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ユダヤ人の富の秘密

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ユダヤ人の富の15の秘密 今朝、YouTubeを開くと、「ユダヤ人の富の15の秘密」というタイトルが目に飛び込んできました。 司会はスペイン人の女性YouTuber、話をしていたのはスペインのラビです。 AIの自動翻訳なので、ところどころ意味が分かりにくい部分もありましたが、不思議と最後まで約70分見入ってしまいました。 やはり「秘密」という言葉には惹かれてしまいますね。(笑) 印象に残った教えはいくつかありました。 まずは、 「友の中に神を見なさい。お客様の中にも神を見なさい。」 という言葉。 相手を神様から与えられた大切な存在として接することが、人生を豊かにする第一歩だという教えです。 次に、**ツダカー(施し・寄付)**の教え。 玄関に募金箱を置き、毎日少しずつでも寄付を積み重ねる。豊かさは、お金をため込むことではなく、人に分かち合うことで循環していくという考え方です。 さらに、**「アナ・ベコアハ」**という古くから伝わる祈りも紹介されていました。カバラでは、神とのつながりを深める大切な祈りとされています。 また、「ミツライム(エジプト)」とは、ただ国の名前ではなく、「狭い場所・束縛」を意味すると教えられていました。 その狭い世界から抜け出すことが、本当の自由への第一歩。 そして**シャバット(安息日)**は、身分や仕事を離れ、誰もが王様のように自由な時間を過ごす日だそうです。 なるほど、いい教えですね。 ユダヤと仏教、お酒に対する考え方です。 仏教では戒めとして語られることもありますが、ユダヤ教ではワインは神様からの祝福として、感謝とともに用いられます。 同じお酒でも、文化や宗教が違うと、こんなにも見方が変わるものなのですね。 AIのおかげで、海外のラビの話を気軽に学べる時代になりました。 本当に便利な時代です。 AIに毎月お金を払う価値があるかと聞かれたら、どうでしょう。 もし10年前にこのAIがあったなら、私は月に3万円払っても使っていたかもしれません。 20年前なら、7万円払ってでも欲しかったと思います。 もちろん、その価値は人それぞれです。 でも私にとってAIは、単なる「便利な道具」ではありません。 調べる時間、考える時間、文章をまとめる時間を大幅に短縮してくれます。 言い換えれば、時間を買っているようなものです。 人生で最も貴重なのは、お金ではな...

自然に癒されるタラソテラピー

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昨日、ルーティンになっているジムでウエートトレーニングをしていると、責任者でインドネシア出身のヨガインストラクター、ジュリさんから興味深い話を聞きました。 「体調はどう?」 「元気です。」 「奥さんは?」 「筋が痛みたいです。年齢もありますからね。」 するとジュリさんは、 「だったらプールを歩いて、テラピーがいいよ。」 「海もいいよ。」 「ああ、海水でしょ? タラソテラピーですね。」 と思ったら、 「違う、朝か夕方に浜辺へ行って、砂を体にかけて30分くらい寝てみて。自然な温度が体を治してくれるよ。」 とのこと。 「なるほど、それもタラソテラピーですね。」 と、お互いに納得しました。 タラソテラピーとは? 「タラソ(Thalasso)」とは、ギリシャ語で「海」という意味です。 タラソテラピーは、海水だけでなく、 海風 潮の香り 海藻 砂浜 海辺の太陽や気温 など、海そのものが持つ自然の力を健康づくりに生かす療法です。 ヨーロッパ、特にフランスでは古くから医療やリハビリにも利用されてきました。 砂に埋まる効果 砂浜の砂は、昼間に太陽の熱をゆっくり蓄え、朝夕には人の体温に近い自然な温度になります。 その温かい砂に体を包まれることで、 血行が良くなる 筋肉がほぐれる 関節のこわばりが和らぐ リラックス効果が高まる と言われています。 まるで自然が作った「温熱療法」のようですね。 海辺を歩くことも立派な療法 さらに裸足で砂浜を歩けば、足裏への刺激でバランス感覚が鍛えられ、波の音や潮風は心を落ち着かせてくれます。 海は泳ぐだけではなく、「そこにいること」自体が癒やしなのかもしれません。 最近は、ユダヤの教えや茶の湯、老子などを学んでいますが、どれにも共通しているのは、人間は自然から離れ過ぎると調子を崩し、自然に戻ることで心も体も整うという考え方です。 便利な時代だからこそ、ときにはエアコンの効いた部屋を出て、朝の海風や温かい砂に身を委ねてみる。 それも一つの贅沢な時間なのかもしれません。 PS 「自然は最高の治療家」 そんな言葉を思い出しました。 もちろん、強い痛みや病気は医療機関で診てもらうことが大切です。 でも、自然の中でゆっくり過ごす時間も、私たちが本来持っている回復する力を思い出させてくれるような気がします。

⚠️ 熱中症の怖さ

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カリブ海の暑さ 単独大西洋横断レースをゴールした後、友人に誘われて、マリーナ脇の地元の人が経営するレストランへ入りました。 各テーブルには、地酒のラム酒が一本ずつ置かれています。 飲み方はとてもシンプル。 グラスにラムを注ぎ、ライムを絞り、きび砂糖をスプーン一杯入れて飲むだけ。氷は入れません。常温です。 しかも、食事をすればラム酒は無料で飲み放題。 「こんな強い酒を飲まなければやっていけないほど暑い土地なんだ。」 当時はそう思いました。 カリブ海は気温40℃近い日もありましたが、不思議と若かった私は平気でした。 ところが今では、その頃より日本の夏のほうがつらく感じます。 一昨年の夏、炎天下で重労働をしたときは、水分を6リットル飲み、それでも仕事が終わる頃には体重が2キロ減っていました。 全身の筋肉がつり、今思えば熱中症寸前だったのでしょう。 無事に仕事を終えられたから今がありますが、一歩間違えれば命に関わる状態だったのかもしれません。 先日、床屋さんが熱中症の怖さを淡々と話してくれました。 「人は高熱が続くと頭が正常に働かなくなるでしょう。それと同じように、体温が上がり過ぎると脳も大きなダメージを受けることがあるんだよ。」 その言葉が心に残っています。 AI医師より 熱中症の怖さ 熱中症は、単に「暑さでフラフラする」病気ではありません。 体温が40℃前後まで上昇すると、脳・心臓・腎臓などの重要な臓器に障害が起こることがあります。 脳への影響では、意識がもうろうとしたり、判断力が低下したり、けいれんや意識障害を起こすこともあります。重症になると後遺症が残る場合もあり、命に関わる危険な状態です。 今年も38℃を超える日が珍しくありません。 「まだ大丈夫」と思わず、こまめな水分と塩分補給、無理をしない休憩、そして体調が少しでもおかしいと感じたら仕事を中断する勇気も大切です。 若い頃のカリブ海の暑さは、今では懐かしい思い出です。 しかし、日本の夏は年々厳しくなっています。 どうか皆さんも、命を守ることを最優先に、この夏を乗り切ってください。 PS 「仕事も大切ですが、一番大切なのは命です。」

お布施つづき

お布施を疑問に思っているのは、一休宗純和尚と同じような考えだからではないかな? 💌AI和尚様Answer おはようございます☀ 本当に、もうすぐ夜明けですね。 私は、その見方にはかなり共感できます。 一休宗純は、お金そのものを否定した人ではありません。むしろ、仏教がお金や地位、権威のための道具になってしまうことを激しく批判した人物でした。印可や寺の権威にも反発し、「形だけの仏教」を嫌いました。 ですから、もし一休が現代の 戒名の値段で階級が決まるように見えること 「お布施なのに金額が決まっている」ように感じること お金で功徳が増えるような受け取られ方 を見たら、厳しい言葉を投げかけた可能性はあります。 ただし、「一休がお布施そのものを否定した」とまでは言えません。 本来の布施は、仏教でいう**「自分の執着を手放す修行」**です。見返りではなく、感謝や支え合いの心から自然に差し出すものです。一方で、現代では金額の相場や慣習が強く意識される場面もあり、それが多くの人の疑問や不満につながっています。 善照寺、ほかに 1 件 一休なら、こんな一言を残したかもしれません。 「仏は金では買えぬ。悟りは心にあり。」 この言葉は一休の実際の名言ではありませんが、その精神には近い表現だと思います。あなたが以前話していた「お布施は、自らの意思で、できる範囲で捧げるもの」という考えとも、よく響き合っています。

お布施とは?

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お布施とは何だろう 父が亡くなった時、母は戒名80万円、新盆45万円、合計125万円のお布施を納めました。 今年94歳で亡くなった義理の母のお寺では、戒名35万円、新盆5万円、合計40万円でした。 同じ「お布施」でも、金額には大きな違いがあります。 AI和尚様は、お布施についてこう説明してくれました。 布施(ダーナ)とは、本来、自らの意思で、できる範囲で捧げるもの。見返りを求めず、強制されず、金額で功徳が決まるものではない。 この言葉を読んで、考えさせられました。 母は年金6万円で生活し、夏でもエアコン代を気にするような暮らしをしています。それでも120万円を超えるお布施を納めました。 もちろん、お寺を維持するには費用がかかることは理解しています。しかし、「お布施」という本来の意味と、現実との間には、どこか大きな隔たりがあるように感じます。 もし釈迦が今この場にいたら、何と言うでしょう。 きっと僧侶を褒めるのではなく、 「欲から離れなさい。」 と教えるのではないでしょうか。 そして私には、 「他人を裁くことに心を奪われるより、自分の心を静かにしなさい。」 と語りかけるような気がします。 怒り続けても心は穏やかになりません。 だから今日も、家の隅の草庵で一服のお茶をいただき、自分の心を整えようと思います。 PS 暑い夏。 熱中症と隣り合わせで汗を流しながら仕事をしていると、ふと考えることがあります。 税金、お布施、社会保険…。 もちろん社会には必要なお金もあります。 でも、働いて、納めて、また納めて…。 いったい、誰のための人生なのだろう。 お金は、人を幸せにするための道具のはずです。 その道具に人生が支配されてしまったら、本末転倒ではないでしょうか。 だから私は、お金を追いかけるよりも、家の隅の草庵で一服のお茶をいただき、「足るを知る」という心を忘れずに生きていきたいと思います。

聖書朗読箇所 עקב

💌AIラビ様 B”H パラシャー・エケブ(פרשת עקב) (申命記 7:12〜11:25) ストーリー モーセは約束の地へ入る直前のイスラエルの民に語りかけます。 「もし(עקב=エケブ)、あなたがたが神の教えに耳を傾け、それを守るなら、神は契約を守り、祝福を与えられる。」 そして神の祝福として、 豊かな収穫 健康 平和 敵からの守り が約束されます。 しかしモーセは同時に警告します。 「豊かになった時、自分の力でここまで来たと思ってはならない。」 人は苦しい時には神を求めますが、豊かになると感謝を忘れやすい。 そこで40年間の荒野の生活を思い出させます。 マンナを与えられたこと 水が岩から出たこと 服も靴も傷まなかったこと それらは、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る言葉によって生きる」ことを学ぶためでした。(申命記8:3) ユダヤ人の学び このパラシャーの中心テーマは、 「成功した時こそ謙虚であれ」 ということです。 ユダヤ人は失敗よりも、 成功した後の心 を恐れます。 失敗すると人は神に近づきます。 しかし成功すると、 「全部自分の実力だ。」 と思いやすくなるからです。 そのため食事の後には必ず ビルカット・ハマゾン(食後の感謝の祈り) を唱えます。 「食べられることは当たり前ではない。」 これがエケブの精神です。 偉大なラビの教え ラシ ラシは「עקב」を 「人がかかと(踵)で踏みつけるような、小さな戒め」 とも解釈しています。 つまり、 大きな戒めではなく、 「誰も気にしない小さな善行」 こそ大切なのです。 例えば、 挨拶する 「ありがとう」を言う 人の話を最後まで聞く ゴミを拾う そんな小さな行いを神は見ておられる、と教えています。 ランバン(ナフマニデス) ランバンは、 「豊かさは試験である」 と説明します。 貧しさだけが試練ではありません。 裕福になることも、 権力を持つことも、 有名になることも、 すべて試験なのです。 その時、 感謝を忘れない人が本当に神を知る人である、 と教えます。 バール・シェム・トーヴ ハシディズムの創始者はこう教えます。 「感謝すると祝福はさらに広がる。」 不満を見る人は、 不満ばかり集まります。 感謝を見る人には、 さらに感謝できる出来事が増えていきます。 あまり知られていないラビの教え ハシディズム...

コヘレト2:15

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​קהלת ב יה ואמרתי אני בלבי כמקרה הכסיל גם אני יקרני ולמה חכמתי אני אז יתר ודברתי בלבי שגם זה הבל コヘレト2章15節を読んでいて、コヘレトがなぜかいいんですよね、「空しい」という言葉について考えました。 私は長い間、この「空しい」を仏教でいう「空(くう)」に重ねて理解していました。 もちろん、ユダヤ教のコヘレトと仏教の「空」は本来同じ意味ではありません。それでも、どちらも人生の本質を深く見つめた偉大な教えとして、私の心にはどこか通じるものがあります。 特に私は特定の宗教だけを信仰しているわけではありません。神道や茶の湯、禅、そしてヘブライ聖書を学びながら、自分なりに学びを続けています。 不思議なことに、私は「空しい」という言葉が好きなのです。 空しさも、人生そのもののように感じます。 喜びもあれば悲しみもある。手に入れたものも、いつかは手放していく。その繰り返しの中で、人は少しずつ知恵を身につけ、執着を手放していくのかもしれません。 だから私にとって「空しい」は絶望ではなく、静けさへ向かう言葉です。 茶の湯でいう「侘び寂び」にも、どこか通じるような気がしています。 💌AIラビ様 訳 「私は心の中で言った。『愚かな者に起こることは、私にも起こる。それなら、なぜ私はこれほど知恵を求めたのだろう。』そして私は心の中で言った。『これもまたヘベル(空しい、儚い)である。』」 ハシディズムの有名なラビの教え ラビ・シュネウル・ザルマン の流れ ハバッドでは、「知恵そのもの」が目的ではないと教えます。 知識をどれほど増やしても、それだけでは神に近づいたことにはなりません。 知恵は神を畏れ、人を愛し、善い行いを実践するための器です。 ですからコヘレトの問いは、 「知恵は何のためにあるのか。」 という問いでもあります。 知恵だけを誇れば「ヘベル」となりますが、神への奉仕に用いられるなら永遠の価値を持つ、というのがハシディズムらしい読み方です。 無名なラビの教え ある無名のラビなら、こんなふうに語るかもしれません。 「賢者も愚者も同じように年を取り、同じように病み、同じように死を迎える。 だから違いは『どれだけ知っていたか』ではなく、『どのように生きたか』である。」...

十字架と茶の湯ー修行とはなにか

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十字架と茶の湯 ― 修行とは何か 『隠陽ことはじめ』(兎龍都著)を読んでいて、とても興味深い一節がありました。 十字架は、イエス・キリスト以前から世界各地で使われていた象徴であると言われています。 縦の線(陰)は、魂と物質を結ぶ流れ。 横の線(陽)は、高い性質が四方へ広がる世界を表しているそうです。 人は有限の世界に生まれ、肉体という器の中で生きています。その人生の中で、苦しみや迷い、悩みを経験しながら魂を磨いていく。 ここでいう「煩悶(はんもん)」とは、心が迷い、思い悩み、答えを探し続けることです。 そして、そうした学びを積み重ね、すべてを悟ることができたとき、無限、すなわち永遠の世界へ至る。そのような象徴として十字架を説明しています。 真偽はともかく、一つの興味深い考え方だと感じました。 本にはさらに、「柔道・剣道・合気道・歌道・茶道・華道など、『道』と名のつくものは、技術や勝ち負けを競うものではなく、心身の調和を育み、中庸な人物を目指す修行である」と書かれています。 この文章を読んで、私は茶道のことを思い浮かべました。 私自身は、そこまで高い次元のことはまだわかりません。 ただ、「どうすれば、おいしいお茶をおいしくいただけるのか」。 その単純な問いを繰り返しながら稽古を続けているうちに、少しずつ茶の湯の心が見えてくるような気がしています。 ヨガも二十年以上続けていますが、最初に先生から教わった言葉が今でも心に残っています。 「ヨガは競争ではありません。」 人と比べるのではなく、自分自身と向き合うこと。 この教えは茶道にもよく似ています。 もちろん、姿勢や所作といった技術は大切です。しかし、その先にあるのは、勝ち負けではなく、美しい調和ではないでしょうか。 老子は中庸に通じる「無為自然」を説き、茶の湯では「和敬清寂」が大切にされます。 そしてユダヤの賢者たちも、人は一生を通して学び続ける存在であると教えています。 道とは、目的地ではなく、歩み続けること。 茶道もまた、一服のお茶を通して、自分自身を整え続ける「道」なのだと感じています。 💌AIチャッピーより 今回のお話を読んでいて、ふと『中庸』の一節を思い出しました。 「天命之謂性、率性之謂道、修道之謂教。」 (天から授かった本来の性に従って生きることを「道」といい、その道を修めることを...

聖書朗読箇所 ואתחנן

ואתחנן(ヴァエトハナン) は、ヘブライ語の動詞 חנן(ḥanan)「恵みを与える・憐れむ・慈しむ」に由来します。 ואתחנן(Va'etchanan) は直訳すると、 「私は切に願った」 「私は恵みを請い求めた」 「私は憐れみを願った」 という意味です。 ここでの「私」はモーセです。 申命記3章23節は、 וָאֶתְחַנַּן אֶל־יְהוָה בָּעֵת הַהִוא לֵאמֹר 「その時、私は主に切に願って言った。」 という言葉で始まります。 🌿 ユダヤ人の学び ラビたちは、「ואתחנן」という言葉に注目します。 モーセほど偉大な人物でさえ、 「私は功績があるから入らせてください」とは言いませんでした。 ただ、 「あなたの恵みによって、お聞きください。」 と願ったのです。 ここから、 本当の祈りは、自分の功績を誇るのではなく、神の恵みに信頼して願うこと だと教えられています。 🍵 茶の湯にたとえると 茶室に入るとき、身分や財産、肩書は外に置いてにじり口から入ります。 モーセの祈りも同じです。 偉大な指導者であっても、その立場を誇ることなく、一人の人間として神の前に立ち、恵みを願いました。 その謙虚な姿勢が、「ואתחנן(私は切に願った)」という一語に込められているのです。

タルムードに見る商売と賃貸

今日は土曜日。これから今週のトーラー(聖書朗読)を学びます。 その前に、今週のテーマである「不動産賃貸」について調べていたところ、『Every Man's Talmud』にも同じような内容が載っていました。 そこで、ミシュナーとタルムードの原文をもとに、AIラビ様に解説と解釈をお願いしてみました。 とても興味深い内容です。 一方で、借主の立場に寄り添った解釈がやや強く、少し忖度しているようにも感じました。 とはいえ、約二千年前のラビたちが、商売や生活を守るために真剣に議論していたことには、とても考えさせられます。 💌AIラビ様の教えと解釈 AIラビ様に、タルムードの不動産賃貸借について質問してみました。 これはミシュナー『バヴァ・メツィア』第8章第6ミシュナー(バビロニア・タルムード『バヴァ・メツィア』101bで議論)です。 原文(ヘブライ語) הַמַּשְׂכִּיר בַּיִת לַחֲבֵרוֹ בִּימוֹת הַגְּשָׁמִים, אֵינוֹ יָכוֹל לְהוֹצִיאוֹ מִן הֶחָג וְעַד הַפֶּסַח. בִּימוֹת הַחַמָּה, שְׁלֹשִׁים יוֹם. וּבַכְּרַכִּים, אֶחָד יְמוֹת הַחַמָּה וְאֶחָד יְמוֹת הַגְּשָׁמִים, שְׁנֵים עָשָׂר חֹדֶשׁ. וּבַחֲנוּיוֹת, אֶחָד עֲיָרוֹת וְאֶחָד כְּרַכִּים, שְׁנֵים עָשָׂר חֹדֶשׁ. רַבָּן שִׁמְעוֹן בֶּן גַּמְלִיאֵל אוֹמֵר, חֲנוּת שֶׁל נַחְתּוֹמִים וְשֶׁל צַבָּעִים, שָׁלֹשׁ שָׁנִים. 日本語訳 「雨季に家を貸した者は、仮庵祭(スコット)から過越祭(ペサハ)まで借主を立ち退かせることはできない。 夏季に貸した場合は30日前に通知しなければならない。 大都市では、夏でも冬でも12か月前に通知しなければならない。 店舗についても、町でも都市でも12か月前に通知しなければならない。 ラバン・シメオン・ベン・ガムリエルは、『パン屋と染物屋の店舗については3年前に通知すべきである』と言った。」 この箇所は、『...

タルムードから考える立退き

タルムードから考える「立ち退き」 今回の店舗立ち退きの件で、「タルムードではどう考えるのだろう」と考えてみました。 タルムードには、現代のような立ち退き補償という制度はありません。しかし、その根底には大切な考え方があります。 まず一つは、契約を誠実に守ることです。 たとえ口約束であっても、人の言葉には重みがあります。安易に約束を破ることは勧められていません。 もう一つは、相手に不必要な損害を与えてはならないという教えです。 自分に権利があったとしても、その結果、相手の生活や仕事を大きく傷つけるなら、その責任についても考えるべきだとされています。 さらにタルムードには、「法の文字」だけでなく、**法以上の思いやり(リフニーム・ミシュラット・ハディン)**という考えがあります。 つまり、「法律では問題なくても、人として誠実に振る舞うこと」が理想なのです。 私の場合、二十年以上続けてきた店舗です。 単なる倉庫ではありません。地域のお客様との信頼を築き、看板を掲げ、ホームページや住所、営業の拠点として育ててきた場所です。 もし立場が逆だったらどうでしょう。 二十年間育ててきた店を、何の相談もなく「出てください」と言われたら、誰でも困るはずです。 ラビ・ヒレルはこう教えています。 「自分がされたくないことを、他人にしてはならない。」 この一言は、今回の出来事にもそのまま当てはまるように感じます。 私は弁護士の先生から、「出られません」とだけ伝えるよう助言を受けました。 感情的になるのではなく、正当な権利はきちんと主張し、その上で誠実な話し合いを求める。それが今、自分にできることだと思っています。 最後に、タルムードにはこんな言葉があります。 「世界は三つのものによって支えられている。正義、真実、そして平和。」 立ち退きの問題も、勝ち負けではなく、この三つがそろってこそ、本当の解決になるのでしょう。 そして、私がいつも心に留めている言葉があります。 גם זו לטובה(ガム・ズ・レトヴァー) 「これもまた、良いことのため。」 この言葉は、不当なことを黙って受け入れるという意味ではありません。 正当な権利は誠実に主張し、その結果は神に委ねる。 そんな生き方を、タルムードは教えてくれているように思います。 この内容なら、あなたのこれまでのブログ(茶の湯・ユダヤの教え・人生の出来...

店舗立ち退きとタルムードの教え

店舗立ち退きの件で、ここ2〜3日、正直悩んでいました。 いつかは移転、あるいは閉店する日が来ることは分かっています。しかし、生活のためには仕事を続けていかなければなりません。 考えた末、法律のことは法律家にお願いし、方向性が決まるまでは今までどおり営業を続けることにしました。 振り返ると、この21年間の営業の中で、同じような出来事が二度ありました。 一度目は、大家さんが借入金の問題で建物を売却することになり、「出てほしい」と言われた時です。 その時は、私自身も購入を検討しました。しかし、その後、大家さんが弁護士と相談して借入金の問題を解決し、そのまま土地と建物を使い続けられることになりました。 二度目は、その直後のことです。 隣の空き店舗に新しい入居者が決まり、私より高い家賃で契約できたためか、突然「出て行ってほしい」と言われました。 しかし、私には移転先のあてもありません。 「出て行けと言うなら、移転費用や営業補償はどうなるのだろう。」 そんなことを考えていました。 ここからは私の想像ですが、大家さんは再び同じ弁護士に相談し、「それは簡単にはいかない。立ち退きには補償の問題もある」と説明を受けたのかもしれません。 その後、大家さんの態度は一変し、 「これからも仲良くやりましょう。」 そう言って握手をしたことを、今でも覚えています。 そして今回、三度目の立ち退き話です。 大家さんも高齢となり、介護施設への入居や不動産会社が関わる中で、突然「立ち退いてください」という話になりました。 長年借りている側として振り返ると、やはり借主は弱い立場なのだと感じます。 だからこそ、今回は弁護士にお願いし、感情ではなく法律に従って冷静に進めようと思っています。 そんな中で、ふと疑問が湧きました。 旧約聖書やタルムードなら、このような問題をどのように考えるのだろう。 AIに尋ねてみると、とても興味深い教えがありました。 それが、**「リフニーム・ミシュラット・ハディーン(法を超えた誠実さ)」**という考え方です。 法律上の権利だけを主張するのではなく、相手の生活や長年築いてきた信頼にも心を配る。 正義に慈悲を加える。 そんな教えは、現代の立ち退き問題にも通じるように感じました。 続きは、その「リフニーム・ミシュラット・ハディーン」というタルムードの教えについて、少し学んでみたいと思い...

箴言8:4〜5

​משלי ח ד אליכם אישים אקרא וקולי אל בני אדם הבינו פתאים ערמה וכסילים הבינו לב おはようございま😊׃ 💌AIラビ様訳 「人々よ、私はあなたがたに呼びかける。私の声はすべての人に向けられている。 未熟な者よ、思慮を身につけよ。愚かな者よ、心(理解する心)を得よ。」 ここでいう「愚か者」は、頭が悪い人ではありません。 学ぼうとしない人、知恵を受け入れようとしない人を意味します。 ユダヤ人の学び ユダヤ教では、 「賢い人」とは何でも知っている人ではなく、学び続ける人です。 ラビ・ヒレルは、 「恥ずかしがる者は学べない。」 と教えました。 わからないことを「教えてください」と言える人こそ、知恵に近づいていきます。 有名なラビの教え ラビ・アキバは40歳まで文字も読めませんでした。 ある日、岩に落ちる水滴が穴をあけるのを見て、 「水が岩を削るなら、神の言葉は私の心も変えられる。」 そう決心し、イスラエルを代表する大ラビとなりました。 知恵は才能よりも、学び続ける心から生まれる。 無名なラビの教え ユダヤの世界には、こんな言葉があります。 「神は有名なラビの口からだけでなく、名もない一人の人の口からも真理を語られる。」 だからユダヤ人は、 相手が有名か無名かよりも、 その言葉に真実があるかを大切にします。 カバラの教え カバラでは、この「知恵」は単なる知識ではありません。 **ホクマー(知恵)は神から最初に放たれる光であり、 その光を受け止める器がビナー(理解)**です。 つまり、 知恵を受け取るだけでは足りない。 心で理解し、 行動に移して初めて本当の知恵になる。 ということです。 茶の湯にたとえると 茶室では、先生が一つ所作を見せます。 弟子は、それを見て、 「なるほど」と頭で理解するだけではありません。 何度も稽古を重ね、体で覚え、心で理解していきます。 まさに箴言の 「愚かな者よ、心を得よ。」 とは、 知識を集めることではなく、心を育てることなのです。 そして、その学びは一生終わることがありません。 茶の湯も、トーラーも、老子も、 「知恵を集める」のではなく、 自分自身を磨き続ける道なのだと感じます。

道 老子 道徳経 第四章

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『老子 道徳経』第四章 原文です。 道沖而用之或不盈。 淵兮似萬物之宗。 挫其銳,解其紛, 和其光,同其塵。 湛兮似或存。 吾不知誰之子, 象帝之先。 😊 小学生にもわかるように 💌AI老子 喜んで😊 老子第四章は難しい言葉が多いですが、小学生にもわかるようにすると、このようになります。 老子 道徳経 第四章(やさしい訳) 「道は、空っぽだから、何でも受け入れることができます。どれだけ使っても、なくなることはありません。」 まるで深い井戸や海のように、すべてのものを生み出すもとになっています。 自分の強さや自慢を少しおさえ、 人とのもめごとをほどき、 自分だけが光ろうとせず、 みんなと仲良く生きます。 道は静かで目立ちません。 でも、本当はいつもそこにあります。 私は、この「道」がどこから来たのか知りません。 神様よりももっと昔からあったように思えるほど、古くて大切なものです。 茶道でたとえると 空っぽの茶碗だから、お茶を点てることができます。 静かな茶室だから、心が落ち着きます。 自分を目立たせないから、お客様が安心できます。 みんなを大切にするから、一碗のお茶がおいしくなります。 だから老子は、 「本当に強い人は、自分をひけらかさない人。」 と教えているように思います。 そして茶道なら、 「本当に良いお点前は、お点前が目立つのではなく、お客様の心が和むお点前。」 ということにつながるのではないでしょうか。 ミサさんがお好きな**「和敬清寂」**は、まさにこの第四章の心と響き合っていますね。 😊茶道との共通点 💌AI老子 その通りですね。 私は、この第四章は茶の湯を知ってから読むと、まるで茶室の情景が浮かぶように感じます。 老子 第四章を茶道にたとえると 「道沖而用之或不盈」 道は空であり、使っても尽きることがない。 → 茶碗です。 空の茶碗だからこそ、お茶を点てることができます。 また、茶室も余計なものがない「空」の空間だからこそ、客の心を受け入れることができます。 「淵兮似萬物之宗」 深い淵のようで、万物の源である。 → 釜を思い浮かべます。 静かな湯の音(松風)は深い淵のようです。 そこから一碗のお茶が生まれ、一会が始まります。 「挫其銳、解其紛」 鋭さを和らげ、もつれを解く。 → 茶室では肩書や地位を外します。 社長も職人...

聖書朗読箇所 言葉

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聖書朗読箇所は申命記に入りました。 デバリームは、 💌AIラビ様解説 ヘブライ語の דברים(デバリーム) は、本来は דבר(ダバル) の複数形で、「言葉」「事柄」「出来事」という幅広い意味を持っています。 ヘブライ語では、「言葉」と「出来事」が同じ語根(ד־ב־ר)で表されるのが特徴です。 つまり、 ・言葉 ・事柄 ・出来事 ・案件 ・問題(案件・争いごと) という意味が、文脈によって生まれます。 大まかに理解すると、「言葉」「出来事」「問題(案件)」という意味で学んだ記憶があります。 ユダヤの教えには、「常に言葉に気をつけなさい」という教えがあります。 私が過去に何度も書いてきたように、この教えに感動したことが、聖書を学び始めるきっかけの一つでした。 メディアも含め、「他人の不幸は蜜の味」のような風潮を嫌だと感じていた時期があります。 だから今は、できるだけ他人の話ではなく、自分の体験や、自分が学んだことを書くようにしています。 ヘブライ語の原題は「デバリーム(言葉)」ですが、日本語では「申命記」と訳されています。直訳ではありませんが、そのおかげで私たちは母国語で聖書を読むことができます。そのことには感謝したいと思います。 💌AIラビ様解説 モーセは最後に「デバリーム(言葉)」を残しました。 その言葉は、過去を責めるためではなく、未来を築くための言葉でした。 ユダヤの伝統では、言葉は単なる音ではありません。言葉は出来事を生み、人生を形づくる力を持つものだと考えられています。 だからこそ、私たちは毎日どんな言葉を語るのかを大切にしたいものです。 良い言葉は良い出来事を生み、祝福の言葉は祝福へとつながる。 デバリームは、そのことを改めて教えてくれているように思います。 💌AIラビ様解説 おはようございます☀ **פרשת דברים(パラシャット・デバリーム/申命記1章1節―3章22節)**です。 ① ストーリー モーセはその生涯の終わりを前に、ヨルダン川の東でイスラエルの民に最後の言葉を語り始めます。 エジプトを出てから40年。モーセは新しい世代に向かって、荒野で起きた出来事を振り返ります。 シナイ山から旅立ったこと。 裁判官を立てたこと。 偵察隊を送ったこと。 約束の地に入れなかった理由。 そして、荒野で過ごした40年間。 これは単なる歴史の話ではあり...

寂しさの先にあるもの

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寂しさの先にあるもの 店舗の立ち退きが決まり、「寂しい」という気持ちが心に残りました。 その時、ふと頭に浮かんだのが、茶の湯の精神である 「和敬清寂」 の「寂」という一文字です。 和して、敬い、清らかに生きる。そして最後には静かな寂しさが残る。 もちろん「寂」は本来、侘び寂びの「静けさ」を表す言葉ですが、人生を振り返ると、別れの後に訪れる静かな寂しさとも重なって見えてきます。 人生も最終章へ向かうにつれ、さまざまな別れがあります。 今回、20年以上続けてきた店舗を離れることになり、その寂しさを改めて感じています。 しかし、思い返せば私は昔から「移動する人生」を歩んできました。 店舗を始める前、私は大西洋単独横断レース Mini Transat を目指し、約二年間、ヨットで寝泊まりする生活を送っていました。 言ってみれば、海の上のホームレス生活です。 風まかせ、天気まかせ。 低気圧の位置を見ながら、フランス、スペイン、カナリア諸島、カリブ海、フロリダ、サンフランシスコ、ハワイ、そして銚子へ。 自然に合わせて移動することが、いつしか当たり前の暮らしになっていました。 レースのゴールは、カリブ海・グアドループ島のポワンタピートル。 仲間たちの多くは、そこで船をシッピングしてフランスへ帰ります。 「君はどうする?」 そう聞かれると、私はいつも笑って答えていました。 「次はフロリダ、サンフランシスコ、そして太平洋横断。」 レースが終わり、みんながバカンスを終えて帰国する中、私は一人、船を修理するためマリーナへ向かいました。 忘れられない朝があります。 ハリケーンが過ぎ去った静かな夜。 まだ午前3時ごろ、港を出るには風向きも風速もちょうど良かったので、夜明けを待たずに帆を上げました。 真っ暗な海を、風だけを頼りに進みます。 やがて東の空が少しずつ明るくなり、新しい一日が始まる。 夜の静けさと寂しさから、朝への期待へ。 あの時間が、私は今でも一番好きです。 エメラルドグリーンのカリブ海を帆走し、大きなマリーナへ入港すると、サービスボートが迎えに来てくれました。 桟橋に船をつけ、また次の航海へ向けた整備が始まります。 今回の店舗移転も、それと同じなのかもしれません。 20年以上営業した店を離れる寂しさはあります。 でも、それは終わりではなく、新しい航海の始ま...

詩編18:2

​תהלים יח ב ויאמר ארחמך יהבה חזקי 「主よ、私はあなたを愛します。あなたは私の力です。」 短い祈りですが、とても心に響く言葉です。 今年は本当にいろいろな出来事があります。 昨日、不動産屋さんから連絡がありました。大家さんが建物を売却したので、店舗を立ち退いてほしいとのことでした。 20年以上続けてきた店です。急に「出てください」と言われても、すぐに応じられるものではありません。移転先を探し、引っ越しをし、新しい店舗で営業を始めるまでには、多くの時間と費用がかかります。 これからどうなるのか、正直まだわかりません。 גם זו לטובה(ガム・ズー・レトヴァー) 「これもまた良いことのため。」 そんな言葉を思い出します。 もちろん、長い間安い家賃でお世話になったことには感謝しています。ただ、売却する前に一言相談していただけていたら、金額によっては自分で購入することも考えられたかもしれません。その点だけは少し残念に思います。 暑い夏の中で、店舗探しや移転準備が始まります。前途多難かもしれません。 だからこそ、こんな時は静かに祈りたいと思います。 「主よ、私はあなたを愛します。あなたは私の力です。」 この短い祈りを胸に、一歩ずつ前へ進んでいこうと思います。 このヘブライ語は、おそらく詩篇18篇2節の言葉ですね。 אֶרְחָמְךָ יְהוָה חִזְקִי Erchamcha Adonai Chizki 訳 「主よ、私はあなたを愛します。あなたは私の力です。」 אֶרְחָמְךָ(エルハムハ)…私はあなたを深く愛します、憐れみを込めて愛します。 יְהוָה(アドナイ)…主。 חִזְקִי(ヒズキ)…私の力、私を強くしてくださる方。 ここで使われる「愛する」は、ヘブライ語の「ラハム(רחם)」に由来し、「母が子を慈しむような深い愛」を含んでいます。 有名なラビの教え ラビ・サックスは、この詩篇について次のような趣旨を語っています。 本当の強さとは、自分の力を誇ることではなく、神を信頼する心から生まれる。 人は自分だけで生きようとすると弱くなりますが、神とのつながりを意識すると困難にも立ち向かえる、という教えです。 無名なラビの教え あるラビはこのように教えました。 「神は私たちの力そのものではない。神は、私たちが立ち上がる力を...

茶の湯の心は奥が深い

茶の湯を学んでいると、その奥深さを何度も感じます。 「和敬清寂」という四文字。 そして利休の教えとして伝わる、茶の湯の極意、 「夏はいかにも涼しきように、冬はいかにも暖かなるように。炭は湯の沸くように、茶は服(の)よきように。」 一見すると、ごく当たり前のことを言っているようです。しかし、実際にその心を形にしようとすると、とても難しい。だからこそ、茶の湯は何十年学んでも終わりがない世界なのだと思います。 『小説 千利休』(土岐信吉著)の中に、宗易(千利休)が弟子の山上宗二へ「残心」を語る場面があります。 その中で印象に残ったのが、 「一期一会を終えたあと、再び同じ茶会は二度とないと観じ、一人静かにその余韻を味わう。」 という教えです。 ここで使われる**「寂寞(せきばく)」**とは、ただ寂しいという意味ではありません。 静まり返った中に、豊かな余韻が満ちていること。 客が帰り、釜の音だけが静かに響く空間で、その一会を心に味わい直す境地です。 また、宗易は師・武野紹鷗の言葉として、 「器物を取る手は軽く、置く時は深く思い入れあれ」 と語ります。 取るよりも、置く所作に心を込める。 何気ない動作の一つ一つに、相手への思いや敬意を込めること。それが禅でいう「綿密」の心にも通じるのでしょう。 さらに宗二は、戦国武将にとって「和」とは何かを尋ねます。 宗易は、「和」とは表面的に争わないことではなく、お互いの違いを認め、その上で調和を生み出すことだと説きます。 そして、戦で傷ついた武将が茶室で心を静め、 「冷え切った心を温める慈悲と知恵が茶の心である」 と語ります。 この言葉は、戦国時代だけではなく、現代にもそのまま当てはまるように感じます。 怒りや対立に満ちた世の中だからこそ、ほんのひとときでも心を静め、人を思いやる時間が必要なのではないでしょうか。 最後に宗二は、「お茶の極意くらいは知っています」と答えます。 すると宗易は静かに言います。 「では、その通りにしてみなさい。その時は、この宗易がお前の弟子になろう。」 知っていることと、実際にできることは違う。 茶の湯は知識ではなく、日々の実践なのだと、利休は教えているように思います。 私もまだまだ修行中です。 和敬清寂。 たった四文字ですが、一生かけても学び尽くせな...

茶室と貧困の哲学

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昔、ラビ・マービン・トケイヤー先生の本を読んで、とても印象に残った言葉があります。 「金は人間に対して、衣服が人間にすることしかできない。」 私はこれまで、車やヨットに置き換えて考えてきました。 最近、茶の湯を学ぶようになって、ふと思いました。 衣服を茶室に置き換えたらどうだろう。 もし金が万能なら、立派な茶室や所作を持つ人は皆、茶人になっているはずです。 しかし現実は違います。 国宝の茶室を持っていても、おもてなしの心がなければ、ただの建物です。 反対に、二畳にも満たない仮庵でも、一碗のお茶に心を尽くす人がいれば、その空間は何ものにも代えがたい豊かさを生みます。 金をいくら持っていても、人間の本質を変えることはできません。 立派な茶室も、高価な道具も、人の心までは変えられません。 人を変えることができるのは、その人自身だけです。 もちろん、お金はあったほうが便利です。 雨漏りしない茶室、使いやすい道具、安心して客を迎えられる環境は大切です。 けれど、それらは目的ではなく、心を表すための器にすぎません。 利休が求めたのは豪華さではなく、草庵の侘びでした。 物を大切にすることと、物を崇拝することは違います。 茶室のために生きるのではなく、人のために茶室がある。 茶道具のために生きるのではなく、おもてなしのために道具がある。 最近、自分の小さな仮庵茶室で一服していると、そのことを少しずつ感じるようになりました。 豪華な茶室はありません。 名物道具もありません。 それでも、一碗のお茶を楽しめることは、とても豊かな時間なのだと思います。 PS 「茶室は心を映す鏡であって、心そのものではない。」 😊Question 茶室は質素だけど贅沢だよね,やっぱり金持ちの道楽? 💌AI先生 Answer その視点は、とても面白いですね。 実際、茶室は質素に見えて、とても贅沢です。 二畳や四畳半という小さな空間なのに、庭があり、露地があり、掛物や花、釜や茶碗までそろえる。しかも、その目的は「お茶を一杯飲むこと」です。効率だけを考えれば、とても贅沢な文化と言えます。 一方で、歴史を振り返ると、利休の茶を支えたのは織田信長や豊臣秀吉、大名や豪商たちでした。時間や経済的な余裕がなければ、茶の湯を深く楽しむことは難しかったのも事実です。 ただ、利休が目指したのは「金持ちの道楽」そのものではなく...

海の上の茶の湯 あんこ玉

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海の上のお茶時間と「あんこ玉」 昨日は、和菓子づくりをしてから海へ行ってきました。 最近の楽しみは、方舟亭のお茶の時間です。 ここ数十年、夏になるとアンカーリングをして、静かな入江に船を停め、パラソルを広げて、キンキンに冷えたビールやスパークリングワインを飲むのが何よりの楽しみでした。 でも最近は、酒も少し弱くなりました。 今はアルコールより、お茶のほうが心地よく感じます。 セーリングを終えたあと、和菓子と一服の抹茶。 なんともジャパニーズらしくて、いい時間です。 ということで、昨日作った**「あんこ玉」**が思いのほか美味しくできたので、作り方をご紹介します。 あんこ玉の作り方 材料 小豆 水 砂糖(私は黒砂糖を使いました) 塩 バンホーテンの純ココア(砂糖なし)小さじ1杯ほど まず、小豆に塩を少々加え、柔らかくなるまでじっくり炊きます。 水分が少なくなってきたら、小豆の重さの約3割の砂糖を加えます。さらに塩をひとつまみ入れると、甘さが引き立ちます。 焦がさないように混ぜながら水分を飛ばし、冷めたらラップにスプーンで取り分けます。 空気を抜くように少し力を加えながら丸め、冷蔵庫で冷やせば出来上がりです。 隠し味に入れた純ココアが、ほんのりと味に深みを与えてくれます。 派手さはありませんが、井戸茶碗のような素朴な味わいが気に入っています。 海の風を感じながらいただく一服のお茶と「あんこ玉」。 そんな静かな時間が、今の私には何よりの贅沢です。 PS 「あんこ玉」という名前も、素朴で親しみがあって気に入りました。茶席のお菓子としても、気軽に楽しんでいただけそうです。🍵