2016年8月30日火曜日

ラビ ヒレルの格言

「私が私自身のために存在していなければ、誰が私のために存在してくれるのか?」
問いをして、次の問いを。
「しかし私が私のためだけに存在しているのなら、私は何だろう?」


ミシュナー  アヴォート  1
ヒレルおよびシャンマイは彼らから承けた。
ヒレルは言う。平安を愛し、平安を求め、人類を愛し、彼らを律法に近づけさせるアロンの弟子のひとりになりなさい。
彼はよくいう。名声をえようとする者は枯渇し、トーラーを学ばない者は死罪にあたる。
ユダヤの教えを利用する者は滅びるであろう、と。
ラビヒレルはよくいう。
私が私自身のために存在していなければ、誰が私のために存在してくれるのか。
しかし私が私のためだけに存在しているのなら、私は何だろう。
もし今でないならば、いつの時があろうか。
シャンマイはいう。時を定めて律法を学び、口数少なく実行に励み、すべての人をにこやかな顔で迎えなさい。
ラバン ガマリエルはいう。教師をもとめ、疑問を晴らしなさい。
彼の子シメオンは言う。生まれてこのかた私は賢者の中で育ったが、沈黙にまさるものを見いださなかった。肝心なことは注釈ではなく実行である。口数の多い者はすべて罪を招く。
ラバン シメオン ベン ガマリエルはいう。
この世は三つのものの上に立っている。
さばきと真実と平安の上に。

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私と私ですので、繰り返し考えています。

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知恵と学問は別のものである。本の知識には疎くても、経験と反省を純化させて、人間存在の基本原理を知る人は大勢いる。一方で、多くの学習を重ねてもなお、愚かである者も大勢いる。
この後者のような人のことを、ラビ文学では「本を乗せたロバ」という。
しかし、学習が知恵に絶対不可欠だとは言えないにしても、学問が通常、知恵に向かうための最初の、その長い一歩であることは間違いない。   心の義務  善なる生活  より ラビミルトン