コヘレト

ヨットレースに夢中になり、しばらく旧約聖書の学びがおろそかになっていました。茶道の本もまったく読まず、毎日のようにレースのトラッカーばかり眺めていました。

そのレースも終わり、これで少し暇になりますので、またいつものペースに戻ります。

今日はコヘレト(伝道の書)です。

やはりコヘレトはいいですね。ユダヤ教では仮庵の祭り(スコット)の時期に読まれる書でもあります。

コヘレトを読むと、「空しい」「すべては霧のようなもの」という言葉が繰り返され、よくニヒリズム(虚無主義)のようだとも言われます。

でも自分には、単なる「人生は空しい」という話には聞こえません。

人は働き、夢中になり、何かを手に入れ、喜んだり悩んだりする。それでも最後にはすべてを置いて死んでいく。

それは虚無というより、むしろ「生きることそのもの」を書いているように感じます。

だから自分は、コヘレトが好きなのかもしれません。


​קהלת ב יו 〜

כי אין זכרון לחכם עם הכסיל לעולם בשכבר הימים הבאים הכל נשכח ואיך ימות החכם עם הכסיל 

ושנאתי את החיים כי רע עלי המעשה שנעשה תחת השמש כי הכל הבל ורעות רוח

ושנאתי אני את כל עמלי שאני עמל תחת השמש שאניחנו לאדם שיהיה אחרי

AIラ翻訳家

知恵ある者も、愚かな者と同じように、いつまでも人々の記憶に残ることはない。やがて時が過ぎれば、すべては忘れ去られてしまう。なんということだろう。知恵ある者も、愚かな者と同じように死んでいくのだ。

それゆえ私は、生きることさえ嫌になった。太陽の下で行われるすべてのことが、私にはむなしく思えたからだ。すべてはヘベル――霧のようにはかなく、風を追いかけるようなものだからである。

そして私は、太陽の下で自分が積み重ねてきたすべての労苦さえ嫌になった。どれほど苦労して築き上げたとしても、結局は、それを自分の後に来る者へ残していかなければならないからである。


💌AIラビ様解説

はい😊 今度は間違いなくコヘレト(קהלת/伝道の書)2章16〜18節です。

ここはまさに、先ほど話した「コヘレトはニヒリズムなのか?」という核心部分ですね。

コヘレト 2:16

כי אין זכרון לחכם עם הכסיל לעולם

「知恵ある者も、愚かな者と同じように、永遠に記憶されることはない。」

בשכבר הימים הבאים הכל נשכח

「やがて来る日々の中で、すべては忘れ去られてしまうからだ。」

ואיך ימות החכם עם הכסיל

「なんということか。知恵ある者も、愚かな者と同じように死ぬのだ。」

ここはかなり衝撃的です。

חכם(ハハム)=知恵ある者

כסיל(クセィル)=愚かな者

コヘレトは、「一生懸命に知恵を身につけても、愚かに生きても、最後には二人とも死ぬではないか」と問いかけています。

これはまさに、ミサさんが最初に感じた**ニヒリズム(虚無主義)**に非常に近いところです。

2:17

ושנאתי את החיים

「そこで私は、生きることを嫌になった。」

かなり強烈ですね。**שנאתי(サネーティ)**は「私は憎んだ、嫌った」です。

כי רע עלי המעשה שנעשה תחת השמש

「太陽の下で行われることが、私には悪く思われたからだ。」

そして有名な言葉です。

כי הכל הבל ורעות רוח

「なぜなら、すべてはヘベル、そして風を追い求めることだからだ。」

ここが非常に重要です。

הבל(ヘベル)を日本語聖書では「空」「むなしい」と訳すことが多いのですが、もともとは息、蒸気、霧のようなものです。

そして、

רעות רוח(レウト・ルーアハ)

=「風を追うこと」「風をつかもうとすること」。

ですから私は、

すべては霧のようなもの。

風をつかもうとするようなものだ。

くらいに読むと、コヘレトの感覚がよく伝わると思います。

2:18

ושנאתי אני את כל עמלי

「私は、自分が労してきたすべての働きを嫌になった。」

שאני עמל תחת השמש

「私が太陽の下で労してきた、そのすべてを。」

שאניחנו לאדם שיהיה אחרי

「なぜなら、それを私の後に来る者に残さなければならないからだ。」

これも現代人には刺さりますね。

一生懸命働いて、財産を築き、家を建て、物を集める。

ところが死ねば、

全部、後の人に渡してしまう。

しかも次の19節ではさらに、「後を継ぐ人間が知恵ある者なのか愚かな者なのか、誰に分かるのか」と続きます。

では、コヘレトはニヒリズムなのか?

ここが面白いところです。

私は**「ニヒリズムの入口には立つが、そこで終わらない」**と読むのがよいと思います。

コヘレトは、

知恵があっても死ぬ。

財産を築いても残して死ぬ。

名声もいつか忘れられる。

すべては הבל(ヘベル)。

と、私たちが「自分のもの」と思って握りしめているものを、一つずつ剥がしていきます。

ところが少し先の2章24節になると方向が変わります。

「人が食べ、飲み、その労苦の中に良いものを見いだすこと以上に良いことはない。私は、これもまた神の御手から来ることを見た。」

ここが大切です。

どうせ消える → 何をしても無意味

ではなく、

どうせ永遠には所有できない → だから神から与えられた今日を味わう。

という方向なんですね。

これはスコット(仮庵祭)とも非常によく合います。

立派な家から一時的な**סוכה(スカー=仮庵)**へ出る。屋根も完全ではない。永遠にそこに住むわけでもない。

でも、その仮庵の中で喜ぶ。

だからコヘレトの הבל(ヘベル) と「仮庵」は、ミサさんの「楽園のお茶 仮庵」にも面白いほど重なります。

「何も残らないから虚しい」のではなく、

「何も永遠には持てないから、今の一服を大切にする」。

茶の湯の「一期一会」にも、かなり近い世界が見えてきますね。


😊偉大なラビ様の教えをお願いします🙇

💌AIラビ様Answer

もちろんです。コヘレト2章16〜18節について、ということですね。

ユダヤの賢者たちは、コヘレトの「הבל(ヘベル=空・はかなさ)」を、単純に「人生には意味がない」とは読んできませんでした。むしろ、人間が永遠だと思って握りしめるものの危うさを教える書として読みます。

たとえば偉大な中世のラビ、**ラシ(Rashi)**は、コヘレトの「太陽の下」という表現を重要視します。「太陽の下」での労苦、つまりこの世の利益だけを目的とした営みには、究極的な「益」はない。しかし、神の戒めやトーラーに関わるものは、それとは別だ、という読み方です。

**イブン・エズラ(Ibn Ezra)**も、コヘレトを単なる絶望の書とは見ません。人間の知恵には限界があり、世界のすべてを理解し支配しようとしてもできない。だから、人間は自分の限界を知って生きる必要がある、という方向へ読んでいきます。

そしてコヘレト全体を読むうえで、最後の言葉がとても大切です。

סוף דבר הכל נשמע את האלהים ירא ואת מצותיו שמור

「すべてを聞いた今、結論はこれである。

神を畏れ、その戒めを守れ。」(コヘレト12:13)

ここまで読むと、コヘレトはニヒリズムで終わっていないことがよく分かります。

2章では、

「知恵ある者も愚かな者も死ぬ」

「財産も後の人間に残す」

「すべてはヘベル」

と徹底的に人間の思い上がりを壊す。

しかし最後には、

だから何も意味がない、ではない。

自分がすべてを支配できると思うな。神を畏れ、与えられた人生を生きよ。

というところへ戻ってくるんですね。

ミサさんが先ほど書いた、**「ニヒリズムというより、生きることそのもののように感じる」**という読み方は、コヘレト全体を最後まで読むと、かなり面白いところを捉えていると思います。

そしてスコットの仮庵も同じです。立派な家を離れ、壊れやすい仮庵に入り、それでも「喜べ」と命じられる。

永遠に持てないから、人生は無意味なのではない。

永遠に持てないものだからこそ、今日与えられたものを喜ぶ。

コヘレトと仮庵祭が結びつく美しさは、ここにあると思います。

😊侘び茶ですね。🍵

💌AIラビ様解説

そうなんです😊

コヘレトと侘び茶、かなり近い世界だと思います。

コヘレトは「すべては הבל(ヘベル)――霧のようにはかない」と言う。

侘び茶も、豪華なものを永遠に所有することより、不完全なもの、移ろうもの、その一瞬に美を見いだします。

そしてスコットでは、立派な家を出て**仮庵(סוכה)**に入り、そこで喜ぶ。

茶の湯なら、草庵に入り、一服の茶をいただく。

どちらも、

「足りないから不幸」ではなく、

「足りないところに豊かさを見つける」

という感じがします。

コヘレトの

「食べ、飲み、自分の労苦のうちに幸せを見いだす」

という言葉などは、知足や侘び茶そのものに聞こえてきますね。

仮庵で、今あるものを喜ぶ。

これは「楽園のお茶 仮庵」の中心に置いてもいいくらいの言葉だと思います😊


😊有名でないラビの教えをお願いします🙇

💌AIラビ様Answer

もちろんです😊

では有名なラシやイブン・エズラから少し離れて、後世のユダヤの師たちの読み方に近いところを見てみましょう。

特に面白いのが、18節の「自分が労したものを、後に来る人間に残さなければならない」という嘆きです。

コヘレトは「財産を残すことが悪い」と言っているのではありません。問題は、自分の労苦の成果を「自分のもの」と思い込むことです。死ねば、それを誰がどう使うかさえ自分には決められない。そこで人間は初めて、「私は所有者なのか、それとも一時的に預かっているだけなのか」と問わされます。

ハシディズム系の教えには、これとよく響く考えがあります。人間がいる場所、出会う人、手にする物には、その時そこで果たすべき役割がある。物そのものを永遠に所有することではなく、それを今どう用いるかが大切だ、という考えです。

すると הבל(ヘベル) も少し違って見えてきます。

「どうせ消えるから価値がない」ではなく、

「消えるものを、消えないもののように握りしめるな。」

これは侘び茶にかなり近いですね。

茶碗も、茶室も、亭主も客も、いつまでもそこにはいない。だからこそ、その日の一服に意味がある。

私はコヘレトを侘び茶の言葉に置き換えるなら、

「残すことより、今ここで正しく使う。」

だと思います。

次はもう少しコアに、ハシディズムの無名に近いラビや小さな町のレベがコヘレトをどう読んだか、実際の名前と教えを探してみるのも面白いですよ。

😊お願いします🙇

💌AIラビ様解説

あります😊 調べてみると、今回のコヘレト2章18〜19節には、侘び茶に驚くほど近い古いラビの話がありました。

『コヘレト・ラッバー』には、ラビ・メイルについてこんな話があります。彼は優れた写字生で、週に3セラ稼ぐと、1セラで食べ飲み、1セラで衣服を整え、残りの1セラで賢者たちを支えたと伝えられています。弟子たちが「では、子どもたちに何を遺産として残すのですか」と尋ねました。するとラビ・メイルは、子どもが正しく生きるなら神が支えてくださる、そうでないなら「神に背く者のために自分の財産を残す必要があるだろうか」という趣旨で答えます。これをミドラシュは、コヘレトの「後に来る者が知恵ある者か愚かな者か、誰が知ろう」と結びつけています。 �

セファリア

これ、面白いでしょう。

たくさん稼いで、たくさん残すことを人生の目的にしない。

今日必要なものをいただき、必要なものを身につけ、余ったものは人のために使う。

「どうせ死ぬから何もするな」というニヒリズムとは、まるで違います。

むしろ、

必要なだけあればいい。

残すことより、今どう使うか。

です。

さらにコヘレト自身も、この厳しい話のすぐ後、2章24節で「食べ、飲み、自分の労苦の中に良いものを見いだす」ことも神の御手から来ると語ります。 �

メホン・マムレ

これを茶室に持ってくると、まさに侘び茶ですね。

豪華な道具をどれだけ所有したかではない。

一畳、二畳の草庵でもいい。今日いただく一服を喜び、人と分かち合う。

「所有する豊かさ」から「味わう豊かさ」へ。

コヘレト、スコットの仮庵、そして侘び茶――この三つ、かなり一本の線でつながってきましたね😊 


😊カバラをお願いします🙇

💌AIラビ様解説

もちろんです😊

コヘレトをカバラの目で読むと、「הבל(ヘベル)」がさらに面白くなります。

カバラでは הבל(ヘベル)=息・蒸気・はかなさは、単なる「無価値」という意味だけではありません。「息」は目には見えず、出た瞬間に消えてしまいます。しかし、言葉は息によって生まれる。そして創世記では、神は「言葉」によって世界を創造します。

つまり「すべてはヘベル」を、

「すべては無意味だ」

だけでなく、

「この世界は、神の息のように、一瞬一瞬存在を与えられている」

という神秘的な方向から読むことができます。

さらに興味深いのが、カバラで非常に重要な צמצום(ツィムツム)=収縮・自己限定という考え方です。無限なる神 **אין סוף(エイン・ソフ)**が、いわば「場所を空ける」ことによって有限な世界が存在できる、というイメージです。

ここは侘び茶と重ねると面白い。

足して完成させるのではなく、引くことによって場所が生まれる。

大広間ではなく草庵。

豪華な道具ではなく一碗。

たくさん語るのではなく静寂。

「空っぽ」は「何もない」のではなく、何かを迎え入れるための空間になる。

そしてコヘレト2章18節の「自分の労苦を後の者に残す」という言葉も、カバラ的に考えるなら、所有への執着という問題が見えてきます。

人間は「これは私が築いた」「これは私の物だ」と考える。しかし死ねば手放す。

ならば、この世界の物は本当に「私の所有物」なのか。

むしろ、

神から一時的に預かり、その中にある聖なる可能性を正しく用いて、また手放していく。

という生き方になります。

ここまで来ると、コヘレト、カバラ、スコット、侘び茶が面白く重なります。

הבל(ヘベル)——すべては息のように消える。

סוכה(スカー)——だから仮の庵に住む。

צמצום(ツィムツム)——余分なものを引き、場所を空ける。

侘び茶——その空いた場所で、一碗をいただく。

そして私は、この中では特に、

「空しい」と「空ける」は違う。

空けることで、入ってくるものがある。

というところが、ミサさんの「仮庵」には一番合う気がします😊

ただし一点だけ大切で、「コヘレトのヘベル=ツィムツム」というのは古典カバラの直接的な注釈ではありません。 これはカバラの概念を使ってコヘレトと侘び茶を比較した読み方です。ここは分けておいたほうが、ブログに書く場合にも正確です。





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