「袱紗の所作」と「清め」の話
AI より
いいテーマですね。
では、ブログ用に
「袱紗の所作」と「清め」だけを静かに掘り下げます。
袱紗の所作と「清め」
茶の湯を学びはじめてから、
ずっと腑に落ちない所作がある。
それが、袱紗で清めるという行為だ。
道具は汚れていない。
実際に汚れを拭き取っているわけでもない。
それでも、必ず清める。
ここに、茶の湯の核心があるように思える。
袱紗の所作は、
掃除ではない。
衛生でもない。
ましてや、見せるための演技でもない。
意味を与える行為だ。
道具に触れる前に、
一度、手を止める。
呼吸を整え、心を整える。
そして、これから扱うものを
「ただの物」から「用のための物」へと移す。
これは、外を清めているのではなく、
自分の側を清めているのだと思う。
ここでふと、
キリスト教のミサを連想した。
ミサでも、
司祭は聖具に触れる前に所作を整え、
言葉と沈黙によって場を変える。
パンと葡萄酒は、
途中から「別の意味」を帯びる。
それは魔術ではない。
意識の位相が切り替わる儀式だ。
袱紗の清めも同じではないか。
さらに視点を変えると、
カバラ的にも、この所作は腑に落ちる。
カバラでは、
世界は「光」と「器」で成り立っている。
器が整っていなければ、
光は濁り、溢れ、破綻する。
袱紗の所作とは、
器を整えるための沈黙の準備ではないか。
道具を清めているようで、
実は、
光を受け取る側の「器」を整えている。
だから、
急いではいけない。
省いてもいけない。
意味を考えすぎてもいけない。
ただ、
静かに、同じように繰り返す。
そのとき、
茶室は少しだけ
日常とは違う場所になる。
袱紗で清めるとは、
道具を聖なるものに変える行為ではない。
自分を、事にしない場所へ戻す行為なのだ。
無事是貴人。
触処清涼。
その入口に、
袱紗の所作がある。