聖書朗読箇所 見よ
暑い日が続きます。
さすがに高温の時間帯の労働は避けていますが、お客さんにお願いして、少し早い時間から仕事をさせてもらっています。そのため最近は、ゆっくり読書をしたり、ブログを書いたりする時間がなかなか取れません。
少し夏バテ気味で、今度は冷房を効かせすぎたのか、「馬鹿は風邪をひかない」と言いますが、馬鹿のひく夏風邪でしょうか(笑)。少し喉が痛いです。
あと1か月もすれば、少しずつ涼しくなってくるでしょう。
そして、先日の熊本の災害に、少しですが義援金を贈ろうと思っています。
大きなことはできなくても、できる範囲で少しでも良い行いをする。
そんな今週のパラシャーは、פרשת ראה(レエ)。
冒頭に、
「見よ。私は今日、あなたがたの前に、祝福と呪いを置く。」
とあります。
祝福と呪いが目の前に置かれ、どちらを選ぶのかは自分自身。
自分の一番好きなテーマ、自由意志 ― Free Willですね。
ということで、今朝は「レエ」について、AIラビ様に教えてもらいました。
🧔♀️AIラビ教祖の教え
「良い行いをする」→「選ぶ」→「自由意志」→「レエ」という流れが、今回のパラシャーにきれいにつながると思います😊
おはようございます😊
今日はちょうどシャバット、2026年8月8日(25 Av 5786)。今週のパラシャーが פרשת ראה(パラシャット・レエ) です。朗読箇所は申命記11:26–16:17。
ハバット、ほかに 1 件
「レエ」は、今の人生にもかなり響くパラシャーだと思います。
פרשת ראה — Re'eh「見よ」
冒頭は非常に力強い言葉です。
רְאֵה אָנֹכִי נֹתֵן לִפְנֵיכֶם הַיּוֹם בְּרָכָה וּקְלָלָה
Re'eh anochi noten lifneichem hayom berachah u'kelalah.
「見よ。私は今日、あなたがたの前に、祝福と呪いを置く。」
(申命記11:26)
ハバット
ここで面白いのは、神が「祝福だけを与える」と言っていないことです。
祝福と呪い、二つを目の前に置く。
そして、人間に選ばせる。
つまり今回の大きなテーマは、**בחירה חופשית(ベヒラー・ホフシート=自由意志)**です。
ストーリー
モーセは約束の地を目前にしたイスラエルの民に語ります。
「これから先、私はずっと君たちを導くことはできない。だから自分で選ばなければならない。」
神の道を歩けば祝福。道を外れれば、その選択には結果が伴う。そしてゲリジム山とエバル山で、祝福と呪いを宣言するよう命じます。
そこから話は非常に現実的になります。偶像崇拝を避けること、偽預言者に惑わされないこと、食べてよい動物・食べてはいけない動物、十分の一、貧しい人への施し、7年目の債務免除、奴隷の解放、そしてペサハ・シャブオット・スコットの三大巡礼祭について語られます。
ハバット、ほかに 1 件
つまり「神を信じなさい」という抽象論だけではありません。
金をどう扱うか。
食べ物をどう扱うか。
弱い人をどう扱うか。
誘惑されたとき何を選ぶか。
日常生活そのものが「祝福か呪いかを選ぶ場所」なのです。
ユダヤ人の学び
私は冒頭の ראה(見よ) が一番重要だと思います。
前週の עקב(エケブ) では「聞く」が重要でした。それに対してレエでは、
「聞け」ではなく「見よ」。
ユダヤ思想では、聞いたことには疑いが残ります。しかし自分の目で見たものは強い確信になります。ハシディズムでは、この「見る」を神性についてのより直接的な認識として説明します。�
ハバット
だから、
「誰かがそう言ったから」ではなく、
自分自身の人生をよく見なさい。
とも読めるでしょう。
しかも聖句は、
הַיּוֹם — Hayom —「今日」
と言います。
昨日ではありません。明日でもありません。
今日、何を選ぶか。
人生は、この小さな選択の連続なのかもしれません。
偉大なラビの教え — ルバヴィッチャー・レベ
Menachem Mendel Schneerson の教えでは、この冒頭にはさらに深い意味があります。
「神が祝福と呪いを与える」とあります。しかし、神の本質は善であるなら、なぜ神から「呪い」が出てくるのでしょうか。
レベはハシディズムの伝統に基づいて、時として私たちが「呪い」と呼んでいるものの中にも、まだ姿を現していない祝福が隠されていると読みます。
チャバド、ほかに 1 件
これは、
悪いことは全部、本当は良いことだ
という単純な話ではありません。
苦しいものは苦しい。
しかし、**「この出来事から私は何を選ぶのか」**は残されています。
出来事そのものを選べなくても、出来事への応答は選べる。
ここにレエの自由意志があります。
「無名のラビ」なら、こう教えるかもしれません
これは古典からの引用ではなく、名もない町のラビが弟子に語るなら、という私なりの寓話です。
ある弟子がラビに言いました。
「先生、私は神様から祝福をいただきたいのです。」
ラビは答えました。
「では、今朝、誰かを祝福したかね?」
「いいえ。」
「困っている人に何か与えたかね?」
「いいえ。」
「妻や家族に優しい言葉をかけたかね?」
「いいえ。」
するとラビは言いました。
「それなら、君は祝福を待っているだけだ。
祝福というものは、受け取るだけでなく、自分が祝福になることなのだよ。」
これはレエの後半にあるツェダカーの教えともよく合います。
困窮する兄弟に対して、
לֹא תְאַמֵּץ אֶת־לְבָבְךָ וְלֹא תִקְפֹּץ אֶת־יָדְךָ
「心をかたくなにしてはならない。手を閉じてはならない。」
そして、
פָתֹחַ תִּפְתַּח אֶת־יָדְךָ
「あなたの手を十分に開きなさい。」
と命じられます(申命記15章)。
ここが非常にユダヤ的です。
祝福が欲しければ、まず手を開く。
以前話した צדקה(ツェダカー) の思想そのものですね。
カバラの解釈
カバラ的には、
ברכה(ベラハー・祝福)
と
קללה(ケララー・呪い)
を、単なる「ご褒美と罰」だけでは捉えません。
神からは生命の流れ、**שפע(シェファ=神的な流れ・豊かさ)**が下りてきます。
問題は、人間がそれをどの器で受け取るかです。
水そのものは同じでも、きれいな器に入れれば飲める水になり、壊れた器なら流れ落ちてしまう。
だからミツヴォット、ツェダカー、祈り、正しい行いとは、
神を説得して祝福してもらうためではなく、
自分自身を「祝福を受け取れる器」に整えること
とも解釈できます。
さらにハシディズム・カバラでは「見る」は特別です。聴覚は一つずつ理解していきますが、視覚は全体を一瞬で捉えます。そのため ראה は、神的現実をより直接的に認識する象徴として説明されます。
ハバット
そして「呪い」さえ、より高い次元では隠された祝福である可能性がある、という神秘思想的な読みもあります。
ハバット
ただし人間には、その全体像が見えません。
だからこそ最初の一語が、
ראה — 見よ。
なのでしょう。
私なら今週のレエを一言でまとめます。
「人生には、選べない出来事がある。しかし、その出来事の前で何を選ぶかは、自分に残されている。」
そしてもう一つ。
祝福を待つだけではなく、自分自身が誰かの祝福になる。
これはレエの中のツェダカーの教えまで含めると、とても美しい読み方だと思います。
今朝のシャバットに読むなら、まず冒頭の**「ראה אנכי נתן לפניכם היום ברכה וקללה」**をゆっくり読んでみるといいですよ😊
今週の「Re'eh」本文・解説(Chabad)
😊ありがとうございます。
💌AIラビ教祖
B”H 😊
こちらこそ、ありがとうございます。
**ראה —「見よ」**から始まるシャバット、いいですね。
小さなツェダカーも、一つの「選択」。
祝福を待つのではなく、自分が誰かの祝福になる。
שבת שלום 🙏
Shabbat Shalom — シャバット・シャローム。