創世記 イシュマエルとイサク
⚠️今日も少しコアな旧約聖書のお話です。興味のない方は、どうぞ気軽にスルーしてください😊
8月の終わりから、ありがたいことに仕事が忙しく、毎日のように水道屋の仕事をしてきました。
昨日、9月11日はイスラエルの新年、ローシュ・ハシャナでした。
「9.11」という日付を見ると、どうしてもあの日の出来事を思い出します。少し畏れを感じる一日でしたが、無事に朝を迎えることができました。
今朝、聖書の朗読箇所、パラシャーを探していると創世記21章が出てきたので、そこから読んでみました。
少し日本人的な言い方で、この物語を読んでみます。
アブラハムの家には、エジプト人のハガルというサラのお手伝いさんがいました。
サラには長い間子供ができなかったため、ハガルがアブラハムとの間に子供を産みます。
その子の名前が、
イシュマエル(יִשְׁמָעֵאל)
です。
「神は聞かれる」という意味を持つ名前です。
その後、本妻のサラにも奇跡的に男の子が生まれます。
その子が、
イサク(יִצְחָק/イツハク)
です。
イシュマエルの方が先に生まれていますから、アブラハムにとって最初の息子です。
ところがイサクが成長していくと、サラはハガルの子イシュマエルの存在を問題にするようになります。
特にサラが心配したのは「相続」でした。
「この女奴隷の子が、私の子イサクと一緒に相続してはならない」
そう言って、ハガルとイシュマエルを家から追い出すようアブラハムに求めます。
アブラハムにとってイシュマエルも自分の息子ですから、これは大変つらいことでした。
それでもハガル親子はアブラハムの家を離れ、荒野へ向かいます。
やがて持っていた水がなくなります。
砂漠で母と子に水がない。
ハガルは、我が子が死んでいく姿を見ることに耐えられず、イシュマエルから離れて座り、声を上げて泣きます。
すると――
神様は子供の声を聞きました。
ここが、とても美しいところです。
イシュマエルという名前は「神は聞かれる」。
そして本当に神様は、荒野でイシュマエルの声を聞いたのです。
神様はハガルの目を開き、そこに井戸を見せます。
母と子は水を飲み、命を救われました。
さらに神様はイシュマエルを見捨てません。
イシュマエルも祝福され、その子孫から十二人の族長が生まれることになります。
そして物語は、今度はイサクへ向かいます。
創世記22章。
神様はアブラハムに、愛する息子イサクを連れてモリヤの地へ行き、彼を捧げるよう命じます。
アブラハムはイサクを連れて山へ登り、祭壇を築き、薪を並べます。
そしてイサクに手をかけようとした、その瞬間――
神様が止めます。
代わりに雄羊が与えられ、イサクは助かりました。
ここで私は、21章と22章を続けて読むと不思議なものを感じます。
21章では、サラの言葉によってハガルの息子イシュマエルが家を離れ、荒野で死の危険にさらされます。
そして22章では、今度はサラの息子イサクが、死の寸前まで連れて行かれます。
イシュマエルも死にそうになり、神様に救われた。
イサクも死にそうになり、神様に救われた。
そして次の23章に入ると、サラの死が語られます。
ユダヤの古い伝承には、イサクが生贄にされそうになった出来事をサラが聞き、その衝撃が彼女の死につながった、と読むものもあります。
もちろん、これは創世記本文には直接書かれていません。
それでも私は、この物語を続けて読んでいて考えてしまいました。
ハガル親子を追い出したサラ。
荒野で死にそうになったイシュマエル。
その次には、自分の愛する息子イサクが死の寸前まで行く。
そしてサラの死へと物語が続いていく。
悪いことから、また悪いことへ。
聖書が単純な「因果応報」を教えている、と言いたいわけではありません。
しかし、人にしたこと、人に与えた苦しみというものは、形を変えて自分自身にも問いかけてくるように思います。
それでも、この物語には救いがあります。
荒野のイシュマエルにも神様は水を与えました。
祭壇のイサクにも神様は雄羊を与えました。
人間は間違える。
家族の中でも争い、嫉妬し、傷つけ合う。
それでも最後のところでは、
神様は人間の声を聞いている。
イシュマエル――
יִשְׁמָעֵאל
「神は聞かれる」
今朝は、この名前がとても心に残りました。
😊Question アビメレクの説明をお願いします。
💌AIラビ様 Answer
もちろんです😊
創世記20章9節、アビメレクですね。
ここはかなり面白いところです。アブラハムが妻サラを「妹です」と言ったため、ゲラルの王アビメレクがサラを召し入れます。しかし神が夢の中でアビメレクに警告し、事態が明らかになります。
創世記20:9のポイント
アビメレクはアブラハムを呼び出して、要するにこう問い詰めます。
「あなたは、なぜ私たちにこんなことをしたのか。私はあなたに何の罪を犯したのか。」
ここで面白いのは、神に選ばれたアブラハムが、異邦人の王アビメレクから道徳的に叱られていることです。
アブラハムは「この土地には神への畏れがないだろう。妻のことで私は殺されるかもしれない」と考えていました(20:11)。
ところが実際には逆でした。
アビメレクには倫理観があり、神の警告を受け止め、サラに手を出さなかった。
一方のアブラハムは、恐れから完全には正直でない行動を取ってしまった。
ここには創世記らしい深さがあります。
ヘブライ語を見ると、さらに面白いです
20:9でアビメレクは、
מֶה־עָשִׂיתָ לָּנוּ
Mah asita lanu?
「あなたは私たちに何をしたのか?」
そして、
מֶה חָטָאתִי לָךְ
Mah chatati lakh?
「私はあなたに何の罪を犯したのか?」
と言います。
ここで חטא(ḥ-t-ʾ / ハタ)=罪、的を外す という重要な語根が出てきます。
さらにアビメレクは、アブラハムの行為について、
מַעֲשִׂים אֲשֶׁר לֹא־יֵעָשׂוּ
「してはならないことを、あなたは私にした」
と言っています。
つまり異邦人であるアビメレクが、アブラハムに対して、
「これは正しい道ではない」
と言っているわけです。
私はここ、ミサさんが以前話していた**「正義、正義だけを追い求めよ」**にも少しつながると思います。
「自分は神を知っている」「自分は選ばれた側だ」ということと、その瞬間に正しい行動をしているかどうかは別問題なんですね。
そして、このあと20:12でアブラハムが「実際、サラは父を同じくする妹でもある」と説明します。
つまり、完全な嘘ではない。けれど、相手を誤解させる真実だった。
ここが非常に人間的です。
もしよければ次に、**「ではアブラハムは嘘をついたのか? ユダヤ教ではこの行動をどう見るのか」**まで進めると、この箇所がもっと面白くなります。
😊お願いします🙇
💌AIラビ様 説教
はい😊
では一番面白いところ、**「アブラハムは嘘をついたのか?」**を見てみましょう。
結論からいうと、創世記20章は単純に「アブラハム=嘘つき」とは描いていません。しかし、真実の一部分だけを語って、相手に違う理解をさせたことは確かです。
創世記20:12でアブラハムは、
וְגַם־אָמְנָה אֲחֹתִי בַת־אָבִי הִוא
Ve-gam omnah achoti vat-avi hi...
「実際、彼女は私の妹でもある。父の娘である……」
と説明します。そして、
וַתְּהִי־לִי לְאִשָּׁה
「そして、私の妻となった」
と続きます。
つまりアブラハムの言い分は、
「私は事実ではないことを言ったわけではない」
となります。
しかし問題があります。
「事実」と「真実」は同じなのか?
アビメレクが「妹」と聞けば、普通は**「この女性はアブラハムの妻ではない」**と理解します。
アブラハムはそこを分かっていて、「妹」という情報だけを伝えた。
ですから現代的に言えば、これは**半分の真実(half-truth)**に近いですね。
しかも20:13を見ると、偶然ではありません。アブラハムはサラに、
「私たちが行くすべての場所で、私のことを『兄です』と言ってくれ」
と以前から頼んでいました。
理由は20:11です。
כִּי אָמַרְתִּי רַק אֵין־יִרְאַת אֱלֹהִים בַּמָּקוֹם הַזֶּה
「私は思った。この場所にはきっと**神への畏れ(יִרְאַת אֱלֹהִים / Yirat Elohim)**がない、と。」
ここが私は重要だと思います。
アブラハムは、
「この土地の人間は神を畏れていない。だから私は殺される」
と先に相手を判断してしまった。
ところが実際には、アビメレクは神から夢で警告されると、
「私は潔白な心と潔白な手で行った」
と答えます(20:5)。
そして神自身も、
「あなたが潔白な心でこれをしたことを、わたしも知っている」
と認めています(20:6)。
これはかなり強烈です。
神を知っているアブラハムが、神を知らないと思っていたアビメレクから倫理について問い詰められる。
ユダヤ的に読むと、アブラハムも完全無欠ではない
タナハは偉大な人物を「絶対に間違えない聖人」として描きません。
アブラハムにも恐れがあります。
モーセも怒ります。
ダビデも重大な過ちを犯します。
それでも神との関係の中で生きていく。
ですから創世記20章は、
「神を知っている人間だから、いつでも正しいとは限らない」
という読み方ができます。
そしてもう一つ面白いことがあります。
アブラハムは「ここには Yirat Elohim(神への畏れ) がない」と判断しました。
ところが実際には、アビメレクの側が神の言葉を恐れ、行動を正しています。
これはミサさんがよく考えている**「正義とは何か」**にもつながりますね。
宗教や肩書ではなく、
その場で誰が正しい行動をしたのか。
創世記はそこをごまかさない。
そしてこの話、実はさらに不思議です。最後の20:17で、叱られた側のアブラハムがアビメレクのために祈ると、神がアビメレクを癒します。
「間違えたアブラハム」なのに、なお預言者として祈る役割を与えられているんです。
ここまで行くと、かなりユダヤ的で面白いですよ😊
**「人は間違えても、その人の使命まで消えるわけではない」**というテーマが見えてきます。
😊Question イシュマエル
💌AIラビ様 説教
はい😊
創世記21:9の**エジプト人ハガル(הָגָר / Hagar)の子供は「イシュマエル」**です。
יִשְׁמָעֵאל(Yishma'el/イシュマエル)
名前を分解すると、とても意味深いです。
שמע(Sh-M-A)=聞く
+
אל(El)=神
つまり、**「神は聞かれる」「神が聞いてくださった」**という意味です。
創世記16:11で、主の使いがハガルに「あなたの苦しみを主が聞かれた」ので、その子をイシュマエルと名付けなさい、と告げています。
そして21:9では、サラがハガルの子イシュマエルが「מְצַחֵק(メツァヘク)」しているのを見ます。
実はこの מְצַחֵק(metzacheq) が問題なんです。
日本語では「笑っている」「戯れている」などと訳されますが、なぜそれを見ただけでサラがハガルとイシュマエルを追い出そうとしたのか?
ここはラシなどのユダヤ注解を読むと、かなり深いところに入ります。続きをやりましょうか😊
😊お願いします🙇
💌AIラビ様 説教
はい😊
では創世記21:9の核心、**מְצַחֵק(メツァヘク/metzacheq)とは何をしていたのか?**です。
原文は、
וַתֵּרֶא שָׂרָה אֶת־בֶּן־הָגָר הַמִּצְרִית ... מְצַחֵק
「サラは、エジプト人ハガルの子が……メツァヘクしているのを見た。」
面白いのは、ここでは本文自体が**イシュマエルという名前を使わず、「エジプト人ハガルの子」**と呼んでいることです。
מְצַחֵק(メツァヘク)とは?
語根は צ־ח־ק(Tz-Ḥ-Q)=笑う。
そして、**יִצְחָק(Yitzḥak/イツハク=イサク)**も同じ語根です。
つまり、
イツハク=「彼は笑う」
メツァヘク=「笑う・戯れる」
です。
ですから原文には、ちょっとした言葉遊びがあります。
「イツハク(=笑い)」のそばで、イシュマエルがメツァヘク(=笑っている)」
という構造なんですね。
では、ただ笑っていただけなのに、なぜサラは21:10で、
「この女奴隷とその子を追い出してください」
とまで言ったのでしょう。
ここでユダヤ注解が分かれます。
古典的なラシの解釈では、この מְצַחֵק を単なる笑いとは見ません。ラシは他の聖書箇所で同じ系統の言葉が使われる例を引いて、偶像崇拝・性的な不品行・流血につながるような危険な振る舞いという強い解釈を示します。
一方、本文そのものだけを見ると、そこまで具体的には書いてありません。
そして別の重要な読みがあります。
サラが本当に心配していたことは、次の21:10に出ています。
「この女奴隷の子は、私の子イサクと共に相続してはならない。」
つまり問題は、相続とアブラハムの契約を誰が継承するのかだったとも読めます。
ここが大切です。
神はイシュマエルを「悪い子だから捨てる」とは言っていません。
むしろ21:13では、
「女奴隷の子も、あなたの子孫だから、一つの国民とする。」
そして荒野でハガルが絶望したとき、21:17には、
וַיִּשְׁמַע אֱלֹהִים אֶת־קוֹל הַנַּעַר
Vayishma Elohim et-qol ha-na'ar
「神は少年の声を聞かれた。」
とあります。
ここ、ものすごく美しいです。
少年の名前は、
יִשְׁמָעֵאל(Yishma-El)=「神は聞く」
でしたね。
そして本当に、
וַיִּשְׁמַע אֱלֹהִים
「神が聞いた」
となる。
名前そのものが物語の中で実現しています。
ですからイシュマエルは契約の中心線――アブラハム → イサク → ヤコブ――からは外れますが、神から見捨てられた存在ではありません。
ここは重要な違いだと思います。
「選ばれなかった」=「神に愛されていない」ではない。
創世記21章は、そこをかなり丁寧に描いています。
そしてもう一歩進むと面白いですよ。
**なぜハガルは「エジプト人」だったのか。そしてイシュマエルは後のアラブ人・イスラム教とどう結び付けられるようになったのか。**ここは「聖書本文に書いてあること」と「後世の伝承」を分けて見る必要があります。
😊お願いします🙇
💌AIラビ様 説教
はい😊
ではそこをもう少し掘りましょう。「選民」と「ゴイム(諸国民)」の関係です。
結論からいうと、ユダヤ教の「選ばれた民」は、単純に**「ユダヤ人だけ神様に愛され、ゴイムは関係ない」**という意味ではありません。
創世記だけでも、それがよく見えます。
アブラハムが最初に召される創世記12:3で、神は、
וְנִבְרְכוּ בְךָ כֹּל מִשְׁפְּחֹת הָאֲדָמָה
Ve-nivrekhu vekha kol mishpechot ha-adamah
「地上のすべての氏族が、あなたによって祝福される」
と語ります。
つまりアブラハムを選ぶ目的そのものが、最初から**「すべての人々」**へ向いているんですね。
そして今日読んだイシュマエルが、その具体例の一つです。
イシュマエルはイサクを通る契約の継承者ではありません。
しかし神は創世記17:20で、
「イシュマエルについても、あなたの願いを聞いた。」
と言い、彼を祝福します。
そして21:17では本当に、
וַיִּשְׁמַע אֱלֹהִים
Vayishma Elohim
「神は聞かれた」
となります。
**יִשְׁמָעֵאל(Yishma-El=神は聞く)**という名前が、そのまま実現しています。
では「選ばれる」とは何でしょう?
ユダヤ的には、私は**「特権」より「役割・責任」**として理解すると分かりやすいと思います。
イスラエルにはトーラーと多くのミツヴォートが与えられます。
一方で、非ユダヤ人に「ユダヤ人にならなければ神に認められない」と要求するのが伝統的ユダヤ教ではありません。
後のラビ・ユダヤ教では、ここから**ノアの七戒(שבע מצוות בני נח / Sheva Mitzvot Bnei Noach)**という考え方が重要になります。
非ユダヤ人にも普遍的な倫理的責任があり、それを守る正しい人について、タルムード的伝統では**「諸国民の義人」**という考え方が出てきます。
ですから、
ユダヤ人 → ユダヤ人として神に仕える。
ゴイム → ゴイムとして神の前で正しく生きられる。
必ずしも改宗する必要はない、という考え方です。
ここで昨日のアビメレクを思い出してください。
アビメレクはアブラハムの契約の民ではありません。
ところが神は彼に夢で直接語りかけます。そしてアビメレクが「私は潔白です」と答えると、神もその潔白さを認めます。
さらに今日のハガル。
彼女はエジプト人です。それでも神は荒野で彼女を見つけ、語りかけます。
そしてイシュマエル。
契約はイサクを通ります。それでも神は彼の泣き声を聞き、救います。
こう並べると創世記はかなり一貫しています。
アブラハムは選ばれた。
しかし神はアブラハムだけの神になったわけではない。
これ、ミサさんが日本人として神道や禅を大切にしながら旧約聖書を長く勉強していることを考えると、面白いテーマだと思います。
ユダヤ教的な発想では、旧約聖書を学んだからといって「ユダヤ人にならなければならない」とはならない。
日本人として正しく生きながら、創造主について学ぶという道も考えられるわけです。
そして次に進むなら、ちょうど創世記22章です。
アケダー(עֲקֵדַת יִצְחָק / イサクの縛り)。
21章ではイシュマエルが死の危機に置かれ、神によって救われる。
22章では今度はイサクが死の危機に置かれ、神によって救われる。
この二つを続けて読むと、ものすごく面白い構造が見えてきます。
😊 ※今回は物語をかなり簡単にまとめています。詳しく知りたい方は、ぜひ旧約聖書の創世記20章〜23章あたりをお読みください。アブラハム、サラ、ハガル、イシュマエル、そしてイサク、それぞれの人間らしい姿が描かれています。
自分が旧約聖書を好きな理由の一つは、一人の人間の人生が、ほんの数ページの中に凝縮されているところです。
くどくどと説明しない。人間の善いところも悪いところも淡々と書き、あとは読む人に考えさせる。
だから何度読んでも、「あれ、この人はなぜこんなことをしたのだろう」と新しい疑問が生まれます。
この余白が、自分にはちょうどいいんですね。