南禅牧雲和尚・塩沢大定和尚の円相が、昨日手元に届きました。 臨済宗南禅寺派管長を務めた高僧の直筆色紙が、なんと2,500円。 あまりの価格に驚きましたが、調べていくほどに、その重みを感じずにはいられません。 改めて思い出したのが、村田珠光に一休宗純が円相を送り、それが侘び茶最初の掛け軸になったという話です。 茶の湯の原点に、円相が静かに置かれていたという事実は、とても象徴的に感じます。 ただ、私自身の人生観から言えば、 どれほど価値ある作品であっても、モノそのものに頭を下げる気にはなれません。 では、なぜ茶道では先人に頭を下げるのでしょうか。 感動すること、それだけで十分ではないか。 一休和尚の言葉を借りるなら、「ものはもの」。 大切なのは、形や権威ではなく、そこに込められた意味を深く味わうことなのだと思います。 私なりの解釈では、 円相とは「生命」であり、「循環」。 始まりも終わりもなく、欠けも満ちも含めて、ただ巡り続けるもの。 一休和尚は、そのことを一筆の円で示したのではないでしょうか。 頭を下げるべきは、作品ではなく、 そこから何を受け取り、どう生きるかという、自分自身の心。 円相は、今も静かに、そう問いかけているように感じます。
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