2025年12月2日火曜日

鈴木大拙より 茶亭之記 沢庵

宮本武蔵の小説に出てくる沢庵和尚だと思います。

​鈴木大拙の本より、

それをAIに訳してもらいました。 

江戸時代の茶亭の記録ですね。茶人が殿様の茶汲みをする前が本当の茶道だったのではないかと想像されます。


🪷【やさしい現代語訳】

茶亭之記  沢庵

茶の湯というものは、

天地自然の調和したエネルギーをもとにして、

人の心と世の中を穏やかにする道である。


ところが今の人々は、

茶を友人を集めるための口実にしたり、

飲食の楽しみとして利用したり、

見栄や贅沢の手助けにしてしまっている。


茶室を飾り立て、

珍しい茶碗を集め、

自分の技巧を誇り、

相手の下手さを笑う。

そんなものは、本来の茶の湯ではない。


だからこそ、本当の茶の湯とは、

竹や木の陰に小さな庵(いおり)を構え、

水や石を置き、草木を植え、

炭をくべ、釜をかけ、花を生け、

ごく自然な茶道具を備えることだ。


それらはすべて、

山川自然の風景を一つの小さな茶室に映しとるため。


そして四季の雪・月・花の景色を味わい、

草木の盛衰に心を寄せ、

客を迎えて敬意を尽くす。


釜の中で湯がたぎる「松風」の音を聞き、

世の中の雑念を忘れ、

柄杓から流れる静かな水音に耳を澄ませば、

心のほこりが洗われていく。

茶の湯とは、本当に人間の仙境(せんきょう:心の楽園)である。


礼の根本は「敬」であり、

その働きは「和」である。

これは孔子が説いた礼の精神で、

そのまま茶の湯の心にも通じる。


たとえば、身分の高い人が来ても

うわつかず、へつらわず、

また自分より下の人にも、

慢心を持たずに、真心からの敬意を示す。


これはまさに、

目に見えない「物」がそこに静かに存在し、

共に調和していながら、決して流されない心であり、

深い敬虔(けいけん)の気持ちが続く様である。


マハーカッシャパの微笑み、

曾子の一声の「唯」、

言葉では説明しきれない真如(しんにょ:究極の真理)を思わせる。


だから、茶室づくりから茶道具の準備、

点前や会席、衣服にいたるまで、

無理なく、飾らず、わずらわしくなくすればよい。


華美を好まず、

古い道具の風格の中に新鮮な心を見出し、

四季の自然を忘れず、

疑わず、恐れず、欲張らず、

謙虚でありながら、よそよそしくなく、

素直で真実な茶の湯こそ、

本来の茶の湯である。


こうして天地自然の和やかな気を味わい、

山や川、木や石の景色を炉端に移し、

五行(木火土金水)の調和を備える。

天地のめぐりを一碗に汲みとり、

その味わいを口に含む。


ああ、なんと大いなることか。

天地自然の調和の気を楽しむことこそ、

茶の湯の道である。


まとめ(要点)


 茶の湯の本質=自然との調和・心の静けさ・敬と和

 贅沢・誇示・美の競争は本来の茶ではない

 自然(山川草木)を茶室に移し、四季を味わう

 お客を敬い、身分関係を離れて対座する

 飾らず、素直で、心を清く保つ

 一碗は天地の調和の気をいただく行為である



鈴木大拙の本より

「茶の湯は天地中和の気を本として、治世安穏となり。今の人は、偏に朋友を招きて会談の媒とし、飲食を快とし、口腹の助とす。且茶室に美を尽し、珍器の品を揃へ、手の巧みなるを誇り、他人のつたなきを嘲る。みな茶の湯の本意にあらず。されば竹陰樹下に小室をかまへ、水石を貯へ、草木を植え、炭を置き、釜を掛け、花を生け、茶具を飾る。皆是山川自然の水石を、一室の中に移して、四序雪月花の風景を翫び、草木栄落の時を感じ、客をむかえて礼敬をなす。松風の颯颯たるを釜の中に聞いて、世上の念慮を忘れ、渭水のけんけんたるを一杓より流して、心中の塵埃を洗ふ。真に人間の仙境なるべし。礼の本は敬にして、其用は和を貴しとす。是孔子の礼の用をいへる詞にして、則茶の湯の心法なり。たとえば公子貴人の来坐にても、其交り淡泊にして、しかも諂う事なく、又我より下輩の会席にも、敬をいたして、不慢。是空中に物ありて、和して流れず、久うして畏敬す。マハカショウの微笑、曾子の一唯、真如玄妙意味不可説の理なり。されば茶室を構へるより茶具の備へ、手前・会席・衣類等に至るまで、わづらはしからず。美麗を好まず、古き道具を似て心を新らたにして、四時の風景を忘れず、疑わず怪しまず、貪らず、謹みて疎からず、すなほにして真実なる茶の湯というなるべし。是則天地自然の和氣を翫び、山川木石を炉辺に移して、五行備る。天地の流れを汲て、風味を口にふ、大いなる哉、天地中和の気を楽しむは、茶の湯の道なるべし。