茶会に行く勇気
今日は聖書ではなく茶会です。
茶会や茶事に参加してみたい。
でも、数をこなさないと良し悪しはわからない気がする。
自分の点てるお茶には満足している。
けれど、他人の茶室、他人のお点前でいただいてみたい。
現実は、なかなか遠い。
佐倉では日曜祭日に、各流派の教室が茶室でお茶を出してくれる。
お茶とお菓子で800円。ありがたい場だ。
ただ、少し茶道を知ってしまうと、
どうしても作法中心の「お稽古の場」のように感じることもある。
正式な茶事は5万円。
簡単には手が届かない。
それでも、死ぬまでに一度は経験してみたい。
冥土の土産に。
来月、東京の茶会に参加する予定。
様子はわからない。
でも、行かなければ先へは進まない。
そんな気持ちで、あらためて
千宗屋家元の著書
**『茶 利休と今をつなぐ』**を読み返した。
作法の向こう側
家元は、茶席で過度に緊張する人の姿に触れ、
作法ばかりが独り歩きしている現状をやわらかく指摘している。
そして利休の言葉として伝わる、
「茶の湯とは、ただ湯を沸かし、茶を点てて、飲むばかりなることと知るべし」
という原点を示す。
お茶は秘密の儀式ではない。
日常の延長にあるものだという。
さらに現代の茶の世界について、
点前や作法ばかりに偏る傾向、
あるいは道具ばかりに偏る傾向があることにも触れている。
本来、点前や作法は目的ではなく、
道具や空間を生かし、
その場に集まった人が自然に呼吸を合わせるための手段。
目指すのは、
人と人が静かに同調すること。
作法でもなく、
道具でもなく、
真ん中にあるのは「人」だという。
800円と5万円の間で
800円のお茶もありがたい。
5万円の茶事も尊い。
けれど金額の問題だけではないのかもしれない。
作法の正確さでもなく、
道具の格でもなく、
その場に流れる空気、
人と人が自然に合う瞬間。
それを一度、体験してみたい。