聖書朗読箇所 入るときに

今日は寒いぐらいです。やっとエアコンが必要なくなりましたが、逆に少し冷えたせいか、トイレに行く回数が増えました。
申命記の学びも終わりに近づくと、もうすぐユダヤの新年、**ローシュ・ハシャナ(Rosh Hashanah)**ですね。
イスラエルの新年は、日本のお正月のようなおせち料理ではなく、リンゴに蜂蜜をつけて食べ、「甘い一年になりますように」と願います。
リンゴに蜂蜜。なんともシンプルですが、身体にも良さそうです。
日本のお正月とはずいぶん違いますが、「新しい一年が良い年になりますように」と願う気持ちは、どこの国でも同じなのかもしれません。

申命記28章
人はどこまで堕ちてしまうのか
今日の聖書の学びは、申命記28章です。
読んでいて、少し引っかかった言葉がありました。
申命記28章34節
「あなたは、自分の目にするものによって、気が狂うほどになる。」
ヘブライ語では、
וְהָיִיתָ מְשֻׁגָּע מִמַּרְאֵה עֵינֶיךָ אֲשֶׁר תִּרְאֶה
ここに出てくる מְשֻׁגָּע(メシュガー) は、「狂った」「正気を失った」「取り乱した」といった強い言葉です。
最初、自分は「戒律を守らないと気が狂う」という意味なのかと思いました。
しかし、もう少し前後を読んでみると、少し違うようです。
神との契約から離れ、社会が乱れ、戦争になり、敵に包囲され、飢餓に追い込まれていく。そのあまりにも悲惨な光景を見続けることで、人間が正気を保てなくなる。
そんな恐ろしい状況が描かれています。
さらに読み進めると、もっと凄まじい。
申命記28章53節以降には、敵に包囲され、食べるものがなくなり、ついには自分の子どもまで食べるという描写が出てきます。
これは神様が「子どもを食べなさい」と命じているわけではありません。
「神との契約を捨て、このまま道を外れていけば、人間はここまで悲惨なところへ行ってしまうぞ」
という、恐ろしいほど強烈な警告なのでしょう。
現代の言葉で読めば、神様の「脅し」のようにも聞こえます。
ただ、脅すこと自体が目的というより、人間が道を失った先にある最悪の世界を見せていると考えたほうが、自分にはしっくりきます。
そして、申命記では偶像崇拝も大きな問題です。
神との契約を離れ、別のものを神として拝み、人間の欲望や権力が中心になっていく。
その先に、戦争、飢餓、狂乱という世界が描かれている。
ただし、申命記28章は、もともとイスラエルと神との契約について語られたものです。ゴイム、つまり諸国民にそのまま613の戒律が課せられているわけではありません。ユダヤ教では、諸国民にはノアの七戒という別の枠組みがあり、そこには偶像崇拝の禁止もあります。
ここまで読んでいて、ふと仏教の十界を思い出しました。
地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界。
申命記28章に描かれる、人間が戦争を始め、争い、食べ物を失い、ついには自分の子どもまで食べる世界。
仏教の言葉を借りれば、
人界から修羅界へ、
修羅界から餓鬼界へ、
そして地獄界へ。
そんなふうにも見えてきます。
もちろん、ユダヤ教と仏教はまったく違う宗教ですから、同じものとして考えることはできません。
しかし、人間の心について考えると、不思議と重なるところがあります。
そこで、もう一つ考えてしまいました。
お金に困っている檀家から、それを知りながら無理な高額のお布施を取ろうとする坊さんがいたとしたら、十界ではどこにいるのだろう?
金額が高いから悪い、という単純な話ではありません。お寺にも維持費があり、僧侶にも生活があります。
問題は金額ではなく、相手が困っていることを知りながら、それでも自分の欲を優先する心です。
これは十界でいえば、餓鬼界に近いのかもしれません。
餓鬼とは、単に食べ物がない人ではなく、
「もっと欲しい。まだ足りない」
という貪りに支配された心でもあります。
そう考えると、僧衣を着ていても餓鬼界にいることはあるでしょうし、反対に、お金も地位もない人が菩薩界の心で生きていることもある。
十界とは、人の肩書を分類するものではなく、自分の心が今どこにいるのかを見る鏡なのかもしれません。
申命記28章も、他人を見て「あの人には罰が当たる」と読むより、
自分自身が、欲望や争いによって人間らしさを失っていないか。
そう問いながら読むほうが、自分には意味がありそうです。
ユダヤのトーラーを読みながら、最後は仏教の十界にたどり着きました。

いつものちゃんぽんの学びです。

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