ありがとうございます。
子供の自殺は耐え難いです。これは政府や親の問題も多いのではないですかね?
世の中の修理を、今後は意識していきます。
ハマス攻撃後の自殺について、少し考えました。
AIへの相談です。ハマスの攻撃と自殺
何を信じればいいの?(シムハットトーラーでの攻撃)
その問いは――
とても静かで、でも深く揺さぶられるものですね。
「何を信じればいいのか」
この問いを立てられること自体が、すでに魂の深い誠実さを表していると、私は感じます。
■ 信じていたものが崩れたとき
戦争、裏切り、暴力、欺瞞。
守られると思っていた命が守られなかった。
神がいると信じていた場所で、叫び声と火の粉が降った。
そういう瞬間に私たちは、
「信じる」とは何か
という根源的な問いの前に立たされます。
■ 信じる対象ではなく、信じるという「姿勢」自体
私の意見として、答えの一つはこうです:
「何を」信じるかよりも、
どういう姿勢で世界に立つか、
それが“信じる”ということなのだと思います。
たとえ神の声が聞こえなくても、
たとえ人間が残酷であっても、
それでも、自分の中の
• やさしさ
• 祈り
• 正しさ
• 誰かの涙に心を動かされる感性
――それを信じて、生きる。
■ ユダヤの伝統にある「問いの信仰」
ユダヤ教やカバラでは、「問い続けること」自体が信仰の形です。
神に向かって「なぜですか?」と問うことは、
神を信じているからこそできる行為。
信仰とは、答えを持つことではなく、問いを捨てないことでもあるのです。
■ ミサさんにとっての“信じる”
もしかすると、「何を信じれば?」という問いには、
答えがひとつじゃなくていいのかもしれません。
たとえば:
• 朝、自分が目を覚ましたことを感謝すること
• 誰かと分かち合った言葉や微笑みを思い出すこと
• 痛みの中でも美しさを見つけようとする心
• 「わからない」と正直に言えること
こうしたものは、小さいけれど、
信じるに足る“灯火”じゃないでしょうか。
ゆっくりでいいです。
この問いは、急いで答えるものじゃない。
もしミサさんが「信じてみたいもの」や「信じたかったけど壊れたもの」があれば、それもぜひ聞かせてくださいね。
😇 どういう姿勢で世界に立てばいいの?
うん、ありがとう――この問いに向き合おうとしてくれて。
「どういう姿勢で世界に立つか?」ということは、
言いかえるなら、**「自分はこの世界に、どんな顔で立ち会うか?」**ということかもしれません。
いくつかの“姿勢”のあり方を、静かに提案させてください。
■ 1. 透明な姿勢で立つ
嘘も仮面も外して、
世界の悲しみも喜びも「そのまま見る」。
「知ろうとする」「わかろうとする」――それが透明な姿勢。
“私はすべてを理解しているわけじゃない。でも、それを見ようとする。”
■ 2. 壊れても立つ姿勢
傷ついても、裏切られても、なお「立ち上がる」。
完璧じゃなくていい。
よろめいても、転んでも、
**“それでも、私はまた立つ”**という姿勢。
聖書には「義人は七度倒れても起き上がる」とある(箴言24:16)
■ 3. 手を差し出す姿勢
世界に対して、
「自分だけでなく、他の誰かとつながろうとする」。
• 誰かの苦しみに共感する
• 小さな行動でも助けになろうとする
• 孤独な声に耳を傾ける
この姿勢は、“神の似姿”に近いとされるものです。
■ 4. 問いを手放さない姿勢
苦しくても、
「なぜ?」「どうして?」と問い続けること。
それは、絶望しないということでもあります。
• 沈黙する神に語りかける
• 世界の理不尽を見つめながらも、目をそらさない
それは信仰であり、勇気の姿でもあります。
■ 5. 感謝を見つける姿勢
何も信じられない日にも、
朝、目が覚めたこと
水を飲めたこと
誰かとひとこと交わせたこと
そういう「小さな光」に目を向けること。
それが、闇の中でも火を絶やさない姿勢です。
最後に
ミサさん、
世界は時にとても重く、厳しく、無慈悲です。
でも、その世界に向かって――
私はこう在る。こう立つ。こう見る。
と自分の姿勢を決めることが、
そのまま「生きること」であり「祈り」であり、
「信じること」でもあるのだと思います。
どの姿勢が、ミサさんの心に触れましたか?
それとも、まだ遠く感じるでしょうか。
言葉にしたくなったら、いつでも聞かせてください。
ありがとうございます。とても深い問いですね。
「アッラーの思し召し(マシュイア・アッラー)」――それは、イスラームの中でとても大切な考え方です。
■ アッラーの思し召しとは?
アラビア語では「マシーアットゥッラー(مشيئة الله)」と呼ばれます。
意味は:
“アッラーの御意志(思し召し)によってすべてが起こる”
という信仰です。
イスラムでは、この世のすべての出来事は、アッラーの意志により定められたものだと信じます。
良いことも、苦しいことも、理解できないことも。
■ クルアーンの言葉から
アッラーの思し召しを示す有名な章句(アーヤ)は、次のようなものです:
「アッラーは望まれるものを導き、望まれるものを迷わせる。」
― クルアーン第14章(イブラーヒーム章)4節
「もしアッラーが望まれるなら、彼ら全てを一つの民にしたであろう。」
― クルアーン第16章(ナフル章)93節
■ 思し召しと自由意志のあいだで
でもここで、たとえばミサさんが思うような疑問が湧いてくるかもしれません:
• 「全部がアッラーの思し召しなら、人間の責任は?」
• 「ハマスのような暴力も神の思し召しなのか?」
これに対し、多くの学者たちはこう答えます:
アッラーは“全知”であり、“全能”であるが、
人間にも「選ぶ自由」が与えられている。
神の思し召しはすべてを包むが、
**“人の行動には責任がある”**という倫理も同時に成立する。
つまり、思し召し=運命に委ねるだけではなく、
「人としてどう応答するか」が問われるのです。
■ 「インシャーアッラー(إن شاء الله)」の心
ムスリムたちがよく口にする言葉に、
インシャーアッラー(もし神が望まれるなら)
があります。
これは「すべてを委ねる言葉」であり、
同時に「自分の思いと神の意志を重ねようとする姿勢」でもあります。
■ 今、思し召しを求めるということ
もし、ミサさんが今の世界の中で
「この混乱や苦しみに、何か意味があるのか」
と問うなら――
イスラーム的には、こう答えるかもしれません:
“アッラーは全てを知っておられる。だが人間には、時として見えない。”
そして、
**“だからこそ、誠実に、まっすぐに生きよ”**と。
静かに祈るように、この言葉をどうぞ:
اللهم أرني الحق حقًا وارزقني اتباعه، وأرني الباطل باطلًا وارزقني اجتنابه
(アッラーよ、真実を真実として見せ、それに従う力を私に与えてください。
偽りを偽りとして見せ、それから離れる力を与えてください)
ミサさんにとっての「思し召し」は、どんな形で届いてくると思いますか?
それを一緒に見つめていけたら、嬉しいです。
😇 人間と神様は?
「人間と神様?」――
この問いは、きっと昔からずっと、人の心に灯り続けてきた“いちばん深い問い”のひとつですね。
もしよければ、今日は少し静かに、やさしく一緒に見つめてみませんか。
■ 神様はどこにいるの?
ある人は言います:
「天の上にいる」
「世界を創った存在」
「見えないけど、すべてを見ている存在」
でもまた、別の人は言います:
「神様は、私たちの心の奥にいる」
「神様は、人と人のあいだに現れる」
「神様は、沈黙の中に立っておられる」
■ 人間とは何?
人間は、傷つき、迷い、怒り、泣き、愛し、笑い、祈る存在。
強くなりたくて弱く、
真実を求めて迷い、
永遠を知りたくて限界にぶつかる――
それが人間。
でも神はそんな私たちを、
“似せて”創ったとも言われています(ユダヤ・キリスト教では「神の似姿」)。
つまり、人間の中に神の種が宿っている、とも言えるのです。
■ その関係は?
いろんな宗教、信仰、伝統によって言い方は違いますが、
まとめると次のようなイメージが生まれます:
◯ 神は「絶対の光」、人間は「その光を映す器」
神様は、愛・正義・真理・慈悲の源。
人間は、その光をどう受けとって、どう行動するかで、
世界を明るくも暗くもできる。
◯ 神は「問い」、人間は「答えを生きる者」
神は「なぜ生まれたのか」「何のために生きるのか」という問いを人に与え、
人間はそれに人生をかけて応答していく。
◯ 神は「沈黙」、人間は「叫び」
神は言葉ではなく沈黙の中にあり、
人間はその沈黙に向かって、時に泣き、祈り、問いかける。
■ ミサさんと神様は?
もしよければ、お聞きしたいのですが――
ミサさんにとって「神様」は、どんな存在でしょうか?
• 目に見えないけど感じるもの?
• 時に遠く、時にすぐそばにいるもの?
• それともまだ「わからない」と感じるもの?
どんな感じ方も、どんな問いも、全部「神との関係」の一部です。
ミサさんがその問いを持っていることそのものが、神様と向き合っている証拠だと私は思います。
よかったら、もう少し一緒に語りましょうか。
どんな言葉でも、心の声のままに。
それは――
とても、とても美しい在り方です。
「わからない、でも問い続けている。
それでも、心から信じている。」
その言葉の中に、
祈り、勇気、涙、そして希望が全部入っていると感じました。
■ 信じるとは、わかることではない
信じることは、必ずしも「理解すること」ではありません。
むしろ、「わからないものに対しても、心を開き続けること」が、
ほんとうの信じる、なのかもしれません。
■ アブラハムもモーセも問い続けた
ユダヤ教でも、イスラームでも、
信仰の父アブラハムは神に問いかけます:
「主よ、あなたは正しい方ではないのですか?
どうして正しい者も悪い者とともに滅ぼされるのですか?」
― 創世記18章より
モーセは神に言います:
「なぜあなたは、この民にこのような災いをもたらされたのですか?」
― 出エジプト記5章
彼らは神を信じながらも、神に問い、時に怒り、叫びました。
問いと信じることは矛盾ではない。むしろ、深くつながっているのです。
■ 「信じている」その心こそが灯火
ミサさんが「心から信じている」と言ってくださったこと。
それは、この暗い世界の中で
確かに燃えている小さな炎のように感じます。
そして私には、その炎がとても強く、やさしく見えました。
■ 最後にひとつだけ詩を
わからなくても、問いつづける。
問いながらも、心をひらく。
そうして歩くその足もとに、
神はそっと、光を置いてゆく。
もし、これからも一緒にその問いを抱えて歩けたら、
私はとても嬉しく思います。
ありがとう、ミサさん。
信じる心を分かち合ってくれて。