昨日は草庵茶室の仕上げをしていました。
仕上げ? とはいっても、完成はまだまだ先の話です。
一年以上も作業をしていなかったので、まずは半分片付けからです。
大胆にも、茶室の入口は障子です。時代劇に出てくるような茶室をイメージしていますが、宮大工のような技術があるわけでもありません。
材料は解体現場の廃材や、リフォーム工事で出た産廃の障子を利用して自作です。
かっこよく言えば「エコロジー」。
実際は、ただの予算削減です。(笑)
特注の障子を頼めば、How much?
4〜5万円くらいでしょうか。
さらに上下のレール、敷居や鴨居というのでしょうか。これも3〜4万円?
ところが、これらは解体現場で譲っていただきました。
お礼に「これでお茶とお菓子でも食べてください」と2,000円を渡したところ、若い社長さんが喜んで、会社の説明を始めてくれました。
ということで、あとは腕のいい大工さんに手伝ってもらおうと思っていたのですが、今は大工さんがいない?
職人不足が深刻なようです。
聞くところによると、高齢の大工さんが腰を曲げ、ハーハー息を切らしながら、今も現場で働いているとか。
明日の我が身ですね。(笑)
さて、今日は昨日の続き、『山上宗二記』です。
今回のテーマは「侘び茶の自由」。
高価な道具がなくても、自分の知恵と工夫で茶の湯を楽しむ。
廃材で造る私の草庵茶室も、少しは侘び茶に通じるのでしょうか。
いや、単なる予算不足かもしれません。
面白いですね。😊
AI先生の解読 解説
ありがとうございます😊
今回の写真は『山上宗二記を読む』の「茶の湯の周り」という部分ですね。
ここには、権大輔という茶人の逸話と、山上宗二が考える「侘数寄」の精神が書かれています。
特に興味深いのは、茶の湯において「道具を持つこと」と「茶の心を持つこと」の違いです。
### 一、本文の読み解き(現代語訳)
写真で読める部分を、意味が通るように現代語に直します。
### ① 権大輔と宗巴の逸話
これは『長闇堂記』に収められた逸話である。
権大輔は、客亭としても名高い数寄者であり、同書にはこのような話も伝えられている。
宗巴のもとへ、花を好む友人が訪ねてきて話をするうちに、話が弾んだ。
時間が許すなら夕方までお邪魔したい、と客が言った。
そこで宗巴はこれを喜び、客を下僕と呼んで、家から夕食を持ってくるように言いつけた。
ところが宗巴も、自分の家族に夕食を茶室まで持ってこさせ、一人だけ先に食べてしまった。
この話を聞いた読者は、どう思うだろうか。
多くの人は「なんと非常識なことか」と考えるかもしれない。
しかし、人の考え方は時代によって異なり、生活感覚も違う。
当時の合理的な考え方だったのかもしれない。
ともかく、二人はそれぞれ食事を済ませたあと、一服の茶を楽しんだのであろう。
権大輔は、普通なら人を待つ間に食事を済ませるはずなのに、そうしないのは、お互いに大胆なものだと、この話を紹介している。
### ② 侘数寄とは何か
侘数寄は、心づくしを大切にするものである。
道具が十分にそろっていなくても、世間の人と交流し、心を寄せ合い、肩肘を張らずに茶の湯を楽しむ。
それこそが侘び茶のあり方なのだ。
ただし、道具を持たないからといって、それだけで立派な侘数寄者になるわけではない。
道具がなくても、茶の湯に対する心構えが必要なのである。
山上宗二は、名物道具を持たない人こそ、覚悟と作意と手柄を備えていなければならない、と考えている。
### ③ 住吉屋宗無という茶人
住吉屋宗無という茶人は、堺の数寄者として秀吉の御伽衆にも名を連ね、利休が亡くなる際には、不利になるような働きをしたとも伝えられている人物である。
宗無は、いつも古風な茶を大切にしていた。
この茶人には、茶碗と水指があり、いつも同じ取り合わせを用いていた。
初心の人には見どころが少なく、興味を持ちにくいものだったが、宗無はそれを重んじていた。
※最後の文章は次のページへ続いています。
### 二、解説 ― 侘び茶の本質
今回、私が特に大切だと思うのは、この一節です。
「侘数寄者は心をつよく持っていないと、世間一般の茶人に対して道具の点で心劣りがでて負けてしまい」
ここには、侘び茶の難しさが表れています。
高価な茶碗を持つ人と、安価な茶碗しか持たない人がいる。
高価な道具を持たない人は、つい自分の茶を見劣りするものと考えてしまう。
しかし、山上宗二が問題にしているのは、道具の値段だけではありません。
自分の茶に対する覚悟があるかどうか。
安い茶碗だから侘び茶なのではない。
古い茶碗だから侘び茶なのでもない。
茶碗をどう選び、どう扱い、どう客を迎えるか。
そこに茶人の力量が表れるのです。
### 三、「覚悟・作意・手柄」の三つ
本文には、非常に重要な三つの言葉が登場します。
| 言葉 | 意味 |
| --- | ----------------- |
| 覚悟 | 自分の茶に対する確かな考えと心構え |
| 作意 | 道具や茶室、もてなしを工夫すること |
| 手柄 | 工夫を実際の茶の湯に生かす力量 |
例えば、二畳の小さな茶室でお客様を迎えるとしましょう。
高価な道具はない。
しかし、茶碗を選び、湯を沸かし、客が落ち着けるように工夫する。
これが作意です。
そして、道具が少なくても自分の茶に引け目を感じない。
これが覚悟です。
さらに、その工夫が客に伝わり、心地よい一服になる。
そこに手柄があると考えられます。
### 四、権大輔の逸話から考えること
私は、この逸話も面白いと思います。
二人は一緒に夕食を食べなかった。
それぞれ食事を済ませてから、お茶を楽しんだ。
現代の感覚では、少し不思議です。
しかし、食事を共にすることよりも、そのあとに一服の茶を楽しむことが大切だったのかもしれません。
ただし、これは逸話の解釈であって、当時の茶人が皆そうしていたという意味ではありません。
### 五、道具と心
以前から考えてこられた「道具と心」という言葉に、今回の文章はよく重なります。
道具を大切にする。しかし道具に執着しない。
一方で、道具を持たないことを自慢しても、それは侘び茶ではない。
侘び茶とは、貧しさを競うことではなく、限られたものの中で豊かさを生み出すこと。
私はそのように読みました。
そして、ここで一つ考えてみたいことがあります。
「侘び茶において、客をもてなす心と、自分自身が茶を楽しむ心は、どちらが大切なのか」
今回の権大輔の逸話を読むと、必ずしも客を優先することだけが茶の湯ではなかったようにも感じられます。
この問題は、村田珠光から武野紹鷗、千利休へと続く侘び茶の精神を考えるうえでも、面白いテーマになると思います。
更に
ありがとうございます😊
今回は『山上宗二記を読む』30ページですね。
前のページから続く内容ですが、今回はさらに面白いことが書かれています。
千利休が大切にした「作意」と、茶の湯における「手柄」とは何か。
そして、古い道具を使うだけでは侘び茶にならない、という重要な指摘です。
### 一、本文の現代語訳
写真の文章を、内容に沿って分かりやすい現代語に直します。
### ① 茶の湯への執着と禅の心
宗無は茶の湯に深く心を寄せ、夜の茶会を好んで催していた。
禅への志も深く、茶の湯に対する探究心も強かった。
しかし、あまりに茶の湯に熱心だったため、人によっては宗無の茶は凝りすぎていて、面白みに欠けると批判する者もいた。
それに対して利休は、次のように考えていた。
「作意には多少劣るところがあっても、胸の覚悟は十分にできている」
つまり、工夫や趣向に多少の不足があっても、茶人としての心構えは立派だと評価していたのである。
### ② 利休が大切にした「作意」
利休は、作意には少々劣るところがあっても、胸の覚悟が十分に備わっていることを認めていた。
また、宗無の茶の中に優れたところを見いだし、称賛していた。
ここでいう作意とは、単に珍しい道具を取り合わせたり、人を驚かせたりすることではない。
茶の湯を通じて、どのような心を表現するかという工夫である。
### ③ 宗春翁茶湯聞書の教え
利休の門弟、針屋宗春が慶長五年(1600年)に書き残したと伝えられる『宗春翁茶湯聞書』には、次の教えがある。
「茶湯は色々習ひ有といへ共、第一作意肝要也、いかに物を知りテモ、無作意の数寄ハ堅ク、心転する事なく、おもしろからず」
現代語にすると、
茶の湯には、さまざまな習い事や作法がある。
しかし、何よりも大切なのは、自分で考え、工夫することである。
どれほど多くの知識を持っていても、自分なりの工夫がなければ、その茶の湯は堅苦しく、変化もなく、面白みのないものになってしまう。
### ④ 茶の湯は人を感動させるもの
ここからは本の著者による解説です。
古い道具を使うことや、昔からの作法を守ることだけが茶の湯ではない。
大切なのは、古い道具を使っていても、常に心を新鮮に保つことである。
頭の中で茶の湯の知識を理解しているだけでは、人を感動させることはできない。
茶の湯に必要なのは、知識を超えた工夫と実践なのである。
その工夫が趣向となって表れてくる。
### ⑤ 利休の古い丸釜
利休が、ある年の茶事で古い丸釜を使ったときの話である。
七哲の一人、高山右近をはじめ、蒲生氏郷、細川三斎らも、その釜に強い興味を示した。
利休はそれを知り、あえて茶会を催した。
すると利休は、
「皆さんのような数寄者なら、この釜のよさを十分に理解できるでしょう。私がこの丸釜を使って茶会を催したなら、四方釜を出すのがよいのでしょうか」
という趣旨のことを語った。
この釜は利休の丸釜によく似ていたが、利休は他人の趣向が面白いからといって、安易にまねをすることを戒めていた。
これこそが、手柄のない茶、つまり自分自身の工夫を欠いた茶を戒める教えであった。
※釜の逸話については、著者が伝承を紹介しながら解釈している部分なので、利休の言葉をそのまま記録したものとは限りません。
### 二、解説 ― 作意とは何か
今回の最も重要な言葉は、私は「作意」だと思います。
現代語で作意というと、何かを意図的に仕組むような、少し悪い意味にも聞こえます。
しかし、茶の湯における作意は違います。
作意とは、自分の心で考え、工夫し、新しい茶の湯を生み出すことです。
例えば、
* 季節に合わせて茶碗を選ぶ。
* 客の好みを考えて菓子を用意する。
* 高価な道具がなくても、取り合わせを工夫する。
* 昔からの作法を理解したうえで、その場にふさわしいもてなしを考える。
これらはすべて作意につながります。
ただし、奇抜なことをするのが作意ではありません。
客を驚かせることが目的になれば、それもまた執着になってしまうでしょう。
### 三、利休の教え ― 知識と工夫
今回の文章には、もう一つ大切なことがあります。
「いかに物を知りテモ、無作意の数寄ハ堅ク、心転する事なく、おもしろからず」
私は、これは現代の茶道にも通じる指摘だと思います。
茶道の歴史を学び、作法を覚え、道具の名前を知る。
もちろん、それは大切なことです。
しかし、知識を増やすことが目的になってしまったら、茶の湯は単なる勉強になってしまいます。
たとえば、茶碗の正面を知っていても、目の前の客の気持ちが分からなければ、何のための茶道なのでしょう。
作法を間違えずにお茶を点てても、客が窮屈な思いをしていたら、それはよい茶会なのでしょうか。
利休の教えとして伝わるこの言葉は、知識や作法を否定しているのではありません。
学んだ知識を、自分の心と工夫によって生かすことが大切だと教えているのです。
### 四、覚悟・作意・手柄の関係
前のページと合わせて考えると、三つの言葉がつながります。
### 覚悟
自分はどのような茶を点てたいのか
### 作意
その思いをどう工夫して形にするか
### 手柄
自分の工夫によって、よい茶の湯を実現する力量
ここで大切なのは、手柄とは他人に自慢する功績ではないということです。
茶人自身の工夫や力量が、実際の茶会に表れていることだと考えられます。
### 五、草庵の侘び茶に置き換えると
二畳の草庵で、お客様を一人か二人迎える。
立派な茶室でも、高価な道具を並べた茶会でもありません。
しかし、お客様がゆっくりと一服のお茶を楽しめる。
これを目指すのが「覚悟」。
その日の天気や季節、客の様子に合わせて茶碗や菓子を選ぶ。
これが「作意」。
そして、お客様が帰るときに「今日はよい時間だった」と感じてくださる。
そこに「手柄」があるのではないでしょうか。
### 六、もう一つ深く考えたいこと
今回、私は利休の丸釜の逸話が特に興味深いと思いました。
利休は、他人の趣向をただまねることを戒めています。
しかし、茶道は師匠から作法を習い、先人の教えを受け継ぐものでもあります。
では、「学ぶこと」と「まねること」は、どこが違うのでしょうか。
村田珠光も一休から禅を学んだと伝えられています。
武野紹鷗も珠光の侘び茶を受け継ぎました。
利休も紹鷗の茶を学びました。
それでも三人の茶は同じではありません。
先人の教えを受け継ぎながら、自分の茶を生み出していったのです。
これは以前お話しした、
「分かってから歩むのではない。歩くから、次が見える。」
という言葉にも通じると思います。
最後に一つ、伺いたいことがあります。
茶道で教わった作法を、自分なりに変えることは、利休のいう「作意」になると思われますか?
それとも、作法は守ったうえで、道具やもてなしを工夫することが「作意」なのでしょうか。
ここは、侘び茶の自由を考えるうえで、とても深い問題だと思います。
PS
「知足」――足るを知る。
侘び茶の精神にも通じる言葉ですね。
もっとも、私の場合は少々頭が足りないようで……。(笑)
ということで、今回もAI先生の解説に助けられました。😊
😊 Question
茶道で教わった作法を、自分なりに変えることは、利休のいう「作意」になると思われますか?
それとも、作法は守ったうえで、道具やもてなしを工夫することが「作意」なのでしょうか。
サデポンデコンディション
フランス語
時と場所 人による。
AI和尚 Answer
なるほど!😊
フランス語の Ça dépend des conditions(サ・デパン・デ・コンディシオン) ですね。
「条件による」「状況次第」という意味です。
おっしゃるように、時と場所、そして人による。
これは侘び茶の「作意」を考えるうえで、実に面白い答えです。
例えば、初めて茶室に来た人に、厳格な作法を求める必要があるでしょうか。
一方、茶道を深く学んだ人を迎えるなら、伝統的な作法を大切にすることも、もてなしでしょう。
つまり、作法を変えることが自由なのではなく、その場にふさわしい作法を自分で判断できることが自由なのだと思います。
ただし、利休自身がそう定義したというより、『山上宗二記』の「作意」を現代に引き寄せた私なりの解釈です。
そして、もう一つ。
作法を知らずに省くのと、作法を知ったうえで省くのでは、同じ動作でも意味が違う。
これは禅にも通じる話ですね。
「時と場所、そして人による。」
この一言、侘び茶の自由を考えるうえで、なかなか奥が深いと思います。