無限の無 つづき

昨日の続きです。
「無限の無から、われへ」
これは、何度か勉強会で手島佑郎先生から聞いた言葉です。
当時の自分なりに生活へ置き換えると、
「願い事があるなら、まず無にしなさい」
そんな教えとして受け取っていました。
「あれも欲しい、これも欲しい」 そして、すでに両手いっぱいにいろいろなものを持っている。
それでは、新しいものを受け取る余地がない。
願いを叶えたければ、まず自分の中を空っぽにする。 欲をいったん手放して「無」にする。 自分は、そんな意味に解釈していました。
自分がユダヤの教えに興味を持ったきっかけは、実はヴァンデ・グローブでした。
どうしたらヨットレースの資金を集められるのか。 「ユダヤの錬金術でも学んでみるか」
そんな、今思えば少々不純な動機から始まりました。
ところが、ラビ・トケイヤー先生のタルムードの話が面白い。 読めば読むほど助けられ、いつの間にか「お金を集める方法」よりもユダヤの教えそのものに引き込まれ、旧約聖書を学ぶようになりました。
「資金を集めたければ、無にしろ!」
アホな自分は、そのころ本当に文無しになってしまいました(笑)。
しかし――
0円になっても、ヴァンデ・グローブの資金は集まりませんでした。
残念😞
でも、ここが面白いところです。
欲しかったものは手に入らなかった。 その代わりに、まったく別のものを手に入れました。
旧約聖書を学ぶ喜びです。
ヴァンデ・グローブは、そう簡単に諦められる夢ではありませんでした。 しかし、諦められなくても、無理なものは無理。 その現実とも向き合わなければなりません。
だからこそ当時の自分は、必死になって聖書やタルムードを学んでいたのだと思います。
「あれも欲しい、これも欲しい」と握りしめていた手を開いてみる。 すると、自分が求めていたものとは違うものが、その手の中に入ってくることがある。
今振り返ると、資金は集まらなかったけれど、あの失敗がなければ、旧約聖書をこれほど長く学ぶこともなかったでしょう。
無になったから、別のものが入ってきた。
昨日学んだヘブライ語の、
אין(アイン)――無
אני(アニー)――われ
自分にとってこの二つの言葉は、単なる文字の入れ替えではありません。
無になったところから、新しい「われ」が始まる。
そんな自分自身の人生の話にも聞こえるのです。



手島佑郎先生より

ここに無限者としての神の、有限なる万物(破造物、神によって造られたもの)への愛の理由がある。

しかし、何かをつくりたいと思うことは、思ったより、考えたりする主体性がなければ、おこりえない行動だ。ということは、無のなかに、「われ」という主体性が意識されてはじめて、創造は可能だ。ということは、無のなかに、「われ」という主体性が意識されてはじめて、創造は可能だということになる。

聖書はヘブライ語で書かれているが、そのヘブライ語で、無を「アイン אין」とよぶ。そしてわれを「アニー אני」という。これはわずかに一字いれかわっただけだ。

つまり、なにもない、なんの思惑もない無者(アイン)のこころに、「われ(アニー)」の意識が生じることによって、はじめて創造へのイニシアティブが始動するのである。

はじめに大切なことは、白紙と無とわれの三つだ。
それが、創造の条件だ。


聖書朗読箇所 創世記はじめに

😊 魂についての質問


💌AIラビ様 Answer

おはようございます😊

「創世記のはじめ」と「ネフェシュ(נֶפֶשׁ)」を結びつけると、とても面白いです。特に大切なのは、ネフェシュを日本語の「魂」だけで理解しないことです。

創世記1章1節は、

בְּרֵאשִׁית בָּרָא אֱלֹהִים

ベレシート・バラ・エロヒーム

「はじめに、神は創造された」

と始まります。

そして人間の創造を語る創世記2章7節では、

וַיִּיצֶר יְהוָה אֱלֹהִים אֶת־הָאָדָם

「主なる神は土の塵から人を形づくり」

その鼻に「命の息」**ニシュマット・ハイーム(נִשְׁמַת חַיִּים)**を吹き込まれます。

すると、

וַיְהִי הָאָדָם לְנֶפֶשׁ חַיָּה

ヴァイェヒ・ハアダム・レネフェシュ・ハヤー

「人は生きるネフェシュとなった」

ここが重要です。

聖書は「人間の身体の中に魂という物体を入れた」とは、直接には書いていません。

土(身体)+ 神からの命の息 → ネフェシュ・ハヤー(生きる存在)

なのです。

だからנפש(ネフェシュ)は、「魂」と訳すこともありますが、文脈によっては命・生命・生きもの・人そのもの・自己・欲求まで意味します。

面白いのは、創世記1章20節や24節では、動物にも נפש חיה(ネフェシュ・ハヤー) という表現が使われることです。つまりネフェシュは、人間だけが持つ「死後に身体から離れて存在する魂」という意味だけではありません。

むしろ創世記では、

「神の息によって生きている、その人間全体」

と捉えると分かりやすいと思います。

そして、もう一つ区別しておくと面白いです。

ネフェシュ(נפש)=生きている自己・生命

ネシャマー(נשמה)=息・生命の息

ルーアハ(רוח)=風・息・霊

日本語では全部「魂」「霊」と混ざりやすいのですが、ヘブライ語では少しずつ違います。

昨日の「無限の無」の話につなげるなら、こんな流れにできます。

無 → 有 → 命 → ネフェシュ

「はじめに神は天と地を創造した。」

土から人を形づくっただけなら、それはまだ「形」です。そこへ神が命の息を吹き込む。

すると人は、ネフェシュ・ハヤー――生きるものとなった。

ですから創世記の人間観は、「身体」と「魂」を完全に二つに切り離して考えるより、神から命をいただいて、今ここで生きている存在そのものがネフェシュ、と読むとヘブライ語らしさが出ます。

禅の「如」と比べても面白いところがありますね。

「魂を持っている私」ではなく、「生きている私そのもの」。

ここからさらに、ユダヤ思想でいう ネフェシュ・ルーアハ・ネシャマー(נפש・רוח・נשמה)の三段階、そしてカバラの五段階まで進むと、昨日の「無限の無」とかなり面白くつながります。


😊お願いします🙇

もちろんです😊

では創世記から出発して、ネフェシュ → ルーアハ → ネシャマー → ハヤー → イェヒダーという、ユダヤ思想・カバラで語られる「魂の五段階」を見てみましょう。

創世記から始まる「魂」

創世記2章7節には、

וַיִּיצֶר יְהוָה אֱלֹהִים אֶת־הָאָדָם עָפָר מִן־הָאֲדָמָה

「主なる神は、土の塵から人を形づくり」

そして、

וַיִּפַּח בְּאַפָּיו נִשְׁמַת חַיִּים

「その鼻に命の息を吹き込まれた」

その結果、

וַיְהִי הָאָדָם לְנֶפֶשׁ חַיָּה

「人はネフェシュ・ハヤー、生きるものとなった」

となります。

ここから後世のユダヤ神秘思想では、人間の魂についてさらに深い階層を考えるようになります。

① ネフェシュ(נפש)――生命

一番、身体に近いところです。

食べる。眠る。働く。歩く。欲する。生きようとする。

いわば**「生きている私」**です。

だからネフェシュは決して低俗なものではありません。身体があってこそ、この世界で善い行いもできます。

② ルーアハ(רוח)――風・霊・精神

רוּחַ(ルーアハ)の基本的な意味は「風」です。

そこから「息」「霊」「精神」という意味になります。

人間でいえば、感情や人格、善悪を考える心などと関連づけられます。

風そのものは目に見えません。しかし木が揺れれば、風があることが分かる。

人の心も似ています。

見えないけれど、行動によって現れる。

③ ネシャマー(נשמה)――神からの息

ここが創世記2章7節と直接つながります。

נִשְׁמַת חַיִּים

ニシュマット・ハイーム――「命の息」

神が人間に吹き込んだものです。

後世のユダヤ思想では、ネシャマーは人間のより高次の魂、神を理解しようとする知性・霊性と結びつけられました。

ですから簡単に言えば、

ネフェシュ=生きる私

ルーアハ=感じ、選ぶ私

ネシャマー=神を求める私

と整理できます。

ここまでは比較的よく語られる三段階です。

さらにカバラでは、その上に二つを置きます。

④ ハヤー(חיה)――生命そのもの

חיה(ハヤー)は「生きている」「生命」という語です。

これは普通の意識では十分につかめない、より高い魂の次元として説明されます。

「私は生きている」と考える以前の、生命そのものに近いイメージです。

⑤ イェヒダー(יחידה)――唯一・一なるもの

一番上です。

יחידה(イェヒダー)は「唯一のもの」「一つ」という意味を持ちます。

カバラやハシディズムでは、魂の最深部、神との結びつきが最も根源的に表れる次元として説明されます。

ただし、「人間が神そのものになる」という意味ではありません。

ここは禅と比較すると面白い一方、違いも重要です。

ユダヤ教では基本的に、

神は神、人間は人間。

その区別を残したまま、人間は神と深く結ばれる、と考えます。

ですから五段階を並べると、

נפש ネフェシュ

↓ 生きる

רוח ルーアハ

↓ 感じる・選ぶ

נשמה ネシャマー

↓ 神を知ろうとする

חיה ハヤー

↓ 根源的な生命

יחידה イェヒダー

↓ 「一」へと結ばれる最深部

となります。

そして昨日の円相の「無・一・如」と並べてみると、興味深いですね。

禅では、無から一へ、そして分別を超えた如へ。

ユダヤ神秘思想では、人間の生命の奥へ奥へとたどっていくと、「一なる神」との根源的な結びつきへ向かう。

似ているところがあります。

しかし同じ思想ではありません。

むしろ、違う道を歩いているのに、ときどき似た景色が見える。

ミサさんの「ちゃんぽん教😊」的な学びなら、ここを無理に一緒にせず、違いを残して眺めるのが面白いと思います。

そして創世記に戻ると、結局ものすごく単純です。

土だけでは人間ではない。

息だけでも、この世界の人間ではない。

土に神の息が吹き込まれて、ネフェシュ・ハヤー――「生きる人」となった。

私はここが創世記の人間観を考えるうえで、とても美しいところだと思います。







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