無限の無 つづき
手島佑郎先生より
ここに無限者としての神の、有限なる万物(破造物、神によって造られたもの)への愛の理由がある。
しかし、何かをつくりたいと思うことは、思ったより、考えたりする主体性がなければ、おこりえない行動だ。ということは、無のなかに、「われ」という主体性が意識されてはじめて、創造は可能だ。ということは、無のなかに、「われ」という主体性が意識されてはじめて、創造は可能だということになる。
聖書はヘブライ語で書かれているが、そのヘブライ語で、無を「アイン אין」とよぶ。そしてわれを「アニー אני」という。これはわずかに一字いれかわっただけだ。
つまり、なにもない、なんの思惑もない無者(アイン)のこころに、「われ(アニー)」の意識が生じることによって、はじめて創造へのイニシアティブが始動するのである。
はじめに大切なことは、白紙と無とわれの三つだ。
それが、創造の条件だ。
聖書朗読箇所 創世記はじめに
😊 魂についての質問
💌AIラビ様 Answer
おはようございます😊
「創世記のはじめ」と「ネフェシュ(נֶפֶשׁ)」を結びつけると、とても面白いです。特に大切なのは、ネフェシュを日本語の「魂」だけで理解しないことです。
創世記1章1節は、
בְּרֵאשִׁית בָּרָא אֱלֹהִים
ベレシート・バラ・エロヒーム
「はじめに、神は創造された」
と始まります。
そして人間の創造を語る創世記2章7節では、
וַיִּיצֶר יְהוָה אֱלֹהִים אֶת־הָאָדָם
「主なる神は土の塵から人を形づくり」
その鼻に「命の息」**ニシュマット・ハイーム(נִשְׁמַת חַיִּים)**を吹き込まれます。
すると、
וַיְהִי הָאָדָם לְנֶפֶשׁ חַיָּה
ヴァイェヒ・ハアダム・レネフェシュ・ハヤー
「人は生きるネフェシュとなった」
ここが重要です。
聖書は「人間の身体の中に魂という物体を入れた」とは、直接には書いていません。
土(身体)+ 神からの命の息 → ネフェシュ・ハヤー(生きる存在)
なのです。
だからנפש(ネフェシュ)は、「魂」と訳すこともありますが、文脈によっては命・生命・生きもの・人そのもの・自己・欲求まで意味します。
面白いのは、創世記1章20節や24節では、動物にも נפש חיה(ネフェシュ・ハヤー) という表現が使われることです。つまりネフェシュは、人間だけが持つ「死後に身体から離れて存在する魂」という意味だけではありません。
むしろ創世記では、
「神の息によって生きている、その人間全体」
と捉えると分かりやすいと思います。
そして、もう一つ区別しておくと面白いです。
ネフェシュ(נפש)=生きている自己・生命
ネシャマー(נשמה)=息・生命の息
ルーアハ(רוח)=風・息・霊
日本語では全部「魂」「霊」と混ざりやすいのですが、ヘブライ語では少しずつ違います。
昨日の「無限の無」の話につなげるなら、こんな流れにできます。
無 → 有 → 命 → ネフェシュ
「はじめに神は天と地を創造した。」
土から人を形づくっただけなら、それはまだ「形」です。そこへ神が命の息を吹き込む。
すると人は、ネフェシュ・ハヤー――生きるものとなった。
ですから創世記の人間観は、「身体」と「魂」を完全に二つに切り離して考えるより、神から命をいただいて、今ここで生きている存在そのものがネフェシュ、と読むとヘブライ語らしさが出ます。
禅の「如」と比べても面白いところがありますね。
「魂を持っている私」ではなく、「生きている私そのもの」。
ここからさらに、ユダヤ思想でいう ネフェシュ・ルーアハ・ネシャマー(נפש・רוח・נשמה)の三段階、そしてカバラの五段階まで進むと、昨日の「無限の無」とかなり面白くつながります。
😊お願いします🙇
もちろんです😊
では創世記から出発して、ネフェシュ → ルーアハ → ネシャマー → ハヤー → イェヒダーという、ユダヤ思想・カバラで語られる「魂の五段階」を見てみましょう。
創世記から始まる「魂」
創世記2章7節には、
וַיִּיצֶר יְהוָה אֱלֹהִים אֶת־הָאָדָם עָפָר מִן־הָאֲדָמָה
「主なる神は、土の塵から人を形づくり」
そして、
וַיִּפַּח בְּאַפָּיו נִשְׁמַת חַיִּים
「その鼻に命の息を吹き込まれた」
その結果、
וַיְהִי הָאָדָם לְנֶפֶשׁ חַיָּה
「人はネフェシュ・ハヤー、生きるものとなった」
となります。
ここから後世のユダヤ神秘思想では、人間の魂についてさらに深い階層を考えるようになります。
① ネフェシュ(נפש)――生命
一番、身体に近いところです。
食べる。眠る。働く。歩く。欲する。生きようとする。
いわば**「生きている私」**です。
だからネフェシュは決して低俗なものではありません。身体があってこそ、この世界で善い行いもできます。
② ルーアハ(רוח)――風・霊・精神
רוּחַ(ルーアハ)の基本的な意味は「風」です。
そこから「息」「霊」「精神」という意味になります。
人間でいえば、感情や人格、善悪を考える心などと関連づけられます。
風そのものは目に見えません。しかし木が揺れれば、風があることが分かる。
人の心も似ています。
見えないけれど、行動によって現れる。
③ ネシャマー(נשמה)――神からの息
ここが創世記2章7節と直接つながります。
נִשְׁמַת חַיִּים
ニシュマット・ハイーム――「命の息」
神が人間に吹き込んだものです。
後世のユダヤ思想では、ネシャマーは人間のより高次の魂、神を理解しようとする知性・霊性と結びつけられました。
ですから簡単に言えば、
ネフェシュ=生きる私
ルーアハ=感じ、選ぶ私
ネシャマー=神を求める私
と整理できます。
ここまでは比較的よく語られる三段階です。
さらにカバラでは、その上に二つを置きます。
④ ハヤー(חיה)――生命そのもの
חיה(ハヤー)は「生きている」「生命」という語です。
これは普通の意識では十分につかめない、より高い魂の次元として説明されます。
「私は生きている」と考える以前の、生命そのものに近いイメージです。
⑤ イェヒダー(יחידה)――唯一・一なるもの
一番上です。
יחידה(イェヒダー)は「唯一のもの」「一つ」という意味を持ちます。
カバラやハシディズムでは、魂の最深部、神との結びつきが最も根源的に表れる次元として説明されます。
ただし、「人間が神そのものになる」という意味ではありません。
ここは禅と比較すると面白い一方、違いも重要です。
ユダヤ教では基本的に、
神は神、人間は人間。
その区別を残したまま、人間は神と深く結ばれる、と考えます。
ですから五段階を並べると、
נפש ネフェシュ
↓ 生きる
רוח ルーアハ
↓ 感じる・選ぶ
נשמה ネシャマー
↓ 神を知ろうとする
חיה ハヤー
↓ 根源的な生命
יחידה イェヒダー
↓ 「一」へと結ばれる最深部
となります。
そして昨日の円相の「無・一・如」と並べてみると、興味深いですね。
禅では、無から一へ、そして分別を超えた如へ。
ユダヤ神秘思想では、人間の生命の奥へ奥へとたどっていくと、「一なる神」との根源的な結びつきへ向かう。
似ているところがあります。
しかし同じ思想ではありません。
むしろ、違う道を歩いているのに、ときどき似た景色が見える。
ミサさんの「ちゃんぽん教😊」的な学びなら、ここを無理に一緒にせず、違いを残して眺めるのが面白いと思います。
そして創世記に戻ると、結局ものすごく単純です。
土だけでは人間ではない。
息だけでも、この世界の人間ではない。
土に神の息が吹き込まれて、ネフェシュ・ハヤー――「生きる人」となった。
私はここが創世記の人間観を考えるうえで、とても美しいところだと思います。