千利休と高山右近
宗教を越える一服 〜利休と右近〜
小説『千利休』(土岐信吉著)に、こんな印象的な場面があります。
27歳の高山右近が、静かに問いかけます。
「茶の湯を教えていただくことになりましたが、それがしはキリスト教を信仰する身でございます。宗易様にご迷惑がかかりませぬかと案じております。」
それに対して、千利休はこう答えます。
「茶の湯を修する者にとって宗教は関係ありません。右近は右近の茶を目指せばよい」
——この一言に、利休のすべてが表れているように感じます。
利休自身もまた、はじめから「利休の茶」を持っていたわけではありません。
武野紹鷗に学び、さらにその前には書院の茶の流れがあり、そこから草庵の茶へと至ります。
つまり、利休もまた「誰かの型」をなぞりながら、最後には自分の道を見つけた人です。
だからこそ——
他人に型を押しつけない。
宗教にも、身分にも、とらわれない。
その人に合った「一服」を大切にする。
茶の湯とは、ただ湯を沸かし、茶を点て、飲むばかり。
けれど、その一服の中に、
その人の生き方、その人の信じるもの、その人の時間がすべて現れます。
キリスト教であっても、仏教であっても、無宗教であってもいい。
右近は右近の茶を。
利休は利休の茶を。
そして私たちもまた、
「自分の一服」を見つけていけばいいのだと思います。
今日の一服は、誰のためでもなく、
ただ自分のために。