した自分はいない
だから仏教は
今ここを大切にし
比べず、構えず
自然体で生きることを勧めます。
茶の湯・日常に置くと
完璧を求めない
失敗も老いも受け入れる
只今を丁寧に味わう
ひとことで
「変わることを許し、私に固執しない。」
それが、無常無我の生き方です。
PS
茶の湯の稽古からは、少し距離を置いています。
けれど最近は、禅語を学ぶことが、いつの間にか趣味のようになりました。
考えてみれば、
これもまた茶道の一部なのだと思います。
形をなぞらなくても、
心が向かうところに、茶の精神は息づいている。
あれこれ巡って、
最後に落ち着く場所は、
やはり自分の家は仏教という感覚。
無理をせず、背伸びもせず、
ただ、しっくりくる。
それが、いまの自分にはいちばん心地よいようです。