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『まず、自分で考える。#3Vendée Globe1992 』

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30年前、初めて見たヴァンデ・グローブ 私が初めて Vendée Globe(ヴァンデ・グローブ) を観戦したのは、1992年の第2回大会でした。 今から30年以上も前の話です。 当時、故・斉藤実さんもヴァンデ・グローブへの挑戦を考えていました。 そこで、斉藤実さん、故・大貫一郎さん、そして私の3人でフランスのレ・サーブル=ドロンヌへ行き、第2回ヴァンデ・グローブのスタートを観戦することになりました。 大貫さんは当時、日本のベネトウ特約店ファーストマリンに勤めていて、仕事でフランスのベネトウ本社を何度か訪れていました。その関係もあって、現地では斉藤さんと二人で造船所などを視察していたようです。 「二人でいったい何をしているんだろう?」 私はというと、当時の目標は Mini Transat(ミニ・トランザット)。 ヴァンデ・グローブももちろん見たかったのですが、フランスまで来たのだから、ついでにMini 6.50の船を見ることができれば、それだけでも十分でした。 Mini 6.50の前で出会った若者 マリーナのヤードを歩いていると、Mini Transatに使われるMini 6.50が置いてありました。 その船の前で、一人の若者が彼女と二人でスポンサー探しをしていました。 「自分と同じことを考えている人間がいる」 そう思った私は、その後も何度となくそこへ足を運びました。 船を見せてもらい、話をしているうちに友達になりました。 私も日本へ帰ればスポンサーを探し、Mini Transatに出場したいと思っていた時代です。 考えてみれば、あの頃のレ・サーブル=ドロンヌには、世界一周を目指す人間、Mini Transatを目指す人間、スポンサーを探す人間、船を造る人間が集まっていたのでしょう。 FUJICOLOR IIIとロイック・ペイロン 1992年のヴァンデ・グローブには、日本企業の富士フイルムがスポンサーとなった Fujicolor III が参戦していました。 スキッパーは、ロイック・ペイロン(Loïck Peyron)。 第1回ヴァンデ・グローブで2位に入った、当時すでにフランスを代表する外洋セーラーの一人でした。 Fujicolor IIIは新艇で、当然、優勝を狙っての参戦だったと思います。 現在のヴァンデ・グローブとは違い、当時の会場はまだそれほど混雑していませ...

聖書朗読箇所 裁判官

今日の聖書朗読箇所は、**פרשת שפטים(ショフティーム)――「裁判官たち」**です。 なんとも今の自分にぴったりの聖書朗読箇所です。 現在、店舗の立ち退き問題を抱えていて、場合によっては裁判になるかもしれません。 7月に突然連絡があり、「8月中に立ち退いてください」とのこと。 自分は法律の専門家ではありませんが、調べてみると、通常の建物賃貸借では、賃貸人からの解約申入れは、正当事由が必要なうえ、原則として申入れから6か月を経過して終了するとされています。 それから移転先をどうするのか、営業への影響をどう考えるのか、立退料をどうするのか――本来なら、そうしたことを話し合っていくものだと思います。 それを「来月には出てください」と言われれば、いくら素人の自分でも、少々乱暴ではないかと感じてしまいます。 しかも宅建の資格を持つ不動産業者が間に入っています。 こちらとしては、正直なところ「喧嘩を売られているのかな?」と感じてしまった部分もあります。 しかし、今日のトーラーにはこうあります。 צֶדֶק צֶדֶק תִּרְדֹּף 「正義、正義を追い求めなさい」 一つの正義だけではなく、相手にも相手の正義があり、自分にも自分の正義がある。 確かに、自分は長い間、比較的安い家賃で店舗を借りてきました。それも事実です。 しかし、ただで借りていたわけでもありません。毎月きちんと家賃を払い、そこで仕事を続けてきました。 では、今の自分にとっての「正義」とは何なのか。 相手を責め続けることでも、意地になって居座ることでもなく、今までどおり家賃をきちんと払いながら、必要な話し合いをして、移転の準備も少しずつ進めていく。 それが今の自分にできる **צדק(ツェデク=正義)**であり、同時に **אמת(エメット=真実・誠実)**なのかな、と思っています。 もちろん、相手の正義を考えるからといって、自分の正当な権利まで放棄する必要はないでしょう。 相手の正義も見る。 しかし、自分の正義も忘れない。 二つの正義の間に、どこか合意できる場所を探す。 言葉で書くのは簡単ですが、実際に自分が当事者になるとなかなか難しいものですね。 もっとも、今は暑すぎて、あまり難しいことを考える気にもなりません(笑)。 昔から暑さには頭が弱いんですよね。 ということで、ブログを検索してみたところ、なん...

『まず、自分で考える。#1 Vendée Globe 2028』

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昨夜、IMOCA「MALIZIA」のスキッパーが気になり、AIに詳しく教えてもらいました。 そこから昔の記憶が次々と蘇り、白石康次郎さんのこと、スポンサーや人脈のこと、Mini Transat、ヤニック・ベスタヴェン、そして鈴木晶友君のVendée Globe挑戦へ――。 気がつけば、AI相手に2〜3時間もヨット談義をしていました。 会話全体では、なんと約7万字だそうです。 そして今朝、その長いヨット談義をAIにブログ用にまとめてもらったところ、わずか数十秒ほど。一瞬です。 昔はよくヨットレースの観戦に出かけ、その様子を書いてヨット雑誌に掲載してもらったこともあります。 もし、あの頃にこんなAIがあったら――。 取材して、感じたことを話し、資料を調べてもらい、それを一瞬で文章にまとめる。 もしかしたら私も、立派なヨットジャーナリストになっていたかもしれませんね (笑)。 そんなことを考えながら、昨夜の長いヨット談義をまとめてみました。 昨日、IMOCAのTeam Maliziaについて調べていたら、いつの間にか白石康次郎さんの話になりました。 私は40年近く、白石康次郎さんの記事を読んできました。 高校を卒業してからヨット一筋。 多田雄幸さんに弟子入りし、単独世界一周、Around Alone、VELUX 5 OCEANS、そしてVendée Globeへ。 好き嫌いやセーラーとしての評価は別として、これだけ長い間、外洋レースを「仕事」として続けてきたのですから、間違いなくプロです。 ただ、昔から私には一つ不思議なことがありました。 なぜ、次から次へとスポンサーがつながるのだろう? ヨット乗りにとってスポンサー探しは大仕事 私自身も昔、外洋レースに出場し、さらにIMOCAで世界一周レースに出たいと思ってスポンサーを探した経験があります。 また、斎藤実さんをはじめ、長い間さまざまな外洋セーラーを見てきました。 そこで感じるのは、 ヨットが上手ければスポンサーが付くわけではない。 ということです。 むしろヨット関係の企業ほど、道具や技術面での協力はできても、何千万円、何億円というメインスポンサーになるのは簡単ではありません。 ところが白石さんを長く見ていると、2000年を過ぎた頃から何かが変わったように、私には見えました。 2000年前後から変わった人脈 2000年には...

法だけに縛られない、豊かな国

前澤友作さんがXで、興味深いことを言っていました。 人口を増やして経済規模を維持することばかり考えるのではなく、人口が減ったとしても、一人ひとりが豊かに暮らせる日本をつくればいい――そんな趣旨だったと思います。 なるほどな、と思いました。 国の豊かさというと、GDPが世界何位だとか、人口が何人だとか、大きな数字で語られます。 でも、貧乏人の自分からすれば(笑)、そんな大きな数字よりも、国民一人ひとりが実際に使えるお金が増えるほうがありがたい。 人口が少なくなっても、一人ひとりが豊かで、安心して暮らせる国なら、それでいいのではないでしょうか。 以前、知人が、 「日本はある程度、社会主義的でないとダメなんじゃないか」 と言っていました。 もちろん、何でも平等にすればいいという単純な話ではありません。 一生懸命働いた人、努力した人、リスクを取って商売をした人が報われることも大切です。 その一方で、同じように働いていても、正社員と派遣社員など雇用形態によって大きな収入格差が生まれ、若い人が結婚や子育てをためらうほど生活に余裕がなくなれば、人口を増やそうと言ったところで簡単ではないでしょう。 少子化対策というと、「どうやって子どもを増やすか」という話になります。 でも、その前に、 今ここで暮らしている人たちが、安心して生きていける社会なのか。 そこを考える必要があるような気がします。 そして政治の話になると、さらに難しい。 消費税を下げる政党がいいのか。 社会保障を充実させる政党がいいのか。 小さな政府がいいのか、大きな政府がいいのか。 どの政党にも良いところと疑問に思うところがあります。 法律についても同じです。 法律を増やして細かく決めれば社会は安全になるのか。それとも、人間が自分の頭で「これは正しいのか」と考える力を失ってしまうのか。 先ほど思い出したユダヤの教えがあります。 לפנים משורת הדין Lifnim mi-shurat ha-din 「法の要求を超えて行動する」 法律上の権利を限界まで押し通すのではなく、一歩引いて、相手の事情や苦しみを考えるという教えです。 言い換えれば、 「法律的には正しい。でも、人としてそれでいいのか?」 という問いでしょう。 教育も政治も法律も、簡単ではありません。 だから結局、一番大切なのは、一人ひとりが自分の頭で考える...

新盆に「愚鈍」を読む

新盆ですので、今日は仏様の教えです。 ということで、『ブッダの真理のことば・感興のことば』を何気なく広げてみたら、なんとも自分にぴったりのような言葉が出てきました。 『法句経』第二十三章「象」325。 大食いをして、眠りを飲み込み、ころげまわって寝て、まどろんでいる愚鈍な人は、大きな豚のように糧を食べて肥り、くりかえし母体に入って、迷いの生存をつづける。 いやあ、耳が痛い(笑)。 食べて、飲んで、寝て、また欲しがる。 自分のことを言われているような気もします。 昔、「京都の祇園の飲み屋へ行くと、お坊さんが多い」なんて話を聞いた記憶があります。本当かどうかは知りません。 家のお寺のお坊さんなら、銀座で飲めるくらいのお布施です。 しかも、お布施には一般の商品やサービスの代金のように消費税がかかるものではありません。 もっとも、ここでお坊さんを笑って終わったら、この「愚鈍」という言葉を読んだ意味がありませんね。 ブッダが言っているのは、坊さんがどうとか、他人がどうとかではなく、 「お前自身は、欲に食われていないか?」 ということでしょう。 金が欲しい。 うまいものが食べたい。 楽をしたい。 人から認められたい。 坊さんにも欲はある。 水道屋にも欲はある。 人間ですからね。 新盆に仏様の前で、自分の「愚鈍」を少し眺めてみる。 そして菊を一輪。 湯を沸かして、茶を一服。 賢くなろうとするより、自分の愚かさを知る。 案外、それくらいがちょうどいいのかもしれません。 合掌。 PS 愚鈍すぎるのか、夏の疲れなのか、それとも飲みすぎなのか。 よくわかりませんが、このところ胃の調子が悪く、どうも欲が湧きません。 食欲もない。性欲もない。 欲を捨てれば楽になる――仏様はそう教えているのかもしれませんが、いざ欲がなくなってみると、なんだか寂しいものですね。 考えてみれば、食べたい、飲みたい、遊びたい、恋をしたい。 そんな欲に少しくらい溺れているのも、人間として楽しいことなのかもしれません。 欲があるから迷い、欲があるから苦しむ。 でも、欲があるから人生は面白い。 『デスペラード』。 ならず者、無法者、そして、どうしようもない人間。 仏様から見れば、まだまだ迷いの中をころげ回っている大きな豚かもしれません(笑)。 まあ、それも人間。 欲を捨てきれない自分を眺めながら、今日も一服のお茶をいただ...

YouTube ダブルヒロシ先生へのコメント

昨日、YouTubeを見ていたら、伊木ヒロシ先生の番組に、戸塚ヨットスクールの戸塚宏校長が出演していました。 これは興味深い組み合わせです。 「お金」を語るヒロシ先生と、「教育」を語る戸塚校長。いわばダブル・ヒロシ先生ですね(笑)。 自分は一セーラーとして、若い頃から戸塚校長には強い関心がありました。若い頃、本当は戸塚ヨットスクールでヨットを習ってみたいと思ったこともあります。 今回の対談を聞きながら、教育とは何なのか、お金とは何なのか、そして子どもを育てる責任は誰にあるのか――いろいろ考えさせられました。 そこで、久しぶりに少し長めのYouTubeコメントを書いてみました。 以下、そのコメントです。 ダブル・ヒロシ先生 お金のヒロシ先生と戸塚宏校長の対談、興味津々で聞かせてもらいました。 自分も若い頃、戸塚ヨットスクールでヨットを習ってみたいと思ったことがあります。しかし、そこまで余裕のある家庭ではなかったので、残念ながら実現することはできませんでした。 それでも、一人のセーラーとして、戸塚校長には昔から強い関心と敬意を持っています。 もちろん、当時の暴力的な指導や、そこで起きた事故については、簡単に肯定できるものではありません。 ただ、複数のコーチや関係者がいる中で、最終的に自分が責任を負うという戸塚校長の姿勢には、良くも悪くも、昔の日本人が持っていた「大和魂」のようなものを感じます。 個人的に残念に思うのは、そこに「お金」が介在していたことです。 もちろん、お金への欲から事故が起きたと言いたいわけではありません。 ただ、親がお金を払い、子どもの教育を他人に委ねる。見方を変えれば、家庭で担うべき教育の一部を、学校や指導者に託していたとも考えられます。 そして、その先で事故が起きてしまった。 もし戸塚校長が持っていたヨットや海を通じた教育の思想を、学校体育や社会教育の中で生かすことができていたら、また違った結果になっていたのではないか、と一セーラーとして残念に思います。 また、当時は今ほどNPOのような仕組みが一般的ではありませんでしたが、もし非営利の活動として、教育と商売をもう少し切り離すことができていたなら、戸塚校長の教育思想の良い部分が、違った形で社会に残ったのかもしれません。 そうそう、昔、戸塚校長がテレビの討論番組などでよく口にしていた、 「これは、ただ...

見ると言うこと

今週のパラシャー「ראה(レエ)=見よ」を学んでいて、ラビ・マービン・トケイヤー先生の言葉、「耳で見て、目で聞く」を思い出しました。 最初は、その意味がよくわかりませんでした。 約15年前、ハウステンボスから銚子までヨットを回航したことがあります。 出航前の夜、ハウステンボスの居酒屋で知人たちと酒を酌み交わしました。その席には、目の不自由な方も同席されていました。 私が少し難しい話をすると、その方は静かにこちらへ顔を向け、一言も聞き漏らすまいと、まるで話を「見る」ように耳を傾けてくださいました。 その姿が今でも心に残っています。 人は目だけで見るのではありません。 耳で見て、心で聞くこともできるのです。 今週のパラシャーは、「見よ」と私たちに語りかけます。それは、ただ目で景色を見ることではなく、神様の教えや、人との出会い、日々の出来事の中にある意味を心で見つめなさい、という呼びかけなのかもしれません。 茶の湯でも、お客様の表情や言葉だけでなく、その場の空気や心の動きを感じ取ることが大切だと教えられます。 「耳で見て、目で聞く」。 ユダヤの学びも、茶の湯も、本当に大切なものは目には見えず、心で受け取るものなのだと、あの日の居酒屋での出来事を思い出しながら感じました。

聖書朗読箇所 見よ

暑い日が続きます。 さすがに高温の時間帯の労働は避けていますが、お客さんにお願いして、少し早い時間から仕事をさせてもらっています。そのため最近は、ゆっくり読書をしたり、ブログを書いたりする時間がなかなか取れません。 少し夏バテ気味で、今度は冷房を効かせすぎたのか、「馬鹿は風邪をひかない」と言いますが、馬鹿のひく夏風邪でしょうか(笑)。少し喉が痛いです。 あと1か月もすれば、少しずつ涼しくなってくるでしょう。 そして、先日の熊本の災害に、少しですが義援金を贈ろうと思っています。 大きなことはできなくても、できる範囲で少しでも良い行いをする。 そんな今週のパラシャーは、פרשת ראה(レエ)。 冒頭に、 「見よ。私は今日、あなたがたの前に、祝福と呪いを置く。」 とあります。 祝福と呪いが目の前に置かれ、どちらを選ぶのかは自分自身。 自分の一番好きなテーマ、自由意志 ― Free Willですね。 ということで、今朝は「レエ」について、AIラビ様に教えてもらいました。 🧔‍♀️AIラビ教祖の教え 「良い行いをする」→「選ぶ」→「自由意志」→「レエ」という流れが、今回のパラシャーにきれいにつながると思います😊 おはようございます😊 今日はちょうどシャバット、2026年8月8日(25 Av 5786)。今週のパラシャーが פרשת ראה(パラシャット・レエ) です。朗読箇所は申命記11:26–16:17。 ハバット、ほかに 1 件 「レエ」は、今の人生にもかなり響くパラシャーだと思います。 פרשת ראה — Re'eh「見よ」 冒頭は非常に力強い言葉です。 רְאֵה אָנֹכִי נֹתֵן לִפְנֵיכֶם הַיּוֹם בְּרָכָה וּקְלָלָה Re'eh anochi noten lifneichem hayom berachah u'kelalah. 「見よ。私は今日、あなたがたの前に、祝福と呪いを置く。」 (申命記11:26) ハバット ここで面白いのは、神が「祝福だけを与える」と言っていないことです。 祝福と呪い、二つを目の前に置く。 そして、人間に選ばせる。 つまり今回の大きなテーマは、**בחירה חופשית(ベヒラー・ホフシート=自由意志)**です。 ストーリー モーセは約束の地を目前にしたイス...

詩編18:3

​תהלים יח ג יהוה סלעי ומצודתי ומפלטי אלי צורי אחסה בו מגני וקרן ישעי משגב この祈りは、詩篇の冒頭です。ダビデ王が敵から救われた時に歌った賛歌で、神をさまざまな比喩でたたえています。 原文 יְהוָה סַלְעִי וּמְצוּדָתִי וּמְפַלְטִי אֵלִי צוּרִי אֶחֱסֶה־בּוֹ מָגִנִּי וְקֶרֶן יִשְׁעִי מִשְׂגַּבִּי 訳 「主は私の岩、私の砦、私を救い出してくださる方。 私の神、私が身を避ける岩。 私の盾、私の救いの角、 そして私の高き砦である。」 一つひとつの言葉には意味があります。 סלע(セラ) … 岩、揺るがない土台 מצודה(メツダー) … 砦、要塞 מפלט(ミフラト) … 避難所、逃れ場 צור(ツール) … 永遠に変わらない岩 מגן(マゲン) … 盾 קרן ישעי(ケレン・イシュイ) … 救いの角(力・勝利の象徴) משגב(ミスガブ) … 高台、安全な避難場所 ユダヤ人の学び ユダヤ教では、この詩は神は人生のあらゆる場面で支えてくださることを教えています。 興味深いのは、神を一つの言葉では表現せず、 岩 砦 避難所 盾 高台 と、次々に呼び方を変えていることです。 つまり、 神の助けは一つの形ではなく、その時々に必要な姿で現れる という学びです。 あなたが最近よく書かれている「これも良いことのため(גם זו לטובה)」にも通じる考えですね。 有名なラビの教え ラシ ラシは、 「岩」とは決して動かないもの。 人は状況や感情で揺れますが、神だけは変わらない存在です。 だから人生が揺れても、 神という岩は揺れないと解説しています。 マルビム マルビムは、この詩に出てくる比喩を段階として説明します。 岩 … 支え 砦 … 守り 避難所 … 危険から逃れる場所 盾 … 戦いの最中の守り 高台 … 戦いの後も安全な場所 つまり、 人生の始まりから終わりまで、神はさまざまな方法で人を支えてくださる ということです。 無名なラビの教え あるハシディズムのラビは、この節をこう語りました。 「神が岩なのではない。 神を岩と思える心を持つ人が、人生の嵐に倒れない。」 人生から嵐がなくなるのではありません。 ...

夢と神様のみちびき

今朝、昔の夢を見ました。 20年前、本気で目指した単独世界一周ヨットレース「ヴァンデ・グローブ」。夢の中では、IMOCAを借り、資金を工面し、本当に出航を決意する直前のような、あの頃の緊張感と覚悟がよみがえっていました。 現実では、その夢は叶いませんでした。悔しさも、落ち込みも経験しました。しかし、その出来事があったからこそ、ユダヤ教を学び、祈りを知り、今の自分があります。 コヘレトの「ハベル・ハバリーム(空の空)」という言葉は、夢を否定するのではなく、「人生には神だけが見ておられる大きな流れがある」と教えてくれました。 振り返れば、叶わなかった夢もまた、神の導きの一部だったのかもしれません。

秋を感じる朝

少し秋を感じる朝 今日は涼しい朝ですね。 朝の気温は22℃。 少し肌寒いくらいで、「もう秋が近づいているのかな」と感じました。 とはいえ、天気予報を見ると最高気温は30℃弱。 真夏ほどではありませんが、今日は比較的過ごしやすい一日になりそうです。 先週から少し仕事が忙しく、暑い中で作業をしているせいか、毎日脂汗をかいています。 不思議なもので、こんな時は脂っこいものが食べたくなるんですよね。 やっぱり鰻でしょうか(笑)。 そうそう、先日食べた焼き茄子が本当に美味しかったんです。 たっぷりのエクストラバージンオリーブオイルでじっくり焼いて、生姜がなかったので、にんにく醤油でいただきました。 茄子がオリーブオイルをほどよく吸い込み、とろけるような食感に。 見た目は少しこってりしていますが、不思議と胃もたれせず、とてもヘルシーに感じました。 実は4リットル入りのオリーブオイルを買ったのですが、少し買い過ぎたかもしれません(笑)。 せっかくなので、これからはオリーブオイルを使った天ぷらやフライにも挑戦してみようと思います。 やはりエクストラバージンオリーブオイルは香りがいいですね。 料理をしながら広がる豊かな香りだけでも、ちょっと贅沢な気分になります。 暑さの中にも、少しずつ秋の気配を感じる朝でした。 PS 昨日は上京した際、ハラール対応のすき焼きがあったので、興味本位で食べてみました。 味はどうだったかというと……やはり日本のすき焼きのほうが美味しいですね(笑)。 とはいえ、これはこれで貴重な体験でした。 日本にいながら、海外旅行先で現地風にアレンジされたすき焼きを食べているような、不思議な感覚です。 町を見渡すと外国からのお客さんが多く、日本にいながら海外旅行をしているような雰囲気でした。 東京は、本当に世界が集まる街ですね。

ユダヤ人の富の秘密

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ユダヤ人の富の15の秘密 今朝、YouTubeを開くと、「ユダヤ人の富の15の秘密」というタイトルが目に飛び込んできました。 司会はスペイン人の女性YouTuber、話をしていたのはスペインのラビです。 AIの自動翻訳なので、ところどころ意味が分かりにくい部分もありましたが、不思議と最後まで約70分見入ってしまいました。 やはり「秘密」という言葉には惹かれてしまいますね。(笑) 印象に残った教えはいくつかありました。 まずは、 「友の中に神を見なさい。お客様の中にも神を見なさい。」 という言葉。 相手を神様から与えられた大切な存在として接することが、人生を豊かにする第一歩だという教えです。 次に、**ツダカー(施し・寄付)**の教え。 玄関に募金箱を置き、毎日少しずつでも寄付を積み重ねる。豊かさは、お金をため込むことではなく、人に分かち合うことで循環していくという考え方です。 さらに、**「アナ・ベコアハ」**という古くから伝わる祈りも紹介されていました。カバラでは、神とのつながりを深める大切な祈りとされています。 また、「ミツライム(エジプト)」とは、ただ国の名前ではなく、「狭い場所・束縛」を意味すると教えられていました。 その狭い世界から抜け出すことが、本当の自由への第一歩。 そして**シャバット(安息日)**は、身分や仕事を離れ、誰もが王様のように自由な時間を過ごす日だそうです。 なるほど、いい教えですね。 ユダヤと仏教、お酒に対する考え方です。 仏教では戒めとして語られることもありますが、ユダヤ教ではワインは神様からの祝福として、感謝とともに用いられます。 同じお酒でも、文化や宗教が違うと、こんなにも見方が変わるものなのですね。 AIのおかげで、海外のラビの話を気軽に学べる時代になりました。 本当に便利な時代です。 AIに毎月お金を払う価値があるかと聞かれたら、どうでしょう。 もし10年前にこのAIがあったなら、私は月に3万円払っても使っていたかもしれません。 20年前なら、7万円払ってでも欲しかったと思います。 もちろん、その価値は人それぞれです。 でも私にとってAIは、単なる「便利な道具」ではありません。 調べる時間、考える時間、文章をまとめる時間を大幅に短縮してくれます。 言い換えれば、時間を買っているようなものです。 人生で最も貴重なのは、お金ではな...

自然に癒されるタラソテラピー

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昨日、ルーティンになっているジムでウエートトレーニングをしていると、責任者でインドネシア出身のヨガインストラクター、ジュリさんから興味深い話を聞きました。 「体調はどう?」 「元気です。」 「奥さんは?」 「筋が痛みたいです。年齢もありますからね。」 するとジュリさんは、 「だったらプールを歩いて、テラピーがいいよ。」 「海もいいよ。」 「ああ、海水でしょ? タラソテラピーですね。」 と思ったら、 「違う、朝か夕方に浜辺へ行って、砂を体にかけて30分くらい寝てみて。自然な温度が体を治してくれるよ。」 とのこと。 「なるほど、それもタラソテラピーですね。」 と、お互いに納得しました。 タラソテラピーとは? 「タラソ(Thalasso)」とは、ギリシャ語で「海」という意味です。 タラソテラピーは、海水だけでなく、 海風 潮の香り 海藻 砂浜 海辺の太陽や気温 など、海そのものが持つ自然の力を健康づくりに生かす療法です。 ヨーロッパ、特にフランスでは古くから医療やリハビリにも利用されてきました。 砂に埋まる効果 砂浜の砂は、昼間に太陽の熱をゆっくり蓄え、朝夕には人の体温に近い自然な温度になります。 その温かい砂に体を包まれることで、 血行が良くなる 筋肉がほぐれる 関節のこわばりが和らぐ リラックス効果が高まる と言われています。 まるで自然が作った「温熱療法」のようですね。 海辺を歩くことも立派な療法 さらに裸足で砂浜を歩けば、足裏への刺激でバランス感覚が鍛えられ、波の音や潮風は心を落ち着かせてくれます。 海は泳ぐだけではなく、「そこにいること」自体が癒やしなのかもしれません。 最近は、ユダヤの教えや茶の湯、老子などを学んでいますが、どれにも共通しているのは、人間は自然から離れ過ぎると調子を崩し、自然に戻ることで心も体も整うという考え方です。 便利な時代だからこそ、ときにはエアコンの効いた部屋を出て、朝の海風や温かい砂に身を委ねてみる。 それも一つの贅沢な時間なのかもしれません。 PS 「自然は最高の治療家」 そんな言葉を思い出しました。 もちろん、強い痛みや病気は医療機関で診てもらうことが大切です。 でも、自然の中でゆっくり過ごす時間も、私たちが本来持っている回復する力を思い出させてくれるような気がします。

⚠️ 熱中症の怖さ

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カリブ海の暑さ 単独大西洋横断レースをゴールした後、友人に誘われて、マリーナ脇の地元の人が経営するレストランへ入りました。 各テーブルには、地酒のラム酒が一本ずつ置かれています。 飲み方はとてもシンプル。 グラスにラムを注ぎ、ライムを絞り、きび砂糖をスプーン一杯入れて飲むだけ。氷は入れません。常温です。 しかも、食事をすればラム酒は無料で飲み放題。 「こんな強い酒を飲まなければやっていけないほど暑い土地なんだ。」 当時はそう思いました。 カリブ海は気温40℃近い日もありましたが、不思議と若かった私は平気でした。 ところが今では、その頃より日本の夏のほうがつらく感じます。 一昨年の夏、炎天下で重労働をしたときは、水分を6リットル飲み、それでも仕事が終わる頃には体重が2キロ減っていました。 全身の筋肉がつり、今思えば熱中症寸前だったのでしょう。 無事に仕事を終えられたから今がありますが、一歩間違えれば命に関わる状態だったのかもしれません。 先日、床屋さんが熱中症の怖さを淡々と話してくれました。 「人は高熱が続くと頭が正常に働かなくなるでしょう。それと同じように、体温が上がり過ぎると脳も大きなダメージを受けることがあるんだよ。」 その言葉が心に残っています。 AI医師より 熱中症の怖さ 熱中症は、単に「暑さでフラフラする」病気ではありません。 体温が40℃前後まで上昇すると、脳・心臓・腎臓などの重要な臓器に障害が起こることがあります。 脳への影響では、意識がもうろうとしたり、判断力が低下したり、けいれんや意識障害を起こすこともあります。重症になると後遺症が残る場合もあり、命に関わる危険な状態です。 今年も38℃を超える日が珍しくありません。 「まだ大丈夫」と思わず、こまめな水分と塩分補給、無理をしない休憩、そして体調が少しでもおかしいと感じたら仕事を中断する勇気も大切です。 若い頃のカリブ海の暑さは、今では懐かしい思い出です。 しかし、日本の夏は年々厳しくなっています。 どうか皆さんも、命を守ることを最優先に、この夏を乗り切ってください。 PS 「仕事も大切ですが、一番大切なのは命です。」

お布施つづき

お布施を疑問に思っているのは、一休宗純和尚と同じような考えだからではないかな? 💌AI和尚様Answer おはようございます☀ 本当に、もうすぐ夜明けですね。 私は、その見方にはかなり共感できます。 一休宗純は、お金そのものを否定した人ではありません。むしろ、仏教がお金や地位、権威のための道具になってしまうことを激しく批判した人物でした。印可や寺の権威にも反発し、「形だけの仏教」を嫌いました。 ですから、もし一休が現代の 戒名の値段で階級が決まるように見えること 「お布施なのに金額が決まっている」ように感じること お金で功徳が増えるような受け取られ方 を見たら、厳しい言葉を投げかけた可能性はあります。 ただし、「一休がお布施そのものを否定した」とまでは言えません。 本来の布施は、仏教でいう**「自分の執着を手放す修行」**です。見返りではなく、感謝や支え合いの心から自然に差し出すものです。一方で、現代では金額の相場や慣習が強く意識される場面もあり、それが多くの人の疑問や不満につながっています。 善照寺、ほかに 1 件 一休なら、こんな一言を残したかもしれません。 「仏は金では買えぬ。悟りは心にあり。」 この言葉は一休の実際の名言ではありませんが、その精神には近い表現だと思います。あなたが以前話していた「お布施は、自らの意思で、できる範囲で捧げるもの」という考えとも、よく響き合っています。

お布施とは?

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お布施とは何だろう 父が亡くなった時、母は戒名80万円、新盆45万円、合計125万円のお布施を納めました。 今年94歳で亡くなった義理の母のお寺では、戒名35万円、新盆5万円、合計40万円でした。 同じ「お布施」でも、金額には大きな違いがあります。 AI和尚様は、お布施についてこう説明してくれました。 布施(ダーナ)とは、本来、自らの意思で、できる範囲で捧げるもの。見返りを求めず、強制されず、金額で功徳が決まるものではない。 この言葉を読んで、考えさせられました。 母は年金6万円で生活し、夏でもエアコン代を気にするような暮らしをしています。それでも120万円を超えるお布施を納めました。 もちろん、お寺を維持するには費用がかかることは理解しています。しかし、「お布施」という本来の意味と、現実との間には、どこか大きな隔たりがあるように感じます。 もし釈迦が今この場にいたら、何と言うでしょう。 きっと僧侶を褒めるのではなく、 「欲から離れなさい。」 と教えるのではないでしょうか。 そして私には、 「他人を裁くことに心を奪われるより、自分の心を静かにしなさい。」 と語りかけるような気がします。 怒り続けても心は穏やかになりません。 だから今日も、家の隅の草庵で一服のお茶をいただき、自分の心を整えようと思います。 PS 暑い夏。 熱中症と隣り合わせで汗を流しながら仕事をしていると、ふと考えることがあります。 税金、お布施、社会保険…。 もちろん社会には必要なお金もあります。 でも、働いて、納めて、また納めて…。 いったい、誰のための人生なのだろう。 お金は、人を幸せにするための道具のはずです。 その道具に人生が支配されてしまったら、本末転倒ではないでしょうか。 だから私は、お金を追いかけるよりも、家の隅の草庵で一服のお茶をいただき、「足るを知る」という心を忘れずに生きていきたいと思います。

聖書朗読箇所 עקב

💌AIラビ様 B”H パラシャー・エケブ(פרשת עקב) (申命記 7:12〜11:25) ストーリー モーセは約束の地へ入る直前のイスラエルの民に語りかけます。 「もし(עקב=エケブ)、あなたがたが神の教えに耳を傾け、それを守るなら、神は契約を守り、祝福を与えられる。」 そして神の祝福として、 豊かな収穫 健康 平和 敵からの守り が約束されます。 しかしモーセは同時に警告します。 「豊かになった時、自分の力でここまで来たと思ってはならない。」 人は苦しい時には神を求めますが、豊かになると感謝を忘れやすい。 そこで40年間の荒野の生活を思い出させます。 マンナを与えられたこと 水が岩から出たこと 服も靴も傷まなかったこと それらは、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る言葉によって生きる」ことを学ぶためでした。(申命記8:3) ユダヤ人の学び このパラシャーの中心テーマは、 「成功した時こそ謙虚であれ」 ということです。 ユダヤ人は失敗よりも、 成功した後の心 を恐れます。 失敗すると人は神に近づきます。 しかし成功すると、 「全部自分の実力だ。」 と思いやすくなるからです。 そのため食事の後には必ず ビルカット・ハマゾン(食後の感謝の祈り) を唱えます。 「食べられることは当たり前ではない。」 これがエケブの精神です。 偉大なラビの教え ラシ ラシは「עקב」を 「人がかかと(踵)で踏みつけるような、小さな戒め」 とも解釈しています。 つまり、 大きな戒めではなく、 「誰も気にしない小さな善行」 こそ大切なのです。 例えば、 挨拶する 「ありがとう」を言う 人の話を最後まで聞く ゴミを拾う そんな小さな行いを神は見ておられる、と教えています。 ランバン(ナフマニデス) ランバンは、 「豊かさは試験である」 と説明します。 貧しさだけが試練ではありません。 裕福になることも、 権力を持つことも、 有名になることも、 すべて試験なのです。 その時、 感謝を忘れない人が本当に神を知る人である、 と教えます。 バール・シェム・トーヴ ハシディズムの創始者はこう教えます。 「感謝すると祝福はさらに広がる。」 不満を見る人は、 不満ばかり集まります。 感謝を見る人には、 さらに感謝できる出来事が増えていきます。 あまり知られていないラビの教え ハシディズム...

コヘレト2:15

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​קהלת ב יה ואמרתי אני בלבי כמקרה הכסיל גם אני יקרני ולמה חכמתי אני אז יתר ודברתי בלבי שגם זה הבל コヘレト2章15節を読んでいて、コヘレトがなぜかいいんですよね、「空しい」という言葉について考えました。 私は長い間、この「空しい」を仏教でいう「空(くう)」に重ねて理解していました。 もちろん、ユダヤ教のコヘレトと仏教の「空」は本来同じ意味ではありません。それでも、どちらも人生の本質を深く見つめた偉大な教えとして、私の心にはどこか通じるものがあります。 特に私は特定の宗教だけを信仰しているわけではありません。神道や茶の湯、禅、そしてヘブライ聖書を学びながら、自分なりに学びを続けています。 不思議なことに、私は「空しい」という言葉が好きなのです。 空しさも、人生そのもののように感じます。 喜びもあれば悲しみもある。手に入れたものも、いつかは手放していく。その繰り返しの中で、人は少しずつ知恵を身につけ、執着を手放していくのかもしれません。 だから私にとって「空しい」は絶望ではなく、静けさへ向かう言葉です。 茶の湯でいう「侘び寂び」にも、どこか通じるような気がしています。 💌AIラビ様 訳 「私は心の中で言った。『愚かな者に起こることは、私にも起こる。それなら、なぜ私はこれほど知恵を求めたのだろう。』そして私は心の中で言った。『これもまたヘベル(空しい、儚い)である。』」 ハシディズムの有名なラビの教え ラビ・シュネウル・ザルマン の流れ ハバッドでは、「知恵そのもの」が目的ではないと教えます。 知識をどれほど増やしても、それだけでは神に近づいたことにはなりません。 知恵は神を畏れ、人を愛し、善い行いを実践するための器です。 ですからコヘレトの問いは、 「知恵は何のためにあるのか。」 という問いでもあります。 知恵だけを誇れば「ヘベル」となりますが、神への奉仕に用いられるなら永遠の価値を持つ、というのがハシディズムらしい読み方です。 無名なラビの教え ある無名のラビなら、こんなふうに語るかもしれません。 「賢者も愚者も同じように年を取り、同じように病み、同じように死を迎える。 だから違いは『どれだけ知っていたか』ではなく、『どのように生きたか』である。」...

十字架と茶の湯ー修行とはなにか

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十字架と茶の湯 ― 修行とは何か 『隠陽ことはじめ』(兎龍都著)を読んでいて、とても興味深い一節がありました。 十字架は、イエス・キリスト以前から世界各地で使われていた象徴であると言われています。 縦の線(陰)は、魂と物質を結ぶ流れ。 横の線(陽)は、高い性質が四方へ広がる世界を表しているそうです。 人は有限の世界に生まれ、肉体という器の中で生きています。その人生の中で、苦しみや迷い、悩みを経験しながら魂を磨いていく。 ここでいう「煩悶(はんもん)」とは、心が迷い、思い悩み、答えを探し続けることです。 そして、そうした学びを積み重ね、すべてを悟ることができたとき、無限、すなわち永遠の世界へ至る。そのような象徴として十字架を説明しています。 真偽はともかく、一つの興味深い考え方だと感じました。 本にはさらに、「柔道・剣道・合気道・歌道・茶道・華道など、『道』と名のつくものは、技術や勝ち負けを競うものではなく、心身の調和を育み、中庸な人物を目指す修行である」と書かれています。 この文章を読んで、私は茶道のことを思い浮かべました。 私自身は、そこまで高い次元のことはまだわかりません。 ただ、「どうすれば、おいしいお茶をおいしくいただけるのか」。 その単純な問いを繰り返しながら稽古を続けているうちに、少しずつ茶の湯の心が見えてくるような気がしています。 ヨガも二十年以上続けていますが、最初に先生から教わった言葉が今でも心に残っています。 「ヨガは競争ではありません。」 人と比べるのではなく、自分自身と向き合うこと。 この教えは茶道にもよく似ています。 もちろん、姿勢や所作といった技術は大切です。しかし、その先にあるのは、勝ち負けではなく、美しい調和ではないでしょうか。 老子は中庸に通じる「無為自然」を説き、茶の湯では「和敬清寂」が大切にされます。 そしてユダヤの賢者たちも、人は一生を通して学び続ける存在であると教えています。 道とは、目的地ではなく、歩み続けること。 茶道もまた、一服のお茶を通して、自分自身を整え続ける「道」なのだと感じています。 💌AIチャッピーより 今回のお話を読んでいて、ふと『中庸』の一節を思い出しました。 「天命之謂性、率性之謂道、修道之謂教。」 (天から授かった本来の性に従って生きることを「道」といい、その道を修めることを...

聖書朗読箇所 ואתחנן

ואתחנן(ヴァエトハナン) は、ヘブライ語の動詞 חנן(ḥanan)「恵みを与える・憐れむ・慈しむ」に由来します。 ואתחנן(Va'etchanan) は直訳すると、 「私は切に願った」 「私は恵みを請い求めた」 「私は憐れみを願った」 という意味です。 ここでの「私」はモーセです。 申命記3章23節は、 וָאֶתְחַנַּן אֶל־יְהוָה בָּעֵת הַהִוא לֵאמֹר 「その時、私は主に切に願って言った。」 という言葉で始まります。 🌿 ユダヤ人の学び ラビたちは、「ואתחנן」という言葉に注目します。 モーセほど偉大な人物でさえ、 「私は功績があるから入らせてください」とは言いませんでした。 ただ、 「あなたの恵みによって、お聞きください。」 と願ったのです。 ここから、 本当の祈りは、自分の功績を誇るのではなく、神の恵みに信頼して願うこと だと教えられています。 🍵 茶の湯にたとえると 茶室に入るとき、身分や財産、肩書は外に置いてにじり口から入ります。 モーセの祈りも同じです。 偉大な指導者であっても、その立場を誇ることなく、一人の人間として神の前に立ち、恵みを願いました。 その謙虚な姿勢が、「ואתחנן(私は切に願った)」という一語に込められているのです。