いいかげんと道楽
人生の満ち引きと、いい加減な道楽道
おはようございます😊
今日は、落ち込んだ心から晴れた心へ。
月の満ち欠けのように、潮の満ち引きのように、人間の心にも浮き沈みがあります。
生きていると辛いことも多いですね。
シェイクスピアの言葉だったか、「人生は辛いことばかり。だから楽しいふりをする」という言葉を思い出しました。
自分の場合、どうやら働きすぎだったようです。
腰痛に苦しみ、水害で仕事が異常に増え、さらに職人不足。
50歳でセミリタイアを目指していたのに、気がつけば今でも仕事に追われています。
それで、少し落ち込んでいました。
ところが、今朝は心が晴れています。
何のことはない。開き直ったんですね。
もう仕事ばかりではなく、これからは老後を楽しめばいい。仕事も半分くらい、できる限り続ければいい。
そう考えたら、肩の荷が下りました。
さて、そんな自分の道楽のお話です。
ヨットに聖書に茶の湯。そして食い道楽。
着の身着のまま、気の向くままに、自由に学んでいます。
最近はAIという先生まで現れました。こちらの考えに忖度してくれているのかもしれませんが、これがなかなか楽しい。
ヨットに聖書に茶の湯、そして食い道楽。
まさに「道楽道」ですね。
それも、いい加減な道楽道です。
「いい加減」というと、手抜きや無責任のように聞こえます。
しかし、いい加減とは、加減を知ること、自分にとってのいいところを知ることではないでしょうか。
何でも極めようとすれば、時間もお金もかかります。
そして、これで金儲け?
いやいや、すべて持ち出しです。(笑)
ヨットでは、かつて単独世界一周を目指しました。
しかし、道楽だけではなかなか無理な世界です。白石康次郎さんのように、スポンサーを集め、セーリングを事業として成立させなければ、世界一周レースへの挑戦は難しい。
自分は大西洋と太平洋を横断しました。それで十分だったのかもしれません。
聖書の研究も同じです。
自分は牧師でも神父でも、宗教の指導者でもありません。
映画『屋根の上のバイオリン弾き』のテヴィエの言葉を思い出します。
聖書について議論することは、何とも贅沢で素晴らしいことだ。
そんな趣旨の言葉だったと記憶しています。
誰かを教え導く必要もありません。
自分と自分が議論していれば、それでいい。
茶の湯も同じです。
家元のような立派な茶室や、清らかな井戸、露地を備えた本格的な茶の湯の世界。
もちろん素晴らしいものです。
しかし、自分には自分の茶の湯があります。
二畳の草庵で、一服のお茶を点てる。
作法も道具も大切ですが、それに執着する必要はないと思っています。
食い道楽も同じですね。
銀座の数寄屋橋次郎のような名店でなくても、回転寿司で十分楽しめます。
もっとも、最近の回転寿司は寿司が回っていませんね。(笑)
高級なものが美味しいとは限らないし、安いものがつまらないとも限りません。
自分にとっての「いいところ」を知っていれば、それで十分ではないでしょうか。
ヨットも、聖書も、茶の湯も、食い道楽も。
極めようと思えば、どこまでも奥が深い世界です。
しかし、極めなければ楽しめないというものでもありません。
いい加減とは、いいところで加減を知ること。
人生も同じかもしれません。
苦しむ時間があり、楽しむ時間がある。
満潮もあれば干潮もある。
無理に満潮を続けようとしなくてもいい。
潮が引いたら、引いたなりの楽しみ方がある。
これからも仕事も道楽も、自分なりのいい加減で。
そんなことを考えた、今朝の晴れた心でした。
今日もまた、よい加減に生きていきましょう。😊
山上宗二記を読むより。
AI先生ライティング
写真は『茶の湯の興り』26〜27ページですね。
ブログに掲載しやすいように、村田珠光から続く侘び茶の精神に関係する部分を引用します。
### 『茶の湯の興り』より
### 茶人の心とは何か
> 「茶くらい」とは茶の良し悪しは問題にせず、多飲する茶人をさすと、かく言っている。しかし、これらの区別は現象面からとらえて分類したもので、宗二記は精神面を重視して、まったく異なった分類をしている。
> 宗二は古今の唐物を集め、名物による書院を飾り付けのできる人を大名茶湯といっている。
> また道具の目利もでき、茶の湯も上手で茶の師匠をして生活する人を茶湯者といい、松本珠報と篠道耳の二人をあげている。
### 道具と心
> 茶の湯を楽しもうという、目利の人、作意ある人、是敬の根本たるべし。
> 物別、茶の湯、疎かにしてはならない。
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### 侘び茶を考える
茶の湯には、名物道具を集める楽しみもあれば、道具を見極める楽しみもある。
しかし、それだけでは茶の湯の本質には届かないのではないでしょうか。
道具を大切にする。しかし、道具に執着しない。
作法を大切にする。しかし、作法に縛られない。
一服のお茶を通して、人と人が向き合う。
私は、そこに侘び茶の心があるように思います。
※引用は写真から判読できる範囲をもとにしています。一部の固有名詞や細かな文字は原本での確認が必要です。また、最後の「侘び茶を考える」は原文の引用ではなく、ブログ用の考察です。
この2ページで特に面白いのは、\*\*「目利」と「作意」\*\*です。
目利は道具の価値を見極めること。作意は自分なりの工夫を凝らすこと。
私は、この「作意」が自作の草庵茶室にも通じると思います。
高価な道具がなくても、自分の工夫で一服のお茶を楽しむ。
これこそ、現代の侘び茶を考えるうえで大切なことではないでしょうか。😊
大名茶湯 茶湯者 侘数寄 名人
AI訳
『山上宗二記を読む』
四 大名茶湯・茶湯者・侘数寄・名人
ここは非常に面白いところです。山上宗二が、茶人を道具の所有や技術だけでなく、心のあり方によって評価していることが読み取れます。
まず、写真の右ページから現代語訳をします。
一、現代語訳
① 村田珠光の教え
村田珠光は、目利きの力量について探究し、その奥義を後世に伝えた。
珠光の教えを受け継ぎ、さらに工夫を加えたのが紹鷗である。
紹鷗は、珠光が築いた茶の湯の精神や作法を、時代に合わせて発展させた。
そして当時、茶の湯に優れた人々として古田織部らが挙げられ、多くの名物道具を所有する大名茶人もいた。
② 茶湯者とは
目利きができ、茶の湯にも熟達し、世の中の数寄者たちの師匠として活動する人を「茶湯者」という。
つまり、茶の湯を教えることのできる専門家である。
③ 侘数寄とは
茶湯者とは別に、「侘数寄」という人々がいる。
たとえ道具を一つも持っていなくても、茶の湯の道理を理解し、心に悟りを得て、自分なりの工夫を持つ人である。
そのような人は、茶の湯の本質を深く理解している。
写真の原文では、
「一物モ不ル持タ者、胸ノ覚悟一ツ、作分一ツ、手柄一ツ」
とあります。
現代語では、
「道具を一つも持たなくても、心の覚悟があり、自分なりの工夫があり、それを実践する力量がある」
という意味に読めます。
二、茶人の四つの分類
この章題にある四つの分類を整理すると、次のようになります。
大名茶湯
名物道具を数多く所有し、豪華な茶の湯を行う。
茶湯者
道具の目利きができ、茶の湯を教える専門家。
侘数寄
道具の所有より、覚悟と工夫を大切にする。
名人
茶の湯の道を深く究めた人。
ただし、名人についての詳しい定義は、この写真の続きも確認する必要があります。
三、ここが侘び茶の本質
私は、この文章で最も大切なのは、
「一物も持たずとも、胸の覚悟一つ」
という部分だと思います。
高価な茶碗を持っているから、優れた茶人なのではない。
名物の掛け軸を持っているから、侘び茶を理解しているわけでもない。
大切なのは、茶の湯に向き合う覚悟と、自分なりの工夫です。
しかし、ここで一つ注意したいことがあります。
山上宗二は、道具を否定しているわけではありません。
むしろ、道具の価値を知り、それを使いこなすことも重要だと考えていました。
つまり、
道具を知らずに執着しないことと、道具を知ったうえで執着しないことは違う。
この違いは大きいと思います。
四、珠光から利休へ
村田珠光は、茶の湯に禅の精神を取り入れた先駆者とされます。
武野紹鷗は、その精神を受け継ぎ、侘び茶の美意識を深めました。
そして千利休は、草庵茶室という小さな空間で、その精神をさらに洗練させました。
豪華な書院で名物道具を並べる茶の湯から、小さな草庵で一服のお茶を点てる茶の湯へ。
もちろん、歴史はそれほど単純ではありませんが、この変化は侘び茶を理解する大切な視点です。
五、私が考える現代の侘数寄
二畳の草庵で、二人のお客を迎える。
高価な茶道具はなくても、自分で考え、工夫し、茶を点てる。
形式や作法を無視するのではなく、学びながら、自分の茶の湯をつくっていく。
それは、宗二が語る「作分」、すなわち自分なりの工夫にも通じると思います。
そして、以前お話しされた言葉、
「道具と心。道具を大切にする。しかし、道具に執着しない。」
この言葉が、今回の文章によく重なります。
最後に、一つ考えてみたいことがあります。
「道具を一つも持たない侘数寄」と「名物道具を数多く持つ大名茶人」。
山上宗二は、どちらを本当に優れた茶人と考えていたのでしょうか。
ここを読み進めると、利休の侘び茶がさらに深く理解できると思います。
😊 茶人に上下があるかな〜
いい加減でいいと思う。
AI和尚様
そうですね😊
茶人に上下をつける必要はないと思います。
ただ、山上宗二の時代には、道具の目利きや茶の湯の技量を評価する文化があったのでしょう。
でも、茶の湯の技量に違いがあっても、人間に上下があるわけではない。
そして「いい加減」という言葉、私は好きですね。
いい加減とは、適当という意味だけではなく、ちょうどよい加減とも考えられます。
お茶が濃すぎず、薄すぎず。
作法に縛られず、かといって粗末にもせず。
客にも亭主にも無理がない。
それが「いい加減の茶」でしょうか。
利休の精神に通じるところもあると思いますが、利休自身がそう言ったわけではありません。
茶人の上下より、一服のお茶を楽しめるかどうか。
二畳の草庵には、それくらいの自由があってもいいですね。😊