土曜日・安息日(シャバット)と学びの力
一昔前は、土曜日の**安息日(シャバット)**を大切にして、
できるだけ仕事をしないようにしていました。
今は、日本神道の八百万の神を信じながら、
一つの宗教に縛られず、いろいろな教えを学んでいます。
それでも、バアル・シェム・トーブの教えに触れると、
やはり心が動きます。
低いところに神を見る、その感覚は、
自分には禅にとても近いように感じられます。
学び方は変わっても、
探しているものは、あの頃と
あまり変わっていないのかもしれません。
土曜日・安息日(シャバット)と学びの力
――ヴァエラとバアル・シェム・トーブの教え――
土曜日は、安息日(シャバット)。
モーセ五書では、神はこの日に仕事をしてはならないと定めています。
日本でいえば、どこか元旦に近い感覚でしょうか。
日常の手を止め、神の前に静かに立つ日です。
シャバットには、聖書を朗読するという大切な習慣があります。
ここに、ユダヤ人の強さの源があるのではないかと、私は感じています。
ユダヤの子どもたちは、口がきけるようになると祈りを覚え、
5歳頃には多くを暗記します。
そこから聖書が読めるようになり、
一年を通してモーセ五書を読み、
それを毎年、繰り返し学び続ける。
この「暗記し、繰り返し、身体に染み込ませる」力こそが、
思考力・集中力・精神の強さの土台になっている。
それが「優秀さ」の始まりなのではないか、
私はそう思います。
今週の朗読箇所は
פרשת וארא(パラシャ・ヴァエラ)――「現れた」 です。
バアル・シェム・トーブの教え
「神は、最も低い場所、最も苦しい場所にこそ現れる」
この言葉は、ヴァエラの核心を
人の心の現場にまで引き下ろした教えです。
なぜ「低い場所」なのか
人は、
誇り・成功・余裕の中にいると、
いつの間にか自分の力を頼り、神を忘れがちになります。
反対に、
疲れ、恐れ、絶望の中にある時、
自我は砕かれ、
神を迎え入れる空間が生まれます。
だから神は、
完成した人ではなく、
壊れかけた心に近い。
ヴァエラとの直接的な関係
ヴァエラでは、イスラエルの民がこう描かれます。
「心の短さ(קֹצֶר רוּחַ)と重労働のため、
モーセの言葉を聞くことができなかった」
普通なら、
「信じなかった民が悪い」と読まれがちです。
しかしバアル・シェム・トーブは、
真逆に読みました。
👉 聞けないほど苦しい場所に、神はすでにおられた
神は、
「信仰が足りない」と責めるのではなく、
行動(災いと解放)によって近づいたのです。
ファラオとの対比
ファラオ
高い王座、絶対権力、強い自我
→ 神が入り込む隙がない
奴隷の民
低さ、弱さ、叫び
→ 神が宿る場所
神は「強さ」よりも、
砕かれた心を選ばれる。
生きる宗教へ
バアル・シェム・トーブは教えました。
学問がなくてもよい
正しい言葉が言えなくてもよい
ただ、苦しみの中で神を求める心があればよい
これは、
エリートの宗教から、生きる宗教への転換でした。
禅と日常への共鳴
この教えは、禅の言葉とも深く響き合います。
「無一物中無尽蔵」
「底に落ちて、はじめて道が開く」
仕事で疲れている日。
祈れない朝。
何も感じられない時。
👉 そこが、神が最も近い場所。
まとめ
神は、信仰が強い人の上にではなく、
立ち上がれない人の足元に立っておられる。
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