゛個゛茶の湯旅
茶の湯旅
『千利休』を読みはじめ、今年も京都への旅を決めました。
思えば昨年の今ごろ、奈良の珠光茶会、大阪・南宗寺の裏千家茶会、そして京都・高台寺の夜咄茶会を巡った。寒さの中に、確かな余韻だけが残る、よい旅の思い出です。
今年は、さらに一歩、奥へ入ってみたい。
利休が茶の湯を極めるために、まず知ろうとした人物——一休宗純。
その一休を求めて、京田辺の酬恩庵を訪ね、続いて村田珠光ゆかりの奈良、興福寺北の称名寺へと足を運ぶ。
本 千利休より
称名寺では、住職・恵遵房に方丈へ通され、肖像画や庭園を拝見したという。
けれど、不思議なことに心は大きく動かなかった。
ところが——一休禅師の遺偈を目にした瞬間、立っていられないほどの衝撃を受けたという。
須弥南畔
誰会我禅
虚堂来也
不直半銭一
利休は、これをこう受け取った。
「この世に、一休の禅を真に理解できる者がいるだろうか。
たとえ、私が最も敬愛する中国禅の大成者・虚堂禅師がここに来たとしても、その価値は半銭にもならぬであろう」
さらに住職は語る。
「今でこそ村田珠光は“茶祖”と呼ばれていますが、称名寺におられた頃は、世の常識の枠に収まりきらぬ、はみ出し者のように見えたのでしょう。
一休禅師は、ご自身の“個”を大切にされたからこそ、他者の“個”も尊ばれた。
禅竹を禅の弟子でありながら能の師と見、茶においては珠光を師とされたのではないでしょうか」
その言葉に、宗易——後の利休——は、目頭が熱くなる。
そして、静かにこう決意する。
「一休が一休の禅ならば、
この宗易は、宗易の茶の湯を求めてみよう」
なんと率直で、なんと自由な言葉だろう。
興味は尽きない。
今年の茶の湯の旅は、ここを目標にしたい。
もし今年が叶わなくとも、来年でも、再来年でもいい。
時間を味方にしながら、必ず訪ねたい場所が、また一つ増えた。茶の湯の旅はまだ続きそうです。
PS
外は雪で、4時間も机に向かっています。
「個」——
それは、私がいちばん大切にしているところです。
個と自由。
それは、誰かの真似ではない、自分自身の人生そのもの。
自分もまた、自分の茶の湯の道を見つけ、歩んでいきたい。
そう思うと、胸の奥から、静かに、でも確かに——
わくわくしてきます。
千利休 土岐信吉著
この本を読みはじめて、一体宗純和尚になぜ惹かれるかを理解できてきました。