侘び茶 AIリライト

侘び茶の始まり
― 一休宗純と村田珠光の出会い ―
(『一休宗純』p.230より)
1440年ごろ。
京都・三条河原町の街頭で、一休宗純は人々に向かって説法をしていました。
杖の先には、例によって髑髏(どくろ)。
それは「死」を突きつけ、人の生を目覚めさせるための、一休独特のやり方でした。
一休は語ります。
銭はどこまでいっても銭じゃ。
ものは心を癒してはくれぬ。
人にやさしくしてやれば、いのちがよろこぶ。
いのちがよろこべば、身体は健やかになる。
この言葉は、
「生きるとは何か」
「命を生かすとはどういうことか」
を、庶民の言葉で真っすぐに突くものでした。
その群衆の中に、一人の青年がいました。
後に侘び茶の祖と呼ばれる 村田珠光 です。
珠光は、一休に問いかけます。
「いのちとは何でしょうか」
一休の答えは、禅そのものでした。
いのちとは、
絶えず出入りし、移り変わるもの。
息を吸い、吐き、
食べ、排泄し、
人と影響し合う“動き”そのものじゃ。
貯めるだけで動かさぬと、いのちは衰える。
心も同じ。
心を動かし、人のためによいことをせよ。
そうすれば、いのちは輝く。
ここで語られているのは、
所有より循環、蓄積より働き。
命とは「抱え込むもの」ではなく、巡らせるものだという思想です。
深く心を打たれた珠光は名乗り、こう続けます。
「すぐそこの酒屋の隣に住んでおります。
これから小庵にお寄りください。
お茶でも進ぜたいと思います。」
この一言から始まったのが、
禅の精神を宿した茶、
すなわち 侘び茶の原点 でした。
豪華さでも格式でもなく、
命の動きに耳を澄まし、心を通わせる場としての茶。
街頭説法の一休と、
小庵に茶を点てる珠光。
この出会いこそが、
後の千利休へとつながる
「茶の湯=生き方」 の始まりだったのです。

侘び茶のはじまり(つづき)
― 一休宗純のアドバイス ―
※『一休宗純』p.235より
村田珠光の小庵に、一休宗純和尚が招かれた。
ここから、のちに「侘び茶」と呼ばれる茶の原型が、静かに動き出す。
私自身、茶の湯を学びはじめて、
「なぜ茶は、あのかたちになったのか」
この疑問こそが、いちばん知りたかったことだった。
■ 珠光の小庵と、一休の違和感
奈良の村田家は、もともと唐物を扱う商いの家である。
珠光は称名寺を出る決心を固め、父を説得し、
京・三条河原町に出張所を兼ねた小庵を構えた。
六畳ほどの小書院。
狭さを無視し、書院への憧れを詰め込んだ、どこか猥雑(わいざつ)な空間。
珠光は、苦心して集めた唐物の茶道具を並べ、
客を招いては、得意げに鼻を動かしていたという。
しかし――
その道具を前にした一休の表情は、冴えなかった。
■ 一休の言葉──茶は道具のためにあるのではない
一休は、はっきりと珠光に言う。
「茶は、飲むことにつきる。
道具のために茶があるのではない。
粗茶の尊さが、まだわかっておらぬ。」
さらに一休は、当時の書院の茶を一刀両断する。
「書院の茶は、将軍たちの暇つぶしの慰み事じゃ。
珠光は茶の湯に一生をかけると言うが、
中国式の生活様式の真似をするのに、命をかけるつもりか。」
戦乱の世。
庶民は飢え、逃げ、命をつないでいる。
その現実を前に、一休は続ける。
「この部屋に炉を切り、
客の目の前で茶を点ててみよ。
そうすれば、
もっと部屋を狭くし、台子も不要になるはずじゃ。」
珠光は戸惑いながら答える。
「……四畳半には、できます。」
■ 「質素」の中に、命の美がある
一休は、さらに踏み込む。
「飾りも、できる限り質素がよい。
行とは、苦行ばかりではない。
生きている実感を取り戻すことも、行なのだ。」
そして、自身の飯茶碗の話をする。
「この一休が使う備前や信楽の飯茶碗は、
日常の垢にまみれておる。
だが、そこには秘められた美がある。」
商品価値の低いもの。
粗末とされるもの。
その中にこそ、言葉にできぬ自然の徳と美が潜んでいる。
「珠光が生涯で、
どれだけ“いのち”を発見できるか、
わしは楽しみにしておるぞ。」
■ 三ヶ月で生まれた、侘び茶の原型
その日から、わずか三ヶ月。
珠光は決断する。
四畳半。
炉を切り、
台子を去り、
装飾を削ぎ落とす。
こうして完成した空間こそが、
侘び茶の原型と呼ばれる茶室だった。
豪華さではなく、
格式でもなく、
命の気配を、目の前で分かち合うための場。
一休の一言一言が、
珠光の「なぜ?」に応え、
茶を「遊び」から「生き方」へと変えていった。
――侘び茶とは、
いのちを発見し続ける修行だったのだ。

このブログの人気の投稿

ラビ ヒレルの格言

円相

コヘレト2 3