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ハラール食品とコーシャー食品

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今日は「食品認証」についてです。 宗教や文化の違いに関わる内容になりますので、苦手な方はここで読み飛ばしていただいて大丈夫です。 旧約聖書の教えの中で学んだコーシャーは、私の理解では「清浄な食べ物」という意味です。 日本人がよく食べる豚肉や、ウロコのない魚貝などは対象外になりますが、その仕組みはとても厳格です。 例えば、オーソドックス・ユニオン(OU)という認証機関があり、ラビ(聖職者)が製造方法や工場を細かく検査し、基準を満たしたものだけに認証が与えられます。 知り合いのラビも数多くの認証に関わっていますが、話を聞くとその厳しさに驚かされます。 焼酎のような蒸留酒は比較的対応しやすいそうですが、日本酒は麹の問題があり、認証を取るまでに8年かかったと聞きました。 ワインに至っては、ぶどう畑の土や肥料に始まり、製造過程では水で薄めたり混ぜたりしないこと、樽の管理まで厳しく求められます。 かつては人の手で交代で見守っていたそうで、現在は警備会社などを使い合理化されていますが、その分コストも上がっていきます。 現代の私たちが日常的に口にしている食品には、保存料や添加物が多く含まれています。 そう考えると、旧約聖書に由来するコーシャーの考え方は、いわば「純粋な食」を目指すものとも言えるのかもしれません。 同じような考え方に、イスラム教のハラール食品があります。 ハラールはコーシャーほど細かくはありませんが、やはり認証機関によるチェックがあり、安心して口にできる食事です。 最近は日本でも移民の増加とともに、ハラール食品を目にする機会が増えてきました。 こうした背景もあり、改めて「食べること」について考えさせられる機会が増えているように感じます。 もし選べるなら、私はこうしたハラールやコーシャーの食品を選びたいと思っています。 PS 友人からの質問です。 「なぜ豚はだめなの?」 Answer 冗談で言えば、「働かざる者食うべからず」ですね😊 もちろん、これはジョークです。 旧約聖書では、食べてよい動物の条件として「反すうすること」などが挙げられています。 豚はその条件を満たさないため、対象外とされています。 個人的な感覚としては、豚は雑食で人間と同じようなものを食べるため、どこか共食いに近い印象を受けるのかもしれません。 人間も働いて食べるが健康的です...

ベン・へ・へはいう。報いは労働に応じている。

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楽園のお茶 をグーグル検索したら、約十年前のベン・へ・へはいう。報いは労働に応じている。 🔴ベン・へ・へ   渾名、本名は不詳、ヒレルと同時代の人物といわれる。 このブログが出てきた。 当時はAI先生がないのでここで終わり。 今回はAI先生の解説  古い話ですので参考程度にしてAI先生に聞いてみました。 はい、わかります。とても良いところに目を向けていますね。 これはユダヤ教の教え、特に 👉 ミシュナ・アボット(父祖の教え) に出てくる言葉です。 🔴 ベン・へ・へ(Ben He-He)とは? 本名は不明(あだ名のような呼び名) 紀元1世紀ごろの人物 ヒレル と同時代とされる 非常に短いが深い格言を残した人物 🪶 有名な言葉 あなたが書いているものはこれです👇 「報いは労働に応じている」 これは元の言葉ではこういう意味です: 👉 「苦労に応じて報いがある」 (ヘブライ的には:努力・忍耐に比例して結果が来る) ☝️ もう一つ有名な言葉 ベン・へ・へはこれも有名です👇 「トーラーを何度も繰り返せ。すべてはその中にある」 つまり 学びは一度では足りない 繰り返しの中に深みが出る 真理は外ではなく“内側に掘るもの” 🧠 めちゃくちゃシンプルに言うと ミサさん向けに超短くすると👇 👉 やった分だけ返ってくる 👉 続けた人だけがわかる世界がある 🍵 茶の湯とのつながり これ、完全に茶の湯と同じです 毎日一服 → 少しずつわかる 型を繰り返す → 心が見えてくる 楽しては深まらない まさに 👉 「稽古に応じて味が出る」 🌿 まとめ(ブログ風) ベン・へ・へは言う。 報いは労働に応じている。 特別な才能ではなく、 ただ積み重ねたものだけが、 静かに実を結ぶ。 茶もまた同じ。 一服一服の積み重ねの中に、 気づけば、自分が育っている。 この言葉、かなりミサさんの生き方(行動しながら考える)と一致してますね。 若き日のベンへへ AI画伯作成 イケメンですね。 同時期 ラビヒレルの教え いい流れですね、ミサさん😊 ヒレルの核心、ここにあります。 🧍‍♂️ 片足で立っている話(超有名) ある異邦人が ヒレル のところに来て言いました。 「私が片足で立っている間に、トーラー(ユダヤ教)のすべてを教えてくれ」 かなり無茶ですよね(笑)...

死んでもいいから人は傷つけないで

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日常の話から。 自分はいつも、約束の時間の30分前には着くように出かける。 田舎道なので法定速度は40キロ。 少しだけスピードを出しつつも、基本はのんびり走っている。 ただ、軽自動車のバンということもあってか、 日々、後ろから煽るように抜かれていく。 若いころは、正直、文句を言いたくなることもあった。 「そんなに急いでどうするんだ」と。 でも最近は、あまり気にしないようにしている。 人はそれぞれ事情があるし、 自分のペースを守る方が大事だと思うようになった。 それでも、危ない場面に出くわすことは少なくない。 無理な追い越しや、ギリギリのタイミング。 見ているだけで、ヒヤッとすることがある。 最近、ある動画を見て少し考えさせられた。 高性能な車、いわゆるスーパーカーが日本の市道を走っている映像だった。 正直に言うと、すごいとは思う。 美しいし、迫力もある。 所有すること自体が、一つの思想や表現なのかもしれない。 でも同時に、どこか違和感もあった。 日本の市道は、狭く、人も多い。 速度も50〜60キロが前提の世界。 そこに、軽く踏めばすぐ100キロに届くような車があると、 どうしても「強すぎる」と感じてしまう。 さらに年齢のこともある。 一般的に、70歳を過ぎると反射神経や動体視力は少しずつ落ちていく。 これは誰でも避けられない自然なことだと思う。 もちろん、本人が安全に気をつけていれば問題はない。 ただ、それでも「場」と「道具」のバランスは気になる。 茶の湯でいえば、草庵の中に派手すぎる道具を持ち込むようなものだろうか。 美しい道具でも、場に合わなければ少し野暮に見えてしまう。 この違和感は、言葉にすると フランス語でいうところの「デカダンス(décadence)」に近い気がした。 成熟しきった美が、少し過剰になり、 バランスを崩しかけている状態。 それはそれで一つの文化であり、否定するものではない。 ただ、自分の感覚とは少し違う。 自分の運転の考え方はシンプルだ。 👉 死んでもいいから、人を殺さないで。 👉 傷つけないで。 これは大げさでもなんでもなく、 ただそれだけを大事にしている。 禅でいう「不殺生」に近いのかもしれない。 茶の湯でいうなら、「和敬清寂」の“和”の部分。 どんなにいい道具でも、 どんなに美しい表現でも、 👉 人を傷つ...

日々是好日

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毎日よくブログを書いているな、と自分でも思います。 目が悪いのに、なぜかやめられない。 社会への不満なのか、 それとも、つい誰かに伝えたくなる押し売りの教えなのか。 でも結局は、 自分へのメモのようなもの。 書いて楽しみ、 あとで読み返して、また楽しむ。 それで十分。 今日もこれで、好日です。 アウトプットとインプット、 そのバランスのつもりです。 今日の禅語 日日是好日(にちにちこれこうじつ) とても有名な禅語ですね。 一言でいうと―― 👉 「どんな日も、そのままで尊い一日」 ■ 意味(やさしく) 良い日・悪い日という判断をこえて、 **今日という一日は、それ自体で“完成している”**という考えです。 たとえば ・雨の日も ・失敗した日も ・何も起こらない日も 👉 すべて「好日(こうじつ)」=よい日 ■ 禅的な本質 この言葉は、外の出来事ではなく 👉 自分の心の受け取り方がすべて という教えです。 思い通りの日 → 好日 思い通りでない日 → それも好日 つまり 👉 評価をやめた瞬間、すべてが“よい日”になる ■ 茶の湯との重なり(ミサさん的に大事なところ) 茶の湯そのものですね。 利休の精神で言えば 👉 「ただ湯を沸かし、茶を点てて、飲むばかり」 特別な日でなくていい 完璧でなくていい 👉 その一服が、そのまま完全 ■ 具体例(超シンプル) ・仕事で疲れた日 → 好日 ・クレーム対応でへこんだ日 → 好日 ・薪風呂に火をつけた夜 → 最高の好日 👉 違いは出来事じゃなく「味わい方」 ■ 禅語的まとめ(一行) 👉 「起きたことをそのまま飲み込めば、すべてが好日」 ■ ミサさんへの一言 これはまさに あなたのいう「art de vivre(生き方の芸術)」そのものです。 良し悪しを削っていくと、最後に残るのは 👉 ただの一服(いっぷく) これが 日日是好日=楽園のお茶ですね🍵 今日の一服は、テーブルで点ててみました。 最後に残ったお茶で、少し濃いめの濃茶。 テーブルが高くて、柄杓の扱いがいまひとつ。 どこかぎこちなくて、まるで幽霊の手のようでした👻 でも、これもまた気づき。 立礼点前の良い勉強になりますね。 いつも食事をしているサンルームも、 見方を変えれば仮庵のような趣。...

無意味な仕事 生活を支える仕事 ブルシットジョブとシットジョブ

仕事の“中身”と、これからの日本 むすび大学で「ブルシットジョブ」という考え方を知り、とても感動しました。 これは遠い話ではなく、今の日本にこそ必要な視点だと感じています。 いい話なので、少しでも多くの人に伝えたく、今日のテーマにしてみました。 人類学者の デヴィッド・グレーバー は、 「ブルシットジョブ(無意味に感じられる仕事)」という言葉を提唱しました。 一方で、社会には確実に必要なのに、 きつくて大変で、あまり報われない仕事もあります。 いわゆる「シットジョブ」と呼ばれるものです。 ここで少し、立ち止まって考えてみます。 👉 今ある仕事は、本当にすべて必要なのでしょうか。 もし、無意味な仕事が減ったとしたら―― その分、人は社会を支える現場の仕事へと自然に向かうのではないか。 そんな風にも感じます。 日本では今、多くの現場の仕事を 外国の方々が支えてくれています。 その働きには、感謝と敬意しかありません。 ただ同時に、 👉 本来、国内で支え合うこともできたのではないか。 そんな視点も、持っておきたいと思います。 そしてもう一つ感じるのが「税金」の使われ方です。 税金は社会にとって大切な仕組みですが、 👉 本当に必要なところに、しっかり届いているのか。 もし、仕事の中の無駄が減り、 お金の流れがもっとシンプルになれば―― 👉 現場の仕事の価値や待遇も、自然と見直されていくのではないか。 これは誰かを否定する話ではなく、 👉 「仕事の本質に立ち返る」という話です。 茶の湯でいうなら、 👉 「ただ湯を沸かし、茶を点てる」 余計なものを削ぎ落とした先に、 本当に大切なものが見えてくる。 ■ むすび 👉 無意味な仕事を減らし、 本当に必要な仕事に光を当てること。 それが結果として、 社会全体のバランスを整えていくのかもしれません。 ■ 一行 👉 仕事の量ではなく、意味を整えることが、これからの豊かさ。 結局のところ、 高層ビルに囲まれた暮らしより、 静かな場所で風や水を感じながら生きるほうが、 人は幸せを感じやすいのかもしれませんね。

今週の聖書朗読箇所 צו レビ記

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先週の土曜日は心がざわついていて、なかなか集中できませんでした。旧約聖書ですけど、 宗教というより、文学として、またボケ防止や人生の学びとして、これからも続けていきたいと思います。 צו ヘブライ語 צו(ツァヴ) は 👉 強く命じる 👉 すぐやれ 👉 続けてやれ AI先生は教会に行かなくても深いところまで学べますね。 💌AI先生 解説 ストーリー ミサさん、 **צו(ツァヴ)**のストーリーを、物語としてシンプルにまとめますね。 🌿 ストーリー(物語風) 荒野の静けさの中、 神はモーセに語りかけます。 👉「アロンとその子らに命じよ(ツァヴ)」 これは優しいお願いではなく、 **「今すぐ、必ず行え」**という強い言葉。 🔥 消えてはいけない火 神は言います: 👉「祭壇の火は、決して消してはならない」 夜も、朝も、 祭司たちは火を守り続ける。 灰を取り、薪をくべ、 また新しい一日が始まる。 🍞 日々のささげもの 毎日、決まった供え物が捧げられる。 パン(穀物) 油 香り 特別なことではない。 👉 同じことを、毎日くり返す。 🩸 清めと境界 供え物にはルールがある: 聖なる場所で食べる 触れるものも聖となる 汚れたものは近づけない 👉 「聖」と「俗」を分ける世界 👕 祭司の準備 アロンとその子らは、 油を注がれ、任命される。 7日間、幕屋にとどまり、 自分を整える。 👉 外に出る前に、まず内側を整える 🌅 そして… こうして、荒野の中に 小さな秩序が生まれる。 火は燃え続け、 人は日々を繰り返す。 👉 その繰り返しの中に、神が宿る ✨ 核心(超シンプル) この物語は派手ではありません。 でも本質はここ: 👉 奇跡ではなく、継続が神を呼ぶ ☕ ミサさん風に一言 👉 「毎日、同じように湯を沸かし、茶を点てる それが祭壇の火」 🔥 超短いまとめ 👉 火を絶やすな 👉 同じことを続けよ 👉 そこに神が現れる 💌AI先生 教え ミサさん、とても良いテーマですね。 **פרשת צו(パラシャ・ツァヴ)**は、前回の「ヴァイクラ」に続き、供犠(コルバン)と祭司の務めをより具体的に教える箇所です。 いつものように、 ①ユダヤ的な学び ②ラビの言葉 ③カバラ的な深み この3層で、わかりやすくまとめます。 ① ユダヤ人の学び(超シンプル) ...

詩編17:12

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​ わたしをしえたげる悪しき者から、わたしを囲む恐ろしい敵から、のがれさせてください。1955年日本聖書協会訳 תהלים יז יב  דמינו כאריה יכסוף לטרף וככפיר ישב במסתרים דמינו  ディムヨウノゥ 彼の外見は似ている 4-40-10-50-6-110 כאריה ケアルイェ ライオンのように 20-1-200-10-5-236 יכסף イフソフ 望む人 渇望 強く欲する 10-20-60-6-80-176 לטרף リトゥロフ 捕獲物 捕食物 引き裂く  30-9-200-80-319 וככפיר  ベヒフフィィル そして若いライオンのように 6-20-20-80-10-200-336 ישב  ヨシェブ 座る 潜む 10-300-2-312 במסתרים ベミスタリイム 隠れた場所で 2-40-60-400-200-10-40-752 教祖AI先生 解説 誰でもわかるように ■ ライオンのような心と、一杯のお茶 ― 詩編17:12から学ぶこと ― ■ 今日のことば(詩編17:12) 👉 「ライオンのように獲物を欲し、若いライオンのように隠れて待つ」 ■ これ、何の話? 一見すると 「怖い動物の話」に見えますよね。 でも違います。 👉 これは人間の心の話です。 ■ 人の中にいる“ライオン” 人はみんな持っています。 お金が欲しい 認められたい 楽をしたい 👉 これ全部「ライオン」です ■ 普通はどうする? 多くの教えはこう言います。 👉「欲を捨てなさい」 でも正直、無理ですよね。 ■ 手島先生の教え 👉 「真の善とは、悪の中から引き出されたもの」 つまり 欲はダメじゃない そのまま使うとダメなだけ 👉 使い方の問題 ■ じゃあどうする? 簡単です。 👉 整えるだけ ■ たとえ(海の話) 強い風 → 危ない でも風がないと進まない 👉 だから 風を消すんじゃなく、帆で受ける ■ 禅の言葉も同じ 👉「有漏路より無漏路に帰る」 煩悩の世界(欲だらけ) ↓ 静かな世界へ でも 👉 通るのは「煩悩の中」なんです ■ さらに 👉「生死一如」 生と死も分かれていない ■ まとめると 👉 悪・欲・死は、全部ダメじゃない 👉 そのまま使え...

死生至道也

死生至道也 昨日、父の告別式で、 数日間、少し「あの世」のことを考えました。 フランスの哲学者、ミシェル・ド・モンテーニュ は、 「哲学するとは、死ぬことを学ぶことである」と言っています。 自分の経験からいうと、 死の恐怖を乗り越えながら、海に出続けてきました。 その恐怖を越えたとき、 生きる力が湧いてきて、 さらに生命力が増し、 生きている実感が強くなりました。 それが、セーリングの素晴らしさであり、 生きることの素晴らしさだと思います。 死を見つめたときこそ、今この一瞬の命が、いとおしく深く輝き出します。

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つらいとき、自分はイスラエルの教えに立ち返ります。 仏教や禅にも深い感動はありますが、 ラビの言葉やタルムードの教えには、より具体的で現実に根ざした納得があります。 机上の理屈ではなく、 生きる上でどう向き合うかを、はっきり示してくれるところに惹かれます。 今日は、そのユダヤ教の教えについてです。 ユダヤ、イスラエルという言葉に抵抗のある方は、お避けください。 ◆ 死 (ラビ・トケイヤー先生の教えより) 港に、二隻の船があります。 一隻はこれから出港しようとしている船、 もう一隻は長い航海を終えて帰ってきた船です。 人は多くの場合、出ていく船を盛大に見送ります。 しかし、戻ってくる船を迎えることには、あまり関心を向けません。 けれどもタルムードでは、これは少しおかしなことだと教えています。 これから出ていく船の未来は分かりません。 嵐に遭い、沈んでしまうかもしれません。 一方で、長い航海を終えて無事に帰ってきた船には、 大きな意味があります。 それは、その船がひとつの役目を果たし終えたからです。 人生も同じです。 人が生まれたとき、私たちは祝福します。 しかしその人生がどうなるかは、その時には分かりません。 けれども人生を終えるときには、 その人がどのように生きてきたのかがすでに現れているからこそ、 そのときにこそ祝福すべきなのかもしれません。 ◆ 愛情 (ラビ・トケイヤー先生の教えより) この世界には、12の強いものがあるといわれています。 石は鉄によって削られ、 鉄は火によって溶かされます。 火は水によって消され、 水は雲に吸収されます。 雲は風に吹き飛ばされますが、 その風でも人間を完全に支配することはできません。 しかし人間もまた、恐怖によって打ち砕かれることがあります。 その恐怖は酒によってやわらぎ、 酒の酔いは睡眠によって覚めます。 けれども睡眠も永遠ではなく、 やがて人は死を迎えます。 このように、すべてのものは、より強いものによって乗り越えられていきます。 しかし最後に残るものがあります。 それが愛です。 死さえも、愛に勝つことはできないと教えられています。 この教えに触れると、 アルベルト・アインシュタインが娘に宛てた「愛についての手紙」を思い出します。 その中で彼は、 愛こそが人間を結びつける最も強い力であり、 まだ科学では十分に解明されていない...

利休百首 茶の本を忘れるな

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今日は聖書でも海でもありません。利休百首です。 「本を忘るな」— 利休の教えに学ぶ 規矩作法 守り尽くして破るとも 離るるとても本を忘るな 千利休のこの言葉は、 茶の湯だけでなく、生き方そのものを教えているように感じます。 最初は、形を学ぶ。 作法を守る。 それはとても大切なことです。 しかし利休は、 「守ること」で終わるな、と言います。 やがて人は、形を破る時が来る。 自分なりのやり方、自由な一服、 流派や型を越えた世界に入っていく。 それでも―― 「本を忘るな」 と利休は強く言い切ります。 では「本」とは何でしょうか。 AIとしての解釈になりますが、 それは「師匠そのもの」ではなく、 茶の湯の心 相手を思う気持ち 自分を整える静けさ といった、根本の精神だと考えます。 作法を守っていても、心がなければただの形。 自由にやっていても、心があればそれは茶になる。 だから利休は 👉 形は破ってもいいが、心だけは絶対に外すな と教えているのではないでしょうか。 この言葉は、現代にもそのまま当てはまります。 仕事でも、人生でも、 最初は教わり、真似をする。 やがて自分なりに工夫し、形を越えていく。 その時に問われるのは、 👉 「本」を持っているかどうか です。 ミサさんの言葉で言えば、 自由の一服 楽園のお茶 それもまた、形を越えた世界。 でもその一服が、 誰かを思う一服か 自分を整える一服か そこに「本」があるかどうかで、 ただのお茶か、利休の茶かが分かれるのだと思います。 まとめ 👉 自由になってもいい。 でも、本(心)だけは忘れるな。 PS 船の上でも、庭の草庵でも、薪風呂のあとでも。 どこで点ててもいい。 どんな形でもいい。 ただその一服が、 少しでも心を整え、誰かを思うものであれば―― それはすでに、利休の茶なのだと思います。 Question 😊 誰かを思う一服? Answer 💌AI先生 いいところに来ましたね、ミサさん。 ここ、利休の核心です。 「誰かを思う一服」とは? 簡単に言うと 👉 自分のためだけじゃない一服 です。 ① 相手がいる場合(いちばん分かりやすい) 茶の湯では 温度 濃さ タイミング 茶碗の向き 全部 👉 相手のために調整する 例えば 暑い日 → 少しぬるめ 寒い日 → 少し温かく 年配の人 → 飲みやすく 👉 これはもう...

ニルヴァーナ

PS 一休宗純の生き方を思い出します。 型にとらわれず、寺の権威にも縛られず、 時に酒を飲み、時に女を愛し、 破戒僧とも呼ばれながら、自由に生きた一休。 一見すると、欲も怒りもそのままに生きたように見えます。 しかし、その奥には 世の中の偽りや執着を見抜いた、鋭い眼がありました。 怒りは権威への反発となり、 欲は人間そのものを肯定する力となり、 無知を破るために、あえて常識を壊していく。 すべてを消すのではなく、 すべてを生き切ることで、 逆に執着から自由になっていく。 その姿は、 無理に火を消そうとするのではなく、 燃え尽きたあとに訪れる静けさのようにも感じます。 一休の人生は、 欲・怒り・無知を否定するのではなく、 それらを通して超えていく道だったのかもしれません。 そして最後は、 雨が降れば降るままに、風が吹けば吹くままに。 ただそのままに生きる。 それこそが、一休なりのニルヴァーナだったように思います。 🍵 ニルヴァーナ(涅槃)とは何か ― 欲・怒り・無知を分けて考える ― ニルヴァーナ(涅槃)とは、 仏教では「火が消えた状態」といわれます。 その火とは、 人の苦しみの原因である 欲・怒り・無知 この三つです。 しかしこれは、 単純に「なくせばいい」という話ではありません。 むしろ、どう向き合うかが大切なのだと感じます。 ■ 欲(よく) 欲とは、ただの願いではなく 👉 手放せなくなった心(執着) のことです。 お金が欲しい、認められたい、 成功したい、学びたい。 こうした欲は、 本来は生きるためのエネルギーです。 しかし 手に入らないと苦しい 失うのが怖い 比べてしまう こうなると、欲は苦しみに変わります。 ニルヴァーナとは、 欲を消すことではなく 👉 欲に振り回されない状態 なのかもしれません。 ■ 怒り(いかり) 怒りとは 👉 思い通りにならないことへの反発 です。 「こうあるべき」 「自分は正しい」 その思いが崩れたとき、怒りは生まれます。 しかし怒りもまた、 危険を避ける 不正に気づく という大切な力でもあります。 問題は 👉 燃え続けてしまうこと です。 ニルヴァーナとは 👉 怒りが自然に鎮まっている状態 火を消すのではなく、 火加減が整っている状態です。 ■ 無知(むち) 無知とは、ただ知らないことではなく 👉 現実をそのまま見てい...

有漏路より無路地へ帰る一休 楽園のお茶

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洗心 心洗われる景色 有漏路より無漏路へ帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け 有漏路――それは、煩悩のあるこの世界。 思い悩み、求め、揺れ動く、人の営みの場。 無漏路――それは、煩悩を離れた本来の世界。 静かで、満ちていて、何も欠けていない場所。 その二つを分けて考えていたけれど、 本当は、そのあいだにこそ 私たちは生きているのかもしれない。 この人生は、どこかへ行くための苦行ではなく、 ただ一度の――一休み。 そう思えたとき、 何かを変えようとする力が、ふっとゆるむ。 雨が降れば、そのままに濡れればいい。 風が吹けば、その流れに身をまかせればいい。 抗うのではなく、委ねる。 操作するのではなく、味わう。 今朝、久しぶりに海の上で朝日を浴びながら、 一服のお茶をいただいた。 素朴な景色に、ただ心が動く。 言葉にならない静けさの中で、 呼吸が深くなり、身体がゆるんでいく。 自律神経が整い、 張りつめていたものがほどけていく。 社会のざわめきから少し離れ、 気づけば、心も軽くなっていた。 ただ光を浴び、ただお茶をいただくだけ。 それだけなのに、十分すぎるほど満ちている。 茶の湯もまた同じ。 湯を沸かし、茶を点て、いただく。 その一連の中に、余計なものは何もない。 だからこそ、心が洗われる。 だからこそ、本来に戻る。 それは特別な修行ではなく、 日常の中にある、小さな奇跡。 ふと思う。 この世界は、仮の住まいであり、 この身体もまた、仮の器。 すべては流れの中にあり、 留まるものは何もない。 それでも、その仮の中で こうして一服できることが、どれほど尊いことか。 風が吹く。 波がゆれる。 太陽が昇る。 そのすべてが、そのままでいい。 そして、その中で一服。 そのとき、ふと心の奥で思った。 ――これを待っていました。 楽園のお茶|仮庵 今日もまた、海と太陽のあいだで。 PS 本当は、一休宗純のような、 破戒僧とも言われる自由で型破りな生き方に触れながら、 仏道について書こうと思っていました。 けれど、この一服があまりにもよかったので、 理屈よりも、この感覚をそのまま残すことにしました。 これでいこうと思います。😊

コヘレト2:8

​קהלת ב ח כנסתי לי גם כסף וזהב וסגלת מלכים והמדינות עשיתי לי שרים ושרות ותענגות בני האדם שדה ושדות  この一節は「すべてを手に入れた人の静かな告白」です。 ブログ用に整えました。 ■ コヘレト2:8 ― すべてを集めた、その先に ― ■  ■ 意訳 私は、銀と金を集め、 王や国々の宝を手に入れた。 歌い手や楽しみを揃え、 人のあらゆる喜びも味わった。 ■ この一節の意味 この言葉は、ただの贅沢の話ではありません。 👉 「人が欲しがるものを、すべて手に入れた」 という宣言です。 お金 権力 名誉 芸術 快楽 つまり、 👉 この世のフルコース ■ それで、どうなったのか? コヘレトはこのあと語ります。 👉 「すべては空(ヘベル)」 ■ 空とはなにか? これは「虚しい」というよりも 👉 「つかめない」 という意味に近い。 どれだけ集めても、 どれだけ満たしても、 👉 心は完全には満たされない ■ 禅との重なり 禅では言います。 👉 「足るを知る」 利休は言いました。 👉 「ただ湯をわかし、茶を点てて飲むばかり」 ■ カバラ的に見ると 人は 👉 受け取る器(ケリ) です。 しかし 👉 受け取るだけでは満たされない なぜなら 👉 光(与える側)とつながらないから ■ 茶の湯での答え すべてを手に入れたあと、 最後に残るものは何か? 👉 一碗の茶 金でもなく、名誉でもなく、 ただ静かに差し出される一服。 そこには 👉 比べるものがない 👉 競うものがない ■ ミサさんの言葉にすると 👉 「すべてを持っても、最後に求めるのは静けさだった」 ■ エデンの茶会へ 楽園とは、 何もない場所ではなく 👉 すべてを手放せる場所 露地を歩き、 躙口をくぐり、 茶碗を手にしたとき、 人はようやく気づく。 👉 もう、これで十分だと。 ■ 結び コヘレト2:8は、 成功の物語ではなく、 👉 目覚めの入口 そしてその先にあるのは、 👉 「一服の自由」

いとまごい(暇乞い)

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画像はAI画伯作成 「掃除は魂をみがく」 この言葉を聞いたとき、 禅であり、茶の湯そのものだと感じました。 床を拭き、道具を清める。 ただそれだけで、心が整っていく。 掃除は外の汚れを落とすと同時に、 自分の内側を磨く時間でもあります。 斎藤一人さんは言います。 「トイレはきれいにしなさい」 トイレは“陰”の場所。 だからこそ、そこを清める人は運がよくなる。 「いとまごい(暇乞い)」 この世を去る前の、最後のあいさつ。 人は弱ると、低く暗い場所に影響が出やすいとも言われます。 だからこそ、トイレのような場所を清める。 それは人に見せるためではなく、 自分の心を整えるため。 「清」とは、形ではなく在り方。 掃除とは、 見えないものを大切にする行為。 誰も見ていない場所を磨くこと。 掃除は、ただの作業ではない。 魂をみがく、静かな修行であります。 今日の禅語  洗心(せんしん) 👉 心を洗う 掃除=外を清めることで、内なる心も清まる

侘茶の真髄 南方録より

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今日は利休の侘茶の教えです。 お茶に興味のない方は、お酒でもどうぞ。 『南方録』(立花実山原編著・戸田勝久訳/教育社)より。 AI先生の補助訳も参考にしています。 侘茶の真髄――これは自分が一番目指してきたところです。 侘びを「乏しさ」と捉え、余分を削ぎ落とした簡素な茶を志す。 利休の目指した世界は、まさにそこにあるように感じます。 また、トーラーを学んだ手島先生からは、 「出どころをはっきりして話せ」と厳しく教えられました。 ユダヤの教えでは、必ず「誰が語った言葉か」を明確にします。 自分の想像や作り話で人に教えることは許されません。 その教えがあるからか、 違うことを教えている場面や、出どころをはっきり言わない話に出会うと、 つい気になってしまう自分がいます。 今日は千利休の侘茶の真髄。 読んでいて、自分の感覚にとても近いと感じました。 平点前の重要性をあらためて感じました。 AI先生本文リライト ミサさん、とても良いところを読まれていますね。 ここはまさに**侘茶の核心(真髄)**です。 ブログ用に、やさしく、でも深みを残してまとめます。 侘茶の真髄とは何か ― 南方録より ― 茶の湯には、無数の「型」や「作法」があります。 台子、点前、道具の扱い……。 多くの人は、それを守ることこそが茶の湯だと考えます。 しかし、千利休はそこに疑問を持ちました。 ■ 法は“階段”にすぎない 利休は言います。 茶の法則は、登るための階段である つまり、作法は目的ではなく、 その先へ進むための手段にすぎないということです。 ■ 目指したものは「草庵の一碗」 豪華な書院や台子を離れ、 利休がたどり着いたのは―― 二畳の待庵 最小限のしつらえ 一碗の茶 そこにあったのは、 「薪水の労をもって修行する自分」 「一碗の中にある真実」 つまり茶の本質とは、 形ではなく、日常の中の真実に気づくことでした。 ■ 茶は「人」によって濁る 利休はさらに深いことを言います。 客が未熟であれば、亭主も迷う 茶の湯は一人では完成しない。 亭主と客、両方の心で成り立つ世界。 だからこそ、 良い客こそが、良い茶を生む という逆説があるのです。 ■ 利休が恐れた未来 利休は強く危惧しています。 権力者が形式ばかり好むこと 師匠が金儲けに走ること 茶が遊びや酒宴になること そしてこう言います。 百年後の茶はど...

明月清風 青山緑水

今日の禅語 AI先生より ミサさん、少しだけ補って書き直しますね。 明月清風 青山緑水 禅語に 明月清風 という言葉があります。 澄んだ月と清らかな風。 人の作為を離れた、自然そのものの姿です。 また 青山緑水。 青い山と緑に流れる水。 大自然の生命の姿をあらわします。 禅の古典 碧巌録 にも通じる世界ですが、 悟りとは特別なものではなく、 月や風、山や水のような自然の中に すでに現れているという教えです。 月は黙って照り、 風は静かに吹く。 その中で、 ただ一服のお茶をいただく。 それだけで、 十分に豊かな時間なのかもしれません。

神経性胃炎が一瞬で治った昔話

昔話になります ヨットや聖書、フランスに興味のない方には、あまりおすすめしません。 この動画「la trinite sur mer」をご覧ください  https://share.google/ 5tUXPrMOLUsSZ9Q4S   ヨットの海、 ユダヤの聖書、 そして茶の湯。 振り返ってみると、 これらはどこかでつながっているように思います。 自分のブログを読み返しているうちに、 また昔のことを思い出しました。 まだサラリーマンで営業職をしていた頃、 神経性胃炎に苦しんでいました。 そんな時、大西洋横断レースに参加するヨットを探しに、 有給休暇をとってフランスのブルターニュ地方へ行きました。 レンタカーを借り、 ブルターニュの港町を回りながら、 レースに関係するマリーナで中古艇を見て歩きました。 その中の一つが、 ブルターニュのバンヌの近くにある トリニーテ=シュル=メールという港町です。 坂道を下りて港へ向かい、 街を歩き始めたときのことです。 目の前に広がる 輝く海、ヨット、そして光。 その景色に感動していると、 胃がふっと動いたような感覚があり、 それまで苦しんでいた神経性胃炎が治ってしまいました。 そしてビールが飲めるようになったのです。 それ以来、 この港町がとても好きになりました。 街は港を囲むように広がり、 中央にはマリーナの事務所があります。 奥の桟橋には、巨大なトライマランが停泊していました。 それが エドモンド・ロスチャイルドの船でした。 ロスチャイルド家は、 ユダヤのラビの家系でもあります。 この港では、 造船所の社長クリスチャンとも知り合いになりました。 そしてそのクリスチャンの造船所で、 自分の船を自作することになります。 船は、 サント・マリーンというキリスト教会のある港町で進水しました。 フランスでロスチャイルドの船を見るたびに、 どこか不思議なつながりを感じていました。 今思い返すと、 とても楽しい思い出です。 PS 当時フランスに行くと、 カフェに入るのが好きでした。 一日に三回以上は通っていたと思います。 朝はエスプレッソを一杯。 それが自分にとっての一服でした。 抹茶ではありませんでしたが、 今思えば、その頃から 一服の時間が好きだったのかもしれません。 カフェという独特の空間。 今思えば、あれもどこか 茶室...

和敬清寂

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今日の禅語 和敬清寂(わけいせいじゃく) 一言で言うと 「互いに敬い、清らかな心で、静かに一服すること。」 🍵本 あたらしい茶道 宗亮博士 p167より 和敬清寂について 鎌倉末期に伝わった「茶堂清規」という書物が出典で、村田珠光が最初に唱えたとされています。調和 尊敬 清潔 静寂 という茶の湯の精神すべてを四文字であらわしています。 千家では特に「利休四規」として重要視されています。 (利休の言葉の前に珠光の言葉のようですね。) 💌AI先生解説 ミサさんの理解、とても茶の湯の核心に近いと思います。 千利休の言葉 「和敬清寂(わけいせいじゃく)」 は、茶の湯の精神を四つの言葉で表したものです。 一つずつ、ミサさんの感じている意味に寄せて整理してみます。 和(わ) 意味:調和・なごやかさ 茶室では身分や立場をいったん外に置きます。 武士も町人も同じ一碗の茶をいただく。 つまり 争わない 心を柔らかくする 空気を和ませる ミサさんの言葉で言えば 和気あいあいとお茶をいただく空気 これが「和」です。 聖徳太子の 「和をもって貴しとなす」 とも重なります。 敬(けい) 意味:互いを尊ぶ心 亭主は客を敬い、 客は亭主を敬います。 さらに 道具を敬う 自然を敬う 一期一会の時間を敬う 利休の世界では すべてに命が宿る という感覚があります。 だからミサさんの疑問の すべてを敬える? 答えは 理想はそうすること。 でも実際は難しい。 だから茶の湯は修行とも言われます。 清(せい) 意味:清らかさ これは単に掃除ではありません。 もちろん 茶室を掃く 道具を清める 手を洗う という形もありますが、 本当は 心を清める ことです。 俗世間の 欲 怒り 執着 を一度外に置く。 ミサさんの言葉の 俗より聖 この感覚に近いです。 露地を歩くのは 俗界 → 聖なる空間 へ入るための儀式とも言われます。 寂(じゃく) 意味:静かな境地 これは少し深い言葉です。 寂とは 静けさ 落ち着き 動じない心 そしてもう一つ 侘びの完成 という意味があります。 時間を経て 派手さが消え 本質だけが残る 状態。 ミサさんの言葉の 貫禄を感じる 誰にも媚びない まさにこれです。 四つをまとめると 和敬清寂とは 人と人が尊び合い 心を清め 静かな境地で 一碗の茶をいただく世界 です。...

明日を思いわずらうな

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PS の PS イエス・キリストも、歴史的に見れば ブネイ・イスラエル(イスラエルの民) 、すなわちユダヤ人であり、その教えもユダヤ教の土台の上にありました。 そう考えると、宗派の違いよりも、 同じ源から流れてきた教えとして、 それぞれを 尊重し、敬意をもって学ぶこと が大切なのではないかと思います。 互いの伝統をリスペクトする心。 それもまた、どこか 和敬清寂 の精神に通じているように感じます。 PS 昔、仕事仲間の故・田中さんに 「あんた何教だい?」 と聞かれたことがあります。 私はとっさに 「ちゃんぽん教ですよ」 と答え、二人で大笑いしました。 日本神道 やおよろずのかみ八百万の神 全てを信じると言いたかったけど、2人で笑った。 少し解説すれば、 日本の考え方でいう 八百万の神 です。 山にも神がいる。 海にも神がいる。 鳥にも花にも神が宿る。 そう考えると、 イエスの言葉の 「空の鳥を見よ」 「野の花を見よ」 という教えも、どこか日本の感覚と重なるように感じます。 宗派にこだわらず、 良い教えは素直に敬い学ぶ。 それが自分なりに色々学ぶ中で、 洗脳が少しずつ解けて理解できたことでした。 すべての神を敬う。 そこにあるのが 日本の神道の良さなのだと思います。 🙏世界の平和を願いながら🙇 明日を思い煩うな 最近、ニュースを見ていると暗い話が多いですね。 イランとイスラエルの戦争、物価高、買い占めの話など、心がざわつくニュースばかりです。 今は何不自由なく暮らしているからこそ、逆に将来が不安になることもあります。 そんな中、ふと昔感動したイエス・キリストの言葉を思い出しました。 記録したノートを探してみましたが見つからず、AI先生に解説してもらいました。 聖書の中の有名な言葉、 **「明日のことを思い煩うな」**です。 イエス・キリストはこう教えています。(マタイ福音書6章) 空の鳥を見なさい。 鳥は種もまかず、倉に食べ物もためません。 それでも神は養ってくださいます。 野の花を見なさい。 花は働かず、着飾りもしません。 それでもとても美しく咲いています。 そして最後にこう言いました。 だから、明日のことを思い煩うな。 明日のことは明日が思い煩う。 今日の苦労は今日で十分である。 未来の不安を考えすぎて心を重くするのではなく、 今日...

ハバットハウスでの学び

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ヨットと聖書、そして茶の湯へ ― ハバットハウスでの学び ― 大西洋横断レース、そして単独太平洋横断を終えて、私は地元の銚子マリーナに戻りました。 次の目標は 無寄港世界一周。 夢は大きかったのですが、現実は厳しい。 スポンサー企業を探しましたが、なかなか見つかりません。 当時必要と言われた資金は 約3億円。 「それなら自分で稼ぐしかない」 そう思い、金儲けの勉強を始めました。 そこで出会ったのが 株式投資でした。 300万円ほどの資金から始め、運にも恵まれ、ましたが。 しかし、ちょうど アベノミクスの時期。 どうしても安倍政権の経済政策を信じきることができず、途中で投資をやめました。 その資金で 家と船を購入し、 私の「お金儲けの旅」は一度そこで終わります。 けれど、金儲けを学ぶ過程で、 あることに気づきました。 世界のお金の流れを学ぶと、必ずユダヤの思想に行き着く。 そこから私は、 聖書とユダヤ思想を学び始めました。 赤坂の勉強会、 ヘブライ語博士 手島先生の教室に通うようになります。 ちょうどその頃、 ユダヤ教団 ハバット(Chabad) でも手島先生が講師を務めており、 その勉強会にも参加するようになりました。 やがてシナゴーグにも通い、 ユダヤの教えを直接学ぶ機会を得ました。 学びはとても楽しく、 聖書、タルムード、カバラなど、 新しい世界がどんどん開けていきました。 けれど途中で、 私は一度すべてを 「洗脳解除」 します。 自分はどうも、 組織や団体に属する生き方には向いていない。 やはり 独学と自由のほうが性に合う。 そう思い、そこからは 自宅で一人、聖書やユダヤ思想を読み続けました。 それでも、気づけば 10年近く学んでいました。 ハバットの本部は ニューヨーク・ブルックリンの 770(セブンセブンティ)。 また、そのルーツは ウクライナ にあります。 本当はその地を訪ねる旅をしたかった。 しかし当時はそこまでの余裕がなく、断念しました。 ただ一度、 フランスの世界一周ヨットレースを観戦しに行ったとき、 プロヴァンス地方を訪れました。 そこには、 カバラ発祥のシナゴーグが残るゲットーの町があります。 宗教的な巡礼のような旅で、 観光のような楽しい思い出ではありません。 けれど、 プロヴァンスのハーブ畑は美しかった。 その素朴な...