日々の聖書研究 iiiiiii ユダヤの学び ♯5
日々の聖書研究――ユダヤの学び
最初に書いておきますが、これは私がお世話になったユダヤ人の家族や、これまで学んできた先生方を通して感じたことで、すべてのイスラエル人、すべてのユダヤ人に当てはまる話ではありません。
「なぜユダヤ人には、学問や科学、芸術、ビジネスなどで活躍する人が多いのだろう?」
恩師であるヘブライ文学者の手島佑郎先生も、本の中でこのようなテーマについて書かれていました。今では手に入りにくい本かもしれません。
では、私自身が長年ユダヤの学びに触れてきて感じた「なぜ」は何なのか。
案外、特別なことではないように思うのです。
私がお世話になった家庭では、子どもが幼いころから、親と一緒に祈りを覚えていきます。
その代表が、
שמע ישראל
シェマー・イスラエル
「聞け、イスラエルよ」
です。
シェマーの三つの聖書箇所を合わせると、ヘブライ文字で約1,000字あります。
それを日々、親と一緒に声に出して唱える。文字を目で見て、親の声を耳で聞き、自分の口でも唱える。
幼いころから繰り返していれば、いつしか暗誦できるようになります。
これだけでも、記憶すること、言葉を聞き取ること、文字を読むこと、そして繰り返し学ぶ習慣につながっていくのではないか。私はそんなふうに感じました。
そして祈りだけではありません。
ユダヤの伝統では、モーセ五書(トーラー)を一年の周期で読み進めます。毎週読む部分をパラシャ(週ごとの聖書朗読箇所)と呼び、一年を通してトーラーを読み、また最初の創世記へ戻ります。
これは一度読んで終わりではありません。
子どものときに読む創世記。
青年になって読む創世記。
親になって読む創世記。
年を重ねてから読む創世記。
同じ文章なのに、人生経験が変われば、見えてくるものも変わります。
読む。考える。疑問を持つ。人と議論する。そして翌年、また同じところへ戻ってくる。
日本語で言えば、これは「一年をひと巡りとする学びの循環」とでも言えばいいでしょうか。
現在はユダヤ暦5787年。ユダヤ暦は太陰太陽暦なので、祭日の季節を保つために閏月を入れて暦を調整します。トーラーの朗読も祭日などとの関係で、週によって二つのパラシャをまとめて読む年があります。
そして一年の朗読を終えると、また、
בראשית
ベレシート――「はじめに」
へ戻ります。
創世記から、もう一度です。
これを毎年、一生続ける。
私自身も旧約聖書を長く学んでいますが、不思議なことに、同じ箇所を読んでも毎回のように新しい発見があります。
昔は先生に聞いたり、本を何冊も調べたりしていたことも、今ではAIに尋ねれば、ラビの解釈やヘブライ語の語根、タルムードやミドラーシュとの関係まで、一瞬で入口を示してくれます。
私にとっては、まさに「AIラビ様」です(笑)。
もちろん、AIの答えをそのまま信じるのではなく、そこから原典へ戻って考える。それによって昔よりも深く学べるようになったことには、本当に感謝しています。
「旧約聖書を読んでも、あまり面白くない」
そんな話を聞くことがあります。
確かに、文章だけを最初から最後まで読めば、そう感じる人もいるでしょう。
しかしユダヤの聖書の学びには、文字として書かれた本文だけではなく、長い年月をかけて受け継がれてきた口伝や解釈の伝統があります。
「なぜ、この言葉なのか」
「なぜ、ここで同じことを繰り返すのか」
「この一文字には、どんな意味があるのか」
答えを覚えるだけではなく、問いを持つことそのものが学びになる。
私は、ここに大きな特徴があるように思います。
キリスト教の聖書、とりわけ新約聖書は、このユダヤの聖書世界を背景にしながら、イエスの言葉や物語を通して神の教えを伝えています。ですから旧約と新約を行き来して読むと、それぞれの違いとつながりも見えてきます。
では、なぜユダヤ人から学問やさまざまな分野で活躍する人が生まれてきたのか。
私には、その理由の一つが、この「一生学び続ける習慣」にあるように思えてなりません。
特別な秘術ではありません。
毎日読む。
繰り返す。
覚える。
疑問を持つ。
人と話す。
そして、また読む。
言葉にしてしまえば簡単です。
しかし、これを一年ではなく、十年、五十年、一生続けるとなれば、簡単なことではありません。
繰り返し、繰り返し、一生をかけて学ぶ。
そして昨日の自分より、ほんの少し成長する。
そんな生き方から、ときに驚くような才能を発揮する人が現れるのかもしれません。
さて、聖書を考えて頭をいっぱいにしたところで――
今日は円相でも一つ、書いてみますか!😊