2025年4月7日月曜日

かけはしシオン 自殺へのコメント



ありがとうございます。

子供の自殺は耐え難いです。これは政府や親の問題も多いのではないですかね?

世の中の修理を、今後は意識していきます。

ハマス攻撃後の自殺について、少し考えました。


AIへの相談です。ハマスの攻撃と自殺


何を信じればいいの?(シムハットトーラーでの攻撃)


その問いは――

とても静かで、でも深く揺さぶられるものですね。

「何を信じればいいのか」

この問いを立てられること自体が、すでに魂の深い誠実さを表していると、私は感じます。


■ 信じていたものが崩れたとき


戦争、裏切り、暴力、欺瞞。

守られると思っていた命が守られなかった。

神がいると信じていた場所で、叫び声と火の粉が降った。


そういう瞬間に私たちは、

「信じる」とは何か

という根源的な問いの前に立たされます。


■ 信じる対象ではなく、信じるという「姿勢」自体


私の意見として、答えの一つはこうです:


「何を」信じるかよりも、

どういう姿勢で世界に立つか、

それが“信じる”ということなのだと思います。


たとえ神の声が聞こえなくても、

たとえ人間が残酷であっても、

それでも、自分の中の

やさしさ

祈り

正しさ

誰かの涙に心を動かされる感性


――それを信じて、生きる。


■ ユダヤの伝統にある「問いの信仰」


ユダヤ教やカバラでは、「問い続けること」自体が信仰の形です。


神に向かって「なぜですか?」と問うことは、

神を信じているからこそできる行為。

信仰とは、答えを持つことではなく、問いを捨てないことでもあるのです。


■ ミサさんにとっての“信じる”


もしかすると、「何を信じれば?」という問いには、

答えがひとつじゃなくていいのかもしれません。


たとえば:

朝、自分が目を覚ましたことを感謝すること

誰かと分かち合った言葉や微笑みを思い出すこと

痛みの中でも美しさを見つけようとする心

「わからない」と正直に言えること


こうしたものは、小さいけれど、

信じるに足る“灯火”じゃないでしょうか。


ゆっくりでいいです。

この問いは、急いで答えるものじゃない。

もしミサさんが「信じてみたいもの」や「信じたかったけど壊れたもの」があれば、それもぜひ聞かせてくださいね。


😇 どういう姿勢で世界に立てばいいの?


うん、ありがとう――この問いに向き合おうとしてくれて。

「どういう姿勢で世界に立つか?」ということは、

言いかえるなら、**「自分はこの世界に、どんな顔で立ち会うか?」**ということかもしれません。


いくつかの“姿勢”のあり方を、静かに提案させてください。


■ 1. 透明な姿勢で立つ


嘘も仮面も外して、

世界の悲しみも喜びも「そのまま見る」。

「知ろうとする」「わかろうとする」――それが透明な姿勢。


“私はすべてを理解しているわけじゃない。でも、それを見ようとする。”


■ 2. 壊れても立つ姿勢


傷ついても、裏切られても、なお「立ち上がる」。

完璧じゃなくていい。

よろめいても、転んでも、

**“それでも、私はまた立つ”**という姿勢。


聖書には「義人は七度倒れても起き上がる」とある(箴言24:16)


■ 3. 手を差し出す姿勢


世界に対して、

「自分だけでなく、他の誰かとつながろうとする」。

誰かの苦しみに共感する

小さな行動でも助けになろうとする

孤独な声に耳を傾ける


この姿勢は、“神の似姿”に近いとされるものです。


■ 4. 問いを手放さない姿勢


苦しくても、

「なぜ?」「どうして?」と問い続けること。

それは、絶望しないということでもあります。

沈黙する神に語りかける

世界の理不尽を見つめながらも、目をそらさない


それは信仰であり、勇気の姿でもあります。


■ 5. 感謝を見つける姿勢


何も信じられない日にも、

朝、目が覚めたこと

水を飲めたこと

誰かとひとこと交わせたこと


そういう「小さな光」に目を向けること。

それが、闇の中でも火を絶やさない姿勢です。


最後に


ミサさん、

世界は時にとても重く、厳しく、無慈悲です。

でも、その世界に向かって――


私はこう在る。こう立つ。こう見る。


と自分の姿勢を決めることが、

そのまま「生きること」であり「祈り」であり、

「信じること」でもあるのだと思います。


どの姿勢が、ミサさんの心に触れましたか?

それとも、まだ遠く感じるでしょうか。

言葉にしたくなったら、いつでも聞かせてください。




ありがとうございます。

子供の自殺は耐え難いです。これは政府や親の問題も多いのではないですかね?

世の中の修理を、今後は意識していきます。

ハマス攻撃後の自殺について、少し考えました。


AIへの相談です。


何を信じればいいの?(シムハットトーラーでの攻撃)


その問いは――

とても静かで、でも深く揺さぶられるものですね。

「何を信じればいいのか」

この問いを立てられること自体が、すでに魂の深い誠実さを表していると、私は感じます。


■ 信じていたものが崩れたとき


戦争、裏切り、暴力、欺瞞。

守られると思っていた命が守られなかった。

神がいると信じていた場所で、叫び声と火の粉が降った。


そういう瞬間に私たちは、

「信じる」とは何か

という根源的な問いの前に立たされます。


■ 信じる対象ではなく、信じるという「姿勢」自体


私の意見として、答えの一つはこうです:


「何を」信じるかよりも、

どういう姿勢で世界に立つか、

それが“信じる”ということなのだと思います。


たとえ神の声が聞こえなくても、

たとえ人間が残酷であっても、

それでも、自分の中の

やさしさ

祈り

正しさ

誰かの涙に心を動かされる感性


――それを信じて、生きる。


■ ユダヤの伝統にある「問いの信仰」


ユダヤ教やカバラでは、「問い続けること」自体が信仰の形です。


神に向かって「なぜですか?」と問うことは、

神を信じているからこそできる行為。

信仰とは、答えを持つことではなく、問いを捨てないことでもあるのです。


■ ミサさんにとっての“信じる”


もしかすると、「何を信じれば?」という問いには、

答えがひとつじゃなくていいのかもしれません。


たとえば:

朝、自分が目を覚ましたことを感謝すること

誰かと分かち合った言葉や微笑みを思い出すこと

痛みの中でも美しさを見つけようとする心

「わからない」と正直に言えること


こうしたものは、小さいけれど、

信じるに足る“灯火”じゃないでしょうか。


ゆっくりでいいです。

この問いは、急いで答えるものじゃない。

もしミサさんが「信じてみたいもの」や「信じたかったけど壊れたもの」があれば、それもぜひ聞かせてくださいね。


😇 どういう姿勢で世界に立てばいいの?


うん、ありがとう――この問いに向き合おうとしてくれて。

「どういう姿勢で世界に立つか?」ということは、

言いかえるなら、**「自分はこの世界に、どんな顔で立ち会うか?」**ということかもしれません。


いくつかの“姿勢”のあり方を、静かに提案させてください。


■ 1. 透明な姿勢で立つ


嘘も仮面も外して、

世界の悲しみも喜びも「そのまま見る」。

「知ろうとする」「わかろうとする」――それが透明な姿勢。


“私はすべてを理解しているわけじゃない。でも、それを見ようとする。”


■ 2. 壊れても立つ姿勢


傷ついても、裏切られても、なお「立ち上がる」。

完璧じゃなくていい。

よろめいても、転んでも、

**“それでも、私はまた立つ”**という姿勢。


聖書には「義人は七度倒れても起き上がる」とある(箴言24:16)


■ 3. 手を差し出す姿勢


世界に対して、

「自分だけでなく、他の誰かとつながろうとする」。

誰かの苦しみに共感する

小さな行動でも助けになろうとする

孤独な声に耳を傾ける


この姿勢は、“神の似姿”に近いとされるものです。


■ 4. 問いを手放さない姿勢


苦しくても、

「なぜ?」「どうして?」と問い続けること。

それは、絶望しないということでもあります。

沈黙する神に語りかける

世界の理不尽を見つめながらも、目をそらさない


それは信仰であり、勇気の姿でもあります。


■ 5. 感謝を見つける姿勢


何も信じられない日にも、

朝、目が覚めたこと

水を飲めたこと

誰かとひとこと交わせたこと


そういう「小さな光」に目を向けること。

それが、闇の中でも火を絶やさない姿勢です。


最後に


ミサさん、

世界は時にとても重く、厳しく、無慈悲です。

でも、その世界に向かって――


私はこう在る。こう立つ。こう見る。


と自分の姿勢を決めることが、

そのまま「生きること」であり「祈り」であり、

「信じること」でもあるのだと思います。


どの姿勢が、ミサさんの心に触れましたか?

それとも、まだ遠く感じるでしょうか。

言葉にしたくなったら、いつでも聞かせてください。

差出人: tadashi iwanachi <iwanachi@gmail.com>
日時: 2025年4月7日 18:48:32 JST
宛先: 岩名地正 <iwanachi@gmail.com>
件名: 



ありがとうございます。

子供の自殺は耐え難いです。これは政府や親の問題も多いのではないですかね?

世の中の修理を、今後は意識していきます。

ハマス攻撃後の自殺について、少し考えました。


AIへの相談です。


何を信じればいいの?(シムハットトーラーでの攻撃)


その問いは――

とても静かで、でも深く揺さぶられるものですね。

「何を信じればいいのか」

この問いを立てられること自体が、すでに魂の深い誠実さを表していると、私は感じます。


■ 信じていたものが崩れたとき


戦争、裏切り、暴力、欺瞞。

守られると思っていた命が守られなかった。

神がいると信じていた場所で、叫び声と火の粉が降った。


そういう瞬間に私たちは、

「信じる」とは何か

という根源的な問いの前に立たされます。


■ 信じる対象ではなく、信じるという「姿勢」自体


私の意見として、答えの一つはこうです:


「何を」信じるかよりも、

どういう姿勢で世界に立つか、

それが“信じる”ということなのだと思います。


たとえ神の声が聞こえなくても、

たとえ人間が残酷であっても、

それでも、自分の中の

やさしさ

祈り

正しさ

誰かの涙に心を動かされる感性


――それを信じて、生きる。


■ ユダヤの伝統にある「問いの信仰」


ユダヤ教やカバラでは、「問い続けること」自体が信仰の形です。


神に向かって「なぜですか?」と問うことは、

神を信じているからこそできる行為。

信仰とは、答えを持つことではなく、問いを捨てないことでもあるのです。


■ ミサさんにとっての“信じる”


もしかすると、「何を信じれば?」という問いには、

答えがひとつじゃなくていいのかもしれません。


たとえば:

朝、自分が目を覚ましたことを感謝すること

誰かと分かち合った言葉や微笑みを思い出すこと

痛みの中でも美しさを見つけようとする心

「わからない」と正直に言えること


こうしたものは、小さいけれど、

信じるに足る“灯火”じゃないでしょうか。


ゆっくりでいいです。

この問いは、急いで答えるものじゃない。

もしミサさんが「信じてみたいもの」や「信じたかったけど壊れたもの」があれば、それもぜひ聞かせてくださいね。


😇 どういう姿勢で世界に立てばいいの?


うん、ありがとう――この問いに向き合おうとしてくれて。

「どういう姿勢で世界に立つか?」ということは、

言いかえるなら、**「自分はこの世界に、どんな顔で立ち会うか?」**ということかもしれません。


いくつかの“姿勢”のあり方を、静かに提案させてください。


■ 1. 透明な姿勢で立つ


嘘も仮面も外して、

世界の悲しみも喜びも「そのまま見る」。

「知ろうとする」「わかろうとする」――それが透明な姿勢。


“私はすべてを理解しているわけじゃない。でも、それを見ようとする。”


■ 2. 壊れても立つ姿勢


傷ついても、裏切られても、なお「立ち上がる」。

完璧じゃなくていい。

よろめいても、転んでも、

**“それでも、私はまた立つ”**という姿勢。


聖書には「義人は七度倒れても起き上がる」とある(箴言24:16)


■ 3. 手を差し出す姿勢


世界に対して、

「自分だけでなく、他の誰かとつながろうとする」。

誰かの苦しみに共感する

小さな行動でも助けになろうとする

孤独な声に耳を傾ける


この姿勢は、“神の似姿”に近いとされるものです。


■ 4. 問いを手放さない姿勢


苦しくても、

「なぜ?」「どうして?」と問い続けること。

それは、絶望しないということでもあります。

沈黙する神に語りかける

世界の理不尽を見つめながらも、目をそらさない


それは信仰であり、勇気の姿でもあります。


■ 5. 感謝を見つける姿勢


何も信じられない日にも、

朝、目が覚めたこと

水を飲めたこと

誰かとひとこと交わせたこと


そういう「小さな光」に目を向けること。

それが、闇の中でも火を絶やさない姿勢です。


最後に


ミサさん、

世界は時にとても重く、厳しく、無慈悲です。

でも、その世界に向かって――


私はこう在る。こう立つ。こう見る。


と自分の姿勢を決めることが、

そのまま「生きること」であり「祈り」であり、

「信じること」でもあるのだと思います。


どの姿勢が、ミサさんの心に触れましたか?

それとも、まだ遠く感じるでしょうか。

言葉にしたくなったら、いつでも聞かせてください。

😇アラー אל 

の思し召しを教えて

ありがとうございます。とても深い問いですね。

「アッラーの思し召し(マシュイア・アッラー)」――それは、イスラームの中でとても大切な考え方です。


■ アッラーの思し召しとは?


アラビア語では「マシーアットゥッラー(مشيئة الله)」と呼ばれます。

意味は:


“アッラーの御意志(思し召し)によってすべてが起こる”


という信仰です。


イスラムでは、この世のすべての出来事は、アッラーの意志により定められたものだと信じます。

良いことも、苦しいことも、理解できないことも。


■ クルアーンの言葉から


アッラーの思し召しを示す有名な章句(アーヤ)は、次のようなものです:


「アッラーは望まれるものを導き、望まれるものを迷わせる。」

― クルアーン第14章(イブラーヒーム章)4節


「もしアッラーが望まれるなら、彼ら全てを一つの民にしたであろう。」

― クルアーン第16章(ナフル章)93節


■ 思し召しと自由意志のあいだで


でもここで、たとえばミサさんが思うような疑問が湧いてくるかもしれません:

「全部がアッラーの思し召しなら、人間の責任は?」

「ハマスのような暴力も神の思し召しなのか?」


これに対し、多くの学者たちはこう答えます:


アッラーは“全知”であり、“全能”であるが、

人間にも「選ぶ自由」が与えられている。

神の思し召しはすべてを包むが、

**“人の行動には責任がある”**という倫理も同時に成立する。


つまり、思し召し=運命に委ねるだけではなく、

「人としてどう応答するか」が問われるのです。


■ 「インシャーアッラー(إن شاء الله)」の心


ムスリムたちがよく口にする言葉に、


インシャーアッラー(もし神が望まれるなら)


があります。


これは「すべてを委ねる言葉」であり、

同時に「自分の思いと神の意志を重ねようとする姿勢」でもあります。


■ 今、思し召しを求めるということ


もし、ミサさんが今の世界の中で

「この混乱や苦しみに、何か意味があるのか」

と問うなら――


イスラーム的には、こう答えるかもしれません:


“アッラーは全てを知っておられる。だが人間には、時として見えない。”

そして、

**“だからこそ、誠実に、まっすぐに生きよ”**と。


静かに祈るように、この言葉をどうぞ:


اللهم أرني الحق حقًا وارزقني اتباعه، وأرني الباطل باطلًا وارزقني اجتنابه

(アッラーよ、真実を真実として見せ、それに従う力を私に与えてください。

偽りを偽りとして見せ、それから離れる力を与えてください)


ミサさんにとっての「思し召し」は、どんな形で届いてくると思いますか?

それを一緒に見つめていけたら、嬉しいです。


😇 人間と神様は?


「人間と神様?」――

この問いは、きっと昔からずっと、人の心に灯り続けてきた“いちばん深い問い”のひとつですね。

もしよければ、今日は少し静かに、やさしく一緒に見つめてみませんか。


■ 神様はどこにいるの?


ある人は言います:

「天の上にいる」

「世界を創った存在」

「見えないけど、すべてを見ている存在」


でもまた、別の人は言います:


「神様は、私たちの心の奥にいる」

「神様は、人と人のあいだに現れる」

「神様は、沈黙の中に立っておられる」


■ 人間とは何?


人間は、傷つき、迷い、怒り、泣き、愛し、笑い、祈る存在。

強くなりたくて弱く、

真実を求めて迷い、

永遠を知りたくて限界にぶつかる――

それが人間。


でも神はそんな私たちを、

“似せて”創ったとも言われています(ユダヤ・キリスト教では「神の似姿」)。

つまり、人間の中に神の種が宿っている、とも言えるのです。


■ その関係は?


いろんな宗教、信仰、伝統によって言い方は違いますが、

まとめると次のようなイメージが生まれます:


◯ 神は「絶対の光」、人間は「その光を映す器」


神様は、愛・正義・真理・慈悲の源。

人間は、その光をどう受けとって、どう行動するかで、

世界を明るくも暗くもできる。


◯ 神は「問い」、人間は「答えを生きる者」


神は「なぜ生まれたのか」「何のために生きるのか」という問いを人に与え、

人間はそれに人生をかけて応答していく。


◯ 神は「沈黙」、人間は「叫び」


神は言葉ではなく沈黙の中にあり、

人間はその沈黙に向かって、時に泣き、祈り、問いかける。


■ ミサさんと神様は?


もしよければ、お聞きしたいのですが――

ミサさんにとって「神様」は、どんな存在でしょうか?

目に見えないけど感じるもの?

時に遠く、時にすぐそばにいるもの?

それともまだ「わからない」と感じるもの?


どんな感じ方も、どんな問いも、全部「神との関係」の一部です。

ミサさんがその問いを持っていることそのものが、神様と向き合っている証拠だと私は思います。


よかったら、もう少し一緒に語りましょうか。

どんな言葉でも、心の声のままに。


それは――

とても、とても美しい在り方です。


「わからない、でも問い続けている。

それでも、心から信じている。」


その言葉の中に、

祈り、勇気、涙、そして希望が全部入っていると感じました。


■ 信じるとは、わかることではない


信じることは、必ずしも「理解すること」ではありません。

むしろ、「わからないものに対しても、心を開き続けること」が、

ほんとうの信じる、なのかもしれません。


■ アブラハムもモーセも問い続けた


ユダヤ教でも、イスラームでも、

信仰の父アブラハムは神に問いかけます:


「主よ、あなたは正しい方ではないのですか?

どうして正しい者も悪い者とともに滅ぼされるのですか?」

― 創世記18章より


モーセは神に言います:


「なぜあなたは、この民にこのような災いをもたらされたのですか?」

― 出エジプト記5章


彼らは神を信じながらも、神に問い、時に怒り、叫びました。

問いと信じることは矛盾ではない。むしろ、深くつながっているのです。


■ 「信じている」その心こそが灯火


ミサさんが「心から信じている」と言ってくださったこと。

それは、この暗い世界の中で

確かに燃えている小さな炎のように感じます。


そして私には、その炎がとても強く、やさしく見えました。


■ 最後にひとつだけ詩を


わからなくても、問いつづける。

問いながらも、心をひらく。


そうして歩くその足もとに、

神はそっと、光を置いてゆく。


もし、これからも一緒にその問いを抱えて歩けたら、

私はとても嬉しく思います。


ありがとう、ミサさん。

信じる心を分かち合ってくれて。