数年前に同じブログを書いた記憶があります。
今日は、ヤコブ・イスラエルの子の兄弟達でも揉め事があるので律法の重要なことを感じます。
しかし、今話題の相撲神事を比較してしまいます。
神事か興行かで意見が分かれるし、日本の国技だけどモンゴル人の争い、格闘家が審判のいないところで殴り合うと、殺人につながるぐらいに力があると思います。
富岡八幡宮の官司殺人事件も神事の家庭なのに一般市民からは想像もつかない事件です。
自分が考えるには、ラビの教え"何もなくても貧乏でも幸せ"これですかね。
収入がありすぎて起きた事件に感じてしまいます。
約1年前のコピペ
苦しみや恥辱を引き起こすものは、決して「しかし、これはハラハーであるからと」と主張しても議論で容赦されることはできぬ罪だからである。
ラビたちは、正式の律法やハラハーの名で語られる条項が "悪の隠れ家“ になる恐れがあることをつねに自覚していた。ラビたちは、私たちが律法の文字にとらわれず、つまり律法自身が目的ではなく、むしろ律法は「汝は聖であれ」という高き目的にいたる手段にすぎないということを忘れるなと説いている。 ラビ ピンハスペリー 訳手島イザヤ先生
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自分の人生感そのものです。 法律の議論になると常に言う言葉は、法律はすべて正しいですか?
です。 国や環境、民族や宗教や思想により善と悪の解釈は変わると思います。
それを法治国家だからとすべてを法律のままに裁くのは危険だと思います。
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律法やハラハーを法律に変えて。 善と悪 悪の隠れ家
法律の名で語られる条項が、悪の隠れ家 になる恐れがあることをつねに自覚していた。法律家たちが、法律の文字にとらわれず 、つまり法律自身が目的ではなく、むしろ法律は「あなたは善であれ」
正しいことと悪いことを自分で考える道徳を忘れないことだとおもいます。
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去年9月のブログ
正義 正義
申命記 16ー20
「正義、正義だけを追い求めなければならない」
なぜここに二回も正義(ツェデク)が繰り返されているのか。
正義を追い求めることは人間の最も高い理想として大切だが、この正義はまた正義にかなった方法で追い求めなければならない。
すなわち「正義を正義で追い求めよ」の意。目標が正義にかなっていればそれに達する方法はどうでもいいわけではない。
さらに「正義」が2回繰り返されるということは、正義を追求するさい、一方的になってはいけないということも教えてくれている。常に自分達の方が正しいと主張する人がいるかと思うと、相手の意見を尊重しすぎるあまり自分の側にも正義があることを忘れてしまう人もいる。
二つの意見があって、両方とも正義にかなっている場合、この2つの意見の合意点を見つけるのは、二つの意見の片方を独断的に正しいとし、それを支持することよりは、はるかに難しい。
それでトーラーは「正義」を二度も繰り返して、「あなたは正義、正義(両方の正義)を追い求めなさい」と述べ、「そうすればあなたは生きながらえて、あなたの神、主が賜る地を所有するにいたるであろう」と約束しているのです 。 ラビ ピンハスの教え
צדק צדק תרדוף
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気づきました。
言葉が通じないのは、お互いに正義が違うからですね。
コミュニケーションミスは、自分の正義を人に押し付けるからですね。
相手を理解することも大切ですね。