פרשת יתרו 今週の聖書朗読箇所
出エジプト記
פרשת יתרו(パラシャト・イトロ)
――自由とは、立ち止まる力である
出エジプトは「解放」の物語として語られる。
しかしユダヤ人にとって、自由はそこで完成したのではない。
真の自由は、シナイ山でトーラーを受け取った瞬間から始まった。
פרשת יתרו(イトロ)は、その核心を語る章である。
■ 自由は「何でもできる」ことではない
タルムードは言う。
十戒は「わたしは主」と「殺してはならない」に要約できる。
信仰と倫理は分けられない。
神を信じるとは、人を壊さない生き方を選ぶことだ。
ユダヤ思想において、
律法は人を縛る鎖ではなく、自由を壊さないための枠である。
枠があるからこそ、人は安心して生きられる。
これは禅でいう「戒」にも近い。
戒は抑圧ではなく、坐を深めるための土台なのだ。
■ 神の声は、一人ひとり違って聞こえた
シナイ山で、神の声は民全体に同時に与えられた。
だがラビたちはこう解釈する。
神の声は、それぞれの理解力に応じて分かれて聞こえた。
同じトーラーでも、受け取り方は違う。
だからユダヤでは、違いを排除せず、議論を尊ぶ。
正解は一つでも、道は一つではない。
この態度こそ、タルムード文化の根幹である。
■ 律法は天にあるのではない
有名なタルムードの言葉がある。
「律法は天にあらず」
トーラーは天使のためのものではない。
迷い、失敗し、悩む人間が、この地上で生きるための知恵である。
奇跡や神秘よりも、
人間が責任をもって考え、判断することが尊ばれる。
ここに、ユダヤ思想の驚くほど人間的な強さがある。
■ 異邦人イトロから学ぶという謙虚さ
この章の名は、イスラエル人ではなく
異邦人の祭司イトロに由来する。
モーセが一人で裁きを抱え込み、疲弊していたとき、
助言したのは義父イトロだった。
偉大な啓示の直前に、
あえて「外からの知恵」が語られる。
ラビたちはここに、こう読む。
真理は内側だけにあるのではない。
正しい人は、誰からでも学ぶ。
■ なぜシナイ山は低かったのか
ミドラーシュは問い、答える。
なぜシナイ山は低いのか。
――謙遜な者に、トーラーは宿るからである。
高慢な場所には、神の声は降りない。
空(くう)になったところに、言葉は響く。
これは禅の「無」「空」と深く重なる。
学びとは、何かを足すことではなく、
余計なものを手放すことなのかもしれない。
■ パラシャ・イトロが教えること
פרשת יתרוが語るメッセージは、きわめて静かで、しかし深い。
自由とは、責任を引き受ける力
信仰とは、倫理として現れるもの
真理は一つ、理解は多様
謙虚な者が、最も深く聞く
■ 結びに
ユダヤ人はこの章から学ぶ。
自由とは「できること」ではなく、
してはならないことを知り、立ち止まる力であると。
それは、
茶の湯で一服を点てる前に心を整えること、
坐禅で息を数え、今ここに戻ることと、
どこか同じ場所を指しているように思える。
シナイ山の声は、
今も静かに、低いところで響いている。