コヘレト(伝道の書)9∶7〜
イスラエルでは、仮庵の祭り「スコット」の季節です。
仮庵の祭りには、コヘレト(伝道の書)を読む習慣があります。
今日はその中から、私の好きなところを少しつまんで読んでみます。
喜んで食べなさい。
酒を飲みなさい。
愛する妻と人生を楽しみなさい。
しかし、人は自分の「時」を知らない。
魚が網に捕らえられ、鳥が罠にかかるように、人生には突然、思いもよらないことが起こります。
だからこそ、今日与えられている人生を喜ぶ。
もちろん、不運な時もあります。
私の場合は、先週の口コミ女でしょうか(笑)。
そんな時に思い浮かぶのが、箴言の言葉です。
「主を畏れることは、知恵の初め。」
自分の思い通りにならないことも含めて人生なのでしょう。
静かな安息日を迎えたいところですが、今日も仕事です。
昔、「貧乏暇なし」と言ったら、
「声がかかるだけ、ありがたいと思わなきゃ」
と言われたことを思い出しました。
なるほど、それも一つの知恵かもしれません。
侘び茶でいえば、立派なものを求めず、今あるものの中に楽しみを見つける。
とはいえ、私の人生はまだ「侘び」の境地には遠いようです。
仕事があり、飯が食えて、酒が飲めて、愛する人がいる。
そして一服のお茶がある。
それで十分なのかもしれません。
仮庵とは、そんなことを思い出すための場所なのかもしれませんね。
ז. לך אכל בשמחה לחנך שותה בלב טוב יחנך כי כבר רצה האלהים את מעשיך
ט. ראה היים עם אשה אשר אהבת כל ימי חיי הבלך אשר נתן לך תחת השמש כל ימי הבלך כי הוא חלקך בחיים ובעמלך אשר אתה עמל תחת השמש
כי עת ופגע יקרה את כלם
יב. כי גם לא ידע האדם את עתה כדגים שנאחזים במצודה רעה וכצפרים האחזות בפח כהם יוקשים בני האדם לעת רעה כשתפול עליהם פתאום
AIラビ様訳
もちろんです😊
これはコヘレト(伝道の書)9章7節・9節・11節末・12節ですね。いただいたヘブライ語には少し綴りの違いがありますが、意味に沿って自然な日本語にすると、こうなります。
コヘレト 9章
7節
行きなさい。
喜びをもって、あなたのパンを食べなさい。
良い心で、あなたの酒を飲みなさい。
神はすでに、あなたの行いを喜んでおられるのだから。
9節
あなたが愛する妻とともに、人生を楽しみなさい。
日の下で神があなたに与えられた、
この空しい人生の日々、そのすべての日々を。
それが、人生において、
また日の下であなたが労する仕事において、
あなたに与えられた分なのだから。
そして11節の最後、
כִּי־עֵת וָפֶגַע יִקְרֶה אֶת־כֻּלָּם
時と出来事は、すべての人に訪れる。
12節
人は、自分の時を知らない。
魚が災いの網に捕らえられるように、
鳥が罠に捕らえられるように、
人の子らもまた、災いの時に捕らえられる。
それは突然、彼らの上に降りかかる。
この一連の文章、続けて読むとコヘレトらしさがよく分かりますね。
喜んで食べなさい。
酒を飲みなさい。
愛する妻と人生を楽しみなさい。
しかし、人は自分の「時」を知らない。
だからこそ、今日与えられている人生を喜ぶ。
仮庵の祭りで読むコヘレトとして考えると、まさに「仮庵祭り茶会」の中心に置ける文章だと思います😊
💌AIラビ様 説教
いい箇所ですね😊
コヘレト9章7・9・11・12節を一つにつなげて読むと、**「人生は自分の思い通りにはならない。だからこそ、神から与えられた今日を喜ぶ」**という一本の流れが見えてきます。
学び
この箇所で大切なのは、コヘレトが「人生は空しい」と言って終わっていないことです。
לך אכל בשמחה לחמך
Lech, echol besimchah lachmecha
「行きなさい。喜びをもってあなたのパンを食べなさい。」
そして、
ראה חיים עם אשה אשר אהבת
Re'eh chayim im ishah asher ahavta
「あなたが愛する妻とともに人生を楽しみなさい。」
ところが、そのすぐ後には、
כי עת ופגע יקרה את כלם
「時と出来事は、すべての人に訪れる。」
さらに、
כי גם לא ידע האדם את עתו
「人は自分の時を知らない。」
と続きます。
ここが面白いですね。
明日何が起こるか分からないから、今日を恐れて生きるのではない。
明日何が起こるか分からないからこそ、今日のパン、酒、妻、仕事を喜ぶ。
これがコヘレトの知恵の一つだと思います。
有名なラビの教え――ラシ
中世フランスの大ラビ、**ラシ(Rashi、1040–1105)**のコヘレト注解を見ると、9章7節の「神はすでにあなたの行いを喜んでおられる」という部分を、単なる「好きに飲み食いしなさい」とは読んでいません。
神との正しい関係の中で生き、そのうえで与えられたものを喜ぶ。
つまり、
「喜び」だけを切り離してはいけない。
パンも酒も人生も、神から離れた享楽ではなく、神の前で受け取る喜びです。
これは箴言の、
「主を畏れることは知恵の初め」
にもつながりますね。
自由に楽しむ。しかし、自分が世界の主人になったと思わない。
無名のラビの教え
これは特定の古典ラビの引用ではなく、**「名もなきラビなら、こう教えるかもしれない」**という私なりの小話として読んでください。
ある弟子がラビに尋ねました。
「先生、明日不幸が来るかもしれないのに、なぜ今日、酒を飲んで喜ぶのですか?」
ラビは答えました。
「明日の杯を、今日飲むことはできない。
昨日の杯を、今日飲み直すこともできない。
神がお前の前に置かれた杯は、今日の一杯だけだ。」
弟子は聞きました。
「では、明日のことを考えなくてもよいのですか?」
ラビは答えました。
「明日の準備はしなさい。
しかし、明日の心配に今日を食べさせてはいけない。」
コヘレト9章を、私はそんなふうにも読めると思います。
イタリアのラビ――スフォルノ
ここでは、ミサさんが以前から興味を持っているイタリアのラビ、**オバディア・スフォルノ(Obadiah Sforno、1470年代頃–1550)**を思い出すのが面白いです。
スフォルノはイタリア・ルネサンス期に生きたラビで、医師でもありました。
彼の思想全体には、物質そのものを否定するというより、人間に与えられたものを何のために使うのかという視点があります。
ですからコヘレト9章と重ねて考えると、
食べる。
飲む。
妻を愛する。
働く。
これらは決して低俗なことではありません。
むしろ、限られた人生の中でそれらを正しく受け取り、神を忘れずに生きる。
ルネサンスのイタリアで医師として人間の身体にも向き合ったラビを考えると、ここは面白いところです。
カバラの学び
カバラ的に読むなら、私は特に**「今ここにある日常を聖なるものにする」**という方向から見ると分かりやすいと思います。
ユダヤ神秘思想では、物質世界そのものから逃げることだけが聖性ではありません。
パンを食べる。
葡萄酒を飲む。
家族と過ごす。
そこに祝福を唱え、神を意識することで、普通の日常が神との関係を持つ時間になります。
特に葡萄酒は、シャバットのキドゥシュでも聖なる時間を区切る重要なものですね。
ですから、
「酒を飲む」→享楽
だけではありません。
「神から与えられた葡萄酒を祝福して飲む」→日常を聖なる時間にする
という世界があります。
そして最後にコヘレトは、
「人は自分の時を知らない」
と言います。
ここがカバラ的にも深い。
人間には世界のすべてが見えていない。自分の人生全体も見渡せない。それでも、今、自分の前に置かれている一日を生きることはできる。
仮庵祭り茶会にすると
これは、スコットの仮庵に実によく似合います。
丈夫な家を離れて、風も入り、空も見える仮の庵に座る。
そこで、
喜んで食べなさい。
酒を飲みなさい。
愛する人と人生を楽しみなさい。
しかし、人は自分の時を知らない。
そして日本なら、一服のお茶をいただく。
私はこの茶会の言葉なら、
「明日は分からない。だから今日、この一服を喜ぶ。」
が一番しっくりきます。
コヘレトの הבל(ヘベル=息、儚さ、空しさ) と侘び茶の「侘び」は同じ思想ではありません。でも、永遠ではないものだからこそ、今ここにあるものを大切にするというところで、面白い対話ができますね。