侘び茶の歌
今日は茶の湯です。
茶道?を一昨年の1月から習い始め、今年からは自分なりの侘び茶を考えながら、**「且坐喫茶(しゃざきっさ)」――まあ座って、お茶でも一服どうぞ。**そんな気持ちでお茶を楽しんでいます。
以前、茶道の先生から「本格的な茶室を造れば、2〜3億円くらいかかることもある」と聞きました。
正直、3億円あったら自分はヨットに乗ると思います(笑)。
まあ、どうでもいい話ですが。
そこから「では、自分にとっての茶の湯とは何だろう?」と自問するようになりました。
今の自分の暮らしと照らし合わせて考えているうちに、**貧乏、乏しい、侘びしい――だったら、自分は侘び茶を目指せばいい。**そう思うようになりました。
何かを足して立派にするのではなく、余計なものを一つずつ引いていく。
引き算の美。
シンプル・イズ・ベスト。
これなら自分にもできそうです。
皮肉なことに、侘び茶を築いていった村田珠光、武野紹鴎、千利休は、決して貧しい人たちではありません。特に紹鴎や利休は当時の有力な商人でした。
しかし、お金があるかないかと「侘びを求める心」は、別の話なのかもしれません。
良いものを知り、華やかな世界を知ったうえで、そこから余計なものを削っていく。
そう考えると、昔の茶人たちと自分では立場はまったく違っても、侘びを求める心には、どこか同じものがあるのではないかと思います。
では、そもそも「侘び」とは何なのか。
調べていくと、珠光、紹鴎、利休には、それぞれの侘びの心をよく表している言葉や歌がありました。
今日は、この三人の「侘び」を、三つの言葉から考えてみます。
侘び茶の歌
茶の湯を学んでいると、「侘び」とは何だろうと考えることがあります。
粗末な茶碗を使えば侘びなのか。小さな草庵でお茶を点てれば侘びなのか。
調べていくと、侘び茶を築いていった村田珠光、武野紹鴎、千利休には、それぞれの心を表す言葉や歌があります。
まず、侘び茶の祖といわれる村田珠光。
珠光には、紹鴎や利休のように「侘び茶を表す一首」として有名な歌があるわけではありません。その代わり、こんな言葉が伝わっています。
「月も雲間のなきは嫌にて候」
雲ひとつない夜空に、満月がすべての姿を見せている。それよりも、雲の間から見え隠れする月のほうがよい。
すべてを見せない。
完全なものより、どこか欠けたものの中に美しさを見る。
これが珠光の侘びの始まりだったのかもしれません。
そして武野紹鴎。
紹鴎が侘び茶の心として大切にしたと伝えられるのが、藤原定家の歌です。
見渡せば 花も紅葉も なかりけり
浦の苫屋の 秋の夕暮
見渡しても、美しい花も、鮮やかな紅葉もない。
あるのは海辺の粗末な苫屋と、静かな秋の夕暮れだけ。
華やかなものを足して美しくするのではなく、むしろ削っていく。
何もないところまで削っていったとき、そこに今まで見えなかった美しさが現れる。
ただし、最初から何も知らず粗末にすれば「侘び」になるわけではないのでしょう。
花の美しさも紅葉の美しさも知っている。
良い道具も知っている。
そのうえで「なくてもよい」と気づく。
これが紹鴎の侘びなのだと思います。
そして千利休。
利休の侘びの心を表すものとして伝えられるのが、藤原家隆の歌です。
花をのみ 待つらん人に 山里の
雪間の草の 春を見せばや
満開の桜ばかりを春だと思って待っている人に、山里の雪の間から顔を出した小さな草の春を見せてあげたい。
ここが面白い。
紹鴎の世界では、
「花も紅葉もなかりけり」
何もなくなりました。
ところが利休の世界では、その何もない雪の中から、
小さな草が一本、顔を出します。
豪華な花ではありません。
誰かが飾ったものでもありません。
自然に生まれた、小さな命です。
こうして三人を並べてみると、侘び茶というものが少し見えてくるような気がします。
珠光――雲間の月。
すべてを見せない美。
紹鴎――花も紅葉もない苫屋。
すべてを削った美。
利休――雪間から顔を出す草。
何もないところから生まれる美。
侘びとは、単に貧しいことでも、古いものを使うことでも、粗末にすることでもないのでしょう。
美しいものを知り、良いものを知り、それでも最後には余計なものを手放していく。
そして何もなくなったところで、雲間の月や、秋の夕暮れや、雪間の小さな草に心を動かされる。
そんな心が「侘び」なのかもしれません。
茶室にたくさんのものはいらない。
一服のお茶と、その日の風と、目の前の人。
それだけで十分なのかもしれません。
見渡せば 花も紅葉も なかりけり。
この歌が、少しずつ好きになってきました。