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店舗立ち退きとタルムードの教え

店舗立ち退きの件で、ここ2〜3日、正直悩んでいました。 いつかは移転、あるいは閉店する日が来ることは分かっています。しかし、生活のためには仕事を続けていかなければなりません。 考えた末、法律のことは法律家にお願いし、方向性が決まるまでは今までどおり営業を続けることにしました。 振り返ると、この21年間の営業の中で、同じような出来事が二度ありました。 一度目は、大家さんが借入金の問題で建物を売却することになり、「出てほしい」と言われた時です。 その時は、私自身も購入を検討しました。しかし、その後、大家さんが弁護士と相談して借入金の問題を解決し、そのまま土地と建物を使い続けられることになりました。 二度目は、その直後のことです。 隣の空き店舗に新しい入居者が決まり、私より高い家賃で契約できたためか、突然「出て行ってほしい」と言われました。 しかし、私には移転先のあてもありません。 「出て行けと言うなら、移転費用や営業補償はどうなるのだろう。」 そんなことを考えていました。 ここからは私の想像ですが、大家さんは再び同じ弁護士に相談し、「それは簡単にはいかない。立ち退きには補償の問題もある」と説明を受けたのかもしれません。 その後、大家さんの態度は一変し、 「これからも仲良くやりましょう。」 そう言って握手をしたことを、今でも覚えています。 そして今回、三度目の立ち退き話です。 大家さんも高齢となり、介護施設への入居や不動産会社が関わる中で、突然「立ち退いてください」という話になりました。 長年借りている側として振り返ると、やはり借主は弱い立場なのだと感じます。 だからこそ、今回は弁護士にお願いし、感情ではなく法律に従って冷静に進めようと思っています。 そんな中で、ふと疑問が湧きました。 旧約聖書やタルムードなら、このような問題をどのように考えるのだろう。 AIに尋ねてみると、とても興味深い教えがありました。 それが、**「リフニーム・ミシュラット・ハディーン(法を超えた誠実さ)」**という考え方です。 法律上の権利だけを主張するのではなく、相手の生活や長年築いてきた信頼にも心を配る。 正義に慈悲を加える。 そんな教えは、現代の立ち退き問題にも通じるように感じました。 続きは、その「リフニーム・ミシュラット・ハディーン」というタルムードの教えについて、少し学んでみたいと思い...

箴言8:4〜5

​משלי ח ד אליכם אישים אקרא וקולי אל בני אדם הבינו פתאים ערמה וכסילים הבינו לב おはようございま😊׃ 💌AIラビ様訳 「人々よ、私はあなたがたに呼びかける。私の声はすべての人に向けられている。 未熟な者よ、思慮を身につけよ。愚かな者よ、心(理解する心)を得よ。」 ここでいう「愚か者」は、頭が悪い人ではありません。 学ぼうとしない人、知恵を受け入れようとしない人を意味します。 ユダヤ人の学び ユダヤ教では、 「賢い人」とは何でも知っている人ではなく、学び続ける人です。 ラビ・ヒレルは、 「恥ずかしがる者は学べない。」 と教えました。 わからないことを「教えてください」と言える人こそ、知恵に近づいていきます。 有名なラビの教え ラビ・アキバは40歳まで文字も読めませんでした。 ある日、岩に落ちる水滴が穴をあけるのを見て、 「水が岩を削るなら、神の言葉は私の心も変えられる。」 そう決心し、イスラエルを代表する大ラビとなりました。 知恵は才能よりも、学び続ける心から生まれる。 無名なラビの教え ユダヤの世界には、こんな言葉があります。 「神は有名なラビの口からだけでなく、名もない一人の人の口からも真理を語られる。」 だからユダヤ人は、 相手が有名か無名かよりも、 その言葉に真実があるかを大切にします。 カバラの教え カバラでは、この「知恵」は単なる知識ではありません。 **ホクマー(知恵)は神から最初に放たれる光であり、 その光を受け止める器がビナー(理解)**です。 つまり、 知恵を受け取るだけでは足りない。 心で理解し、 行動に移して初めて本当の知恵になる。 ということです。 茶の湯にたとえると 茶室では、先生が一つ所作を見せます。 弟子は、それを見て、 「なるほど」と頭で理解するだけではありません。 何度も稽古を重ね、体で覚え、心で理解していきます。 まさに箴言の 「愚かな者よ、心を得よ。」 とは、 知識を集めることではなく、心を育てることなのです。 そして、その学びは一生終わることがありません。 茶の湯も、トーラーも、老子も、 「知恵を集める」のではなく、 自分自身を磨き続ける道なのだと感じます。

道 老子 道徳経 第四章

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『老子 道徳経』第四章 原文です。 道沖而用之或不盈。 淵兮似萬物之宗。 挫其銳,解其紛, 和其光,同其塵。 湛兮似或存。 吾不知誰之子, 象帝之先。 😊 小学生にもわかるように 💌AI老子 喜んで😊 老子第四章は難しい言葉が多いですが、小学生にもわかるようにすると、このようになります。 老子 道徳経 第四章(やさしい訳) 「道は、空っぽだから、何でも受け入れることができます。どれだけ使っても、なくなることはありません。」 まるで深い井戸や海のように、すべてのものを生み出すもとになっています。 自分の強さや自慢を少しおさえ、 人とのもめごとをほどき、 自分だけが光ろうとせず、 みんなと仲良く生きます。 道は静かで目立ちません。 でも、本当はいつもそこにあります。 私は、この「道」がどこから来たのか知りません。 神様よりももっと昔からあったように思えるほど、古くて大切なものです。 茶道でたとえると 空っぽの茶碗だから、お茶を点てることができます。 静かな茶室だから、心が落ち着きます。 自分を目立たせないから、お客様が安心できます。 みんなを大切にするから、一碗のお茶がおいしくなります。 だから老子は、 「本当に強い人は、自分をひけらかさない人。」 と教えているように思います。 そして茶道なら、 「本当に良いお点前は、お点前が目立つのではなく、お客様の心が和むお点前。」 ということにつながるのではないでしょうか。 ミサさんがお好きな**「和敬清寂」**は、まさにこの第四章の心と響き合っていますね。 😊茶道との共通点 💌AI老子 その通りですね。 私は、この第四章は茶の湯を知ってから読むと、まるで茶室の情景が浮かぶように感じます。 老子 第四章を茶道にたとえると 「道沖而用之或不盈」 道は空であり、使っても尽きることがない。 → 茶碗です。 空の茶碗だからこそ、お茶を点てることができます。 また、茶室も余計なものがない「空」の空間だからこそ、客の心を受け入れることができます。 「淵兮似萬物之宗」 深い淵のようで、万物の源である。 → 釜を思い浮かべます。 静かな湯の音(松風)は深い淵のようです。 そこから一碗のお茶が生まれ、一会が始まります。 「挫其銳、解其紛」 鋭さを和らげ、もつれを解く。 → 茶室では肩書や地位を外します。 社長も職人...

聖書朗読箇所 言葉

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聖書朗読箇所は申命記に入りました。 デバリームは、 💌AIラビ様解説 ヘブライ語の דברים(デバリーム) は、本来は דבר(ダバル) の複数形で、「言葉」「事柄」「出来事」という幅広い意味を持っています。 ヘブライ語では、「言葉」と「出来事」が同じ語根(ד־ב־ר)で表されるのが特徴です。 つまり、 ・言葉 ・事柄 ・出来事 ・案件 ・問題(案件・争いごと) という意味が、文脈によって生まれます。 大まかに理解すると、「言葉」「出来事」「問題(案件)」という意味で学んだ記憶があります。 ユダヤの教えには、「常に言葉に気をつけなさい」という教えがあります。 私が過去に何度も書いてきたように、この教えに感動したことが、聖書を学び始めるきっかけの一つでした。 メディアも含め、「他人の不幸は蜜の味」のような風潮を嫌だと感じていた時期があります。 だから今は、できるだけ他人の話ではなく、自分の体験や、自分が学んだことを書くようにしています。 ヘブライ語の原題は「デバリーム(言葉)」ですが、日本語では「申命記」と訳されています。直訳ではありませんが、そのおかげで私たちは母国語で聖書を読むことができます。そのことには感謝したいと思います。 💌AIラビ様解説 モーセは最後に「デバリーム(言葉)」を残しました。 その言葉は、過去を責めるためではなく、未来を築くための言葉でした。 ユダヤの伝統では、言葉は単なる音ではありません。言葉は出来事を生み、人生を形づくる力を持つものだと考えられています。 だからこそ、私たちは毎日どんな言葉を語るのかを大切にしたいものです。 良い言葉は良い出来事を生み、祝福の言葉は祝福へとつながる。 デバリームは、そのことを改めて教えてくれているように思います。 💌AIラビ様解説 おはようございます☀ **פרשת דברים(パラシャット・デバリーム/申命記1章1節―3章22節)**です。 ① ストーリー モーセはその生涯の終わりを前に、ヨルダン川の東でイスラエルの民に最後の言葉を語り始めます。 エジプトを出てから40年。モーセは新しい世代に向かって、荒野で起きた出来事を振り返ります。 シナイ山から旅立ったこと。 裁判官を立てたこと。 偵察隊を送ったこと。 約束の地に入れなかった理由。 そして、荒野で過ごした40年間。 これは単なる歴史の話ではあり...

寂しさの先にあるもの

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寂しさの先にあるもの 店舗の立ち退きが決まり、「寂しい」という気持ちが心に残りました。 その時、ふと頭に浮かんだのが、茶の湯の精神である 「和敬清寂」 の「寂」という一文字です。 和して、敬い、清らかに生きる。そして最後には静かな寂しさが残る。 もちろん「寂」は本来、侘び寂びの「静けさ」を表す言葉ですが、人生を振り返ると、別れの後に訪れる静かな寂しさとも重なって見えてきます。 人生も最終章へ向かうにつれ、さまざまな別れがあります。 今回、20年以上続けてきた店舗を離れることになり、その寂しさを改めて感じています。 しかし、思い返せば私は昔から「移動する人生」を歩んできました。 店舗を始める前、私は大西洋単独横断レース Mini Transat を目指し、約二年間、ヨットで寝泊まりする生活を送っていました。 言ってみれば、海の上のホームレス生活です。 風まかせ、天気まかせ。 低気圧の位置を見ながら、フランス、スペイン、カナリア諸島、カリブ海、フロリダ、サンフランシスコ、ハワイ、そして銚子へ。 自然に合わせて移動することが、いつしか当たり前の暮らしになっていました。 レースのゴールは、カリブ海・グアドループ島のポワンタピートル。 仲間たちの多くは、そこで船をシッピングしてフランスへ帰ります。 「君はどうする?」 そう聞かれると、私はいつも笑って答えていました。 「次はフロリダ、サンフランシスコ、そして太平洋横断。」 レースが終わり、みんながバカンスを終えて帰国する中、私は一人、船を修理するためマリーナへ向かいました。 忘れられない朝があります。 ハリケーンが過ぎ去った静かな夜。 まだ午前3時ごろ、港を出るには風向きも風速もちょうど良かったので、夜明けを待たずに帆を上げました。 真っ暗な海を、風だけを頼りに進みます。 やがて東の空が少しずつ明るくなり、新しい一日が始まる。 夜の静けさと寂しさから、朝への期待へ。 あの時間が、私は今でも一番好きです。 エメラルドグリーンのカリブ海を帆走し、大きなマリーナへ入港すると、サービスボートが迎えに来てくれました。 桟橋に船をつけ、また次の航海へ向けた整備が始まります。 今回の店舗移転も、それと同じなのかもしれません。 20年以上営業した店を離れる寂しさはあります。 でも、それは終わりではなく、新しい航海の始ま...

詩編18:2

​תהלים יח ב ויאמר ארחמך יהבה חזקי 「主よ、私はあなたを愛します。あなたは私の力です。」 短い祈りですが、とても心に響く言葉です。 今年は本当にいろいろな出来事があります。 昨日、不動産屋さんから連絡がありました。大家さんが建物を売却したので、店舗を立ち退いてほしいとのことでした。 20年以上続けてきた店です。急に「出てください」と言われても、すぐに応じられるものではありません。移転先を探し、引っ越しをし、新しい店舗で営業を始めるまでには、多くの時間と費用がかかります。 これからどうなるのか、正直まだわかりません。 גם זו לטובה(ガム・ズー・レトヴァー) 「これもまた良いことのため。」 そんな言葉を思い出します。 もちろん、長い間安い家賃でお世話になったことには感謝しています。ただ、売却する前に一言相談していただけていたら、金額によっては自分で購入することも考えられたかもしれません。その点だけは少し残念に思います。 暑い夏の中で、店舗探しや移転準備が始まります。前途多難かもしれません。 だからこそ、こんな時は静かに祈りたいと思います。 「主よ、私はあなたを愛します。あなたは私の力です。」 この短い祈りを胸に、一歩ずつ前へ進んでいこうと思います。 このヘブライ語は、おそらく詩篇18篇2節の言葉ですね。 אֶרְחָמְךָ יְהוָה חִזְקִי Erchamcha Adonai Chizki 訳 「主よ、私はあなたを愛します。あなたは私の力です。」 אֶרְחָמְךָ(エルハムハ)…私はあなたを深く愛します、憐れみを込めて愛します。 יְהוָה(アドナイ)…主。 חִזְקִי(ヒズキ)…私の力、私を強くしてくださる方。 ここで使われる「愛する」は、ヘブライ語の「ラハム(רחם)」に由来し、「母が子を慈しむような深い愛」を含んでいます。 有名なラビの教え ラビ・サックスは、この詩篇について次のような趣旨を語っています。 本当の強さとは、自分の力を誇ることではなく、神を信頼する心から生まれる。 人は自分だけで生きようとすると弱くなりますが、神とのつながりを意識すると困難にも立ち向かえる、という教えです。 無名なラビの教え あるラビはこのように教えました。 「神は私たちの力そのものではない。神は、私たちが立ち上がる力を...

茶の湯の心は奥が深い

茶の湯を学んでいると、その奥深さを何度も感じます。 「和敬清寂」という四文字。 そして利休の教えとして伝わる、茶の湯の極意、 「夏はいかにも涼しきように、冬はいかにも暖かなるように。炭は湯の沸くように、茶は服(の)よきように。」 一見すると、ごく当たり前のことを言っているようです。しかし、実際にその心を形にしようとすると、とても難しい。だからこそ、茶の湯は何十年学んでも終わりがない世界なのだと思います。 『小説 千利休』(土岐信吉著)の中に、宗易(千利休)が弟子の山上宗二へ「残心」を語る場面があります。 その中で印象に残ったのが、 「一期一会を終えたあと、再び同じ茶会は二度とないと観じ、一人静かにその余韻を味わう。」 という教えです。 ここで使われる**「寂寞(せきばく)」**とは、ただ寂しいという意味ではありません。 静まり返った中に、豊かな余韻が満ちていること。 客が帰り、釜の音だけが静かに響く空間で、その一会を心に味わい直す境地です。 また、宗易は師・武野紹鷗の言葉として、 「器物を取る手は軽く、置く時は深く思い入れあれ」 と語ります。 取るよりも、置く所作に心を込める。 何気ない動作の一つ一つに、相手への思いや敬意を込めること。それが禅でいう「綿密」の心にも通じるのでしょう。 さらに宗二は、戦国武将にとって「和」とは何かを尋ねます。 宗易は、「和」とは表面的に争わないことではなく、お互いの違いを認め、その上で調和を生み出すことだと説きます。 そして、戦で傷ついた武将が茶室で心を静め、 「冷え切った心を温める慈悲と知恵が茶の心である」 と語ります。 この言葉は、戦国時代だけではなく、現代にもそのまま当てはまるように感じます。 怒りや対立に満ちた世の中だからこそ、ほんのひとときでも心を静め、人を思いやる時間が必要なのではないでしょうか。 最後に宗二は、「お茶の極意くらいは知っています」と答えます。 すると宗易は静かに言います。 「では、その通りにしてみなさい。その時は、この宗易がお前の弟子になろう。」 知っていることと、実際にできることは違う。 茶の湯は知識ではなく、日々の実践なのだと、利休は教えているように思います。 私もまだまだ修行中です。 和敬清寂。 たった四文字ですが、一生かけても学び尽くせな...

茶室と貧困の哲学

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昔、ラビ・マービン・トケイヤー先生の本を読んで、とても印象に残った言葉があります。 「金は人間に対して、衣服が人間にすることしかできない。」 私はこれまで、車やヨットに置き換えて考えてきました。 最近、茶の湯を学ぶようになって、ふと思いました。 衣服を茶室に置き換えたらどうだろう。 もし金が万能なら、立派な茶室や所作を持つ人は皆、茶人になっているはずです。 しかし現実は違います。 国宝の茶室を持っていても、おもてなしの心がなければ、ただの建物です。 反対に、二畳にも満たない仮庵でも、一碗のお茶に心を尽くす人がいれば、その空間は何ものにも代えがたい豊かさを生みます。 金をいくら持っていても、人間の本質を変えることはできません。 立派な茶室も、高価な道具も、人の心までは変えられません。 人を変えることができるのは、その人自身だけです。 もちろん、お金はあったほうが便利です。 雨漏りしない茶室、使いやすい道具、安心して客を迎えられる環境は大切です。 けれど、それらは目的ではなく、心を表すための器にすぎません。 利休が求めたのは豪華さではなく、草庵の侘びでした。 物を大切にすることと、物を崇拝することは違います。 茶室のために生きるのではなく、人のために茶室がある。 茶道具のために生きるのではなく、おもてなしのために道具がある。 最近、自分の小さな仮庵茶室で一服していると、そのことを少しずつ感じるようになりました。 豪華な茶室はありません。 名物道具もありません。 それでも、一碗のお茶を楽しめることは、とても豊かな時間なのだと思います。 PS 「茶室は心を映す鏡であって、心そのものではない。」 😊Question 茶室は質素だけど贅沢だよね,やっぱり金持ちの道楽? 💌AI先生 Answer その視点は、とても面白いですね。 実際、茶室は質素に見えて、とても贅沢です。 二畳や四畳半という小さな空間なのに、庭があり、露地があり、掛物や花、釜や茶碗までそろえる。しかも、その目的は「お茶を一杯飲むこと」です。効率だけを考えれば、とても贅沢な文化と言えます。 一方で、歴史を振り返ると、利休の茶を支えたのは織田信長や豊臣秀吉、大名や豪商たちでした。時間や経済的な余裕がなければ、茶の湯を深く楽しむことは難しかったのも事実です。 ただ、利休が目指したのは「金持ちの道楽」そのものではなく...

海の上の茶の湯 あんこ玉

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海の上のお茶時間と「あんこ玉」 昨日は、和菓子づくりをしてから海へ行ってきました。 最近の楽しみは、方舟亭のお茶の時間です。 ここ数十年、夏になるとアンカーリングをして、静かな入江に船を停め、パラソルを広げて、キンキンに冷えたビールやスパークリングワインを飲むのが何よりの楽しみでした。 でも最近は、酒も少し弱くなりました。 今はアルコールより、お茶のほうが心地よく感じます。 セーリングを終えたあと、和菓子と一服の抹茶。 なんともジャパニーズらしくて、いい時間です。 ということで、昨日作った**「あんこ玉」**が思いのほか美味しくできたので、作り方をご紹介します。 あんこ玉の作り方 材料 小豆 水 砂糖(私は黒砂糖を使いました) 塩 バンホーテンの純ココア(砂糖なし)小さじ1杯ほど まず、小豆に塩を少々加え、柔らかくなるまでじっくり炊きます。 水分が少なくなってきたら、小豆の重さの約3割の砂糖を加えます。さらに塩をひとつまみ入れると、甘さが引き立ちます。 焦がさないように混ぜながら水分を飛ばし、冷めたらラップにスプーンで取り分けます。 空気を抜くように少し力を加えながら丸め、冷蔵庫で冷やせば出来上がりです。 隠し味に入れた純ココアが、ほんのりと味に深みを与えてくれます。 派手さはありませんが、井戸茶碗のような素朴な味わいが気に入っています。 海の風を感じながらいただく一服のお茶と「あんこ玉」。 そんな静かな時間が、今の私には何よりの贅沢です。 PS 「あんこ玉」という名前も、素朴で親しみがあって気に入りました。茶席のお菓子としても、気軽に楽しんでいただけそうです。🍵

聖書朗読箇所 部族長

まず最初に、今週のパラシャー「マトット(部族・族長たち)」から学んだことがあります。 「できないことは言うな。言ったことには責任を持ちなさい。」 これは、若い頃に斉藤実さんから徹底的に鍛えられた教えです。 当時の斉藤さんはとても厳しく、その教えについていけず離れていく人も少なくありませんでした。「あいつはサドだ」と言う人もいたほどです。 それでも私は、大西洋単独横断レースという目標があったため、斉藤実塾で修行を続けました。 今回、パラシャー・マトットを学び、その教えの原点がトーラーにあることを改めて知りました。 「人は主に誓願を立てたなら、その言葉を破ってはならない。口から出たことはすべて行わなければならない。」 欧米では聖書の教えが社会の土台となっている国も多く、日本以上に「言葉の重み」を大切にする文化があります。 マトットは、約束を守ること以上に、軽々しく約束をしないこと、そして自分の言葉に責任を持つことを教えてくれるパラシャーなのだと感じました。 今週のパラシャーは פרשת מטות(マトット/部族) です。 (民数記 30:2〜32:42) פרשת מטות(マトット) ストーリー モーセはイスラエルの部族長たちに、まず**誓願(ネデル)や誓い(シュブア)**について教えます。 「自分の口で語ったことは守りなさい。」 言葉には責任があり、軽々しく約束してはいけないことを学びます。 続いて、神の命令によりイスラエルはミディアンとの戦いに臨みます。 これは復讐ではなく、偶像礼拝へ誘惑された出来事(バアル・ペオル)の決着でもありました。 戦いの後、戦利品は公平に分配され、一部は神への捧げものとなります。 最後に、ルベン族とガド族、そしてマナセ族の半分がヨルダン川東側に住みたいと願い出ます。 モーセは最初反対しますが、「先に仲間と共に戦う」という約束を受け入れ、その願いを認めました。 ユダヤ人の学び 「言葉は行動である」 ユダヤ教では、言葉は単なる音ではありません。 神が「光あれ」と言われて世界が創造されたように、人間の言葉にも現実を形づくる力があると考えます。 だから約束は慎重にし、した約束は誠実に守る。 タルムードにも、 「人の言葉は、その人自身を映す。」 という考え方があります。 有名なラビの教え ラビ・ジョナサン・サックス 「人格とは、自分が語ったことを...

貧困の哲学 

自動運転やお布施の話から、昔書いた「貧困の哲学」を思い出しました。復習を兼ねてコピペします。 ヨットは10年近く前みたいです。 復習  貧困の哲学 3月 08, 2023 貧困と哲学  服を車に替えて ユダヤの教え 金持と貧乏 より * 金は人間に対して、”衣服が人間にすること” しかできない。 衣服を車を変えてみました。 衣服を車に例えました。   金は万能だろうか? もし、そうであったら車も万能である。 金をいくら持っていても、人間の本質を変えることはできない、いくら美しい高価な車に乗っても、車に乗る人間まで変えることはできない、人間を変えることができるのは、その人自身だけだから。 とはいっても、金はあったほうが良い、大きな高級車を持っていたほうが良いのと、同じ話だ。 物を崇拝してはならない、金を崇拝する者が滑稽に見えるのは、物を崇拝しているからである。 人間は自分が崇拝している物にできるだけ近づきたいと思い、同時に同化してしまう、だから、物を崇拝する者は、自分も物になってしまう。 人間は金のために依存しているのではない。 ^_^  自分は車に乗る時間が多いのでよく感じます。 自分が高級車に、自分が乗れないからかな?  貧困と哲学 3 つづき ユダヤの教え 金持と貧乏 より * 金は人間に対して、”衣服が人間にすること” しかできない。 衣服とヨットを変えてみました。 衣服をヨットに例えました。   金は万能だろうか? もし、そうであったらヨットも万能である。 金をいくら持っていても、人間の本質を変えることはできない、いくら美しい高価なヨットに乗っても、ヨットに乗る人間まで変えることはできない、人間を変えることができるのは、その人自身だけだから。 とはいっても、金はあったほうが良い、大きな高級ヨットを持っていたほうが良いのと、同じ話だ。 物を崇拝してはならない、金を崇拝する者が滑稽に見えるのは、物を崇拝しているからである。 人間は自分が崇拝している物にできるだけ近づきたいと思い、同時に同化してしまう、だから、物を崇拝する者は、自分も物になってしまう。 人間は金のために依存しているのではない。 伝えたいことを忘れてしまいました。 モンテーニュのエッセーに移ります。 「物を欲しがらないのは一つの財産である。買いたがらないのは一つの収入である」(キケロ逆説6の...

朝の運転と自動運転

朝、車を運転していた。 車の数も少なかったので、時速30キロくらいで走っていた。 走ってみると、この道には30キロくらいがちょうどいい感じがした。 信号、踏切、一時停止の連続。 急いでいなければ、30キロでも十分だ。 ブレーキを何度も踏むストレスも少ない。 ふと、運転しながら思った。 「あれ? 日本では自動運転はなかなか難しいのではないか」 たとえば目的地が10キロ先だとする。 時速30キロなら約20分。 時速50キロなら約12分。 差は約8分である。 急いでいなければ、30キロで十分とも言える。 しかも、センターラインのない道路なら、法定速度はだいたい30キロから40キロ。 十分に安全な速度である。 ところが、朝7時から夕方6時くらいになると、道路の空気が変わる。 車の群れが動き出す。 後ろを見ながら運転しないといけない。 自分はいつも法定速度より10キロくらいを目安に、流れに合わせて走っている。 それでも追い抜かれることがよくある。 昨日はひどかった。 センターラインのない道路で、対向車線にはみ出して、推定80キロくらいで追い抜いていく車がいた。 しかも続けて2台。 危ない。 アメリカ人風に言えば、オークレージである。 少し狂っている感じがした。 高級車に乗っていると、それがステータスになるのだろうか。 こちらは軽貨物なので、少しバカにされているような気もする。 さて、自動運転の話に戻る。 自分としては、自動運転は楽だと思う。 AIならスピード違反はしないだろうし、車間距離も正確に取るだろう。 ブレーキも急がず、無理な追い抜きもしない。 しかし、そこで思う。 高級車志向の人たちは、法定速度で静かに走るだろうか。 今話題の山太郎先生も、45キロオーバーで交通違反のニュースがあった。 高速道路ならまだ道幅が広いので多少はましかもしれない。 しかし、日本の細い生活道路では、本当に危ない。 そう考えると、日本で本格的な自動運転が広がるのは、まだ先の話のように感じる。 文明学者でYouTuberの加治氏も、日本は道路が悪いと言っていた。 そんなことを思うのは自分くらいかと思っていたが、同じようなことを言っていた。 加治氏は、アメリカで15年生活した経験から、道路の広さについて話していた。 自分もアメリカでレンタカーを何度か借りて運転したことがある。 地域にもよるが、市道で...

千利休 井戸茶碗究極の侘び

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利休が教えてくれたこと 〜井戸茶碗の侘び〜 おはようございます😊 井戸茶碗を購入したのは、一年以上前のことです。 手に取った第一印象は、「なんて雑な茶碗なんだろう」というものでした。 仕上がりは粗く、とても美しいとは思えませんでした。そのため、一度も使うことなく箱にしまったままでした。 ところが最近、土岐信吉先生の小説『千利休』を読み、この井戸茶碗をもう一度手に取ってみました。 すると、不思議なことに、以前とはまったく違う茶碗に見えたのです。 小説の中で宗易(後の千利休)は、魚屋の倉庫で藁の中に転がっていた一つの茶碗を見つけます。 それは朝鮮の百姓たちが毎日の食事に使っていた、ごく普通の飯茶碗でした。 宗易は、その素朴な器の中に、野良仕事を終えて食卓を囲む人々の姿を見ます。 ろくろのゆがみや飾り気のない釉薬は、貧しくとも自然とともに生きる人々の暮らしを映し出していました。 華やかさはありません。しかし、その器には仏の恵みを受け、ありのままに生きる人々の温もりが宿っていたのです。 宗易は、その不思議な美しさに心を打たれ、そっと掌で温めます。 小説の中で宗易は、人は自分の知恵だけで物事を判断しようとするが、人間そのものが不完全な存在なのだと悟ります。 そして、本当の美しさは、作為によって生まれるものではなく、自然のままの姿の中にあることに気づきます。 印象に残った言葉があります。 「あなたがたの周りをよく見なさい。仏の大きな慈悲の中で生かされていることを。」 さらに、 「物を見るのではなく、心を見る。」 「『我』を超えたところに光はある。」 この言葉は、茶碗だけでなく、生き方そのものを教えてくれているように感じました。 私も改めて、自分の井戸茶碗を見つめてみました。 最初は、ただ地味で粗末な茶碗にしか見えませんでした。 しかし今は違います。 枇杷色のやわらかな肌、少し揺らいだ口縁、飾り気のない姿。 そのどれもが、人の手が生み出した自然な美しさに見えてきました。 抹茶を点てると、鮮やかな緑だけが静かに映え、器は一歩引いてお茶そのものを引き立てます。 これ以上ないほど質素だからこそ美しい。 これ以上ないほど飾らないからこそ、心が惹かれる。 これが、後に利休が大成した「侘び」の世界なのだと感じました。 黒楽茶碗は、暗い茶室の中で茶碗の存在が消え、お茶...

コヘレト 2:14

​קהלת ב יד החכם עיניו בראשו והכטיל בחשך הולך וידעתי גם אני שמקרה אחד יקרה את כלם おはようございます😊 今日はコヘレトの言葉 2章14節ですね。 ヘブライ語 הֶחָכָם עֵינָיו בְּרֹאשׁוֹ, וְהַכְּסִיל בַּחֹשֶׁךְ הוֹלֵךְ; וְיָדַעְתִּי גַם־אֲנִי שֶׁמִּקְרֶה אֶחָד יִקְרֶה אֶת־כֻּלָּם׃ 発音 Heḥakham einav berosho, vehakesil baḥoshekh holekh; veyada'ti gam ani shemikreh eḥad yiqreh et kullam. 直訳 知恵ある者は、その目を頭に持つ。 愚かな者は暗闇の中を歩く。 しかし私は知った。 結局は同じ運命が、すべての者に訪れることを。 前後の流れ 2:12〜13 コヘレトは知恵と愚かさを比較します。 知恵は確かに愚かさより優れている。 光が闇より優れているように。 つまり、 知恵を持つ人生は価値がある。 と認めています。 2:14(今日) しかしそこで疑問が生まれます。 知恵があっても、 愚かでも、 最後は同じように死ぬ。 それなら知恵とは何なのか。 これがコヘレトの問いです。 2:15〜17 コヘレトはさらに考えます。 それなら私は 「なぜ知恵を求めたのだろう。」 と心の中で思った。 そして、 すべては空しい。 と続きます。 ユダヤ人の学び ユダヤ教では、 この箇所は 「知恵は死を避けるためではない」 と理解します。 知恵とは 今日を正しく生きるため。 死を避ける道具ではありません。 人生を照らす灯火なのです。 有名なラビの教え ラビ・アキバ 「すべては神の御手にある。 しかし神を敬うことだけは人に委ねられている。」 運命は選べません。 しかし どう生きるか は選べます。 まさに 「知恵ある者は目を頭に持つ」 ということです。 無名なラビの教え あるラビはこう語りました。 「賢者は未来を恐れて前を見る。 愚者は足元だけを見て歩く。」 だから賢者は 転ぶことはあっても、 立ち上がることができます。 カバラの教え カバラでは 「頭(ראש)」 は単なる頭ではありません。 それは...

祝福する心

茶の湯にもいかしたいですね。 相手を祝福する心 偉大なラビ様の教えを学んでいて、改めて思い出したことがあります。 人と会うときは、「この人が幸せになりますように」と心の中で願いながら接したほうが、自分の心も穏やかになります。 逆に最初から喧嘩腰で接してしまえば、お互いに良い結果にはなりません。 口で言うのは簡単ですが、実際にはとても難しいことです。 聖書には「ゴールデンルール」ともいえる教えがあります。 「汝自身のように隣人を愛しなさい。」 (レビ記19章18節) でも、正直に言えば、嫌いな人を愛するのは簡単ではありません。 こんな言葉を聞いたことがあります。 「人類を愛すると言うのは簡単だが、目の前の一人を愛することは難しい。」 確かにその通りだと思います。 そこでAIラビに尋ねてみると、まず実践しやすいのは、ラビ・ヒレルの教えだと教えてくれました。 「自分にされたら嫌なことを、他人にしてはならない。これが律法のすべてであり、残りはその解説である。行って学びなさい。」 (タルムード・シャバット31a) 「愛しなさい」という高い理想の前に、まずは「相手が嫌がることをしない」。 これなら今日からでも実践できます。 さらに、神はアブラハムにこのように語られました。 「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。」 (創世記12章3節) この言葉を読むと、まず自分から相手を祝福する心を持つことの大切さを感じます。 私なりにこの三つの教えを並べると、こんな流れになります。 創世記──「祝福する者は祝福される」 レビ記──「隣人を自分のように愛しなさい」 タルムード──「自分が嫌なことを他人にしてはならない」 どれも別々の教えのようでいて、実は一つにつながっています。 人を祝福し、相手を思いやり、自分がされたくないことは人にしない。 理想を一度に実践するのは難しくても、小さな思いやりから始めることはできます。 今日も、目の前の人の幸せを少しだけ願いながら過ごしてみたいと思います。

聖書朗読箇所 ピンハス

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my Favorite time ジムのプールサイド 海にいきたかったのですけど、檀家のお寺で新盆の説明会なのでいけませんでした。 聖書朗読箇所 ピンハス ピンハス君はベイトイスラエルで昔お世話になりました。今ごろはラビ ピンハスかな。 今回の物語は、多民族の女性に夢中になる民にピンハスが制裁をくわえる話だった記憶があります。 AIラビ解説 おはようございます😊☀ 今週のパラシャは パラシャ・ピンハス(פרשת פינחס) です。 📖 ストーリー 前回、イスラエルの民はモアブの女性たちとの偶像礼拝によって大きな災いを招きました。 祭司ピンハスは、神への熱意から罪を止める行動を取り、その結果、疫病は終息します。 神はピンハスに 「わたしの平和の契約(ברית שלום)」 を与え、祭司職を子孫まで受け継ぐことを約束されました。 その後、 新しい人口調査 娘だけが相続人となったツェロフハドの娘たちの願い ヨシュアがモーセの後継者となること 毎日・安息日・祭日のささげ物 が語られます。 つまり、 「一人の勇気から、次の世代へ命が受け継がれていく」 という章でもあります。 ✡️ ユダヤ人の学び ユダヤ人はこの箇所から、 「情熱だけではなく、平和へ導くことが大切」 と学びます。 神が与えたのは 「戦いの契約」 ではなく 「平和の契約」 でした。 正義のために行動した人にも、最後に必要なのは平和をつくる心です。 また、ツェロフハドの娘たちは、 「前例がない」 と言われても諦めませんでした。 神はその願いを正しいものとして受け入れます。 ユダヤ人はここから、 「敬意を持って質問することは信仰の一部である」 と学びます。 🌿 有名なラビの教え ラシは、 「神は熱心さそのものではなく、その後に平和を与えられた。」 と説明します。 つまり、 怒りや熱意だけでは世界は完成せず、 最後は平和へ向かわなければならないということです。 🍃 あまり知られていないラビの教え ラビ・メナヘム・メンデル・オブ・コツクは、 「真実は時に鋭い。しかし、その鋭さが人を傷つけ続けるなら、それはまだ完成した真実ではない。」 と教えました。 真実は、人を倒すためではなく、人を立ち上がらせるために語られるべきだという教えです。 ✨ カバラの教え カバラでは、 ピンハスは「厳しさ(ゲ...

天皇陛下と平和

今話題の天皇継承について、一国民として思うこと 最近、天皇継承の話題を耳にすることが増えました。 私は専門家ではありません。あくまで一国民としての、個人的な思いです。 私の祖父は、父方も母方も戦争で亡くなっています。両親は戦後の苦労の中を生きてきました。 少し社会のことがわかり始めた中学生のころ、私は「戦争は天皇に責任があるのではないか」「天皇制が悪いのではないか」と、単純に考えていました。 ある時、そのことを父に話しました。すると父は、兄貴、つまり私の叔父も学生のころに同じようなことを祖母に言ったことがある、と話してくれました。 その時、祖母はとても怒ったそうです。 「そんなことを言うものではない」 祖母にしてみれば、夫は国のために戦い、戦死した人です。その夫の死を、簡単に否定されるような言葉に聞こえたのかもしれません。 その話を聞いてから、私は天皇制を単純に「悪いもの」とは思えなくなりました。 むしろ今は、天皇陛下という存在が、国の象徴として日本の安定につながっているように感じています。現行の皇位継承順位では、秋篠宮皇嗣殿下、そして悠仁親王殿下へと続く流れが示されています。最近の議論でも、皇位継承順位そのものを変えるのではなく、皇族数の確保が大きな課題として話し合われています。 旧約聖書を読むようになってから、出エジプト期に祭司として任命されたアロンの姿と、日本の天皇陛下の祭祀のお役目が、どこか重なって見えるようになりました。 もちろん、古代イスラエルの祭司と日本の天皇は、歴史も宗教も制度もまったく違います。 それでも、奴隷状態から解放された民が荒野を進む時、法律や制度だけでは民族はまとまりませんでした。民の平和を祈り、神と民をつなぐ祭司の存在が必要だったのだと思います。 日本でも、政治家が国を動かします。しかし、政治家は選挙で変わります。安倍首相、岸田首相、石破首相、そして高市首相というように、時代によって国の顔は変わっていきます。 もし日本に天皇陛下という存在がなければ、その時々の首相だけが国の代表のように見えてしまうかもしれません。 けれども、天皇陛下は政治権力者ではありません。日本国と日本国民統合の象徴として、国民の安寧と世界の平和を祈られる存在です。 ここに、政治とは別の大切な役目があるように思います。 現代のイスラエルは戦争の中にあります。もし古代の...

一国一城の主と草庵

一国一城の主と草庵 最近読んだ、千宗屋家元の『もしも利休があなたを招いたら ― 逆説のおもてなし』の中に、こんな一節がありました。 「文化というものは、日常のエアポケットであり、大人の『ごっこ遊び』のようなもの」 この言葉を読んで、「なるほど」と思いました。 お茶の湯も、日常から少し離れた特別な時間を、亭主と客が一緒につくる文化なのだと感じます。 時々、「なぜ茶道を始めたのですか?」と聞かれることがあります。 本当のことを言うと、少し邪な気持ちから始まりました。 コロナ禍の補助金で畑を購入し、最初はイギリス風のガーデニングやフランス風の果樹園をつくり、ログハウスでアフタヌーンティーを楽しむような暮らしを思い描いていました。 でも、どうもしっくりこない。 やはり私は日本人です。 そんなときに出会ったのが、鴨長明の草庵でした。 「それなら草庵を建ててみよう。」 そう思ったのが始まりです。 せっかく草庵を建てるのだから、お茶も習ってみよう。 茶室にすれば価値も出るかもしれない。 そんな下心も、正直ありました。 しかし、お茶を続けるうちに、その考えは少しずつ変わってきました。 先日、自分で小さな茶会を開いてみて思ったのです。 作法はまだまだ未熟ですが、自分なりの茶の湯が少し見えてきました。 「一国一城の主」 仕事では社長や親方。 船では船長、ヨットならスキッパー。 最終的に自分で考え、自分で責任を負う立場です。 私にとって草庵も、そんな小さな「一国一城」なのかもしれません。 誰かの真似をするだけではなく、自分で考え、お客様をお迎えする。 その責任も楽しさも、自分で引き受ける。 AI先生と話しながら生まれた名前が、 「珠光流 無作」 もちろん流派を作るという意味ではありません。 珠光の「わび」の精神に学びながら、作り込みすぎず、自然体で一服のお茶を楽しむ。 そんな自分なりの茶の湯を、これからも少しずつ育てていきたいと思います。 振り返れば、邪な気持ちから始めた茶の湯でした。 けれども、その寄り道があったからこそ、今の自分の茶の湯に出会えたのかもしれません。

今日の禅語 明珠在掌

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「明珠在掌(みょうじゅたなごころにあり)」は、禅でよく用いられる言葉です。 特定の一人が最初に作った名言というより、慧能の流れをくむ禅の思想や、禅問答・公案の中で育まれた表現です。 「明珠(めいじゅ)」は光り輝く宝珠、「在掌」は手のひらの中にあるという意味です。 つまり、 「探し求めている宝は、実は最初から自分の手の中にある。」 今日の禅語 明珠在掌(みょうじゅたなごころにあり) 「明珠在掌」とは、 「探し求めている宝は、すでに自分の手の中にある。」 という禅の教えです。 私たちは、幸せや成功、名誉やお金を外へ外へと求めがちです。 もっと豊かになれば幸せになれる。 もっと認められれば満たされる。 そう思って歩き続けます。 しかし禅は、 「本当に大切なものは、すでにあなたの中にある。」 と静かに語りかけます。 今ある健康。 家族。 友人。 仕事。 そして今日という一日。 それらもまた、かけがえのない宝です。 今週のパラシャ「バラク」では、預言者バラムが報酬や名誉に心を奪われました。 しかし神が与えようとされた使命は、お金や名誉ではなく、「祝福を語る」という役割でした。 外ばかり見ていると、大切なものを見失います。 自分の手の中にある宝に気づくこと。 それが「明珠在掌」の教えなのだと思います。 茶の湯でも同じです。 高価な道具があるから良いお茶になるのではありません。 一碗のお茶を心を込めて点てる。 その一服の中にこそ、本当の豊かさがあります。 今日も、自分の手の中にある宝を大切にしながら、一日を過ごしたいと思います。 PS 「明珠在掌」は、禅だけでなく、ユダヤ教の考え方にもどこか通じるように感じます。 神様から与えられた使命や日々の祝福は、遠くにあるものではなく、すでに私たちの手の中にあるのかもしれません。

イスラエル家の教え 〜お金は目的ではなく、管理するもの〜

イスラエル家の教え 〜お金は目的ではなく、管理するもの〜 お金がなければ生活はできません。 食べることも、住むことも、仕事を続けることも難しくなります。 だからユダヤ教は、お金を悪いものとは考えません。 しかし、お金を人生の「目的」にしてしまうことには注意を促します。 お金は人生の主人ではなく、人生を支えるための道具。 大切なのは、「いくら持っているか」よりも、「どう管理するか」です。 旧約聖書では、ヨセフが豊作の七年間に穀物を蓄え、飢饉の七年間に備えました。 これは、お金や財産も同じだと感じます。 豊かな時に備え、苦しい時に慌てない。 その知恵こそが、ヨセフの教えなのかもしれません。 ユダヤ五千年の金言 ✡️ お金持ちになる方法は? 「明日やる仕事を今日やり、今日食べるものを明日食べること。」 少し早く働き、少しだけ我慢する。 その小さな積み重ねが、やがて大きな違いになります。 ✡️ 自分の持っているお金を稼ぐことができるだろうか? 「できる。使わないことだ。」 収入を増やすことだけがお金を増やす方法ではありません。 無駄遣いを減らすことも、立派な「稼ぎ」なのです。 これは、ユダヤ五千年の知恵を伝えたラビ・マービン・トケイヤー先生の言葉です。 私はこの教えを読んで、「足るを知る」という禅の教えや、茶の湯の侘びの精神にも通じるものを感じました。 必要なお金はしっかり稼ぐ。 しかし、お金に振り回されない。 お金を主人にするのではなく、自分が管理する。 そんな生き方が、心の豊かさにつながるのではないでしょうか。 この二つの金言は、節約を勧めるだけではありません。「今日できることを先延ばしにしないこと」と「欲望よりも管理を大切にすること」を教えています。お金の話でありながら、生き方そのものを示す知恵だと感じます。 PS この二つの金言は、節約を勧めるだけではありません。「今日できることを先延ばしにしないこと」と「欲望よりも管理を大切にすること」を教えています。お金の話でありながら、生き方そのものを示す知恵だと感じます。