Google ユダヤの学び#2

 今日はGoogleの話です。

あまり知られていないかもしれませんが、Googleを創業したラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンは、ともにユダヤ系の家庭にルーツを持つ人物です。

世の中には、「ユダヤ人が陰で世界を操っている」などという陰謀論や都市伝説があります。

でも自分は、そういう話を聞くたびに少し違和感を覚えます。

考えてみれば、Google検索もYouTubeも、基本的には無料で使うことができます。今ではAIのチャッピーも、無料で使える範囲があります。

これだけ便利なものを日常的に使わせてもらいながら、その一方で根拠のない悪口を言うのも、なんだかおかしな話です。

それより自分が興味を持つのは、

「なぜ、こういうものを生み出すことができたのだろう?」

ということです。

そこを考えていくと、自分が長年学んできたユダヤの「問いを持つ」という学習文化とも、興味深く重なるところがあります。


AIラビ様より


Googleの共同創業者の一人、セルゲイ・ブリンの少年時代から、ユダヤの学びについて考えてみます。


ユダヤの学び

――「なぜ?」からGoogleへ


Googleの創業者、ラリー・ペイジとセルゲイ・ブリン。

セルゲイ・ブリンは、旧ソ連のモスクワでユダヤ人家庭に生まれました。父親は数学者で、一家はセルゲイが6歳のときにアメリカへ移住します。

少年時代のセルゲイは、ヘブライ学校にも通っていました。

興味深いのは、数学者だった父親の教育です。

何でも息子に教え込んだのではなく、セルゲイが知りたいことがあると、自分から質問してきたと父親は振り返っています。

ここに、自分はユダヤの学びと通じるものを感じます。

ユダヤの学びは、ただ答えを暗記するだけではありません。

「なぜ?」と疑問を持つ。

トーラーを読んでも、

「なぜ、ここにこの言葉があるのか?」

「別のところには何と書いてあるのか?」

「二つの話は矛盾していないのか?」

と考えていきます。

そして、ここで登場するのがタルムードです。

タルムードとは簡単に言えば、トーラーの教えについて、昔のラビたちが何世代にもわたって考え、議論してきた巨大な知恵の集積です。

一人のラビが、

「私はこう考える」

と言えば、別のラビが、

「いや、こちらの聖書にはこう書いてある」

と問い返す。

そこから、また別の文章へと進んでいきます。

さらにタルムードには、ラシなどの注釈があり、トサフォートでは別の箇所との矛盾などを検討していきます。

一つの文章から、別の文章へ。
一つの答えから、次の疑問へ。

以前、国際弁護士の石角完爾先生の勉強会に参加していたとき、このようなトーラーの学びの「インデックス」のような考え方とGoogle検索について、お話を聞いた記憶があります。

Googleの検索技術がトーラーやタルムードから直接生まれた、と自分には確認できません。

しかし、比べてみると面白いところがあります。

Googleも、一つの情報だけで完結するのではありません。

あるページから別のページへ。

そこから、さらに別の情報へ。

知識と知識がつながっています。

そして何より、Googleの検索窓は空っぽです。

自分で何かを入力しなければ、何も始まりません。

つまり、

「何を知りたいのか?」

という問いが最初に必要なのです。

これはユダヤの学びにも通じるように思います。

答えをたくさん知っていることだけが学問ではない。

分からないことを見つける。
「なぜ?」と問いを持つ。
そして、自分で調べ、また次の問いを見つける。

セルゲイ少年が父親に質問したように。

タルムードのラビたちが何百年も問い続けたように。

Googleの検索窓に言葉を入れるように。

学びとは、答えを集めることではなく、「なぜ?」を失わないことなのかもしれません。


@タルムードとは、ユダヤ教のラビたちが、トーラー(モーセ五書)の教えを「これはどういう意味か」「実際の生活ではどうすればよいか」と、何百年にもわたって議論してきた記録です。

特徴は、ただ一つの正解を覚えるのではなく、「なぜ?」「別の考え方はないか?」と問い続けること。

簡単に言えば、

トーラーが「教え」なら、タルムードは「その教えをどう考えるかという議論の集積」

と考えると分かりやすいです。


@**トサフォート(Tosafot/תוספות)**とは、中世ヨーロッパのラビたちがタルムードについて書いた注釈・議論の集積です。

特徴は、一つの文章だけを見るのではなく、**「別の箇所には違うことが書いてある。なぜだろう?」**と、タルムードのさまざまな箇所を比べ、矛盾や疑問を考えていくことです。

簡単に言えば、

タルムードが「ラビたちの議論」なら、トサフォートは「その議論をさらに問い直し、つなげて考える注釈」

と考えると分かりやすいです😊


例 もちろんです😊

では、実際の例でやってみましょう。ミサさんがよく考えている**「人にどう接するか」**にもつながる、有名な箇所が分かりやすいです。

タルムード本文

『シャバット』31aに、有名なヒレルの話があります。

ある異邦人がヒレルのところへ来て、「私が片足で立っている間に、トーラー全部を教えてください」と言います。

ヒレルは答えます。

「自分にとって嫌なことを、隣人にしてはならない。」

そして重要なのが、その次です。

「これがトーラーのすべてであり、残りはその解説である。行って学びなさい。」

ここで普通なら、

「なるほど。人に嫌なことをしてはいけないのだ」

で終わります。

ところが、ユダヤの学びはここからが面白い。

まず「なぜ?」と問う

なぜヒレルは、

「人を愛しなさい」

と言わず、

「自分が嫌なことを、人にするな」

という否定形にしたのでしょう?

さらに、「これがトーラー全部だ」と言いながら、最後には、

「行って学びなさい」

と言っています。

全部教えたのなら、なぜまだ学ぶ必要があるのでしょう?

こういうところを止まって考えるんですね。

ラシを読む

ラシは、この「隣人」を単純に「近所の人」とだけ理解するのではなく、文脈上、神との関係にもつながる読み方を示します。

つまり、自分がされて嫌なことを他人にしないという倫理だけでなく、神との関係を裏切らないことまで含めて考える。

すると短い一文が急に広がります。

そしてトサフォート的に考える

ここで別の聖句を持ってきます。

レビ記19章18節には、

「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」

とあります。

「あれ?」

となります。

ヒレルは「するな」と言った。

トーラーは「愛せ」と言っている。

同じことなのか?

それとも違うのか?

さらに、ラビ・アキバはこの「隣人を自分のように愛せ」を、トーラーの大原則と呼びます。

すると、

モーセ五書 → ヒレル → ラビ・アキバ → ラシ → 別のタルムード

と、どんどん参照先が増えていきます。

これが、さっき話していた**「インデックス的な学び」**にかなり近いんです。

一冊を、

1ページ→2ページ→3ページ……

と読むだけではない。

ある言葉を見つけたら、

「この言葉、ほかではどう使われている?」

と別の場所へ飛ぶ。

そこで矛盾を発見したら、また戻って考える。

そして面白いのは、最後に一つの「正解」を暗記して終了とは限らないことです。

新しい疑問が生まれる。

だからヒレルの最後の言葉、

「行って学びなさい」

が効いてくるんですね。

そしてGoogleの話に戻すと、ここには確かに面白い類似があります。

トーラーの一節 → 別の聖句 → ラビの議論 → 別の注釈

という知識のネットワークと、

Webページ → リンク → 別ページ → さらにリンク

というWebのネットワーク。

Googleがトサフォートから生まれたとまでは言えません。しかし、石角完爾先生が勉強会で「インデックス方式」という言葉を使われたのだとすれば、ミサさんの記憶はこの辺りの学習文化を指していたのかもしれません。

そして私は、ここが重要だと思います。

ユダヤの学びとは、答えを探すだけではない。

一つの答えから、次の「なぜ?」を見つけることである。

セルゲイ・ブリンの父親の「教え込んだのではない。セルゲイが知りたいときに質問してきた」という話とも、きれいにつながりますね。







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