聖書朗読箇所 申命記נִצָּבִים(ニツァヴィーム)
伊豆で休暇を過ごしています。
便利な時代になり、AI先生のおかげで知りたいことが次から次へと出てきます。しかし、情報が多すぎて、今度は自分の頭脳のほうがついていけません(笑)。少々オーバーヒート気味です。
こんな時は瞑想でもして頭を休ませるか、酔っ払って眠ってしまうのが一番なのですが、ただいまファスティング中。お酒は明日までお預けです。
そんな中、不思議なことに聖書を開くと、逆に頭が静かになります。
今週の聖書朗読箇所は、申命記の
נִצָּבִים(ニツァヴィーム)
です。
私は日本人であることに誇りを持っています。家は仏教の真言宗で、地元の神社の活動にも参加している、ごく普通の日本人です。
ところが不思議なもので、仏教も『古事記』も『日本書紀』も、なかなか勉強が続きません。
なぜか旧約聖書だけは夢中になり、気がつけば15年近く学び続けています。
今回のニツァヴィームを読んでいて思ったのは、これはある意味で「神の道」の話ではないか、ということです。
もちろん、日本の神道とユダヤ教は同じものではありません。
しかし「神道」という文字をそのまま読めば、神の道です。
ユダヤの「神の道」を学びながら日本の神道を眺めてみる。すると、それまで何となく感じていただけの日本の神道の姿も、少しずつ見えてくるような気がします。
遠いイスラエルの古い教えを学びながら、自分の足元にある日本の神々の世界を考える。
今日はそんな視点から、申命記「ニツァヴィーム」を学んでみたいと思います。
💌AIラビ様 説教
もちろんです😊
**פרשת ניצבים(パラシャット・ニツァヴィーム/Nitzavim)**ですね。
「נִצָּבִים(ニツァヴィーム)」は、**「立っている」「しっかりと立つ」**という意味です。申命記29章9節(英語聖書では29:10)から始まります。
モーセはイスラエルの民にこう語ります。
「あなたがたは今日、みな、あなたがたの神の前に立っている。」
ここがニツァヴィームの出発点です。
🌿 一番大切な教え
このパラシャーで私が特に大切だと思うのは、**「トーラーは遠くにあるものではない」**という教えです。
申命記30章11〜14節では、
「それは天にあるのではない」
「海の彼方にあるのでもない」
「その言葉はあなたのすぐ近く、あなたの口と心にあり、行うことができる」
と語られます。
つまり、正しい生き方をするために、特別な人間になる必要はない。
今日、自分の目の前にある小さな善を実行すればよい。
これは以前お話しした八正道や六波羅蜜とも、どこか響き合いますね。
「善と悪」ではなく「生と死」
さらにモーセは非常に強い言葉を残します。
「私は今日、あなたの前に、生と善、死と悪を置く。」
そして最後に、
「あなたは命を選びなさい」
וּבָחַרְתָּ בַּחַיִּים
ウヴァハルタ・バハイーム
と言います。
ここがニツァヴィームの核心の一つです。
人間には選ぶ自由がある。
欲望や怒り、イェツェル・ハラがあったとしても、それに支配される必要はない。
毎日の小さな選択の中で、
「こちらのほうが命を生かす道だ」
という方向を選び続ける。
それがユダヤ的な「正しい道」の考え方だと思います。
🍎 ローシュ・ハシャナの前に読む意味
ニツァヴィームは伝統的にローシュ・ハシャナの直前に読まれるパラシャーです。
一年を振り返って、
自分は何を選んできたのか。
そして、新しい一年は何を選ぶのか。
と自分自身に問いかける。
ですから今回のニツァヴィームを一言で表すなら、
神の前に立ち、自分の人生を振り返り、もう一度「命」を選ぶ。
という教えでしょう。
ミサさんが最近考えていた**「正道」**という言葉に重ねるなら、ニツァヴィームは「正しい道を知る」だけではなく、自分の足でその道を選んで歩けと言っているように感じます。
😊Question 偉大なラビの教えをお願いします🙇
💌AIラビ様 説教
もちろんです🙏
**פרשת ניצבים(ニツァヴィーム)**は、偉大なラビたちが非常に深く解釈してきたパラシャーです。代表的な教えを、難しくならないように紹介します。
① ラシ ―「あなたがたは皆、立っている」
冒頭の、
「あなたがたは今日、皆、神の前に立っている」
について、ラシ(Rashi)は、イスラエルの民が身分に関係なく、共同体全体として契約の前に立つ場面として説明します。
指導者も、長老も、子どもも、水を汲む者も同じです。
つまり、
神の前では、人間の社会的な肩書よりも、一人ひとりが契約に参加することが大切。
茶の湯の「一座建立」にも少し通じるものがありますね。亭主も客も、それぞれの役割は違っても、一座をつくる存在です。
② ランバム ―「人間には選択する自由がある」
ニツァヴィームの有名な言葉、
「命を選びなさい」
וּבָחַרְתָּ בַּחַיִּים
について、Maimonides(ランバム/マイモニデス)は、自由意志はユダヤ思想の根本原理だと説きます。
人間は最初から善人・悪人と決められているのではない。
善を行うこともできる。
悪を行うこともできる。
だからこそ、自分で善を選ぶ責任がある。
これは非常に厳しい教えでもあります。
「環境が悪かったから仕方がない」で終わらず、次の瞬間には別の道を選べるということです。
③ バアル・ハタンヤ ―「トーラーは遠くない」
ハバッドの初代レベ、Shneur Zalman of Liadiは、ニツァヴィーム冒頭の「皆が立つ」という言葉を深く読みます。
人間にはそれぞれ違いがあります。
頭のような人もいれば、足のような人もいる。
しかし、頭だけでは人間は歩けません。
足がなければ頭も目的地へ行けない。
だから共同体では、
「偉い人が下の人を助ける」だけではなく、実は一人ひとりがお互いを必要としている。
ここがハシディズムらしいところです😊
④ ラビ・ナフマン ―「絶望してはいけない」
これはニツァヴィームそのものへの注釈ではありませんが、Nachman of Breslovの有名な教えは、このパラシャーのテシュヴァ(立ち返り)の精神とよく響き合います。
「絶望というものは存在しない。」
どれほど道を外れても、戻る道まで消えたわけではない。
ニツァヴィーム30章も、
「神のもとへ帰りなさい」
と語ります。
だからユダヤ教の悔い改めは、単なる自己否定ではありません。
間違いに気づく → 向きを変える → 戻る → 再び命を選ぶ。
ここが大切です。
私なら、ニツァヴィームの偉大なラビたちの教えを一つにまとめて、
「人は何度でも神の前に立ち直り、今日という日に、もう一度“命”を選ぶことができる。」
と受け取ります。
これはミサさんが以前おっしゃっていた**「人間界を目指す」**という考えにも面白いほど重なります。完璧な聖人になることより、今日一日、少し良いほうを選ぶ。
ニツァヴィームは、そんな現実的な教えでもあります。