死のあとに聖さがある 〜今を生きるということ〜レビ記
今週のパラシャ
「アハレイ・モート/ケドシーム」。
レビ記 にあるこの箇所は、
とても静かで、しかし深い問いを投げかけてきます。
■ 死のあとから始まる教え
「アハレイ・モート」
意味は「死のあと」
アロンの息子が神の前で命を落とした、その後の話から始まります。
ここで語られるのは
贖罪の日、そして「どう神に近づくか」
罪や穢れを外へ流すために、
一匹のヤギが荒野へ放たれます。
人は、自分の中の重たいものを
外に出したくなる存在なのかもしれません。
■ 聖さとは何か
続く「ケドシーム」はこう言います。
👉「あなたたちは聖であれ」
でもその内容は驚くほど日常的です。
親を敬う
嘘をつかない
人をだまさない
隣人を自分のように愛する
特別な修行ではなく、
当たり前のことを丁寧に生きること。
それが「聖さ」だと語られています。
■ ラビの教え
ラビたちは、この並びに意味を見ます。
👉 死のあとに、聖さが来る
つまり
👉 苦しみや失敗、死と向き合ったあとに
👉 人は本当の意味で整っていく
また、あるラビはこう言います。
👉「自分が嫌なことを人にするな。それがトーラーの本質だ」
難しい教えではなく、
とてもシンプルなことに帰ってきます。
■ カバラの視点
カバラでは、少し違った角度から見ます。
ゾーハル によると、
死は終わりではなく
光に触れた出来事とも考えられます。
強すぎる光に触れたとき、
人の器は耐えられず壊れてしまう。
また、荒野に放たれるヤギは
ネガティブなものを外へ流す象徴。
抑えるのではなく、流す。
整えるという発想です。
■ 死のあとに天国はあるのか
よくある問いです。
でもユダヤの考え方は少し違います。
すぐに天国へ行くというよりも、
👉 一度、整えられる
そして
👉 整った魂が次の世界へ進む
死は終わりではなく
「移動」や「通過点」として見られています。
■ 禅の視点
禅はさらにシンプルです。
👉「生死一如」
生と死は別ではない。
あるのは
👉 今この瞬間だけ
■ ヨットと茶の湯
ヨットで海に出るとわかります。
嵐も、静けさも、
どちらも同じ海です。
茶の湯も同じです。
一服の茶は
ただそれだけのことなのに、
深く心に残る。
👉 一期一会
二度と同じ「今」はありません。
■ 結局のところ
死んだらどうなるのか。
正直、誰にもわかりません。
でも一つ確かなのは
👉 今はある
■ まとめ
👉 体はいつか終わる
👉 でも今は確かにある
👉 死は未来の話ではなく
👉 今を照らすためのもの
■ 最後に
死を考えると、
今が少し濃くなる気がします。
それで十分なのかもしれません。