独服 ― 黒楽茶碗と濃茶、利休居士四百年忌を想う

昨日、独服で濃茶をいただきました。
点てながら、つくづく自分の未熟さを感じます。
温度、練り具合、濃さ。
まだまだ課題ばかりです。
それでも――
濃茶を点て、自分で飲むことでしか分からない理解があります。
黒楽茶碗の中にたたえられた深い闇。
その黒の中に、濃茶の緑が沈むように映える。
その色の美しさに、思わず息をのみました。
改めて、利休居士の芸術的感性の凄さを、理屈ではなく、肌で感じました。
利休と黒楽
千利休が愛した黒楽。
初代長次郎との出会いから生まれた、あの沈黙の器。
豪華さではなく、
光を吸い込み、茶を際立たせる“黒”。
濃茶は、黒楽のためにあるのか、
黒楽は、濃茶のためにあるのか。
そう思うほどの調和です。
独服という原点
千宗屋家元の言葉に、深くうなずきます。
茶は「おもてなし」だとよく言われます。
しかしその前に、自分をもてなすことができるか。
独服とは、自分のために自ら点てる一服。
茶室という「囲い」の中で、
ほんのひととき日常を離れ、
自分と向き合い、ニュートラルポジションに戻る。
茶筅で円を描くとき、
それはまるで円相のようです。
禅僧が一筆で描く円――
悟りや宇宙を象徴するあの円。
その円と向き合う時間が、独服なのかもしれません。
一番の贅沢
その話をかみさんにしたら、
「一番贅沢な気がする」
と言われました。
確かにそうかもしれません。
高価なものを持つことではなく、
自分のために静かに濃茶を練る時間を持つこと。
貧しくても、
心は豊か。
どうやら自分は、
貧乏なくせに、贅沢な人間のようです。
けれどその贅沢は、
誰にも迷惑をかけない、
自由な贅沢。
利休居士四百年忌を思いながらの濃茶。
独服こそ、茶の原点。
禅と通じる場所。

また、黒の中に、深い緑を沈めてみたいと思います。


PS

最近読んでいる
千宗屋家元の
茶  利休と今をつなぐに「独服」という言葉が出てくる。
茶は「おもてなし」とよく言われる。
でも家元は、その前にまず“自分をもてなす”ことがある、と書かれている。(要約)
人をもてなす前に、
自分と向き合えているか。
独服とは、自分のために点てる一服。
茶室は「囲い」とも言う。
日常の中に、ほんの少しだけ非日常をつくる場所。
そこで自分を確認し、ニュートラルに戻る。
千利休が見ていた世界は、
派手ではなく、深い。
茶筅で円を描くとき、
禅僧の円相のような感覚になる。
立花大亀和尚の
「茶人は坐禅なんか組まんでええんや」という言葉も思い出す。





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