死んでもいいから人は傷つけないで


日常の話から。
自分はいつも、約束の時間の30分前には着くように出かける。
田舎道なので法定速度は40キロ。
少しだけスピードを出しつつも、基本はのんびり走っている。
ただ、軽自動車のバンということもあってか、
日々、後ろから煽るように抜かれていく。
若いころは、正直、文句を言いたくなることもあった。
「そんなに急いでどうするんだ」と。
でも最近は、あまり気にしないようにしている。
人はそれぞれ事情があるし、
自分のペースを守る方が大事だと思うようになった。
それでも、危ない場面に出くわすことは少なくない。
無理な追い越しや、ギリギリのタイミング。
見ているだけで、ヒヤッとすることがある。
最近、ある動画を見て少し考えさせられた。
高性能な車、いわゆるスーパーカーが日本の市道を走っている映像だった。
正直に言うと、すごいとは思う。
美しいし、迫力もある。
所有すること自体が、一つの思想や表現なのかもしれない。
でも同時に、どこか違和感もあった。
日本の市道は、狭く、人も多い。
速度も50〜60キロが前提の世界。
そこに、軽く踏めばすぐ100キロに届くような車があると、
どうしても「強すぎる」と感じてしまう。
さらに年齢のこともある。
一般的に、70歳を過ぎると反射神経や動体視力は少しずつ落ちていく。
これは誰でも避けられない自然なことだと思う。
もちろん、本人が安全に気をつけていれば問題はない。
ただ、それでも「場」と「道具」のバランスは気になる。
茶の湯でいえば、草庵の中に派手すぎる道具を持ち込むようなものだろうか。
美しい道具でも、場に合わなければ少し野暮に見えてしまう。
この違和感は、言葉にすると
フランス語でいうところの「デカダンス(décadence)」に近い気がした。
成熟しきった美が、少し過剰になり、
バランスを崩しかけている状態。
それはそれで一つの文化であり、否定するものではない。
ただ、自分の感覚とは少し違う。
自分の運転の考え方はシンプルだ。
👉 死んでもいいから、人を殺すな。
👉 傷つけるな。
これは大げさでもなんでもなく、
ただそれだけを大事にしている。
禅でいう「不殺生」に近いのかもしれない。
茶の湯でいうなら、「和敬清寂」の“和”の部分。
どんなにいい道具でも、
どんなに美しい表現でも、
👉 人を傷つけてしまったら、それは成立しない。
だからといって、他人の生き方を否定するつもりはない。
人はそれぞれ、好きに生きればいいと思う。
ただ、自分は自分の道をいく。
それだけの話。
■PS
最近思うのは、
センスというのは「何を持つか」ではなくて、
👉 どこで、どう使うか
なのかもしれない。

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