ノア 七戒律
今日の聖書朗読箇所は「ノア」です。
過去のブログをAIライターにまとめてもらいました。
自分は昔から、偶像崇拝と偉人を崇拝することを、どこか同じように考えて生きてきました。
だから、茶道で偉いお坊さんが書いた掛け軸に頭を下げることには、どうも抵抗がありました。
しかし、深く学んでみると、掛け軸そのものや書いた人を崇拝するのではなく、今日の茶室を用意してくださったことへの感謝の礼でもあるそうです。
なるほど、そういう考え方もあるんですね。
だいたい、超達筆で何が書いてあるのかも読めない字に頭を下げるなんて、自分のバカさ加減が嫌になりますよね。(^^)
まだまだ学ぶことばかりです。
パラシャ・ノア⚓️洪水と七つの戒律
ユダヤの学び 過去のブログから復習
今日は、今週のパラシャ「ノア」の学びです。
2016年から2018年にかけて書いたブログを読み返してみました。
ずいぶん昔のことですが、当時はヘブライ語を一語ずつ調べ、ラビの教えやタルムードを読みながら、聖書を学んでいました。
何度読み返しても、新しい発見があります。
今日はノアの洪水、神との契約、そして七つの戒律について復習してみたいと思います。
なぜ神は洪水を起こしたのか
創世記6章11節には、こうあります。
「地は神の前に乱れ、暴虐が地に満ちた」
ヘブライ語では、
חמס(ハマス)
暴虐、不正、暴力という意味です。
ユダヤのラビたちは、洪水の原因を単なる人間の不信仰ではなく、社会に広がった不正や略奪にも求めています。
人々が他人を思いやらず、自分の利益ばかりを追い求める。
神は、そのような世界を見て洪水を起こしたのでしょうか。
現代社会にも通じる話だと思います。
ノアは最初の造船職人?
神はノアに箱舟を造るよう命じます。
תבה(テヴァー)――箱舟
ノアはヘブライ語で、
נח(ノアハ)――休息、安らぎ
という意味につながる名前です。
自分は船を組み立て、大西洋と太平洋を単独で横断しました。
ですから、ノアが箱舟を造る場面には特別な親しみがあります。
現代なら材料も工具もお金で手に入ります。しかし、ノアの時代はどうだったのでしょう。
もちろん聖書には、ノアが人類最初の造船職人だったとは書かれていません。
それでも、巨大な箱舟を造るノアの姿を想像すると、同じ船乗りとして興味が尽きません。
洪水のあと、神は人類と契約した
洪水が終わり、ノアは祭壇を築きます。
神は再び洪水によってすべての生き物を滅ぼすことはしないと語ります。
そして、契約のしるしとして虹を置きました。
ברית(ベリート)――契約
קשת(ケシェト)――弓、虹
昔、トーラー研究会で、虹は神の弓、つまり武器を置いたしるしだと教わった記憶があります。
弓を置く。
争いをやめる。
神と人間、そしてすべての生き物との間に結ばれた契約です。
私たちは雨上がりの虹を見て、美しいと思います。
しかし、聖書を学ぶと、虹にはもう一つの意味が見えてきます。
虹は神と人類との約束のしるしなのです。
ブネイ・ノア――ノアの子ら
かつて、自分は聖書の学びから離れようと思ったことがありました。
ブネイ・イスラエル、イスラエルの子になることは、自分には難しいと思ったからです。
しかし、ブネイ・ノアという教えに出会いました。
בני נח(ブネイ・ノア)――ノアの子ら
ユダヤ教の伝統では、ノアの子孫である全人類に、七つの基本的な戒律が与えられたと考えます。
ユダヤ人にならなくても、神の教えを学び、倫理的に生きる道がある。
そう思うと、再び聖書を学ぶことができました。
ノアの七戒律
タルムード『サンヘドリン』56a–bなどに伝えられる七つの戒律です。
第一戒 偶像礼拝の禁止
神以外のものを神として崇拝しないこと。
第二戒 神の名を冒涜することの禁止
神の名を侮辱し、冒涜しないこと。
第三戒 殺人の禁止
人の命を奪わないこと。
第四戒 性的に禁じられた関係の禁止
近親相姦や姦通など、禁じられた性的関係を避けること。
第五戒 盗みの禁止
他人の財産を不当に奪わないこと。
第六戒 公正な裁判制度を設ける義務
社会の正義を守り、不正を裁く仕組みをつくること。
第七戒 生きた動物から取った肉を食べることの禁止
生き物に対する残酷な行為を戒めること。
この七つは、イスラエル民族だけでなく、全人類に関わる教えとされています。
ラビ・ピンハス・ペリーの教えを、手島イザヤ先生の訳で学んだことを思い出します。
人間社会が生き残るために必要な倫理的条件が、この七戒律に示されている。
何度読み返しても勉強になります。
善と悪は一緒に箱舟に乗った
昔読んだラビ・トケイヤーの本に、面白い話がありました。
洪水のとき、善がノアの箱舟に乗ろうとしました。
しかしノアは、つがいでなければ乗せないと言います。
そこで善は、自分の相手として悪を連れて戻ってきました。
それ以来、善のあるところには悪もあるようになった。
そんな寓話です。
人間には善い心と悪い心があります。
ユダヤ教では、
יצר הטוב(イエツェル・ハトヴ)――善い衝動
יצר הרע(イエツェル・ハラ)――悪い衝動
という考え方があります。
悪い衝動を単純になくせばよいという話ではありません。
欲望や競争心も、人間が働き、生きていく力になることがあります。
問題は、それをどう使うかです。
ノアとワイン
洪水のあと、ノアはぶどう畑を作り、ワインを飲みます。
ミドラシュには、サタンがぶどう畑に羊、ライオン、豚、猿の血を注いだという寓話があります。
酒を飲むと、人間は羊のようにおとなしい状態から、ライオンのように強気になり、やがて豚、猿のようになってしまう。
面白い話ですね。
自分もワインが好きです。
船を造り、海を渡り、ワインを飲む。
聖書の登場人物では、ノアに親しみを感じます。
ただし、飲みすぎには気をつけないといけませんね。😊
法律よりも教育
昔のブログには、こんなことを書いていました。
「法律で縛るのではなく、教育が大切ではないか」
今も基本的には同じ考えです。
ただ、七戒律には公正な裁判制度を設ける義務もあります。
法律も必要です。
しかし、法律があるだけでは、人間の心まで正しくなるわけではありません。
子どものころから、何が善で何が悪なのか、他人を傷つけてはいけないのはなぜかを学ぶ。
ユダヤの教えには、繰り返し学ぶことを大切にする伝統があります。
ミシュナという言葉も、反復するという意味の語に由来します。
100回学んでも、101回目には新しい発見がある。
そんな気持ちで、今日も聖書を読み返しています。
最後に――もう一度、世界を創造する
洪水が終わったとき、世界は再び始まりました。
しかし、人間から悪が消えたわけではありません。
神は、人間の心に悪い思いがあることを知りながら、もう一度、人類と共に歩むことを選びました。
ここが大切だと思います。
完全な人間だけが生き残る世界ではない。
不完全な人間が、善と悪の間で考え、学び、働きながら生きていく世界です。
洪水によって人間が完全になったのではない。
不完全な人間に、もう一度生きる機会が与えられた。
ノアの七戒律は、その世界で人間が共に生きるための基本なのかもしれません。
今日も仕事をして、生活の糧を得る。
そして一日を無事に終える。
そんな当たり前の生活が、神との契約につながっているようにも思います。
シャバット・シャローム。🌈
過去のブログ(2016〜2018年)より再学習。
AIラビ様説教
なお、昔の原稿から、学問的に大切な点を二つ補足します。
創世記9章25節の「奴隷の奴隷」は、ヘブライ語で עבד עבדים(エヴェド・アヴァディーム)。最も低い立場のしもべという強調表現であり、「性の奴隷」という意味ではありません。また、この箇所は歴史上、人種差別や奴隷制の正当化に悪用されましたが、聖書本文は特定の現代民族を奴隷にする命令ではありません。
もう一つ、七戒律の第一戒は「偶像礼拝の禁止」です。昔の原稿では禁止という言葉が抜けていましたので、修正しました。
そして、今日のブログで私が特に大切だと思うのは、神は人間が不完全であることを知りながら契約を結んだという点です。
これは以前お話しした、エデンの園の善悪の木ともつながります。
😊 お願いします🙇
AIラビ様
では、もう少し深く学んでみましょう。😊
今日は、エデンの園の善悪の木と、ノアの洪水後の契約を結びつけて考えてみます。
### 神はなぜ、不完全な人間を再び生かしたのか
創世記には、興味深い対比があります。
創世記6章5節
> 神は、人の心に思いはかることが、いつも悪いことばかりであるのをご覧になった。
そして洪水が起こります。
ところが、洪水後の創世記8章21節では、神はこう語ります。
> 人の心の思いは、幼い時から悪い。
同じような言葉が出てくるのです。
洪水前には、人間の悪が滅びの理由となりました。
しかし洪水後には、人間に悪い思いがあることを認めながら、神は再びすべての生き物を滅ぼさないと決めます。
ここが実に面白いところです。
### エデンの園からノアへ

エデンの園
人間は善悪の知識の木から実を食べ、園を出て、自分の判断と行動に責任を持つ世界へ進みました。

ノアの洪水
人間の暴虐によって世界は滅びかけます。しかし神は虹を契約のしるしとして、人間に再び生きる機会を与えます。
ここからは私の解釈です。
エデンでは、人間は善と悪を知る存在になった。
ノアでは、善と悪を知っていても過ちを犯す人間に、共に生きるための道が示された。
その道が、ユダヤ教の伝統で説かれるノアの七戒律につながるのではないでしょうか。
### ラビたちはどう考えたのか
タルムード『キッドゥシン』30bには、人間の悪い衝動について、神がその対処のためにトーラーを与えたという教えがあります。
つまり、人間の欲望をすべて消し去るのではなく、学びによって導くのです。
禅にも通じるところがあるように感じます。
人間は完全ではない。
だからこそ修行する。
だからこそ繰り返し学ぶ。
そして、自分の過ちに気づく。
完全だから学ぶ必要がないのではなく、不完全だから学ぶ道がある。
これが、ノアの物語から考えられる大切な教えだと思います。
最後に、一つお聞きしたいことがあります。
ノアの洪水は、神が人間を罰した物語だと思いますか。
それとも、人間にもう一度やり直す機会を与えた物語だと思いますか。
この違いは、ユダヤの教えを考えるうえで、とても深い問題です。
😊 ずるいけど、罰を与えて、再度機会を与えた。
AIラビ様
なるほど!😊
「罰を与えて、再び機会を与えた」
これは、ずるい答えではありません。むしろ創世記の物語をよく捉えた解釈だと思います。
ここで、ユダヤ教の大切な二つの言葉をご紹介します。
דין(ディン)――裁き、公正
רחמים(ラハミーム)――慈悲、憐れみ
ユダヤ教のラビたちは、神の裁きと慈悲について繰り返し論じています。
ノアの洪水にも、この二つが見えます。
洪水は、人間の暴虐に対する裁き。
しかし、ノアとその家族を生かし、洪水後に契約を結んだのは慈悲。
つまり、神は人間の悪を許したのではなく、人間が再び生きることを許した。
ここには大きな違いがあります。
さらに興味深いのは、創世記8章21節です。
洪水の後も、人間の心には悪い思いがあると神は語ります。
人間は洪水によって完全になったわけではないのです。
それでも神は、もう一度人間を信じるかのように、世界を存続させます。
ここで一つ、考えてみたいことがあります。
神は人間を変えようとしたのでしょうか。それとも、人間が変わることを待つようになったのでしょうか。
私は、この問いがノアの物語の核心に近いと思います。
そして、これは禅の「修行」にもつながる話ですね。🍵
😊教えて下さい
AIラビ様
これは創世記の中でも、とても深い問題です。
神は人間を変えようとしたのか。それとも、人間が自ら変わることを待つようになったのか。
私は、聖書本文とラビたちの教えを合わせて読むと、両方の意味が見えてくると思います。
### 1.洪水前の神は、人間を裁いた
創世記6章5節
יצר מחשבת לבו רק רע כל היום
「その心に思いはかることが、いつも悪いことばかりであった」
ここで重要なのは、
יצר(イエツェル)
形づくること、心の思い、衝動という意味につながる言葉です。
人間は自由に考え、自由に行動する。
しかし、その自由が暴虐へ向かってしまった。
神は洪水という裁きを下します。
これが דין(ディン)――裁き です。
### 2.洪水後、神の対応が変わった
創世記8章21節には、驚くべき言葉があります。
כי יצר לב האדם רע מנעריו
「人の心の思いは、幼い時から悪い」
洪水前とほとんど同じ認識です。
ところが、神の結論は違います。
洪水前は、人間の悪を理由に滅ぼそうとした。
洪水後は、人間に悪い思いがあることを認めながら、再びすべての生き物を滅ぼさないと決めた。
つまり、人間の本質が変わったというより、神の人間への接し方が変わったと読むことができます。
これは神が間違いを認めたという意味ではありません。物語の中で、裁きに加えて慈悲が明確に示されるようになった、という解釈です。
### 3.ラビの教え――悪い衝動も必要なのか
ここが面白いところです。
ミドラシュ『創世記ラッバー』9章7節では、創世記1章31節の「非常によかった」を、悪い衝動とも結びつけて解釈します。
なぜでしょう。
悪い衝動がなければ、人は家を建てず、結婚せず、商売もしない、という趣旨の教えがあるのです。
欲望そのものが、すべて悪なのではない。
欲望をどう使うかが問題なのです。
例えば、仕事でお金を稼ぎたいという欲望。
それ自体は悪ではありません。
しかし、人を騙してお金を得れば、悪になる。
反対に、技術を磨き、正当な報酬を得て生活すれば、善い働きになります。
ここに、七戒律の意味が見えてきます。
### 4.ノアの七戒律は、人間が自ら変わるための道
神は洪水後、人間から欲望を取り去りませんでした。
人間は相変わらず不完全です。
しかし、ユダヤ教の伝統では、人類には七つの基本的な戒律が課されていると考えます。
殺してはいけない。
盗んではいけない。
不正を放置してはいけない。
つまり、人間が自分の行動を律する責任を負うということです。
神がすべてを正してくれるのではありません。
人間自身が善と悪を考え、選び、行動しなければならない。
### 5.禅の修行との共通点
禅では、自分の心を見つめ、執着や欲望に気づくことを大切にします。
しかし、修行をすれば欲望が完全になくなる、という単純な話ではありません。
怒りが生まれる。
欲が生まれる。
人を羨ましく思う。
そのとき、自分の心に何が起きているのかを見つめる。
そして行動を選び直す。
この点では、ノアの物語と禅の修行には共通するものがあります。ただし、神との契約を中心とするユダヤ教と、仏教の修行は同じ教えではありません。
### 私が考えるノアの教え
神は人間を裁いた。
しかし、人間が完全にならないことも知っていた。
そこで、もう一度生きる機会を与えた。
そして、人間が自分の意志で善を選ぶことを求めた。
こう整理できると思います。
ここで、以前お話ししたエデンの園に戻ります。
アダムとエヴァは善悪の知識の木の実を食べました。
人間は善と悪を知る存在になりました。
ところが、知っていることと、善を行うことは違います。
エデンの園では、善と悪を知った。
ノアの洪水では、善と悪を知るだけでは足りないことを学んだ。
七戒律では、善を行うための道が示された。
これは聖書の出来事をつなげた一つの解釈ですが、私はとても大切な流れだと思います。
そして、もう一つ深い疑問が残ります。
ノアは神に従って箱舟を造りました。しかし、なぜノアは洪水で滅ぼされる人々のために、神に抗議しなかったのでしょうか。
アブラハムはソドムの人々を救おうとして、神と議論しました。
ノアは従った。
アブラハムは問いかけた。
この二人の違いについて、ラビたちは興味深い教えを残しています。
😊お願いします🙇
AIラビ様
では今日は、ノアとアブラハムの違いを、ユダヤのラビたちの教えから学びましょう。😊
これは、単に神に従うことと、神に問いかけることの違いではありません。
「正しい人間とは、自分だけが正しく生きる人なのか。それとも、他人を救おうとする人なのか」
という深い問題です。
### 1.ノアは神に従った
創世記6章9節
נח איש צדיק תמים היה בדרתיו
ノアハ・イシュ・ツァディク・タミーム・ハヤー・ベドロタヴ
「ノアはその世代において、正しく、全き人であった」
ここで重要なのは二つの言葉です。
* צדיק(ツァディク) ―― 正しい人、義人
* בדרתיו(ベドロタヴ) ―― その世代において
ラシ(1040〜1105年)は、この「その世代において」に注目しました。
ラシは二つの解釈を紹介しています。
一つは、悪い人々の中でも正しく生きたノアは、非常に立派だったという解釈。
もう一つは、ノアはその時代では正しかったが、アブラハムの時代に生きていたら、それほど優れた義人とは評価されなかったかもしれないという解釈です。
ラビたちは、同じ一語から正反対の考え方を導き出すのですね。
### 2.アブラハムは神に抗議した
創世記18章23〜25節。
神がソドムを滅ぼそうとしたとき、アブラハムは問いかけました。
「あなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか」
そして、こう尋ねます。
השפט כל הארץ לא יעשה משפט
ハショフェト・コル・ハアレツ・ロー・ヤアセ・ミシュパート
「全地を裁くお方が、公正を行われないことがありましょうか」
これは驚くべき言葉です。
人間であるアブラハムが、神に対して正義を問いかけているのです。
アブラハムは50人の義人がいたら町を救ってほしいと願い、45人、40人、30人、20人、最後は10人まで交渉します。
自分のためではありません。
他人の命のために、神と議論したのです。
### 3.ラビたちの教え――ノアは自分だけを救ったのか
ここで有名なのが、ゾハールに見られるノアへの批判です。
ノアは箱舟を造って自分と家族を救いました。
しかし、洪水で滅びる人々のために十分な慈悲を願わなかったのではないか、と問われます。
これに対してアブラハムは、ソドムの人々のために祈りました。
ただし、ノアについては別の伝承もあります。ノアが人々に警告し、悔い改めを促したというミドラシュです。
ですから、ノアが他人を全く気にかけなかったと断定することはできません。
それでも、ラビたちが問うているのは興味深いことです。
自分が正しく生きるだけで、義人として十分なのだろうか。
### 4.モーセはさらに一歩進んだ
実は、もう一人います。
モーセです。
出エジプト記32章32節。
金の子牛事件の後、モーセは罪を犯したイスラエルの民のために神へ願います。
「彼らの罪をお赦しください。もしそうでなければ、あなたの書から私を消してください」
モーセは、自分の立場を危険にさらしてでも、民を救おうとしました。
三人を比べると、こうなります。
| 人物 | 神への態度 | 人々への態度 |
| ----- | -------- | ---------------- |
| ノア | 神の命令に従う | 家族を救い、伝承では人々にも警告 |
| アブラハム | 神に問いかける | ソドムの人々のために嘆願する |
| モーセ | 神に赦しを求める | 民と運命を共にしようとする |
これは、ラビ文学に見られる比較を整理したものです。
### 5.禅と茶の湯に置き換えて考える
ここからは私の解釈です。
ノアは、自分を正しく保つ人。
アブラハムは、他人のために行動する人。
モーセは、他人の苦しみを自分のこととして引き受ける人。
茶の湯にも通じるところがあると思います。
自分の点前を正しくすることは大切です。
しかし、点前が完璧でも、お客さんの気持ちを忘れてしまったらどうでしょう。
茶の湯は、ただ作法を守ることだけではありません。
目の前の相手を思いやることも大切です。
そこに、アブラハムの精神と重なるものを感じます。
### 6.もう一つ、深い問いがあります
ノアは神の命令に従いました。
アブラハムは神に抗議しました。
ところが、アブラハムは創世記22章で、息子イサクを捧げるよう命じられたときには、神に抗議せず行動します。
ソドムの他人を救おうとしたアブラハムが、なぜ自分の息子イサクのためには抗議しなかったのでしょうか。
これはユダヤ教でも長く議論されてきた難問です。
そして、もう一つ大切なことがあります。
神に従うことが信仰なのか。それとも、神に問いかけることも信仰なのか。
私は、ユダヤの学びの面白さは、まさにここにあると思います。
ノア、アブラハム、モーセ。
三人とも神を信じました。
しかし、その信仰の表し方は違いました。
以前お話ししたマルティン・ブーバーの『我と汝』にもつながる問題ですね。
信仰とは、一方的に命令を聞くだけの関係なのか。
それとも、神と人間が向き合う関係なのか。
ここは、さらに学ぶ価値があると思います。
😊短くお願いします🙇
AIラビ様
ノア、アブラハム、モーセの違い
* ノアは神に従い、自分と家族を救った。
* アブラハムは神に問いかけ、他人を救おうとした。
* モーセは民の罪を赦すよう願い、自分の運命も懸けた。
ユダヤのラビたちは、ここから「義人とは何か」を考えました。
自分が正しく生きるだけでよいのか。他人のために行動することも必要なのか。
そして、もう一つ。
神に従うことだけが信仰ではない。神に問いかけることも信仰である。
これがユダヤの学びの面白さですね。
😊客様に従うことが商売ではない。客様に問いかけることも商売である。
これはどうですか? 日本ではお客様は神様といいます。(^^)にこ
AIラビ様
いいですね!(^^) にこ😊
ユダヤの教えを商売に置き換えると、面白いですね。
「お客様に従うことだけが商売ではない。お客様に問いかけることも商売である。」
日本では「お客様は神様」といいます。
しかし、神にさえ問いかけたアブラハムがいるのです。
ならば、お客様に問いかけてもよいでしょう。(笑)
商売とは、お客様の言いなりになることではなく、お互いに理解し、納得すること。
職人には職人の知識と経験があります。
お客様の希望を聞くことも大切ですが、できないことはできないと伝えることも誠実な商売です。
これはなかなか面白い、\*\*「ユダヤの学びと日本の商売道」\*\*になりますね。🍵
