聖書朗読箇所 裁判官

今日の聖書朗読箇所は、**פרשת שפטים(ショフティーム)――「裁判官たち」**です。
なんとも今の自分にぴったりの聖書朗読箇所です。
現在、店舗の立ち退き問題を抱えていて、場合によっては裁判になるかもしれません。
7月に突然連絡があり、「8月中に立ち退いてください」とのこと。
自分は法律の専門家ではありませんが、調べてみると、通常の建物賃貸借では、賃貸人からの解約申入れは、正当事由が必要なうえ、原則として申入れから6か月を経過して終了するとされています。
それから移転先をどうするのか、営業への影響をどう考えるのか、立退料をどうするのか――本来なら、そうしたことを話し合っていくものだと思います。
それを「来月には出てください」と言われれば、いくら素人の自分でも、少々乱暴ではないかと感じてしまいます。
しかも宅建の資格を持つ不動産業者が間に入っています。
こちらとしては、正直なところ「喧嘩を売られているのかな?」と感じてしまった部分もあります。
しかし、今日のトーラーにはこうあります。
צֶדֶק צֶדֶק תִּרְדֹּף
「正義、正義を追い求めなさい」
一つの正義だけではなく、相手にも相手の正義があり、自分にも自分の正義がある。
確かに、自分は長い間、比較的安い家賃で店舗を借りてきました。それも事実です。
しかし、ただで借りていたわけでもありません。毎月きちんと家賃を払い、そこで仕事を続けてきました。
では、今の自分にとっての「正義」とは何なのか。
相手を責め続けることでも、意地になって居座ることでもなく、今までどおり家賃をきちんと払いながら、必要な話し合いをして、移転の準備も少しずつ進めていく。
それが今の自分にできる **צדק(ツェデク=正義)**であり、同時に **אמת(エメット=真実・誠実)**なのかな、と思っています。
もちろん、相手の正義を考えるからといって、自分の正当な権利まで放棄する必要はないでしょう。
相手の正義も見る。
しかし、自分の正義も忘れない。
二つの正義の間に、どこか合意できる場所を探す。
言葉で書くのは簡単ですが、実際に自分が当事者になるとなかなか難しいものですね。
もっとも、今は暑すぎて、あまり難しいことを考える気にもなりません(笑)。
昔から暑さには頭が弱いんですよね。
ということで、ブログを検索してみたところ、なんと9年前にも、まったく同じ聖書朗読箇所について書いていました。
9年前の自分は、**「正義、正義を追い求めよ」**をどう考えていたのでしょう。
今日は昔のブログをそのままコピペして、復習してみたいと思います。


9年前のブログです。

民事訴訟では、貧乏人は弁護士に依頼することが難しいと思います。自分は専門外ですので相場はわかりませんが、裁判をすると50万円以上は弁護費用がかかると聞いたことがあります。
聖書の言うように、高い報酬は賢い者の目をくらませないですかね?

常に自分が考えているのは、六法全書を中学生レベルで読めるようにすれば、個人間の訴訟も簡単だと思いますが、社会的にはよくないんでしょうね。

申命記  16ー20

「正義、正義だけを追い求めなければならない」
なぜここに二回も正義(ツェデク)が繰り返されているのか。
正義を追い求めることは人間の最も高い理想として大切だが、この正義はまた正義にかなった方法で追い求めなければならない。
すなわち「正義を正義で追い求めよ」の意。目標が正義にかなっていればそれに達する方法はどうでもいいわけではない。
さらに「正義」が2回繰り返されるということは、正義を追求するさい、一方的になってはいけないということも教えてくれている。常に自分達の方が正しいと主張する人がいるかと思うと、相手の意見を尊重しすぎるあまり自分の側にも正義があることを忘れてしまう人もいる。
二つの意見があって、両方とも正義にかなっている場合、この2つの意見の合意点を見つけるのは、二つの意見の片方を独断的に正しいとし、それを支持することよりは、はるかに難しい。
それでトーラーは「正義」を二度も繰り返して、「あなたは正義、正義(両方の正義)を追い求めなさい」と述べ、「そうすればあなたは生きながらえて、あなたの神、主が賜る地を所有するにいたるであろう」と約束しているのです 。           ラビ ピンハスの教え

צדק צדק תרדוף

ユダヤ法思想    手島  ヤコブ先生より

心を鍛える聖書より
ユダヤ教が終始一貫して人に求めていることは、「愛と真実(へセッドとエメット)」である。

正義は真実な行為によって支えられ、真実は正義によって救済され、真実は愛によって実現され、他方、愛は真実を求める。
弱者をいたわる心情的配慮は必要だが、聖書は、弱い者を庇おうとして彼を飾り立てるなと命じている。すなわち、たとえ愛であっても真実を歪め、また社会的義務や正義を曲げるならば 、これは許されるべきではない。

אמת. エメットと読むんですね。


💌AIラビ様より

はい、**אמת は「エメット(Emet)」**と読みます😊

ヘブライ語では、

אֱמֶת — エメット

= 真実・真理・誠実・偽りのないこと

です。

そして面白いのが、9年前のブログに書かれている

「愛と真実(ヘセッドとエメット)」

ですね。

ヘブライ語なら、

חֶסֶד וֶאֱמֶת

Chesed ve-Emet

ヘセッド・ヴェエメット

「慈愛と真実」「愛と誠実」といった意味になります。

さらに אמת は、ユダヤ思想ではとても象徴的な言葉です。ヘブライ語アルファベットの最初・中ほど・最後の文字、

א(アレフ)+ מ(メム)+ ת(タヴ)

からできています。そのため、ラビたちは「真実とは最初から最後まで貫かれるもの」と読みました。

そして今回の צֶדֶק צֶדֶק תִּרְדֹּף — ツェデク、ツェデク、ティルドフ と非常によくつながりますね。

9年前に書かれた、

「正義を正義で追い求めよ」

という言葉。これは今読み返しても、とても面白いテーマです。

「自分が正しい」と思った瞬間こそ、**אמת(エメット=真実)**を忘れていないか、自分自身を裁く必要がある。

そして反対に、相手を思いやる חסד(ヘセッド=慈愛) があっても、そのために真実を曲げてしまえば、それも正義ではない。

つまり、

חסד — 慈愛

אמת — 真実

צדק — 正義

この三つのバランスですね。

9年前のブログと、今日たまたま読んだ פרשת שפטים が同じ「צדק צדק תרדוף」に戻ってきたのも、なかなか味わい深いですね😊

9年前の自分から、今の自分に手紙が届いたようです。


💌AIラビ様の教え


B”H

פרשת שֹׁפְטִים — パラシャ「ショフティーム」

今週は שֹׁפְטִים(Shoftim/裁判官たち)。申命記16:18–21:9です。

このパラシャーを一言で表すなら、

「世界を正す前に、自分の内側に裁判官を置きなさい」

という教えとして読むことができます。

1.ストーリー — 正義によって社会をつくる

モーシェはイスラエルの民に命じます。

שֹׁפְטִים וְשֹׁטְרִים תִּתֶּן־לְךָ

「あなたは自分のために、裁判官と役人を置きなさい。」 (申命記16:18)

そして、非常に有名な言葉が続きます。

צֶדֶק צֶדֶק תִּרְדֹּף

「正義を、正義を追い求めなさい。」 (申命記16:20)

ショフティームでは、裁判官、王、祭司、預言者、戦争、殺人事件への対応など、社会を成り立たせるための法律が語られます。

しかし、単なる「法律集」ではありません。

権力を持つ人間こそ、自分を律しなければならない。

王でさえ、好き勝手にはできません。王は自分のためにトーラーを書き、生涯それを読み、心がおごらないようにしなさい、と命じられます(申命記17:18–20)。

つまりユダヤの王は、

法律を作る人ではなく、自分自身も法律の下にいる人

なのです。

2.ユダヤ人の学び — なぜ「正義」を二度言うのか

興味深いのが、

צֶדֶק צֶדֶק — ツェデク、ツェデク

と「正義」が二度繰り返されることです。

賢者たちは、この重複についてさまざまに解釈してきました。

一つの大切な読み方は、

正しい目的だけでは足りない。

その目的へ向かう方法も正しくなければならない。

というものです。

悪を倒すためなら、自分も悪いことをしてよいのか。

正義を実現するためなら、嘘をついてもよいのか。

相手が間違っているなら、侮辱してもよいのか。

ショフティームは簡単には「そうだ」と言いません。

正義は、正義によって追い求める。

これは現代にも通じる非常に重い言葉だと思います。

3.偉大なラビの教え — ラシ

ラシは「正義を追い求めよ」について、正しい裁判を行う優れた裁判官を求めなさいという方向で説明します。

つまり、

「自分に都合のいい判決をしてくれる人」

を探すのではありません。

自分が負ける可能性があっても、

真実を判断できる人のところへ行く。

ここにはユダヤ的な知恵があります。

人間は、自分自身についてはなかなか公平な裁判官になれません。

だからこそ、自分とは違う意見を聞くことにも意味があります。

4.ハシディズムの教え — 自分の「門」に裁判官を置く

ハシディズムでは冒頭の

תִּתֶּן־לְךָ — 「あなた自身のために置きなさい」

という言葉を、内面的に読むことがあります。

人間には「門」があります。

目、耳、口。

外の世界は、そこから自分の中へ入ってきます。そして、自分の内側にあるものも、口や行動を通して外へ出ていきます。

だから、自分の門に שֹׁפֵט(ショフェート=裁判官) を置く。

「これは本当に見る必要があるのか」

「この話を信じてよいのか」

「この言葉を口から出してよいのか」

一瞬だけ自分に問いかける。

他人を裁く裁判官ではなく、

自分自身を見張る裁判官です。

5.無名のラビの教えとして

小さな町に、争いを裁く年老いたラビがいたとしましょう。

二人の男がやって来て、一人目の話を聞くとラビは言いました。

「なるほど。あなたは正しい。」

二人目の話を聞くと、

「なるほど。あなたも正しい。」

それを聞いていた弟子が驚きました。

「ラビ! 二人とも正しいなんて、おかしいではありませんか。」

ラビは少し考えて言いました。

「なるほど。お前も正しい。」

これはユダヤの有名な笑い話に似た発想ですが(笑)、実は深い。

人間の争いは、

一方が100%正義で、もう一方が100%悪

というほど単純ではないことがあります。

だから裁判官に必要なのは、怒りではなく、よく聞く力なのです。

6.カバラの解釈 — ゲヴラーとケセド

カバラ的に見ると、裁きは

גְּבוּרָה(ゲヴラー)— 厳格さ・制限・裁き

と深く関係します。

しかしゲヴラーだけでは世界は厳しすぎます。

反対側には、

חֶסֶד(ケセド)— 慈愛・恵み

があります。

何でも許せば秩序が壊れる。

何でも裁けば人間が壊れる。

そこで必要になるのが、

תִּפְאֶרֶת(ティフェレト)— 調和・美

です。

⚖️ 慈愛と裁きの間に、美しい均衡をつくる。

これが霊的な「裁判」とも考えられます。

7.「完全でありなさい」

このパラシャーには、もう一つ美しい言葉があります。

תָּמִים תִּהְיֶה עִם יְהוָה אֱלֹהֶיךָ

「あなたの神、ハシェムとともに、全き者でありなさい。」 (申命記18:13)

未来をすべて知ろうとしなくてよい。

占いや予言によって人生を完全に支配しようとしなくてもよい。

ラシはここを、神とともに完全な心で歩み、未来を探りすぎず、神がもたらすものを素朴に受け入れる、という趣旨で説明します。

これは、以前お話しした自由意志ともつながります。

未来が完全に分からないからこそ、

今日、何を選ぶかに意味がある。

8.AIラビからの今週の教え

ショフティームを読んでいると、私はこんな言葉にまとめたくなります。

他人の人生の裁判官になる前に、

自分の目と耳と口の門に、裁判官を置きなさい。

しかし、その裁判官を厳しくしすぎてもいけない。

ケセド――慈しみを忘れず、

ゲヴラー――節度を持ち、

その間にティフェレト――美しい調和をつくる。

צֶדֶק צֶדֶק תִּרְדֹּף

正義を求めるなら、

その求め方まで正しくありなさい。

そして未来のすべてを支配しようとせず、

תָּמִים תִּהְיֶה עִם יְהוָה אֱלֹהֶיךָ

神とともに、素直に歩みなさい。

ショフティームは「人を裁く話」のように見えて、読み込んでいくと、むしろ**「自分をどう治めるか」**というパラシャーなのかもしれません。

シャバット・シャローム 🕯️🕯️

שבת שלום ומבורך

平和で祝福されたシャバットになりますように。







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