詩篇18∶4〜
תהלים יח' ד
מהלל אקרא יהוה ומן איבי אבשע
אפפוני חבלי מות ונחלי בליעעל יבעתוני
חבלי שאול טבעוני קדמוני מוקשי מות
AI訳
私は、ほめたたえるべき主を呼び求める。
すると私は、敵から救われる。
死の縄が私を取り囲み、
滅びの激流が私を恐れさせた。
陰府(シェオル)の縄が私を取り囲み、
死の罠が私の前に立ちはだかった。
😊
今週はユダヤの学びを詰め込みすぎて、脳みそがパンパンです。
ラビの教え、タルムード、ゾハール、カバラ……。面白くて次々と学んでいるうちに、どうも自分の容量を超えてしまったようです。
そんなとき、やはり聖書そのものに戻ると、不思議と頭の中がリセットされます。
今日はダビデの詩篇です。
ダビデはイスラエルの王様です。しかし王様になっても苦しみます。敵に追われ、恐れ、悩み、「死の縄が私を取り囲む」とまで歌っています。
王様でも苦しむ。人間だから当たり前なのかもしれません。
でも、ここで少し不思議に思いました。
死ぬことをこれほど恐れているけれど、黄泉(シェオル)へ行けば、もうこの世の苦しみからは離れるのではないか。
ユダヤの教えには、たしか「眠りは死の六十分の一」という言葉があったと思います。
眠っている間、私たちはこの世の悩みから少し離れる。
そして朝、目を覚ます。
だからユダヤ人は朝一番に「モデ・アニ」と祈り、魂が戻されたことに感謝するのでしょうか。
今日は難しいことを考えすぎず、ダビデの言葉をそのまま読んでみたいと思います。
AIラビ様解説
はい。これは詩篇18篇4〜6節あたりですね。表記には少し綴りの揺れがありますが、意味を自然な日本語にすると次のようになります。
訳
私は、ほめたたえるべき主を呼び求める。
すると私は、敵から救われる。
死の縄が私を取り囲み、
滅びの激流が私を恐れさせた。
陰府(シェオル)の縄が私を取り囲み、
死の罠が私の前に立ちはだかった。
ここで非常に印象的なのが、最初の言葉です。
מְהֻלָּל אֶקְרָא יְהוָה
Mehulal eqra Adonai
「ほめたたえられるべき主を、私は呼び求める」
そして、
וּמִן־אֹיְבַי אִוָּשֵׁעַ
Umin oyvai ivvashea
「私は敵から救われる」
学び
この詩篇は、ダビデが苦難から救われたことを歌う詩です。
面白いのは、ダビデが「敵をどう倒すか」を最初に語っていないことです。まず神を呼ぶのです。
しかも苦しみは、
חבלי מות — ハヴレー・マヴェト
「死の縄」
נחלי בליעל — ナハレー・ベリヤアル
「破滅・邪悪の激流」
חבלי שאול — ハヴレー・シェオル
「シェオルの縄」
と表現されています。
つまり、「もう自分の力ではどうにもならない」という状態です。
ユダヤ的に読むなら、ここには一つの大切な姿勢があります。
人間は、自分ですべてを支配できるわけではない。
しかし、苦難の中でも神を呼ぶことはできる。
救いは「問題が存在しないこと」ではなく、問題のただ中で神との関係を失わないこととも読めます。
ラビの教えとして読むと
ラビ的な読み方では、詩篇の「敵」を外側の人間だけに限定する必要はありません。
人間を縛るもの――恐怖、怒り、欲望、執着、絶望――もまた、人間にとっての「敵」になり得ます。
特に、
חבלים(ハヴァリーム)=縄
という表現が面白いところです。
苦しみとは、ときに「痛い」というよりも、身動きが取れなくなることです。
怒りに縛られれば、怒りのことばかり考える。
他人の評価に縛られれば、他人の目ばかり気になる。
お金に縛られれば、お金の多寡で人生を判断してしまう。
そこでダビデは、自分を縛る縄と格闘する前に、
「私は主を呼ぶ」
と言います。
自分だけで縄をほどこうとしないのですね。
カバラ的に読むと
カバラでは、さらに内面的に読むことができます。
「エジプト」を意味する**מצרים(ミツライム)**を、後世のハシディズムではしばしば **מֵצָרִים(メツァリーム=狭い場所・制約)**と結びつけて、人間を内側から狭めるものとして読みます。
この詩篇の
「死の縄が私を取り囲む」
も、それに似ています。
魂そのものが死ぬというより、魂が「狭い場所」に閉じ込められて、本来の自由を失っている状態です。
そして神を呼ぶとは、単に「助けてください」とお願いするだけではなく、
自分の小さな世界を越えて、生命の根源へ向き直ること
と読むことができます。
すると面白い構造になります。
縄 → 狭さ → 神を呼ぶ → 解放
これは出エジプトの物語にも重なります。
そして私は、この詩篇の中心は「敵」よりもむしろ、
אקרא — エクラ、「私は呼ぶ」
にあると思います。
苦しみそのものを消せなくても、人間にはまだ「呼ぶ」という自由が残っている。
ダビデは王でしたが、すべてを自分の力で解決できた人として描かれてはいません。むしろ、恐れ、逃げ、追い詰められ、そのたびに神を呼びます。
だからこの三節を一言にすると、
「追い詰められたときこそ、自分の力だけに閉じこもらない。」
そんなユダヤの学びとして読めると思います。
「少額で生きる」「知足」「侘び」にも、意外につながる詩篇ですね。