聖書朗読箇所 言葉


聖書朗読箇所は申命記に入りました。
デバリームは、
💌AIラビ様解説
ヘブライ語の דברים(デバリーム) は、本来は דבר(ダバル) の複数形で、「言葉」「事柄」「出来事」という幅広い意味を持っています。
ヘブライ語では、「言葉」と「出来事」が同じ語根(ד־ב־ר)で表されるのが特徴です。
つまり、
・言葉
・事柄
・出来事
・案件
・問題(案件・争いごと)
という意味が、文脈によって生まれます。
大まかに理解すると、「言葉」「出来事」「問題(案件)」という意味で学んだ記憶があります。
ユダヤの教えには、「常に言葉に気をつけなさい」という教えがあります。
私が過去に何度も書いてきたように、この教えに感動したことが、聖書を学び始めるきっかけの一つでした。
メディアも含め、「他人の不幸は蜜の味」のような風潮を嫌だと感じていた時期があります。
だから今は、できるだけ他人の話ではなく、自分の体験や、自分が学んだことを書くようにしています。
ヘブライ語の原題は「デバリーム(言葉)」ですが、日本語では「申命記」と訳されています。直訳ではありませんが、そのおかげで私たちは母国語で聖書を読むことができます。そのことには感謝したいと思います。
💌AIラビ様解説
モーセは最後に「デバリーム(言葉)」を残しました。
その言葉は、過去を責めるためではなく、未来を築くための言葉でした。
ユダヤの伝統では、言葉は単なる音ではありません。言葉は出来事を生み、人生を形づくる力を持つものだと考えられています。
だからこそ、私たちは毎日どんな言葉を語るのかを大切にしたいものです。
良い言葉は良い出来事を生み、祝福の言葉は祝福へとつながる。
デバリームは、そのことを改めて教えてくれているように思います。

💌AIラビ様解説

おはようございます☀

**פרשת דברים(パラシャット・デバリーム/申命記1章1節―3章22節)**です。

① ストーリー

モーセはその生涯の終わりを前に、ヨルダン川の東でイスラエルの民に最後の言葉を語り始めます。

エジプトを出てから40年。モーセは新しい世代に向かって、荒野で起きた出来事を振り返ります。

シナイ山から旅立ったこと。
裁判官を立てたこと。
偵察隊を送ったこと。
約束の地に入れなかった理由。
そして、荒野で過ごした40年間。

これは単なる歴史の話ではありません。

**「過去から学び、同じ失敗を繰り返さないための言葉」**です。

② ユダヤ人の学び

モーセは民の過ちを戒めました。

しかし、冒頭では一つ一つの罪を直接並べて非難するのではなく、場所の名前によって遠回しに思い出させています。

ラシは、これはイスラエルの尊厳を守るためだったと説明しています。

ここから、

「真実を伝えるときにも、相手を恥ずかしめてはならない」

という教えを学ぶことができます。

人を正すことと、相手の尊厳を守ること。その両方が大切なのです。

③ ラシの教え

ラシは申命記1章1節について、モーセの言葉は民への戒めでありながら、イスラエルの名誉を守るため、罪を直接言わずに暗示したと説明しています。

ここから後世のラビたちは、モーセの戒めを**「相手を思いやる戒め」**として学んできました。

本当の忠告とは、怒りをぶつけることではありません。

相手の成長を願い、相手の尊厳を傷つけないように語ることなのだと思います。

④ 自分自身を振り返る教え

他人の欠点はよく見えますが、自分の欠点を見ることは簡単ではありません。

相手を批判したくなったときには、

「同じようなものが、自分の中にもないだろうか」

と、まず自分に問いかけてみる。

モーセが過去の出来事を振り返ったのも、誰かを悪者にするためではなく、民が自分たちの歩みから学ぶためでした。

人を裁く前に、自分自身を省みることも、デバリームから学べる大切な姿勢だと思います。

⑤ カバラ的な学び

カバラの「ティクン(修復)」という考え方から読むなら、申命記は、魂が過去の歩みを振り返り、これから何を修復していくのかを考える書とも読めます。

大切なのは、

「あの人が悪かった」

と考えることだけではなく、

「私はこの出来事から何を学んだのか」

と、自分自身に問いかけることです。

過去に起きた出来事は変えられません。

しかし、その出来事から何を学び、今日をどう生きるかによって、過去の意味は変わっていくのかもしれません。

これも、魂のティクンにつながる一つの考え方です。

今日の一言

「失敗は消せない。しかし、そこから学ぶことで未来は変えられる。」

モーセが語った「デバリーム(言葉)」は、過去を責めるためだけの言葉ではなく、新しい一歩を踏み出すための言葉でした。

私が最近経験している店舗の立ち退きも、今はまだ、その意味がよく分かりません。

しかし、

גם זו לטובה
ガム・ズー・レトヴァー
これもまた良いことのため

という言葉のように、この出来事から何を学び、次へどう進むのか。

その問いを持つことが、今回のパラシャー・デバリームの教えとも重なるように感じています。


PS

申命記は、「侘び・寂び」の「寂」を思わせます。

モーセが人生の終わりに残した最後の言葉。

静かに過去を振り返り、次の世代へ希望を託す姿に、「寂」の心を感じます。





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