わたしの道



# לך לך(レフ・レハ)― 自分自身の道を歩め
### 旧約聖書と侘び茶、そして自由意志

昨年のブログで、旧約聖書の「לך לך(レフ・レハ)」について書きました。

アブラハムは、ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教にとっても信仰の原点となる重要な人物です。

私は日本人であり、ユダヤ教徒でもキリスト教徒でもありません。

しかし、この「レフ・レハ」という言葉に出会い、聖書の学びに自然と引き込まれていきました。

今回は、この言葉をもう少し深く考えてみたいと思います。

## 1.לך לך ― 自分自身へ向かって歩め

創世記12章1節。

神はアブラム(後のアブラハム)に告げます。

**לֶךְ־לְךָ(レフ・レハ)**

「あなたの土地、生まれ故郷、父の家を離れ、わたしが示す地へ行きなさい」

ヘブライ語の「レフ」は「行け」、「レハ」は「あなたに」「あなたのために」という意味です。

ユダヤ教の伝統では「あなた自身のために行きなさい」と解釈され、さらに霊性的な読み方では「自分自身へ向かって歩め」とも理解されています。

私は、この後者の解釈が好きです。

家族や家柄、財産やコネに頼るのではなく、自分の人生を自分の足で歩む。

親の人生でも、師匠の人生でも、他人の人生でもない。

自分自身の人生です。

もちろん、アブラハムは家族をすべて捨てたわけではありません。妻サライや甥ロトを伴って旅立っています。

ですから、家族を否定する教えではありません。

私なりに言えば、**家族を大切にしながらも、自分の人生の選択は自分で引き受ける。**

それがレフ・レハなのだと思います。

## 2.アブラハムの父の家には信仰がなかったのか

ここで一つ疑問が生まれます。

神は、信仰のない家庭に生まれたアブラハムに、新しい宗教を持ちなさいと言ったのでしょうか。

実は、そう単純ではありません。

ヨシュア記24章2節には、アブラハムの父テラたちが、かつてほかの神々に仕えていたと書かれています。

つまり、無宗教ではなく、別の神々を信仰していたのです。

ユダヤ教のミドラーシュには、アブラハムが父の偶像を壊したという有名な物語があります。

ただし、これは創世記本文に書かれた出来事ではなく、後世のラビたちによる伝承です。

アブラハムは、受け継いだ信仰や慣習をそのまま繰り返すのではなく、新しい神との関係へ歩み出した。

そう考えると、レフ・レハは単なる引っ越しの命令ではありません。

**それまでの価値観から一歩踏み出し、自分の生き方を選ぶこと。**

そんな意味も見えてきます。

## 3.神に従わない自由もあった

ここが、私にはとても大切です。

アブラハムは神に命じられたから、仕方なく旅立ったのでしょうか。

私はそうは思いません。

神に従わないこともできたと思うのです。

しかし、アブラハムは自分の意思で、神が示した道を選んだ。

これが自由意志です。

ヘブライ語では、

**בחירה חופשית(ベヒラー・ホフシート)**

自由な選択、自由意志という意味です。

もちろん、創世記本文に「アブラハムは従わないこともできた」と明記されているわけではありません。

しかし、ユダヤ教の自由意志という考え方から読むと、彼の旅立ちは、自らの選択として理解できます。

自由とは、誰にも従わないことではありません。

自分の意思で従うことも、従わないことも選べる。

そして、その選択に責任を持つ。

**神は道を示した。しかし、その道を歩いたのはアブラハム自身です。**

## 4.「歩め」と「汝自身を知れ」

以前、「汝自身を知れ」という言葉についても考えました。

私にとって、この二つは少し違います。

「歩め」は、未知の未来へ向かうこと。

「知れ」は、自分という存在を知ることです。

創世記1章27節には、

**בְּצֶלֶם אֱלֹהִים(ベツェレム・エロヒム)**

「神の似姿に」

とあります。

人間は神の似姿に造られたという教えです。

「汝自身を知れ」は、もともと古代ギリシャの格言ですが、私はこれを聖書の神の似姿という思想と重ねて考えています。

自分は何者なのか。

何のために生きるのか。

そして、これからどこへ向かうのか。

自分自身を知ることと、自分自身の道を歩むこと。

似ているようですが、知ることと歩くことは同じではありません。

未来は未知です。

だからこそ、歩くのです。

## 5.珠光、紹鴎、利休の茶の湯

ここで、話を茶の湯に移します。

侘び茶の歴史には、村田珠光、武野紹鴎、千利休という大きな流れがあります。

珠光は禅の精神を茶の湯に取り入れ、紹鴎は和歌や日本の美意識を重ね、利休は侘び茶を大成させました。

ただし、この三人が、まったく同じ茶の湯をしていたわけではありません。

珠光には珠光の茶の湯。

紹鴎には紹鴎の茶の湯。

利休には利休の茶の湯。

そして利休の弟子、古田織部にも織部の茶の湯があります。

師匠から弟子へと教えは受け継がれていきますが、それぞれが自分の時代に、自分の茶の湯を生み出しています。

もし紹鴎が珠光のまねだけをしていたら。

もし利休が紹鴎のまねだけをしていたら。

侘び茶は、今日知られている姿とは違ったものになっていたかもしれません。

伝統を学ぶことは大切です。

しかし、伝統を守ることと、ただ同じことを繰り返すことは違うのではないでしょうか。

## 6.作意とは、作る意思

茶の湯には「作意(さくい)」という言葉があります。

亭主が自分の考えや趣向をもって、道具を選び、茶室を整え、客をもてなすことです。

私はこの言葉を「作る意思」として考えてみました。

もちろん、茶の湯の作意と、聖書の自由意志は同じ意味ではありません。

しかし、どちらにも自らの意思が関わっています。

茶道では作法を大切にします。

私も、作法は極上の世界だと思っています。

お公家様や大名、豪商が受けたような、洗練されたもてなしの世界です。

しかし、作法を守ることだけが目的になれば、何のための茶の湯なのでしょうか。

私は以前から、

**「作法を守るために人がいるのか。人を大切にするために作法があるのか」**

と考えています。

もちろん、人を大切にするためだと思います。

作法を学び、その意味を知り、自分の意思で工夫する。

そこに作意があるのではないでしょうか。

## 7.精神、スピリチュアル、そして神秘

侘び茶では、よく「利休の精神」という言葉を耳にします。

精神。

英語でいえばスピリット。

スピリチュアルという言葉にもつながります。

どこか神秘的ですね。

しかし、精神というものは、目に見えない特別な力だけを意味するものではないでしょう。

何を大切にするのか。

何のために茶を点てるのか。

客とどのように向き合うのか。

そうした日々の選択にも、人の精神は表れると思います。

禅の思想も、聖書の信仰も、茶の湯の精神も、同じものではありません。

それでも、自分の生き方を問い、自分の意思で行動するというところには、共通するものを感じます。

## 8.私の茶の湯は、私の道

今、私は自分で草庵茶室を造っています。

立派な宮大工の仕事ではありません。

解体現場から譲っていただいた障子や、リフォーム工事で出た廃材を使い、少しずつ手を加えています。

かっこよく言えばエコロジー。

実際は予算不足です。(笑)

茶室は四畳半ほど。

道具も高価な名物ではありません。

それでも、自分の意思で造り、自分の意思で茶を点てる。

誰かの茶室をまねすることはあっても、誰かの人生をまねする必要はありません。

珠光の茶を学び、紹鴎の心を知り、利休の精神を受け継ぐ。

しかし、最後に点てる一服は、自分自身の茶です。

アブラハムが神の示した道を自ら選んで歩いたように、私もまた、自分の茶の湯の道を歩いていきたいと思います。

**לך לך ― レフ・レハ。**

自分自身へ向かって歩め。

道があるから歩くのではない。

歩くから、次の道が見えてくる。

一杯のお茶を、自分自身へ向かって点てる。

それが、私の茶の湯なのだと思っています。

---

**PS 知足 ― 足るを知る。**

二畳の茶室に、あり合わせの道具。

足りないものはたくさんあります。

しかし、足りないからこそ工夫する。

少し頭も足りないので、今回もAI先生と聖書談義、茶の湯談義をしてしまいました。(笑)

まだまだ道の途中です。

**לך לך。**

さて、今日も一歩、歩いてみましょう。


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