聖書朗読箇所 申命記האזינו


今週の聖書朗読箇所は、**האזינו(ハアジヌ)――「耳を傾けよ」**です。
この箇所も、もう10年近く読んでいると思います。
最初の頃は、約束の地を目前にしたモーゼが、この世との別れを前にして語る、どこか寂しい文章のように感じていました。
ところが今回は、**「人は豊かになると、恵みを忘れてしまう」**というところで、ふと自分のことを考えました。
3年ほど前、抜歯した歯のあたりから三叉神経痛になり、2年間ほど痛みに苦しみました。今年の正月ごろからようやく痛みがなくなり、その時は本当に嬉しく、ただ痛くないというだけで感激したものです。
ところが今では、それがすっかり当たり前になっています。
何も痛くない。普通に食べられる。普通に眠れる。
考えてみれば、何もない健康な身体こそ最高の幸せなのに、人間はそれにも慣れて、いつの間にかその恵みを忘れてしまう。
ハアジヌに書かれている「豊かになると忘れる」というのは、お金や物だけの話ではないのかもしれません。
健康も、日々の暮らしも、何も起こらない一日も――。
失った時にはそのありがたさがよく分かるのに、与えられている時には、なかなか気づけないものですね。

וַיִּשְׁמַן יְשֻׁרוּן וַיִּבְעָט
「エシュルンは太ると、蹴った。」

🧔AIラビ様 説教
おはようございます☀️😊
もちろんです。今回は פרשת האזינו(パラシャット・ハアジヌ) を、いつもの流れで少し深く見ていきましょう。
① ストーリー — モーセ最後の「歌」
申命記32章。モーセは約束の地を目前にしながら、自分はそこへ入れないことを知っています。
そこで長い説教ではなく、最後に**歌(שירה/シラー)**を残します。
冒頭は、
הַאֲזִינוּ הַשָּׁמַיִם וַאֲדַבֵּרָה
Ha'azinu ha-shamayim va'adabera
「天よ、耳を傾けよ。私は語ろう。」
そして、
וְתִשְׁמַע הָאָרֶץ אִמְרֵי־פִי
「地よ、私の口の言葉を聞け。」
天と地を証人として、モーセはイスラエルの未来を歌います。
神は荒野でイスラエルを守り、養った。しかし豊かになると、人間は自分を育ててくれた神を忘れる。苦難が訪れる。それでも神はイスラエルを完全には見捨てない。
そして最後、モーセはネボ山へ登るよう命じられます。
つまりハアジヌは、モーセが死を前にして残した遺言の歌とも読めます。
② ユダヤ人の学び — 豊かさの中でこそ忘れる
非常に面白いのが32章15節です。
וַיִּשְׁמַן יְשֻׁרוּן וַיִּבְעָט
Vayishman Yeshurun vayiv'at.
直訳すると、
「エシュルンは太ると、蹴った。」
です。
貧しいときではありません。豊かになったときに神を忘れた。
これはハアジヌの大きなテーマです。
「苦しい時にどう生きるか」だけではなく、むしろ、
うまくいっている時に、自分を見失わないか。
仕事が増える。お金が入る。評価される。生活が楽になる。
そのとき「全部、自分の力で手に入れた」と思い始める危険を、モーセは歌っています。
ユダヤ思想では、豊かさそのものを悪とはしません。問題になるのは、豊かさが自分の出発点を忘れさせることです。
③ 偉大なラビ — ラシ
ラシ(Rashi, 1040–1105)は冒頭の「天よ聞け、地よ聞け」について、モーセが天と地を証人として立てたという伝統的解釈を紹介します。
モーセ自身は死んでしまう。
しかし、
天は残る。
地も残る。
だから人間より長く存在する天と地を、契約の証人とするわけです。
ここには面白い発想があります。
人間の言葉は消えても、自分がどう生きたかは世界に痕跡を残す。
ハアジヌは、モーセが自分の死後まで見据えて残した歌なんですね。
④ あまり有名でないラビ — スフォルノ
オバディア・スフォルノ(1475頃–1550)は、ラシやマイモニデスほど一般には知られていませんが、トーラー解釈では重要なイタリアのラビです。
ハアジヌ32章2節には、
יַעֲרֹף כַּמָּטָר לִקְחִי
「私の教えは雨のように降る」
とあります。
続いて、
תִּזַּל כַּטַּל אִמְרָתִי
「私の言葉は露のように滴る。」
スフォルノの読みでは、教えは人を生かす雨のようなものとして理解されます。
ここで大切なのは、同じ雨でも、受け取る側によって育つものが違うことです。
私はこれを、
「同じトーラーを読んでも、受け取る人によって実るものが違う」
と読むと面白いと思います。
15年前に読む申命記と、今読む申命記が違って感じられるのも、そのためでしょう。
⑤ ゾハール — モーセの歌
ゾハールでは「歌」は単なる詩ではありません。
**שירה(シラー)**には、霊的な世界を結びつける意味が与えられます。
特にハアジヌは、表面ではイスラエルの歴史を歌っていますが、神秘的な読みでは、上の世界と下の世界の関係を映す歌として扱われます。
だから最初に、
השמים — 天
そして、
הארץ — 地
が登場することが重要になります。
天だけではない。地だけでもない。
天と地が一緒にモーセの歌を聞く。
人間は、その間に立っている存在だと読むことができます。
⑥ カバラ — 「岩」צוּר
今回、私が特に面白いと思う言葉がこれです。
הַצּוּר תָּמִים פָּעֳלוֹ
HaTzur tamim po'alo.
「岩なる方、その御業は完全である。」
צוּר(ツール)=岩。
しかしカバラ的には、ここからさらに言葉を掘ります。
「岩」は、揺るがない神を表すだけではなく、神から形ある世界が現れてくるという形成・創造のイメージとも結びつけて解釈されてきました。
私たちから見ると人生は、
「なぜこんなことが起こる?」
という断片ばかりです。
ところがハアジヌは、
תָּמִים פָּעֳלוֹ
「その御業は完全である」
と言う。
つまり、人間には一部分しか見えていなくても、神の側から見れば全体がある。
これはカバラの考え方ともよく響き合います。
そして私は、今週のハアジヌで一番大切なのは、やはり最初の言葉だと思います。
הַאֲזִינוּ
Ha'azinu — 耳を傾けよ。
「話せ」ではないんですね。
まず、聞け。
天に耳を傾ける。
地にも耳を傾ける。
トーラーに耳を傾ける。
そして、自分の内側にも耳を傾ける。
茶室に入って、余計なものを置かず、湯の沸く音を聞く――そんな感覚にも少し近いかもしれません。
「耳を傾けることから、知恵は始まる。」
今週はこの一言だけでも、かなり深いパラシャーだと思います。

😊Question
復習を兼ねて、知らない人ゾハールを説明して。

💌AIラビ様 Answer
もちろんです😊 復習を兼ねて、**「ゾハールをまったく知らない人に説明する」**つもりでいきます。
ゾハール(זֹהַר / Zohar)は、ユダヤ教の神秘思想であるカバラ(קבלה)を代表する文献です。名前の「ゾハール」はヘブライ語で、**「輝き・光輝」**という意味です。
簡単に言えば、トーラーの文章の奥に隠されている神秘的な意味を読み解こうとする本です。
たとえば創世記に「神は光を創造された」とあります。普通に読めば世界創造の物語ですが、ゾハールではさらに、「この光とは何なのか」「神の無限の光が、どのようにこの世界へ現れるのか」と、文章の奥へ奥へと入っていきます。
誰が書いたのか
伝統的なユダヤ教では、2世紀ごろの偉大なラビ、**シモン・バル・ヨハイ(רבי שמעון בר יוחאי)**と弟子たちの教えだとされています。
一方、歴史学では、現在の形のゾハールは13世紀後半のスペインで世に出た文献で、モーシェ・デ・レオンが成立に大きく関わったと考えられています。
ですから、
伝統的理解 → シモン・バル・ヨハイの神秘の教え
歴史学的理解 → 中世スペインで成立した文献
この二つを分けて覚えておけばいいと思います。
カバラとゾハールは何が違う?
ここは大切です。
カバラ=ユダヤ神秘思想という大きな世界
ゾハール=その世界を代表する重要な書物
です。
ですから「カバラという本」が一冊あるわけではありません。
さらに後世、16世紀のツファットで**イツハク・ルリア(アリ)**などがゾハールをもとに神秘思想を大きく発展させました。そこで、エイン・ソフ(אין סוף/無限なるもの)、セフィロト、神の光、世界の修復などについて非常に精緻な思想が展開されていきます。
ハアジヌで考えると分かりやすい
今回のパラシャーには、
הַאֲזִינוּ הַשָּׁמַיִם
「天よ、耳を傾けよ」
そして、
וְתִשְׁמַע הָאָרֶץ
「地よ、聞け」
とあります。
普通のトーラー解釈なら、モーセが天と地を証人にしてイスラエルへ語ったと読めます。
ゾハール的な読みになると、さらに、
「なぜ天と地なのか?」
「天と地は霊的には何を象徴するのか?」
「上の世界と下の世界はどう結びついているのか?」
と掘っていく。
これがゾハールの面白さです。
つまり、ゾハールはトーラーとは別の物語を作るというより、トーラーの一つ一つの言葉の背後に、もう一つ深い世界があると考えて読むのです。
ミサさん向けにものすごく簡単に言ってしまえば、
トーラーが茶碗なら、ゾハールは茶碗を眺めながら「この形、この土、この景色の奥には何があるのだろう」と見るような世界。
でしょうか😊
そして注意したいのは、ゾハールの解釈=ユダヤ教全体の唯一の解釈ではありません。 ラシのような聖書注解、タルムード、ミドラーシュ、哲学的なマイモニデス、そしてカバラでは、同じ一節でも見える景色がかなり違います。
だから今後のパラシャーでは、**「普通のユダヤ教的解釈 → ラビの教え → ゾハール → カバラ」**と分けて読むと、かなり面白くなりますよ。

😊Question

ラビ スフォルノを詳しく教えて下さい。
村田珠光と同じ年代です。

実はイタリアが好きなんですよ。前世で生きていたのではと思うぐらい、イタリアの景色を見ていると懐かしくなります。


💌AIラビ様 Answer

おはようございます😊

そうなんです。調べてみると、スフォルノと村田珠光を並べるのはかなり面白いです。ただ、生年には少し差があります。

ラビ・オバディア・スフォルノとは

רבי עובדיה ספורנו

Rabbi Ovadia Sforno(オバディア・スフォルノ)

生年は資料によって多少幅がありますが、1470〜75年頃、イタリアのチェゼーナ生まれ、1550年頃ボローニャ没とされるルネサンス期のユダヤ人です。村田珠光は1423〜1502年ですから、珠光の晩年とスフォルノの青年期が重なっています。�

Treccani +1

つまり日本では、珠光が侘び茶の世界を形づくっていた頃、イタリアでは若きスフォルノがトーラー、哲学、科学を学んでいたわけです。

スフォルノが面白いのは、単なるラビではないことです。

ラビ、トーラー注解者、哲学者、医師でした。数学や哲学も学び、ローマでは医学を修めました。その後ボローニャに定住し、医師として活動する一方、イェシヴァを開き、聖書研究と哲学に取り組みました。�

Treccani +1

さらに驚くのは、キリスト教世界の学者とも交流していることです。ドイツの人文主義者ヨハネス・ロイヒリンにヘブライ語を教えたことでも知られています。�

ウィキペディア

スフォルノのトーラーの読み方

ここはミサさんに合いそうです。

先ほどゾハールを勉強しましたが、スフォルノはむしろ反対側に近い人です。

ゾハールのように、

「この言葉の背後にはどんな神秘が隠れているのか」

と入っていくより、

「まず、この文章そのものは何を言っているのか」

を非常に大切にします。彼の注解は、本文の字義を尊重し、過度に神秘的な解釈へ走らないことが特徴だとされています。ラシ、イブン・エズラ、ナフマニデスなど先人の注解を踏まえながら、自分自身の文献・哲学的知識を使って解釈しました。�

ジャイキシ百科事典

ですから、私たちがこれからパラシャーを読むなら、

ラシ → 伝統的な読み

スフォルノ → 理性的・哲学的な読み

ゾハール → 神秘的な読み

と並べると、とても面白いと思います。

しかも医者です

ここも重要だと思います。

スフォルノにとって、神を信じることと、人間の身体や自然を理性で研究することは矛盾していません。

哲学書 **『Or Ammim(אור עמים/諸国民の光)』**では、アリストテレス哲学を知ったうえで、世界の永遠性、神の摂理、魂などについて、トーラーとの関係を論じました。1537年にボローニャで出版し、後には自らラテン語版 Lumen Gentium も出しています。�

Treccani

トーラーだけを閉じた世界で読むラビではなかった。

ルネサンス期のイタリア文化の中で、医学・哲学・古典的学問とユダヤ教を同時に考えていた人なんですね。

珠光と並べると面白い

ここからは私たちの比較ですが、二人には不思議な共通点があります。

珠光は、豪華な唐物だけをありがたがる茶から離れ、和物も取り合わせながら、茶そのものの精神へ戻ろうとした人物として知られます。表千家も、珠光が茶の湯を「道」として捉え、唐物と和物の調和を提唱した人物として紹介しています。�

表千家

一方スフォルノも、哲学や医学という当時の高度な知識を身につけながら、最後には、

「トーラーは実際に何を語っているのか」

へ戻っていく。

ですから、

日本――村田珠光(1423–1502)

イタリア――オバディア・スフォルノ(1470頃–1550)

同じルネサンスの時代に、一方は茶と禅、もう一方はトーラーと哲学を通して、「形式の奥にある本質」を探していた、と比較すると面白いですね。ただし、これは歴史的な影響関係ではなく、あくまで私たちが二人を並べて見たときの共通点です。

そしてミサさんが「イタリアの景色を見るとなぜか懐かしい」と感じること自体は、とても興味深い感覚ですね。前世だったかどうかは確かめようがありませんが、景色、光、石造りの街、食文化などに強い親近感を覚えることはあります。

何より面白いのは、今回ハアジヌから偶然スフォルノを選んだら、珠光と同じ15世紀を生きたイタリアの人物にぶつかったことです。

次にぜひ、**「スフォルノはハアジヌを実際にどう読んだのか」**を32章1節から追ってみましょう。先ほど私が簡単に紹介した以上に面白いところがあります。

😊お願いします🙏
💌AIラビ様
はい😊
スフォルノ本人の『ハアジヌ』注解を追うと、先ほどよりずっと彼の個性が見えてきます。
まず32章2節――「雨」と「露」
יַעֲרֹף כַּמָּטָר לִקְחִי
「私の教えは雨のように降る」
スフォルノはここを、知恵の源から受け取る準備のできた理解者には、トーラーの教えが雨のように豊かに流れ込むと読みます。ところが次の、
תִּזַּל כַּטַּל אִמְרָתִי
「私の言葉は露のように滴る」
については、深く学ぶ人だけではなく、普通の人もトーラーから少しずつ知識を受け取り、それによって創造主を知ることができると説明しています。�
Sefaria Voices +1
これ、面白いでしょう。
深く学べる人には「雨」。
それほど学問がなくても「露」。
誰にも何も与えられないわけではないんです。
私たちが毎週パラシャーを読むのも同じですね。全部理解しなくても、一滴の露を持って帰ればいい。
32章7節――スフォルノは「歴史を見なさい」と言う
私はここが一番スフォルノらしいと思います。
זְכֹר יְמוֹת עוֹלָם
「昔の日々を思い起こせ」
בִּינוּ שְׁנוֹת דֹּר־וָדֹר
「代々の年月を考えよ」
スフォルノは、単に「昔の出来事を覚えなさい」とは読みません。
彼は、人類の歴史全体を眺めます。
神は最初からイスラエルだけを幸福にしようとしたのではなく、人類全体をより高いところへ導こうとした。しかし世代を重ねても人間はそれに応えず、洪水の世代なども道を外してしまった。その歴史の中でイスラエルが特別な使命を担うようになった――という大きな構図でハアジヌを読んでいます。�
セファリア +1
ここは重要です。
スフォルノにとってトーラーは、ユダヤ人だけの小さな物語ではなく、人間とは何なのかという壮大な歴史なんですね。
32章10節――「瞳のように守った」
יִצְּרֶנְהוּ כְּאִישׁוֹן עֵינוֹ
「ご自分の瞳のように彼を守った。」
スフォルノは、人間の眼球が何重にも守られているように、神もイスラエルを守った、と説明します。そしてトーラーそのものも、人間が自分勝手な方向へ流されないための保護となるものとして読みます。�
Sefaria Voices
医者だったスフォルノらしさを感じる箇所です。
「瞳」をただの美しい比喩として終わらせず、人間の身体の構造を見ている。
ルネサンス期イタリアの医師でありラビでもあった人物らしい読み方ですね。
そしてスフォルノがハアジヌ全体で見ているもの
彼の読みを私なりに短く整理すると、
神は人間に善いものを与える。
しかし人間は豊かになると、それを当然だと思ってしまう。
だから過去を振り返り、考えなさい。
そして、自分が何のために生きているのかを思い出しなさい。
という流れです。
最後の32章46節でも、スフォルノはこの教えを子どもたちへ伝えることを強調します。親自身が守り行うことで、子どももそれを見て実践する、という読みです。�
Sefaria Voices +1
ここまで読むと、スフォルノは「難しい神学者」というより、ずいぶん現実的です。
自然を見る。身体を見る。歴史を見る。そしてトーラーを読む。
その全部から神を理解しようとしています。
そして、村田珠光と同時代という視点を入れると、私はさらに面白く感じます。
15世紀末――日本では珠光が茶を通して余分なものを削りながら本質を探し、遠くイタリアでは若いスフォルノが医学や哲学を学びながらトーラーの本文へ向かっていた。
二人に交流などもちろんありません。でも、同じ時代に日本とイタリアで「人間はどう生きるのか」を考えていた二人として並べてみると、面白いですね。
そして今回の一言を選ぶなら、私はこれです。
תִּזַּל כַּטַּל אִמְרָתִי
「私の言葉は、露のように滴る。」
全部を理解しなくていい。
今日、一滴いただく。
これは「楽園のお茶」にも合いそうな言葉です。

👨‍✈️ボローニャとコルドバに新婚旅行で行った記憶があります。

💌AIラビ様 
ああ、それなら記憶がつながりましたね😊
ボローニャ(Bologna)とコルドバ(Córdoba)。響きも少し似ていますし、どちらも「昔の学問の街」という共通点があります。
しかも、今回の話には不思議なくらい合います。
ボローニャは、スフォルノが活動したイタリアの学問都市。医師でありラビだった彼が、トーラーと哲学を研究しました。
一方のコルドバは、中世セファルディ・ユダヤ文化の重要都市。そしてここで生まれた超大物が、
モーシェ・ベン・マイモン
משה בן מימון
マイモニデス(ランバム、1138–1204)
です。
医師、ラビ、哲学者、トーラー学者。
ここが面白いんですよ。
コルドバのマイモニデス → 医師+ラビ+哲学者
ボローニャのスフォルノ → 医師+ラビ+哲学者
時代は約350年違いますが、かなり似ています。
そしてスフォルノは、マイモニデスの哲学を知ったうえで聖書を解釈しています。
ミサさんが昔旅したコルドバとボローニャが、今になってトーラーの勉強で再びつながってきたわけですね。
これはブログにしても面白そうです。
「昔歩いたコルドバとボローニャ――二人の医師ラビ」
という一本が書けます😊

💌AIラビ様
オバディア・スフォルノ(Ovadia Sforno、1475年頃〜1550年)。
イタリアに生まれたラビであり、聖書学者、哲学者、そして医師でもあった人です。ローマで医学を学び、晩年はボローニャで医師として働きながら、トーラーの研究と教育を続けました。1537年には哲学書『Or Ammim(諸国民の光)』をボローニャで出版しています。



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